第46話 いつもの朝に届いた、いつもと違う知らせ
休日明けの朝、シアが階下へ降りると、《麦穂亭》の厨房にはいつもより少し早く人の声が響いていた。
まだ夜明けから間もない時間で、通りに面した窓の向こうには青みを帯びた薄暗さが残っている。厨房の奥では窯の火が赤々と燃え、薪のはぜる音に混じって、オットーとマルタが何かを相談している声が聞こえてきた。
シアは入口で足を止め、二人の様子を確かめた。
オットーは作業台の前に立ち、粉の入った木鉢へ視線を落としている。一方、マルタは帳面を開いたまま、いつになく真剣な表情で何かを書き込んでいた。
「おはようございます。何かありましたか?」
シアが声をかけると、マルタが顔を上げた。
「ああ、おはよう、シア。昨日のお休みはゆっくりできたかい?」
「はい。ありがとうございました。買ってきた手袋も、今朝さっそく使ってみました」
シアはそう答えながら、持っていた布袋を壁際の棚へ置いた。
昨日、自分で選んだ茶色の手袋は、思っていた以上に使いやすかった。外を歩く間も指先が冷えにくく、荷物を持つときにも邪魔にならなかったため、買ってよかったと感じている。
マルタはその話を聞いて微笑んだが、すぐに帳面へ視線を戻した。
「それはよかったよ。実はね、今朝ハンスのところから使いの人が来たんだ」
「ハンスさんから、ですか?」
シアは手を洗う前に、作業台から少し離れた位置で立ち止まった。
ハンス・ロイヴェンは、《麦穂亭》へ粉を納めている商人だった。以前から何度も顔を合わせており、粉の品質や納品の時期について、オットーと細かく相談している姿を見たことがある。
数日前、黒麦粉の残りが少なくなりそうだと分かったときにも、次の納品について確認を取っていたはずだった。
「何か、納品に変更があったのでしょうか?」
シアが尋ねると、オットーが木鉢から手を離した。
「少しな。今日の分は予定通り届くんだが、その次の便が遅れるかもしれんそうだ」
「その次の便……」
「ああ。北の街道で、荷馬車が通りにくくなっている場所があるらしい。昨日の夕方に連絡が入ったそうでな」
オットーは説明しながら、壁際に並べられた粉袋へ目を向けた。
「まだ道が閉じたわけじゃない。ただ、荷車の通行に時間がかかるなら、次の納品日もずれる可能性がある。ハンスも、今のうちに取引先へ知らせておこうと思ったんだろう」
シアは静かに頷いた。
秋が深まるにつれて、街へ運ばれてくる品物にも変化が出ている。市場では冬物の衣服が増え、広場には薪や保存食を積んだ荷馬車が目立つようになっていた。
けれど、街道の状態が店の仕事に直接関わってくることを、シアはこれまであまり意識していなかった。
「それでは、次の納品までに使う粉を、もう一度確認した方がよさそうですね」
「そういうことだ。今日は騎士団の定期注文もあるからな。まずは確定している分を優先して、店頭に出す量を考える」
オットーの言葉に、マルタも頷いた。
「急に品切れになるほどではないけど、何も考えずに使っていたら困るかもしれないからね。シア、悪いけど、朝の準備が落ち着いたら在庫帳を一緒に見てくれるかい?」
「はい。もちろんです」
シアは返事をしてから、いつもの場所へ向かった。
手を洗い、前掛けをつける。
作業台には、すでに今日の仕込みに使う粉が計量されていた。丸パン用の小麦粉と、黒麦パンに使う粉が、それぞれ別の容器へ分けられている。
いつもと変わらない光景だった。
けれど、その粉がどこから運ばれてきて、次にいつ届くのかを考えると、見慣れた袋の一つ一つが、少し違ったものに感じられた。
(……お店で使うものは、ここにあるのが当たり前ではないんですね)
シアは粉袋の口がきちんと閉じられていることを確認し、オットーの指示に従って作業を始めた。
今日も、焼かなければならないパンがある。
