第47話 届かない荷物と、守りたい約束
朝の冷たい空気が窓の隙間から入り込み、シアは寝台の中でゆっくりと目を覚ました。
昨日よりも冷え込みが強いらしく、掛け布団から出した指先にひんやりとした感触が伝わってくる。窓の向こうでは、まだ薄暗い空の下を荷馬車が一台通り過ぎていき、石畳を踏む馬の蹄の音が静かな通りに響いていた。
シアは身体を起こすと、寝台の脇に畳んでおいた厚手の靴下へ手を伸ばした。先日の休日に《針と糸の店》で選んだもので、昨日の仕事終わりに洗って乾かしておいたものだった。
足を通してみると、柔らかな生地が足首まで包み込み、床板から伝わる冷たさがずいぶん和らいだ。
(買っておいて、よかったですね。これなら、朝の支度も少し楽になりそうです)
シアは足元を確かめながら、自然と口元を緩めた。
以前なら、まだ使えるものがあるのに新しい靴下を買うことへ、どこか後ろめたさを感じていたかもしれない。しかし、今朝のように寒さを感じる日には、自分の身体を守るための買い物だったのだと実感できる。
それから、机の端に置いた秋灯草へ目を向けた。
昨夜、水を与えたばかりの土には適度な湿り気が残っており、淡い黄色の花も変わらず咲いている。窓から少し離した場所に置いていたため、冷たい空気に直接さらされることもなかったようだ。
「おはようございます。今日も元気そうで、よかったです」
小さく声をかけてから、シアは窓の外へ目を向けた。
昨日、粉を納めているハンスから聞いた街道の話が、頭の片隅に残っている。
北側の峠に近い区間で道が傷み、荷馬車の通行に時間がかかっているという。今日すぐに粉が足りなくなるわけではないが、その次の納品が予定通り届くかどうかは、まだ分からなかった。
マルタもオットーも、慌てる必要はないと言っていた。
それでも、いつも通りにパンを焼くためには、材料が必要だ。
(今日は、昨日よりも少し状況が分かるでしょうか)
シアはそう考えながら身支度を整えた。
首元へ母の形見の銀のペンダントを掛け、服の内側へそっと収める。仕事用の髪留めで髪をまとめたあと、鏡の前で襟元を直し、いつもの布袋を手に取った。
階下からは、すでに窯の火が燃える音が聞こえている。
シアは部屋を出る前に秋灯草の位置をもう一度確かめ、それから静かに階段を降りていった。
◇
《麦穂亭》の厨房には、朝の仕込み特有の慌ただしさが広がっていた。
オットーは大きな木鉢の中で生地をまとめ、マルタは店頭へ並べるための籠を準備している。壁際には昨日届いた粉袋が整然と積まれており、それぞれの口には納品日を記した札が取り付けられていた。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
シアが挨拶すると、オットーが顔を上げた。
「おう、おはよう。今朝も寒いな。窯の温度が落ち着くまで、少し時間がかかりそうだ」
「そうですね。外を歩いていても、昨日より風が冷たく感じました」
シアは手を洗い、前掛けをつけながら作業台の上を確かめた。
今日の仕込みに使う粉は、すでに種類ごとに分けられている。丸パン用の小麦粉と黒麦パン用の粉が別々の容器へ入れられ、発酵を待つ生地には清潔な布が掛けられていた。
マルタは予約帳を開き、今日の取り置きについて説明した。
「今日は騎士団の定期納品がある日だよ。丸パン二十五個と黒麦パン十五個、それから《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》の予約分も忘れずにね」
「はい。納品用の籠は、種類ごとに分けて用意します」
シアは頷き、予約帳の数字を確認した。
昨日、《銀鹿亭》から追加注文を受けた丸パン十個は、今日の朝の分としてすでに仕込みへ組み込まれている。受け取り時間も確認済みであり、オットーはほかの注文へ影響が出ないよう、焼き上がりの順番を調整していた。
「オットーさん、《銀鹿亭》の追加分は、こちらの札をつけた籠へ分けておけばよろしいでしょうか?」
「ああ、そうしてくれ。通常の予約分と追加分が混ざると、受け渡しのときに数を間違えやすいからな」
