第48話 いつもと違う棚に、変わらない温かさを
朝の光がまだ街の屋根を照らしきらない頃、シアは《麦穂亭》の厨房で、いつもより少し広く空けられた作業台の一角を見つめていた。
そこには、普段なら黒麦パンの仕込みに使う木鉢が置かれている。しかし今朝は、その隣に丸パン用の小麦粉が入った容器が並び、オットーが仕込みの順番を確かめながら、何度か帳面へ目を落としていた。
北側の街道で修繕が続いている影響で、次の黒麦粉の納品が遅れる見込みになっている。
昨日の夕方、オットーとマルタは相談のうえ、予約分を優先するために黒麦パンの店頭販売数を減らすことに決めた。今日は、その変更を実際の仕事へ反映する最初の日だった。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
シアが挨拶すると、オットーは顔を上げ、いつものように頷いた。
「おう、おはよう。今朝は昨日より少し暖かいな。生地の様子も悪くなさそうだ」
「はい。外は冷えていましたけれど、風が弱いので歩きやすかったです」
シアは手を洗い、前掛けをつけながら作業台へ近づいた。
窯ではすでに火が燃えており、薪のはぜる音が静かな厨房へ響いている。焼き上がったばかりのパンの香りはまだ薄いものの、温められた石と小麦粉の匂いが混じり合い、朝の仕事が始まることを知らせていた。
マルタは予約帳を開き、今日の注文を確認していた。
「シア、今朝はまず、昨日決めた仕込みの数を一緒に確認しておこうか。店頭に並べる黒麦パンは少なくなるけど、予約分はこれまで通りだからね」
「はい。予約用と店頭用の籠を分けて、札もつけておきます」
シアは帳面を受け取り、数字を確かめた。
騎士団の定期納品は、今日は予定されていない。
《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》の取り置きについては、すでに注文を受けている分を確保する。黒麦パンの店頭販売数だけを減らし、丸パンや胡桃パンは、材料と仕込みの都合を見ながら普段通りに用意することになっていた。
「昨日、ハンスさんからのお知らせを確認しておいてよかったですね」
シアがそう言うと、マルタは頷いた。
「そうだね。突然粉がなくなったら、もっと困っていたところだよ。先に知らせてもらえたから、こうして準備ができるんだから」
オットーは生地を持ち上げ、指先で弾力を確かめた。
「黒麦パンは、減らすと言っても全く焼かないわけじゃない。いつも買ってくれる客もいるからな。予約を守ったうえで、できるだけ店頭にも出したい」
「はい。お客様から尋ねられたときには、材料の入荷が遅れているため数を調整しているとお伝えします」
「それでいい。もし取り置きを頼まれたら、必ず俺かマルタに確認してくれ」
「分かりました」
シアは頷き、籠を準備し始めた。
仕事の内容は、昨日までと大きく変わらない。
生地を成形し、焼き上がったパンを分け、注文を確かめて客へ渡す。
けれど、今日は一つだけ違うことがある。
いつも棚に並んでいるはずの黒麦パンが、少なくなるのだ。
(……お客様は、どう思われるでしょうか)
シアは籠の札を書きながら、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
いつも買っているものが買えなければ、残念に思う人もいるだろう。
その気持ちを考えると、申し訳なさが先に立ちそうになる。
しかし、昨日マルタが話してくれた言葉を思い出した。
できることをきちんと伝える。
無理な約束をしない。
それが、長く店を続けていくために必要なことなのだと。
シアは静かに息を整え、目の前の籠へ札を取り付けた。
今日も、できることを一つずつ確かめながら働こう。
そう思って顔を上げると、オットーが次の生地を作業台へ置いた。
「シア、こっちの丸パンを頼む。今日は店頭分を少し多めに用意するから、成形の順番を変えていこう」
「はい。分かりました」
シアは生地へ手を伸ばし、指先で柔らかさを確かめた。
いつもと少し違う朝が、静かに動き始めていた。
◇
開店の時間が近づくと、マルタは店頭の棚を整えながら、黒麦パンの置き場所を少し変えた。
普段は棚の一角へまとめて並べているが、今日は数が少ないため、ほかのパンとの間に不自然な隙間ができないよう配置を調整している。
シアはその様子を見ながら、値札を置き直した。
丸パンは五銅貨。
黒麦パンは七銅貨。