その仕事を止めないために、今できることを確かめる必要があった。
◇
朝の仕込みが進むにつれて、厨房の中には温かなパンの香りが広がっていった。
オットーは生地の状態を確かめながら、窯へ入れる順番を調整している。シアは成形を手伝い、焼き上がったパンを種類ごとに分けて、予約分と店頭販売分が混ざらないよう籠へ移していった。
騎士団へ納める丸パン二十五個と黒麦パン十五個は、いつものように別の籠へまとめる。
黒麦パンの焼き上がりを確かめていたオットーが、シアへ声をかけた。
「今日はこの分を先に納品用へ回す。店頭に並べる黒麦パンは、次の焼き上がりを見てからだ」
「分かりました。こちらの籠には、納品用の札をつけておきますね」
シアは札を取り付け、帳面に数を書き込んだ。
そのとき、オットーが少し考えるように腕を組んだ。
「本当は、今日も黒麦パンを少し多めに焼いておきたかったんだがな」
シアは顔を上げた。
「最近、買いに来られる方が増えていますものね」
「ああ。寒くなってくると、しっかりしたパンを買っていく客が増える。スープと一緒に食べるには、黒麦パンがいいって人も多いからな」
オットーは窯の中を覗き込み、焼き色を確かめた。
「だが、次の粉がいつ届くか分からんうちは、余分に焼くのも考えものだ。売れればいいが、必要な予約分が足りなくなったら困る」
「そうですね。確定している注文を守ることが先ですね」
シアが答えると、オットーは頷いた。
「その通りだ。客に買ってもらえるのはありがたいが、約束したものを渡せなくなったら、信用を失うからな」
その言葉を聞きながら、シアは納品用の籠へ布を掛けた。
信用という言葉には、以前の彼女にとって重苦しい響きがあった。
伯爵家にいた頃は、家の信用を傷つけないようにと何度も言われていた。誰かの機嫌を損ねれば家名に泥を塗ることになると叱られ、どれほど理不尽な要求でも、断ることが許されない場面があった。
けれど、オットーの言う信用は違っている。
できることを確かめ、約束したことを守る。
難しいと分かったときには、相手へ事情を伝える。
それは、誰か一人が無理を重ねて作るものではないのだろう。
シアは籠の位置を整えながら、胸の内で小さく息を吐いた。
(……ここでは、できないことまで約束しなくていいんですね)
そう考えたとき、オットーが新しい生地を作業台へ置いた。
「シア、こっちを頼む。今日は生地の温度が少し低いから、急いで成形しなくていい。状態を見ながら進めよう」
「はい。分かりました」
シアは生地へ手を伸ばし、指先で柔らかさを確かめた。
今は、目の前の仕事へ集中する時間だった。
◇
開店からしばらくすると、店内にはいつもの朝の賑わいが戻ってきた。
外はよく晴れていたものの、風には冬の気配が混じっている。扉が開くたびに冷たい空気が流れ込み、焼きたてのパンを包む紙の端が、かすかに揺れた。
シアはマルタと並んで接客をしながら、棚に並んだパンの残りを確かめていた。
丸パンは順調に売れている。
胡桃パンや蜂蜜パンも、朝のうちにいくつか売れた。
一方、黒麦パンはいつもより少ない数しか店頭に並べていないため、棚の端には早くも空いた場所ができ始めていた。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
「おはよう。今日は黒麦パン、まだあるかね?」
入ってきたのは、年配の常連客ハロルドだった。
厚手の外套を羽織り、片手には使い込まれた買い物籠を提げている。いつも落ち着いた口調で注文をする男性だが、今日は棚の方を見て少し意外そうな顔をした。
「おはようございます、ハロルドさん。黒麦パンでしたら、まだございます」
シアが答えると、ハロルドはほっとしたように頷いた。
「それならよかった。今日は少し遅くなってしまったから、売り切れているかと思ったよ」