「分かりました。帳面にも、追加分として分けて記録しておきます」
シアは籠を二つ用意し、それぞれに札をつけた。
以前なら、こうした細かな確認をするたびに、余計なことを尋ねているのではないかと不安になっていたかもしれない。しかし今は、間違いを防ぐために必要な確認なのだと理解できるようになっている。
オットーは生地を持ち上げ、指先で弾力を確かめた。
「今日は昨日より少し温度が低い。発酵の進み具合を見ながら焼くから、いつもの時間だけで判断しないようにな」
「はい。生地の状態を確かめながら進めます」
シアは作業台の端へ移動し、丸パンの成形を始めた。
生地を一つずつ手に取り、表面が張るように丸めていく。強く引っ張りすぎれば生地が傷み、緩すぎれば形が崩れてしまうため、指先の力を調整しながら丁寧に作業を進めた。
窯の近くでは薪がはぜ、焼き上がったパンの香りが少しずつ広がっている。
その香りに包まれていると、昨日の不安が少し遠のくように感じられた。
今朝も、いつも通りに仕事が始まっている。
けれど、その当たり前の朝を続けるために、マルタとオットーがさまざまなことを考えているのだと、シアは以前よりも強く意識するようになっていた。
◇
開店して間もなく、店内には朝の客が集まり始めた。
仕事へ向かう職人たちが丸パンを買い、近所の住民が家族の分を選んでいく。寒さのためか、温かなスープと一緒に食べるための黒麦パンを求める客も多く、棚の前では何人かが品物を見比べていた。
シアはマルタと並んで接客をしながら、予約分の籠へ目を配っていた。
騎士団へ納める四十個のパンは、すでに厨房の奥へ分けてある。店頭のパンとは混ざらないようにしているため、忙しい時間帯でも落ち着いて対応できた。
「丸パンを三つと胡桃パンを二つですね。ありがとうございます。こちらでよろしいでしょうか?」
シアが包みを差し出すと、客の女性は笑顔で頷いた。
「ええ、ありがとう。今日はずいぶん寒いわね。朝から温かいパンが買えて助かったわ」
「こちらこそ、ありがとうございます。お気をつけてお帰りください」
女性を見送ったあと、シアは棚の残りを確かめた。
丸パンは順調に売れている。
黒麦パンも、朝のうちにいくつか売れた。
そのとき、入口の鈴が鳴り、《銀鹿亭》の従業員が姿を見せた。
「おはようございます。昨日お願いしたパンを受け取りに来ました」
「おはようございます。お待ちしておりました」
シアは帳面を開き、相手の名前と注文内容を確かめた。
昨日のうちに追加注文を受けていたため、準備は整っている。
「通常のご予約分と、追加の丸パン十個ですね。少々お待ちください」
シアは厨房へ入り、札をつけた籠を確認した。
オットーが焼き上がりを確かめたパンは、種類ごとに分けて置かれている。シアは注文帳の数字と照らし合わせながら包みを用意し、最後にもう一度数を確かめた。
店へ戻ると、従業員は少しほっとしたように笑った。
「ありがとうございます。今朝は宿泊のお客様が多くて、朝食の準備がいつもより忙しいんです」
「そうなんですね。昨日のうちにご相談いただけたので、こちらも準備ができました」
シアが答えると、男性は頷いた。
「前に急なお願いをしてしまったとき、数を調整していただいたでしょう? あのあと、宿でも早めに確認するようにしたんです」
その言葉に、シアは少し驚いた。
以前、急な追加注文を受けたときには、店で用意できる数を確認し、相手と相談しながら内容を調整した。
その経験が、宿の仕事の進め方にも影響していたらしい。
「そうだったんですね。ありがとうございます。早めにお知らせいただけると、仕込みの予定も立てやすいので、とても助かります」
シアは丁寧に包みを渡し、代金を受け取った。
男性は何度か礼を言ってから店を出ていき、入口の鈴が軽やかに鳴った。
その背中を見送っていると、マルタが隣へ近づいてきた。
「今の話、聞こえたよ。向こうも気をつけてくれるようになったんだね」
「はい。少し驚きました。前のことを覚えていてくださったんですね」
シアは包みを置いていた台を整えながら答えた。