胡桃パンは六銅貨。
値段はいつもと変わらない。
ただし、黒麦パンの数だけが少なくなっている。
「マルタさん、こちらの札は、今までと同じ場所でよろしいでしょうか?」
シアが尋ねると、マルタは棚を見渡してから頷いた。
「ああ、それでいいよ。ただ、今日は黒麦パンが早く売り切れるかもしれないから、お客さんに聞かれたら説明してあげてね」
「はい。分かりました」
シアは札の位置を整え、少し離れて棚全体を眺めた。
いつもより黒麦パンが少ないことは、よく見れば分かる。
けれど、丸パンや胡桃パン、蜂蜜パンは普段通りに並んでおり、店内には焼きたての香りが広がっていた。
マルタはその様子を見て、満足そうに頷いた。
「よし。これなら大丈夫そうだね」
やがて入口の鈴が鳴り、朝の最初の客が入ってきた。
厚手の外套を羽織った女性で、片手には布製の買い物袋を提げている。女性は棚を眺めながら、丸パンと胡桃パンを選び、シアへ声をかけた。
「おはよう。今日は丸パンを四つと、胡桃パンを二つお願いできるかしら」
「おはようございます。ありがとうございます。丸パン四つと胡桃パン二つですね」
シアは注文を確認し、パンを包み始めた。
女性は店内の温かさにほっとしたように息を吐き、外套の襟元を緩めた。
「外はずいぶん冷えるわね。ここへ入ると、いつもほっとするのよ」
「ありがとうございます。今日は風が弱いので、昨日より歩きやすいかと思ったのですが、やはり朝は冷えますね」
「そうなのよ。これからもっと寒くなると思うと、冬支度を急がないといけないわ」
女性はそう言って笑い、代金を支払った。
シアが包みを渡すと、女性は礼を言って店を出ていった。
そのあとも客は途切れず、朝の《麦穂亭》にはいつもの賑わいが戻ってきた。
仕事へ向かう職人たちが丸パンを買い、近所の住民が家族の分を選んでいく。
シアは注文を聞き、代金を受け取り、包みを渡す。
その合間に棚の残りを確かめ、必要に応じてマルタへ声をかけた。
しばらくして、年配の男性が店へ入ってきた。
ハロルドだった。
「おはよう。今日も黒麦パンを二つお願いできるかな」
いつもの穏やかな声に、シアは顔を上げた。
「おはようございます、ハロルドさん。はい、まだございます」
シアは棚から黒麦パンを二つ取り、包み始めた。
ハロルドは棚の方へ目を向け、少し首を傾げた。
「今日は、いつもより数が少ないようだね」
「はい。実は、材料の入荷が少し遅れているため、しばらく店頭に並べる数を調整することになったんです」
シアは落ち着いて説明した。
ハロルドは驚いたように眉を上げたが、すぐに納得したように頷いた。
「なるほど。街道の方で修繕をしていると聞いたが、その影響かね」
「はい。北側の街道で荷馬車の通行に時間がかかっているそうです。次の納品が予定より遅れる見込みなので、今ある材料を大切に使うことになりました」
ハロルドは静かに頷き、包みを受け取った。
「そういうことなら仕方がないね。道が悪いままでは、荷物を運ぶ人たちも危ないだろうし」
「ありがとうございます。ご不便をおかけするかもしれませんが、できるだけいつも通りにお渡しできるようにしたいと思っています」
シアがそう言うと、ハロルドは柔らかく笑った。
「無理をしなくていいんだよ。パンは毎日食べるものだからね。店が困ってしまったら、私たちも困る」
その言葉に、シアは少し驚いた。
ハロルドは続けた。
「若い頃、私も商売を手伝っていたことがあるんだ。材料が届かないときは、どうしてもできないことがある。そういうときに大切なのは、無理に約束を増やさないことだよ」
シアは包みを渡したまま、男性の顔を見つめた。
ハロルドの表情には、責めるような色はなかった。
むしろ、店の事情を理解しようとしてくれていることが伝わってくる。
「……ありがとうございます。そう言っていただけると、少し安心します」
シアが答えると、ハロルドは頷いた。
「こちらこそ、いつもおいしいパンをありがとう。また買いに来るよ」
「はい。お待ちしております」
シアは丁寧に頭を下げ、男性を見送った。
扉が閉まると、マルタが隣へ近づいてきた。
「ハロルドさん、分かってくれたみたいだね」
「はい。材料が届かないときは、できないこともあるとおっしゃっていました」
シアは静かに答えた。
マルタは微笑み、棚の残りを確かめた。
「そうだね。長く商売をしていると、いろいろなことがあるからね。大事なのは、困ったときにどうするかだよ」