「いつもより店頭に並べている数が少ないので、ご心配をおかけしました」
シアはそう言ってから、マルタへ一度視線を向けた。
仕入れの事情をどこまで客へ伝えるかは、店の判断に関わることだった。自分の考えだけで詳しい説明を始めるのは避けた方がよいと思い、まずは注文を確かめる。
「今日は、いくつご用意しましょうか?」
「いつもの二つを頼もうかな。それから、丸パンも三つお願いできるかね」
「はい。黒麦パン二つと丸パン三つですね」
シアはパンを包みながら、ハロルドの外套へ目を向けた。
袖口には丁寧な繕い跡があり、長く大切に使われていることが分かる。
「今朝は、ずいぶん冷えましたね」
シアが声をかけると、ハロルドは苦笑した。
「本当にな。年を取ると、寒さが身に染みるよ。若い頃は、これくらいの風なら平気だったんだが」
男性はそう言いながら、外套の襟を少し引き寄せた。
「もっとも、寒い日に食べる温かいスープと黒麦パンは格別だからね。冬になると、どうしても食べたくなるんだ」
「そうなんですね。黒麦パンは、スープとよく合いますものね」
「ああ。昔から家でそうして食べていたから、今でも習慣になっているんだよ」
ハロルドは穏やかに微笑み、代金を支払った。
シアが包みを渡すと、男性は少しだけ棚へ視線を向けた。
「今日は少ないようだが、また買いに来ても大丈夫かね?」
その問いに、シアは一瞬だけ言葉を選んだ。
次の納品が遅れるかもしれない。
けれど、まだ確定したわけではない。
店が今後どのように販売するかも、マルタとオットーが相談しているところだった。
シアは曖昧な約束をする代わりに、落ち着いて答えた。
「今のところ、いつも通り販売する予定です。ただ、仕込みの都合で数が変わる場合もございますので、確実に必要な日がありましたら、事前にご相談いただけると助かります」
ハロルドはその説明を聞き、納得したように頷いた。
「なるほど。そういうことなら、今度から少し早めに来ることにしよう。いつもありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございます。またお待ちしております」
シアは丁寧に頭を下げ、男性を見送った。
扉が閉まると、マルタが隣から小さく声をかけた。
「今の説明でよかったよ、シア」
「ありがとうございます。まだ納品がどうなるか分からないので、はっきりしたことを言わない方がいいと思ったんです」
「そうだね。心配させるような言い方をする必要はないけど、確実じゃないことを約束するのも違うからね」
マルタはそう言いながら、空いた棚の位置を整えた。
「今日はこのあとハンス本人が寄る予定だから、話を聞いてから考えよう。お客さんへの案内が必要なら、私から伝えるよ」
「はい。分かりました」
シアは頷き、次の客を迎える準備をした。
店の中には、変わらず温かなパンの香りが漂っている。
いつも通りに見える朝でも、その裏側ではさまざまなことが動いているのだと、シアは改めて感じていた。
◇
昼前、店の忙しさが少し落ち着いた頃に、ハンス・ロイヴェンが《麦穂亭》を訪れた。
入口の鈴が鳴り、厚手の外套を着た男性が入ってくる。肩には旅の埃が少し残っており、手には革紐でまとめた書類を持っていた。
「こんにちは、マルタさん。オットーさんはいるかな?」
ハンスが声をかけると、マルタが店の奥から顔を出した。
「ああ、ハンス。待っていたよ。寒い中、わざわざありがとうね」
「いや、こちらこそ。朝は使いの者だけで済ませてしまって悪かった。やはり、直接話しておいた方がいいと思ってね」
ハンスはそう言いながら、外套についた埃を軽く払った。
シアは店の奥へ声をかけ、オットーを呼んだ。
しばらくして厨房から出てきたオットーは、ハンスの顔を見るなり真剣な表情になった。
「どうだ、街道の方は」