「お互いに事情を伝え合うと、仕事がしやすくなるんですね」
マルタは穏やかに頷いた。
「そうだね。お客さんの希望を聞くのは大事だけど、何でも引き受ければいいってものじゃない。できることをきちんと伝える方が、長く付き合っていけることもあるんだよ」
その言葉を聞き、シアは静かに微笑んだ。
以前の自分なら、相手の希望に応えられなかったことばかり気にしていたかもしれない。
けれど、今は違う。
できることを確かめ、できないことは相談する。
その積み重ねが、誰かとの信頼につながっていくのだと、少しずつ分かってきていた。
◇
昼前になると、店の忙しさは一度落ち着いた。
騎士団への定期納品も予定通りに済み、店頭には午後の客へ向けたパンが並んでいる。シアは厨房の奥で在庫帳を確認し、今日使った粉の量を記録していた。
そのとき、店の入口から少し慌ただしい声が聞こえた。
「こんにちは。ハンスさんから、お手紙を預かってきました」
シアが顔を上げると、マルタが店の方へ向かっていくところだった。
しばらくして戻ってきたマルタの手には、小さく折り畳まれた紙があった。
「シア、オットーを呼んできてくれるかい?」
「はい。すぐにお呼びします」
シアは作業台の向こうにいるオットーへ声をかけた。
オットーは手を洗い、布で拭いてからマルタのところへやってきた。
「どうした?」
「ハンスから知らせが来たんだよ。次の粉の便について、少し分かったらしい」
マルタは紙を広げ、二人へ見せた。
そこには、北側の街道の状況と、粉の納品予定について簡潔に書かれていた。
シアはマルタの許可を得て、内容を一緒に確認した。
北側の街道では、傷んだ路面の修繕が始まっている。
荷馬車の通行は完全に止まっていないものの、工事のために一部の区間で順番待ちが発生しているという。
その影響で、次に届く予定だった粉の便は、当初の予定より遅れる見込みになったらしい。
「……やっぱり、遅れるのか」
オットーは紙を見つめながら、低く呟いた。
マルタも少し眉を寄せたが、すぐに帳面へ視線を移した。
「でも、いつ届くか分からないわけじゃないんだね。ハンスも、今のところは数日以内に届く見込みだと書いてある」
「そうだな。ただ、天候次第では変わる可能性もあるだろう」
オットーは腕を組み、しばらく考えていた。
シアは二人の会話を聞きながら、昨日確認した在庫の数字を思い出した。
今日の仕込みを終えたあとでも、粉はまだ残っている。
ただし、騎士団や宿の予約を守るためには、無計画に使うわけにはいかない。
「マルタさん、昨日の在庫帳を持ってきましょうか?」
シアが尋ねると、マルタは頷いた。
「ああ、お願いするよ。今日使った分も合わせて確認したいからね」
「はい」
シアは棚から帳面を取り出し、作業台へ広げた。
オットーは粉袋の残りを確認しながら、今後の仕込みについて考え始めた。
「騎士団の分は、予定通り用意できる。宿の予約も、今のところ問題ないな」
「そうだね。ただ、店頭分は少し考えた方がよさそうだよ」
マルタは帳面へ目を落とし、指先で数字を追った。
「黒麦パンを多めに焼くのは、次の納品がはっきりするまで控えようか」
「それがいいだろう。丸パンや胡桃パンの方は、今ある小麦粉で予定通り焼ける。黒麦粉だけ、少し慎重に使えばいい」
シアは二人の話を聞きながら、必要なところを記録した。
黒麦パンの店頭販売分を調整する。
予約分は優先する。
追加注文が入った場合は、その都度確認する。
ただし、具体的に何個減らすかは、オットーが仕込みの予定を見て決めることになった。
シアはその区別を曖昧にしないよう、帳面の余白へ書き留めた。
「シア、明日から黒麦パンの数が少し変わるかもしれないけど、お客さんにはまだ決まっていないことまで話さなくていいからね」
マルタがそう言うと、シアは頷いた。
「はい。販売数について尋ねられた場合は、確認してからお答えします」
「それでいいよ。心配させる必要はないけど、無理な約束もしないようにね」
シアは静かに微笑んだ。
昨日から続いていた心配事が、少し具体的な形になってきた。
次の納品は遅れる。