シアは頷いた。
客に事情を説明することへ、少し不安があった。
けれど、今のやり取りで、その不安が少し和らいだ気がした。
すべての人が同じように受け止めてくれるとは限らない。
それでも、きちんと伝えれば理解してくれる人もいる。
そのことを、シアは胸の中へ大切にしまった。
◇
昼前になると、店内の客足は少し落ち着いた。
シアはマルタと交代しながら、残ったパンの数を確認していた。
黒麦パンは、すでに残りが少なくなっている。
丸パンはまだ十分にあるが、朝のうちに予想より多く売れたため、オットーが追加で焼く予定の分を確かめているところだった。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
「こんにちは。黒麦パンは、まだありますか?」
入ってきたのは、見覚えのない若い女性だった。
灰色の外套を羽織り、片手には小さな籠を提げている。少し急いで来たらしく、頬が赤くなっていた。
「こんにちは。はい、まだ少しございます」
シアが答えると、女性はほっとしたように息を吐いた。
「よかった。母が黒麦パンを食べたいと言っていて、こちらのお店がおいしいと聞いたものですから」
「ありがとうございます。いくつご用意しましょうか?」
「できれば、五つお願いしたいのですが……」
シアは棚へ目を向けた。
黒麦パンは、残りが三つだった。
今日の店頭販売分は、すでにほとんど売れている。
シアは少しだけ胸の奥が緊張するのを感じた。
女性は五つ欲しいと言っている。
けれど、今あるのは三つだけだ。
追加で焼けるかどうかも、オットーへ確認しなければ分からない。
シアは一度呼吸を整え、女性へ向き直った。
「申し訳ございません。現在、店頭にある黒麦パンは三つだけなんです」
女性は少し残念そうに眉を下げた。
「あら、そうなんですね。もう少し早く来ればよかったかしら」
「実は、材料の入荷が遅れているため、今日はいつもより少ない数で販売しているんです。もしよろしければ、ほかのパンもご案内できますが……」
シアはそう言いながら、丸パンや胡桃パンの並ぶ棚へ視線を向けた。
女性は少し考えた。
「そうですね……母は黒麦パンが好きなんですけど、家族の分も買って帰りたいので、ほかのパンでも大丈夫かもしれません」
その言葉に、シアは頷いた。
「それでしたら、黒麦パンを三つと、丸パンを二つという組み合わせはいかがでしょうか。丸パンは柔らかくて食べやすいので、スープと一緒に召し上がる方も多いんです」
女性は棚を見比べ、少し表情を明るくした。
「それなら、そうしようかしら。母には黒麦パンを渡して、ほかの家族には丸パンを出せばいいですものね」
「はい。もちろん、ほかの組み合わせでも大丈夫ですので、ゆっくりお選びください」
シアがそう答えると、女性は微笑んだ。
「ありがとうございます。では、黒麦パンを三つと丸パンを二つお願いします」
「かしこまりました」
シアはパンを包みながら、女性の様子を確かめた。
最初は残念そうだった表情が、今は少し和らいでいる。
希望通りの数を用意できなかったことは変わらない。
それでも、別の選択肢を一緒に考えることはできた。
女性は代金を支払い、包みを受け取った。
「母が気に入ったら、また買いに来ますね」
「ありがとうございます。またお待ちしております」
シアは丁寧に頭を下げ、女性を見送った。
扉が閉まると、棚の黒麦パンはなくなっていた。
シアは空いた場所を見つめ、少しだけ息を吐いた。
今日の店頭販売分は、これですべて売り切れたことになる。
そのとき、マルタが隣へ近づいてきた。
「今のお客さん、うまく案内できたね」
「ありがとうございます。でも、黒麦パンを五つご希望だったので、少し申し訳なくて……」
シアがそう言うと、マルタは首を横に振った。
「希望通りに用意できないことはあるよ。大事なのは、そのあとどうするかだね」
マルタは空いた棚へ目を向けた。
「無理に五つあると言うわけにはいかないし、予約分を渡すわけにもいかない。今あるものを伝えて、お客さんに選んでもらえたなら、それで十分だよ」
シアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「……はい。そうですね」
マルタは微笑んだ。
「それに、あのお客さんは納得して買っていってくれたんだろう? なら、必要以上に気にしなくていいんだよ」
シアは少しだけ口元を緩めた。