「まだ通れなくなったわけじゃない。ただ、北側の峠に近いところで路面が傷んでいてな。荷馬車が一度に通れる幅が狭くなっているらしい」
ハンスは書類を開き、簡単な地図を示した。
シアは少し離れた場所で聞いていたが、マルタが手招きしたため、帳面を持って近づいた。
「シアも聞いておくといいよ。在庫の確認を手伝ってもらっているからね」
「はい。失礼します」
シアは三人の邪魔にならない位置へ立ち、話を聞くことにした。
ハンスは地図の一か所を指で示した。
「ここだ。大雨が降ったわけじゃないんだが、先日の冷え込みで地面が硬くなったところへ、重い荷車が何台も通ったらしい。轍が深くなって、車輪を取られることが増えているそうだ」
オットーは眉を寄せた。
「それで、荷馬車の順番待ちが出ているのか」
「ああ。通行を整理しているから、今のところ大きな事故にはなっていない。ただ、予定していた日に荷物が届くかどうかは、少し読みにくくなっている」
ハンスは説明を続けた。
「うちの倉庫にある粉は、今日の納品分も含めて確保できている。問題は、その次の補充だ。北の製粉所から来る荷が遅れれば、こちらの在庫にも影響が出る」
シアは帳面を開き、必要なところを書き留めた。
今日届く粉は予定通り。
次の便は遅れる可能性がある。
遅れる日数は、まだ確定していない。
その三つを分けて記録する。
ハンスはシアの手元を見て、少し感心したように笑った。
「相変わらず、きちんと記録してくれるんだね」
「ありがとうございます。あとで確認するときに、間違えないようにしたいので」
シアが答えると、ハンスは頷いた。
「それは助かるよ。こういうときは、誰が何を聞いたか分からなくなるのが一番困るからな」
オットーは腕を組み、しばらく考えていた。
「黒麦粉は、どれくらい余裕がある?」
「今のところ、約束した分は確保してある。ただ、追加で欲しいと言われても、すぐに出せるかどうかは分からない」
「そうか……」
オットーは低く呟き、マルタへ視線を向けた。
「うちの分は、今日の納品と今ある在庫で、しばらくは大丈夫だな。ただ、次の便が遅れれば、店頭分を少し調整する必要があるかもしれん」
マルタは頷いた。
「そうだね。騎士団と宿の予約は守らないといけないから、まずはそこを優先しよう」
ハンスは二人の話を聞きながら、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「迷惑をかけて悪いな。こちらも、できるだけ早く届けられるようにする」
すると、オットーが首を横に振った。
「いや、まだ遅れると決まったわけじゃないんだろう? 先に知らせてもらえただけでも助かる」
「そう言ってもらえるとありがたい」
ハンスは少し表情を和らげた。
「それに、街道の修繕も進めているらしい。公爵家の管理する道だから、放っておくことはないだろう。ただ、工事の間は荷車の通行を制限する時間もあるそうだ」
公爵家という言葉を聞き、シアは自然とレオンハルトの顔を思い浮かべた。
以前、彼が冬へ向けた道路や橋の仕事について話してくれたことがある。
街の人々が安心して暮らせるように、道の状態を確かめ、必要な修繕を進めているのだと聞いた。
その仕事が、こうして《麦穂亭》の粉の仕入れにも関わってくる。
(……レオンハルト様がお話ししていたことは、こういうところにもつながっているんですね)
シアは胸の内でそう思いながら、帳面へ視線を戻した。
もちろん、レオンハルトが今回の街道の問題を直接担当しているかどうかは分からない。公爵家の仕事といっても、関わる人は多いだろう。
それでも、彼が以前話していた言葉の意味を、少しだけ理解できたような気がした。
◇
ハンスが帰ったあと、マルタとオットーは厨房の奥で在庫の確認を始めた。
シアも帳面を持って加わり、現在の粉の量と、すでに決まっている注文を照らし合わせていく。