けれど、今ある材料でできることもある。
その二つを分けて考えれば、必要以上に慌てずに済むのだろう。
◇
同じ頃、アルヴェイン公爵家の執務室では、レオンハルトが北側の街道に関する新しい報告を受けていた。
机の上には、修繕箇所を示した地図と、荷馬車の通行状況をまとめた書類が広げられている。
窓の外では雲がゆっくりと流れ、領都の屋根の向こうに淡い青空が見えていた。
「修繕の進み具合はどうだ?」
レオンハルトが尋ねると、担当官は地図の一か所を指し示した。
「路面の傷みが大きかった部分については、今朝から補修を進めています。荷車の通行を完全に止めずに作業しているため、少し時間はかかりますが、現時点では予定通りです」
「そうか。作業員の安全は確保できているか?」
「はい。通行整理のための人員を配置し、荷馬車が作業区域へ入らないようにしています」
レオンハルトは頷き、書類へ視線を戻した。
「なら、無理に作業を急がせる必要はない。冬が本格的になる前に直しておきたいが、事故が起きれば元も子もないからな」
担当官は深く頷いた。
「承知しました。商人たちにも、到着が遅れる可能性を伝えています」
レオンハルトは書類の端へ指を置き、少し考えた。
街道を通る荷馬車には、食料や衣料品、薪など、領都の暮らしに欠かせないものが積まれている。
修繕が必要だからといって、すべての通行を止めてしまえば、多くの人々の生活へ影響が出る。
かといって、危険な状態のまま通行を続けさせるわけにもいかない。
その間で、できるだけ安全な方法を選ぶ必要があった。
「商人たちから、何か大きな苦情は出ているか?」
「今のところ、深刻なものはありません。ただ、納品が遅れることで困っている店もあるようです」
担当官はそう答え、別の書類を差し出した。
「特に、日々の仕入れが必要な店では、予定の変更に対応していると聞いています」
レオンハルトは書類を受け取り、静かに目を通した。
その中に《麦穂亭》の名前があるわけではなかった。
それでも、小さな店が材料の到着を待ちながら仕事を続けている様子は、容易に想像できた。
以前、シアが店の仕事について話してくれたことがある。
予約分を間違えないように分けること。
材料の数を確かめること。
忙しい時間帯でも、一つずつ確認して進めること。
彼女は自分の仕事を特別なものとして語ることはなかったが、レオンハルトには、その丁寧さが印象に残っていた。
(……こういうときこそ、日々の準備が大切になるのだろうな)
レオンハルトはそう考えながら、報告書を閉じた。
特定の店だけを優先することはできない。
けれど、領都で暮らす人々が普段通りに仕事を続けられるようにすることは、自分の役目の一つだった。
「修繕の進捗は、明日も報告してくれ。それから、荷馬車の待機場所が混み合っていないかも確認してほしい」
「承知しました」
担当官が退出すると、レオンハルトは窓の外へ目を向けた。
遠くに広がる街並みの中には、今日も多くの人々の暮らしがある。
その中の一つに、《麦穂亭》があるのだと思うと、自然と視線が中央広場の方へ向いた。
レオンハルトはしばらく街を眺めてから、再び机へ向き直った。
今は、目の前の仕事を確実に進めることが先だった。
◇
午後の《麦穂亭》では、昼食を終えた客が少しずつ訪れていた。
シアは店頭のパンを整えながら、黒麦パンの残りを確かめた。
朝よりも数は減っているが、まだいくつか残っている。
ただし、次の納品が遅れる見込みになったため、今後は店頭に並ぶ数が変わるかもしれない。
シアは棚の位置を整え、客が見やすいように札を置き直した。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
「こんにちは、シア姉ちゃん!」
明るい声とともに入ってきたのは、靴職人の息子ニコだった。
今日は深緑色の襟巻きを巻き、両手には新しい手袋をつけている。
「こんにちは、ニコ君。今日はお買い物ですか?」
「うん! お母さんに頼まれたんだ。それとね、新しい手袋を買ってもらったんだよ!」
ニコは嬉しそうに両手を広げて見せた。