相手の希望をすべて叶えられなくても、できることはある。
そのことを、今日の仕事の中で少しずつ確かめているような気がした。
◇
同じ頃、アルヴェイン公爵家の執務室では、レオンハルトが北側の街道に関する報告書を確認していた。
窓の外には秋の青空が広がり、遠くの街並みには柔らかな日差しが落ちている。
机の上には、修繕箇所を示した地図と、荷馬車の通行状況をまとめた書類が並べられていた。
「修繕は、予定通り進んでいるのだな」
レオンハルトが尋ねると、担当官は頷いた。
「はい。路面の傷みが大きかった部分については、補修が進んでいます。ただし、荷馬車の通行を制限しながら作業しているため、荷物の到着にはまだ遅れが出ています」
「そうか。作業員の安全は確保できているか?」
「はい。通行整理のための人員を配置し、荷馬車が作業区域へ入らないようにしています」
レオンハルトは頷き、書類へ視線を戻した。
「なら、無理に急がせる必要はない。冬が本格的になる前に直しておきたいが、事故が起きればかえって時間がかかる」
担当官は深く頷いた。
「承知しました。商人たちにも、引き続き到着が遅れる可能性を伝えています」
レオンハルトは地図の一か所へ指を置いた。
街道は、領都と周辺の町や村をつなぐ大切な道だ。
そこを通る荷馬車には、食料や衣料品、薪など、暮らしに欠かせないものが積まれている。
修繕が必要だからといって、すべての通行を止めてしまえば、多くの人々の生活へ影響が出る。
かといって、危険な状態のまま通行を続けさせるわけにもいかない。
その間で、できるだけ安全な方法を選ぶ必要があった。
「商人たちから、何か新しい連絡は入っているか?」
「今のところ、大きな問題は報告されていません。ただ、納品が遅れている店では、販売数を調整しているところもあるようです」
担当官はそう答え、別の書類を差し出した。
レオンハルトは目を通しながら、ふと《麦穂亭》のことを思い浮かべた。
あの店でも、毎朝パンを焼くために粉を使っている。
材料の到着が遅れれば、何らかの影響が出ているかもしれない。
以前、シアが店の仕事について話してくれたことがある。
予約分を間違えないように分けること。
材料の数を確かめること。
忙しい時間帯でも、一つずつ確認して進めること。
彼女は自分の仕事を特別なものとして語ることはなかったが、その丁寧さは印象に残っていた。
(……あの店でも、今ある材料を大切に使っているのだろうな)
レオンハルトはそう考えながら、報告書を閉じた。
特定の店だけを優先することはできない。
けれど、領都で暮らす人々が普段通りに仕事を続けられるようにすることは、自分の役目の一つだった。
「修繕の進捗は、明日も報告してくれ。それから、荷馬車の待機場所が混み合っていないかも確認してほしい」
「承知しました」
担当官が退出すると、レオンハルトは窓の外へ目を向けた。
遠くに広がる街並みの中には、今日も多くの人々の暮らしがある。
その中の一つに、《麦穂亭》がある。
そう思うと、自然と中央広場の方へ視線が向いた。
レオンハルトはしばらく街を眺めてから、再び机へ向き直った。
今は、目の前の仕事を確実に進めることが先だった。
◇
午後の《麦穂亭》では、昼食を終えた客が少しずつ訪れていた。
シアは店頭のパンを整えながら、空いた黒麦パンの棚へ小さな札を置いた。
札には、マルタと相談して決めた言葉が書かれている。
『本日の黒麦パンは売り切れました』
それだけの短い案内だった。
材料の入荷が遅れていることについては、尋ねられた場合に説明することになっている。
シアは札の位置を整え、客が見やすいように少し角度を変えた。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
「こんにちは、シア姉ちゃん!」
明るい声とともに入ってきたのは、靴職人の息子ニコだった。
今日は昨日と同じ深緑色の襟巻きを巻き、新しい青い手袋をつけている。
「こんにちは、ニコ君。今日もお買い物ですか?」
「うん! お母さんに頼まれたんだ。それとね、昨日の手袋、すごく暖かかったよ!」
ニコは嬉しそうに両手を広げて見せた。
シアは微笑みながら頷いた。
「それはよかったですね。寒い日が増えてきましたから、手袋があると安心ですね」
「うん! お父さんも、ちゃんとつけていけって言ってた」
ニコはそう言いながら、棚へ目を向けた。