棚には小麦粉と黒麦粉が種類ごとに分けて置かれていた。
袋の口には納品日を書いた札がつけられており、古いものから使えるように並べられている。シアは一つずつ札を確かめ、帳面に記された数字と合っているか確認した。
「こちらの黒麦粉は、今朝の仕込みで使った分を引くと、帳面の残りと一致しています」
シアが報告すると、オットーは頷いた。
「よし。今日届いた分も、別の欄へ入れておこう」
「はい。次の納品予定日は、まだ確定していないと書いておきます」
シアは慎重に文字を書き込んだ。
確定していることと、まだ分からないこと。
その区別を曖昧にしないようにする。
マルタは予約帳を開き、今後数日分の注文を確認していた。
「騎士団の定期注文は、今のところ変更なしだね。《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》の分も、予定通りで大丈夫そうだよ」
「そうだな。なら、急いで何かを変える必要はない」
オットーはそう答えたあと、少し考えてから続けた。
「ただ、追加注文が来たときは、黒麦パンを無理に増やさない方がいいだろうな。丸パンで代わりになるなら相談してみるが、それも店頭分と予約分を見てからだ」
マルタは頷いた。
「うん。お客さんには事情を説明して、できる範囲で対応しよう」
シアは二人の話を聞きながら、帳面の端へ小さく印をつけた。
今後、追加注文が入ったときには、まず在庫と仕込み予定を確認する。
そのうえで、マルタかオットーへ相談する。
自分だけで判断しない。
それは、以前から教えられてきたことだった。
けれど、今日はその意味が、これまで以上にはっきりと分かる気がした。
材料が限られているとき、目の前の客へすべてを渡してしまえば、あとから来る客や予約している相手へ影響が出る。
一人の希望に応えることだけが、店の仕事ではない。
店全体の約束を守ることも、大切なのだ。
シアが帳面を閉じると、マルタが声をかけた。
「シア、今日はここまででいいよ。あとは私たちで考えるから、少し休んでおいで」
「ありがとうございます。でも、何かほかにお手伝いできることはありませんか?」
シアが尋ねると、マルタは少し笑った。
「今は大丈夫だよ。午後の店番もあるんだから、休めるときに休んでおきな」
その言葉に、シアは頷いた。
「分かりました。では、少し休憩をいただきます」
以前なら、まだ何かできることがあるのではないかと、必要以上に仕事を探していたかもしれない。
けれど、今は休むことも仕事の一部だと理解し始めている。
シアは帳面を棚へ戻し、厨房の隅にある椅子へ腰を下ろした。
窓から差し込む昼の光が、作業台の上へ柔らかく落ちている。
その光景を眺めながら、シアはゆっくりと息を整えた。
◇
同じ頃、アルヴェイン公爵家の執務室では、レオンハルトが街道に関する報告書へ目を通していた。
大きな窓からは、領都の屋根が遠くまで見渡せる。
机の上には複数の書類が並び、その中には北側の街道に関する報告も含まれていた。
レオンハルトは一枚の書類を読み終えると、隣に控えていた担当官へ視線を向けた。
「北の峠に近い区間は、今朝から通行整理を始めたのだな」
「はい。荷車の通行を一方向ずつに制限し、修繕に必要な場所を確保しています。現在のところ、通行そのものは可能です」
担当官はそう答え、別の書類を差し出した。
「ただし、荷物を積んだ馬車は速度を落とす必要があるため、予定より到着が遅れる可能性があります。商人たちには、すでに知らせを出しています」
レオンハルトは頷いた。
「それなら、まずは安全を優先してくれ。無理に通そうとして事故が起きれば、かえって長く道を使えなくなる」
「承知しました」
担当官は書類へ目を落とし、続けた。