手袋は濃い青色で、指先までしっかりと編まれている。
「とても素敵ですね。大きさもちょうどよさそうです」
シアがそう言うと、ニコは得意そうに頷いた。
「うん! ちゃんと指が動くやつにしたんだ。シア姉ちゃんも、手袋買った?」
「はい。先日のお休みに買いました。ニコ君が教えてくれたことも思い出して、指が動かしやすいものを選んだんですよ」
「本当?」
ニコは目を輝かせた。
「うん。じゃあ、きっと使いやすいよ!」
「はい。今朝も使ってみましたけど、とても暖かかったです」
シアが微笑むと、ニコは満足そうに胸を張った。
それから、棚に並んだパンへ目を向ける。
「今日は丸パンを四つ買ってきてって言われたんだ。それと、黒麦パンも一つ」
「丸パン四つと黒麦パン一つですね。ありがとうございます」
シアは注文を確認し、パンを包み始めた。
ニコは棚を眺めながら、少しだけ首を傾げた。
「あれ? 今日は黒麦パンが少ないね」
その言葉に、シアは手を止めず、落ち着いて答えた。
「今日は、店頭に並べている数が少し少ないんです。でも、今ご注文いただいた分は大丈夫ですよ」
「そっか。お父さん、黒麦パンが好きだから、買えてよかった」
ニコはほっとしたように笑った。
シアは包みを渡し、代金を受け取った。
「ありがとうございます。お父様にもよろしくお伝えください」
「うん! それじゃあ、またね!」
ニコは元気よく手を振り、店を出ていった。
シアはその背中を見送りながら、少しだけ微笑んだ。
新しい手袋を嬉しそうに見せてくれた少年の姿が、昨日の自分と重なった。
自分で選んだものを使う喜び。
誰かにその話を聞いてもらえる嬉しさ。
それは、年齢に関係なく感じられるものなのかもしれない。
◇
夕方になると、店の外には冷たい風が吹き始めた。
通りを歩く人々は外套の襟を立て、足早に家路を急いでいる。
シアはマルタと一緒に売上帳を整理し、残ったパンの数を確認していた。
黒麦パンは、今日用意した店頭分がすべて売れていた。
丸パンも順調に売れ、胡桃パンが少し残っている。
マルタは帳面を見ながら、静かに頷いた。
「今日は、予定通りに終われたね」
「はい。騎士団と宿の予約分も、問題なくお渡しできました」
シアが答えると、マルタは微笑んだ。
「それが一番大事だよ。材料のことは心配だけど、今できることはちゃんとできているからね」
シアは頷き、帳面を閉じた。
そのとき、厨房からオットーが顔を出した。
「明日の仕込みについて、少し話しておきたいんだが、いいか?」
「もちろんだよ」
マルタが答え、シアも帳面を持って厨房へ向かった。
オットーは作業台の上へ紙を広げ、翌日の仕込み予定を示した。
「黒麦パンは、明日から店頭分を少し減らそうと思う。予約分は今まで通り用意するが、余分に焼くのは控える」
マルタは頷いた。
「そうだね。次の納品が届くまで、無理はしない方がいいだろう」
シアは紙に書かれた数字を確かめた。
店頭販売分の黒麦パンは、いつもより少なくなる。
ただし、丸パンや胡桃パンは、材料の状況を見ながら通常通り焼く予定だった。
「お客様から黒麦パンについて尋ねられた場合は、どのようにお伝えすればよろしいでしょうか?」
シアが尋ねると、マルタは少し考えてから答えた。
「材料の入荷が遅れているので、しばらく店頭の数を調整していると伝えればいいよ。予約については、その都度確認してから受けることにしよう」
「分かりました。確実にご用意できるかどうかは、オットーさんかマルタさんに確認してからお答えします」
「うん。それでいい」
オットーは頷き、紙を畳んだ。
「ハンスから次の連絡が来るまでは、このやり方でいこう。もし予定より早く粉が届けば、また考えればいい」
シアは静かに頷いた。
何もかもを一度に決める必要はない。
今分かっていることをもとに、できる範囲で準備する。
状況が変われば、そのときに考え直せばいい。
その考え方は、シア自身の暮らしにも少し似ているように思えた。
◇
仕事を終えたあと、シアは自室へ戻った。
窓の外には夜の街が広がり、通りの明かりが石畳を淡く照らしている。