「今日は丸パンを四つ買ってきてって言われたんだ。それから、黒麦パンも一つ……あれ?」
ニコは空いた棚と札を見比べた。
「黒麦パン、もうないの?」
「はい。今日は売り切れてしまったんです。材料の入荷が少し遅れているので、いつもより少ない数で販売しているんですよ」
シアが説明すると、ニコは少し残念そうに眉を下げた。
「そっか。お父さん、黒麦パンが好きなんだけどなあ」
「そうでしたね。昨日もお父様のために買っていかれましたものね」
シアは少し考えてから、棚の丸パンへ目を向けた。
「もしよろしければ、今日は丸パンを一つ増やすこともできますよ。ただ、お母様に頼まれた数がありますから、勝手に変えない方がいいかもしれませんね」
ニコは少し考えた。
「うーん……じゃあ、今日は丸パンを四つだけにする。お母さんに聞いてないから」
その答えに、シアは微笑んだ。
「はい。それがいいと思います。では、丸パン四つをご用意しますね」
シアはパンを包み、代金を受け取った。
ニコは包みを受け取りながら、少しだけ首を傾げた。
「黒麦パン、また買えるようになる?」
「はい。材料が届けば、またいつも通りに焼けると思います。ただ、いつになるかはまだはっきりしていないので、次に来たときに聞いてくださいね」
「分かった! お父さんにも言っておく!」
ニコは元気よく頷き、店を出ていった。
シアはその背中を見送りながら、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
ニコは、頼まれた数を勝手に変えなかった。
自分で考え、今できることを選んだ。
その姿が、少し前の自分と重なった。
以前なら、相手の希望に応えられないことばかり気にしていたかもしれない。
けれど、今は違う。
できないことを伝えたうえで、別の方法を一緒に考えることができる。
その積み重ねが、少しずつ自分の中に残っているように感じられた。
◇
夕方になると、店の外には冷たい風が吹き始めた。
通りを歩く人々は外套の襟を立て、足早に家路を急いでいる。
シアはマルタと一緒に売上帳を整理し、残ったパンの数を確認していた。
黒麦パンは、今日用意した店頭分がすべて売れていた。
丸パンも順調に売れ、胡桃パンが少し残っている。
マルタは帳面を見ながら、静かに頷いた。
「今日は、思っていたより落ち着いて終われたね」
「はい。黒麦パンについて尋ねられることはありましたけど、皆さん事情を聞いてくださいました」
シアが答えると、マルタは微笑んだ。
「それはよかったね。もちろん、毎日同じようにいくとは限らないけど、今日の対応は悪くなかったと思うよ」
シアは頷き、帳面を閉じた。
そのとき、厨房からオットーが顔を出した。
「明日の仕込みについて、少し話しておきたいんだが、いいか?」
「もちろんだよ」
マルタが答え、シアも帳面を持って厨房へ向かった。
オットーは作業台の上へ紙を広げ、翌日の仕込み予定を示した。
「黒麦パンは、明日も今日と同じくらいの数でいこうと思う。予約分は今まで通り用意するが、店頭分は無理に増やさない」
マルタは頷いた。
「そうだね。今日の売れ方を見ると、少し物足りないお客さんもいるかもしれないけど、次の納品が届くまでは仕方がないね」
シアは紙に書かれた数字を確かめた。
店頭販売分の黒麦パンは、今日と同じくらい。
丸パンや胡桃パンは、材料の状況を見ながら通常通りに焼く予定だった。
「お客様から取り置きを頼まれた場合は、これまで通り確認してからお返事します」
シアがそう言うと、オットーは頷いた。
「ああ。それで頼む。ハンスから次の連絡が来るまでは、このやり方でいこう」
マルタも頷いた。
「状況が変われば、そのときにまた考えればいいからね」
シアは静かに微笑んだ。
何もかもを一度に決める必要はない。
今分かっていることをもとに、できる範囲で準備する。
状況が変われば、そのときに考え直せばいい。
その考え方は、シア自身の暮らしにも少し似ているように思えた。
◇
仕事を終えたあと、シアは自室へ戻った。
窓の外には夜の街が広がり、通りの明かりが石畳を淡く照らしている。
机の端には秋灯草が置かれ、淡い黄色の花が小さく咲いていた。
シアはまず、鉢の土の状態を確かめた。
昨日は水を与えていないが、まだ少し湿り気が残っている。
今夜も水を足す必要はなさそうだったため、受け皿の位置を整え、窓から少し離した場所へ移した。
「今日も、元気でいてくれてありがとうございます」