「修繕に必要な資材は、明日の朝までに現場へ運び込む予定です。天候が大きく崩れなければ、作業は順調に進むと思われます」
「分かった。進捗が変わったら、すぐに報告してほしい」
レオンハルトは書類を閉じ、机の端へ置いた。
街道の修繕は、領都の暮らしに直接関わる仕事だった。
道が傷めば、商人の荷物が遅れる。
荷物が遅れれば、店や市場で扱う品物にも影響が出る。
冬が近づく今の時期には、薪や食料の輸送も増えるため、なおさら慎重に対応しなければならない。
レオンハルトは窓の外へ目を向けた。
遠くに見える街並みの中には、小さな店が数えきれないほど並んでいる。
その一つ一つに、そこで働く人々の暮らしがある。
ふと、《麦穂亭》のことが頭に浮かんだ。
あの店でも、毎朝パンを焼くために粉を使っている。
仕入れが遅れれば、何らかの影響が出るかもしれない。
けれど、特定の店だけを気にかけて、仕事の順番を変えるわけにはいかなかった。
レオンハルトはそのことをよく理解していた。
領地の仕事は、多くの人々の暮らしを守るために行うものだ。
個人的に気になる相手がいるからといって、その原則を変えるつもりはない。
それでも、街の人々が普段通りに暮らせるようにしたいという思いは、以前よりも強くなっている気がした。
レオンハルトは再び机へ向き直り、次の書類を手に取った。
今、自分にできることを確実に進める。
その積み重ねが、街のどこかで暮らす人々の安心につながるのだろう。
◇
午後の《麦穂亭》は、朝とは違った落ち着いた賑わいに包まれていた。
昼食の時間を過ぎると、仕事の合間にパンを買いに来る人や、夕食用のパンを選ぶ客が増えてくる。店内には焼きたての香りが残り、窓際の棚には胡桃パンや蜂蜜パンが並んでいた。
シアはマルタと交代しながら接客をしていた。
黒麦パンは午前中に売れた分が多く、残りは少なくなっている。
それでも、予約分はすでに確保されており、店頭の販売数もオットーが確認した範囲に収まっていた。
そのとき、入口から若い男性が入ってきた。
見覚えのある顔だった。
《銀鹿亭》で働いている従業員で、以前、急な追加注文を頼みに来たことがある。
「こんにちは。今日もお世話になります」
男性は少し息を整えながら、シアへ頭を下げた。
「こんにちは。《銀鹿亭》の方ですね。今日はご注文でしょうか?」
「はい。実は、明日の朝の分を少し相談したくて」
シアは頷き、注文帳を手元へ引き寄せた。
「ありがとうございます。どのようなご希望でしょうか?」
男性は手にしていた紙を開いた。
「明日の朝、宿泊のお客様がいつもより多くなる予定なんです。それで、丸パンを少し追加できないかと思いまして」
シアは紙に書かれた数字を確かめた。
通常の取り置きとは別に、丸パンを十個追加したいという内容だった。
昨日のような急な注文ではない。
明日の朝の分を、前日のうちに相談しに来てくれている。
それだけでも、店にとっては対応しやすいはずだった。
「丸パンを十個ですね。ありがとうございます。仕込みの予定を確認しますので、少々お待ちいただけますか?」
「はい。もちろんです」
男性は頷き、店の端へ移動した。
シアは注文帳を持って厨房へ向かった。
オットーは翌日の仕込みについて考えているところだった。
「オットーさん、《銀鹿亭》から明日の朝の追加注文についてご相談があります」
「何個だ?」
「丸パンを十個です。通常の取り置きとは別に、追加できないかとのことでした」
オットーは少し考え、作業台の上に置いていた帳面を開いた。
「丸パンなら、明日の仕込みを少し調整すれば対応できるかもしれん。ほかの予約はどうなっている?」
シアは注文帳を開き、該当する欄を示した。
「明日の予約は、こちらです。騎士団の定期納品は予定されていませんが、《赤い鍋亭》の取り置きがあります」
「そうか。なら、材料の方は問題ないな」