机の端には秋灯草が置かれ、淡い黄色の花が小さく咲いていた。
シアはまず、鉢の土の状態を確かめた。
昨夜、水を与えたばかりなので、今日はまだ湿り気が残っている。
水を足す必要はなさそうだったため、受け皿の位置を整え、窓から少し離した場所へ移した。
「今日も、元気でいてくれてありがとうございます」
小さく声をかけてから、シアは椅子へ腰を下ろした。
机の上には、仕事の覚え書きと、図書館から借りている『街の小さな庭と季節の花』が置かれている。
シアはまず覚え書きを開き、今日の出来事を整理した。
次の粉の納品は遅れる見込み。
黒麦パンの店頭販売分は、明日から少し減らす。
予約分は優先する。
追加注文は、材料と仕込み予定を確認してから受ける。
その内容を書き終えると、シアは筆を置いた。
今日一日を振り返ると、朝からさまざまなことがあった。
《銀鹿亭》の追加注文を予定通り渡し、騎士団への定期納品も済ませた。
ハンスからは、次の粉の便が遅れるという知らせが届いた。
ニコは新しい手袋を嬉しそうに見せてくれた。
そして、マルタとオットーは、材料が届くまでの仕事の進め方を決めた。
大きな事件が起きたわけではない。
けれど、いつもの仕事の中にも、考えなければならないことはたくさんある。
(……私も、少しずつ分かることが増えてきたのでしょうか)
シアはそう考えながら、帳面の端へ指を置いた。
伯爵家にいた頃も、帳簿や在庫の管理を任されることはあった。
数字を間違えないこと。
必要なものを揃えること。
言われた通りに準備すること。
そうした仕事には慣れていた。
けれど、今の《麦穂亭》では、数字の向こうにいる人々のことを考える機会が増えている。
パンを買いに来る客。
予約をしている宿。
毎朝パンを焼くオットー。
店を切り盛りするマルタ。
材料を届けるハンス。
そして、街道を整備する人々。
その一つ一つがつながっている。
シアは帳面を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の街には、まだいくつかの荷馬車が行き交っている。
遠くから聞こえる車輪の音を聞きながら、シアは昼間の知らせを思い出した。
北側の街道では、今も修繕が続いているのだろう。
そこを通る荷馬車の中には、誰かが必要としている品物が積まれている。
その荷物が無事に届くことを願いながら、シアは静かに息を吐いた。
ふと、レオンハルトのことが頭に浮かんだ。
以前、彼は冬へ向けた道路や橋の仕事について話してくれた。
そのときは、どこか遠い仕事のように感じていた。
けれど、今は少し違う。
街道の状態が変われば、店の仕入れにも影響が出る。
そのことを知った今なら、彼の仕事について、以前よりも具体的に考えられる気がした。
(……次にお会いしたとき、街道のことを少しお聞きしてみてもいいでしょうか)
そう思ったものの、すぐに小さく首を振った。
レオンハルトは公爵家の仕事で忙しい人だ。
店の仕入れのことまで尋ねるのは、迷惑になるかもしれない。
けれど、彼が以前話してくれたことを覚えていると伝えるだけなら、不自然ではないだろう。
シアはその考えを胸の中へしまい、机の上の本へ手を伸ばした。
『街の小さな庭と季節の花』の返却日も、少しずつ近づいている。
ミレイユと一緒に図書館へ行く約束はあるが、彼女の勤務予定はまだ決まっていない。
もし予定が合わなければ、今回は一人で返却へ行けばいい。
そのうえで、別の日に一緒に出かけることもできる。
シアは頁を開き、冬の鉢植えの管理について書かれた部分を読み始めた。
外の風は冷たく、窓枠がときおり小さく鳴っている。
けれど、部屋の中には温かな灯りがあり、机の端には自分で選んだ花が咲いていた。
明日も、いつも通りに仕事が始まる。
ただし、黒麦パンの数は少し変わる。
その変化をきちんと覚え、必要なときに確認することが、今の自分にできる仕事だった。
シアは本を読み進めながら、明日も一つずつ丁寧に働こうと考えた。
そして、遠くの街道を通る荷馬車が、無事に目的地へ着くことを静かに願った。