小さく声をかけてから、シアは椅子へ腰を下ろした。
机の上には、仕事の覚え書きと、図書館から借りている『街の小さな庭と季節の花』が置かれている。
シアはまず覚え書きを開き、今日の出来事を整理した。
黒麦パンの店頭販売数を減らしたこと。
ハロルドが事情を理解してくれたこと。
初めて来た女性へ、黒麦パンと丸パンを組み合わせて案内したこと。
ニコが、頼まれた数を勝手に変えずに買い物をしたこと。
それらを一つずつ書き留めていく。
書き終えると、シアは筆を置いた。
今日一日を振り返ると、朝は少し不安だった。
いつもと違う棚を見て、客がどう思うのか気になっていた。
けれど、実際に仕事をしてみると、事情を理解してくれる人もいた。
希望通りに買えなかった人も、別の方法を考えてくれた。
もちろん、すべてが思い通りにいったわけではない。
黒麦パンを買えずに帰った人もいる。
それでも、店としてできることを丁寧に伝えることはできた。
(……できないことがあっても、何もできないわけではないんですね)
シアはそう考えながら、帳面の端へ指を置いた。
伯爵家にいた頃は、誰かの希望に応えられないことが、すぐに自分の失敗として扱われることがあった。
相手が望むものを用意できなければ、努力が足りないと言われた。
事情を説明しようとしても、言い訳をするなと叱られることがあった。
その記憶は、今でも完全には消えていない。
けれど、《麦穂亭》では違う。
マルタもオットーも、できないことを責めない。
必要なことを確認し、できる範囲で対応するように教えてくれる。
客の中にも、その事情を理解してくれる人がいる。
シアはゆっくりと息を吐いた。
少しずつ、違う考え方を覚えている。
それは、これまでの自分にとって、とても大きな変化だった。
ふと、机の上の本へ目を向けた。
『街の小さな庭と季節の花』の返却日が近づいている。
ミレイユと一緒に図書館へ行く約束はあるが、彼女の勤務予定はまだ決まっていない。
もし予定が合わなければ、今回は一人で返却へ行けばいい。
そのうえで、別の日に一緒に出かけることもできる。
シアはそう考えながら、本を手に取った。
頁を開くと、冬の鉢植えの管理について書かれた部分が目に入った。
寒い時期には、水の与えすぎに気をつけること。
窓際の冷たい空気を避けること。
日中はできるだけ明るい場所へ置くこと。
シアはその内容を読みながら、机の端に置いた秋灯草へ目を向けた。
今のところ、花は元気に咲いている。
けれど、冬が深まれば、今までと同じ育て方ではいけないかもしれない。
そのときには、また本を読んだり、詳しい人へ尋ねたりすればいい。
最初からすべてを知っている必要はない。
分からないことがあれば、確かめればいい。
シアは本の頁をめくりながら、今日の仕事を思い返した。
材料が届かないときには、仕込みの数を調整する。
客の希望に応えられないときには、別の方法を考える。
花の育て方が分からないときには、本で調べる。
どれも、すぐに答えが出るとは限らない。
けれど、考えることを諦めなければ、少しずつ前へ進めるのだろう。
窓の外では、夜の風が小さく鳴っている。
遠くからは荷馬車の音が聞こえ、街のどこかではまだ仕事を続けている人々がいるのだろう。
シアはその音を聞きながら、昼間のハロルドの言葉を思い出した。
店が困ってしまったら、客も困る。
だから、無理をしなくていい。
その言葉は、思っていた以上に胸へ残っていた。
(……私も、ここで長く働いていけたらいいですね)
シアはそう考えながら、静かに微笑んだ。
まだ試用期間の途中であり、正式に長く働けると決まったわけではない。
それでも、今の自分には、明日もここで働きたいという気持ちがある。
誰かに命じられたからではなく、自分でそう思っている。
そのことが、少し嬉しかった。
シアは本を閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
明日も、黒麦パンの数は少ないままだろう。
けれど、丸パンも胡桃パンも、いつも通りに焼かれる。
そして、店にはまたさまざまな客が訪れる。
その一人一人へ、できることを丁寧に伝えていこう。
シアは灯りを少し落とし、寝台へ向かった。
窓の外では、冷たい風が街を通り抜けている。
けれど、部屋の中には自分で選んだ花があり、明日へ続く仕事があった。
いつもと少し違う一日を終えたシアは、穏やかな気持ちで目を閉じた。