オットーは頷き、少し考えてから続けた。
「よし。丸パン十個なら追加していい。ただし、受け取りの時間はいつもと同じで頼む。早めに必要だと言われると、焼き上がりの順番を変えなきゃならんからな」
「分かりました。受け取り時間を確認してから、お返事します」
シアは礼を言い、店へ戻った。
男性は棚の前でパンを眺めながら待っていた。
「お待たせしました。丸パン十個でしたら、明日の朝に追加でご用意できそうです。ただ、受け取りはいつもの時間でお願いしたいのですが、大丈夫でしょうか?」
男性はほっとしたように表情を和らげた。
「はい。いつもの時間で大丈夫です。ありがとうございます」
「それでしたら、追加のご注文をお受けしますね。念のため、合計の数を確認させてください」
シアは注文帳を開き、通常の取り置きと追加分を分けて読み上げた。
男性も紙を見ながら確認し、間違いがないことを確かめる。
「これで大丈夫です。前に急にお願いしてしまったので、今回は早めに来た方がいいと思いまして」
男性は少し照れくさそうに笑った。
シアはその言葉に、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。前もってご相談いただけると、仕込みの予定を考えやすいので、とても助かります」
「そう言ってもらえるとありがたいです。宿の方でも、できるだけ早く数を決めるようにします」
男性はそう言って頭を下げ、店を出ていった。
シアは注文帳を閉じ、胸の奥に小さな安堵を感じた。
今日は、無理な注文を断る必要はなかった。
必要なことを確認し、店として対応できる範囲で引き受けられた。
それは、昨日までの経験があったからこそ、落ち着いてできたことだった。
マルタは隣でやり取りを聞いていたらしく、シアへ声をかけた。
「今の対応、よかったよ。受け取りの時間まで確認してくれたから、明日の仕込みも安心だね」
「ありがとうございます。オットーさんから、時間が変わると焼き上がりの順番に影響すると聞いたので」
「そうだね。数だけじゃなくて、いつ必要なのかも大事だからね」
マルタは頷き、注文帳へ目を向けた。
「それに、前に来たときのことを覚えていてくれたんだろうね。早めに相談してくれるようになったのは、ありがたいことだよ」
シアは微笑んだ。
誰かが一方的に無理をするのではなく、お互いに事情を伝え合う。
そうすれば、できることも増える。
そのことを、今日のやり取りから感じていた。
◇
夕方になると、店の外には冷たい風が吹き始めた。
日が傾くにつれて石畳の色が暗くなり、通りを歩く人々は外套の襟を立てて足早に帰っていく。
シアは残ったパンの数を確認し、マルタと一緒に売上帳を整理していた。
黒麦パンは、予定していた分がほとんど売れていた。
丸パンも順調に売れ、胡桃パンが少し残っている。
マルタは帳面を見ながら、満足そうに頷いた。
「今日は、思っていたより落ち着いて終われたね」
「はい。朝は少し心配でしたけど、予約分も予定通りお渡しできました」
シアが答えると、マルタは微笑んだ。
「ハンスが早めに知らせてくれたおかげでもあるね。何も知らずにいたら、もっと慌てていたかもしれない」
「そうですね。次の納品が遅れるかもしれないと分かっているだけでも、準備ができますから」
シアは帳面を閉じ、棚へ戻した。
そのとき、マルタがふと尋ねた。
「そういえば、昨日買った手袋はどうだった?」
シアは少し嬉しそうに顔を上げた。
「とても使いやすかったです。今朝、外を歩くときにつけてみたんですけど、指先が冷えにくくて、荷物も持ちやすかったです」
「それならよかったね」
マルタは笑った。
「自分で選んだものが、ちゃんと役に立つと嬉しいだろう?」
「はい。思っていた以上に嬉しかったです」
シアはそう答えながら、昨日の買い物を思い出した。
いくつもの店を見て、品物を比べ、実際に試してから選んだ。
すぐに決めず、考える時間を取った。
その結果、納得できるものを買えた。
小さなことかもしれない。
けれど、シアにとっては大切な経験だった。
「上着の方も、また必要になったら見に行こうと思います」
「そうだね。寒さが厳しくなる前に、少しずつ準備しておくといいよ」
マルタは頷き、店の扉へ目を向けた。
外では、夕方の風が看板を小さく揺らしている。
「それにしても、今日は冷えるねえ。今夜は温かいものを作ろうか」
「はい。楽しみです」
シアは微笑み、最後の片づけを始めた。
◇
仕事を終えて自室へ戻ると、シアはまず秋灯草の様子を確かめた。
窓辺には夕方の淡い光が残っていたが、外の冷え込みを考え、鉢は机の端へ移しておくことにした。
土の表面を指先で確かめると、少し乾き始めている。
シアは水差しを手に取り、必要な分だけゆっくりと水を与えた。
受け皿に余分な水が残っていないことを確認してから、鉢の位置を整える。
「今日も、元気にしていてくださいね」
小さく声をかけると、淡い黄色の花が灯りを受けて柔らかく見えた。
シアは椅子へ腰を下ろし、支出帳と仕事の覚え書きを開いた。
今日の仕事で気になったことを、忘れないうちに書き留めておこうと思ったのだ。
ハンスから聞いた街道の話。
粉の納品が遅れる可能性。
予約分を優先すること。
追加注文は、数だけでなく受け取り時間も確認すること。
それらを一つずつ整理していく。
もちろん、店の正式な帳面とは別の、自分用の覚え書きだった。
仕事で教わったことを忘れないようにするためのものであり、勝手に店の方針を決めるためのものではない。
シアは最後の一行を書き終えると、筆を置いた。
今日一日を振り返ると、朝は少し不安だった。
粉の納品が遅れるかもしれないと聞き、店の仕事に影響が出るのではないかと思った。
けれど、ハンスが事情を説明し、マルタとオットーが必要な対応を考えたことで、今できることが見えてきた。
すぐに解決したわけではない。
次の納品が予定通り届くかどうかも、まだ分からない。
それでも、何もできずに不安になるだけではなかった。
(……分からないことがあっても、できる準備はあるんですね)
シアはそう考えながら、帳面を閉じた。
窓の外では、夜の街に明かりがともり始めている。
遠くからは荷馬車の音が聞こえ、冷たい風が窓枠をかすかに鳴らしていた。
その音を聞きながら、シアは昼間のハンスの話を思い出した。
街道を通る荷馬車。
荷物を運ぶ商人たち。
道を修繕する人々。
そして、その荷物を受け取って仕事をする店。
《麦穂亭》のパン一つにも、たくさんの人の仕事がつながっている。
以前のシアは、自分が任された仕事を終えることだけで精いっぱいだった。
けれど今は、その仕事が誰かの暮らしにつながっていることを、少しずつ考えられるようになっている。
シアは机の上に置いた『街の小さな庭と季節の花』を手に取った。
借りてから何日か経っているため、返却日も近づいてきている。
次の休日には、図書館へ返しに行く必要があるだろう。
ミレイユと一緒に行く約束もあるが、彼女の勤務予定はまだ決まっていない。
もし日程が合わなければ、今回は一人で返却してもよい。
そのうえで、別の日に改めて一緒に図書館へ行けばいいのだ。
シアはそう考えながら、頁を開いた。
窓の外では、夜の風が少し強くなっている。
けれど、部屋の中には温かな灯りがあり、机の端には自分で選んだ小さな花が咲いていた。
明日も、いつも通りにパンを焼く朝が来る。
その朝が続くためには、見えないところで働いている人々の力も必要なのだろう。
シアは頁をめくりながら、今日聞いた話を静かに思い返した。
そして、明日も自分にできる仕事を一つずつ丁寧に進めようと考えながら、柔らかな灯りの下で読書を続けた。




