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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第74話 宿屋から届いた返事と、冬の市へ向かう約束


 夜の間に冷え込んだらしく、《麦穂亭》の二階の窓には、薄い白色の曇りが残っていた。


 シアが寝台から起き上がると、足元の床板から冬の冷たさが伝わってきた。窓の向こうでは、まだ朝日が建物の屋根を照らし始めたばかりだったが、中央広場へ続く通りには、荷物を抱えた職人や厚手の外套を着た商人たちが行き交っていた。


 冬の市の準備が始まってからというもの、街が目覚める時間は少しずつ早くなっているように感じられる。


 シアは窓辺の秋灯草を確かめ、鉢の土に指先を触れた。昨日の朝に与えた水がまだ適度に残っていたため、今日は水差しを手に取らず、葉の表面に傷んだところがないかを確かめるだけにした。


 図書館で借りた本を返してからも、植物の世話をするときには、そこに書かれていたことを思い出すようになっている。


(毎日同じことをするのではなく、その日の様子を見て、必要なことを考える。それは、お仕事にも少し似ているのかもしれません)


 昨日、《銀鹿亭》への返事についてマルタとオットーに相談したときも、最初から決まった答えがあったわけではなかった。黒麦粉の到着日が分からない以上、店でできることを確かめ、相手の事情も聞きながら判断する必要があったのだ。


 シアは机の上に置いた帳面を開き、昨日の最後に書いた一文へ目を向けた。


『《銀鹿亭》への返事は用意済み。届ける方法は明日の状況を見て決める』


 書面そのものは、すでにマルタが用意している。今日の店の忙しさによっては、自分が届けに行くことになるかもしれないし、ほかの方法を取ることになるかもしれない。


 いずれにしても、先方が食事の準備を考えられるよう、できるだけ早く返事を届ける必要がある。


 シアは帳面を閉じると、衣服を整え、修理した革靴を履いた。


 踵の補強部分にはまだ少し硬さが残っているが、歩くときの痛みはない。紐を結び直し、立ち上がって足の具合を確かめてから、階下へ向かった。


 厨房へ近づくにつれ、焼き始めたパンの香りが濃くなっていく。


 今日も《麦穂亭》の一日が始まろうとしていた。


     ◇


「おはようございます、マルタさん。オットーさん」


 厨房へ入ったシアが挨拶すると、作業台の前にいたオットーが顔を上げた。


「おう、おはよう。ちょうどよかった。今日は丸パンの仕込みを少し早めに進めているところだ」


 オットーは大きな木鉢の中の生地を確かめながら、作業台の端に置いた注文表を顎で示した。


 冬の市の準備に関わる作業員からの注文は、昨日に続いて今日も入っている。ただし、店頭へ並べる分を減らしてまで無理に引き受けることはせず、作れる数量を確かめたうえで対応しているという。


「昨日のうちに注文分は確認してある。焼き上がったら、いつものように分けておいてくれ」


「はい。受け取りの時間も、注文表で確認しておきます」


 シアが答えると、オットーは満足そうに頷いた。


 彼女は手を洗い、清潔な布を用意してから、焼き上がったパンを置く籠を並べた。注文分と店頭分を混同しないよう、置き場所を分け、それぞれに対応する札を添えていく。


 その途中で、厨房の奥からマルタが姿を現した。


「おはよう、シア。昨日の《銀鹿亭》への返事だけれど、今日は午前中の様子を見て、届け方を決めようと思っているよ」


「承知しました。書面は昨日ご用意いただいたものですね」


「そうだよ。ただ、今朝になって注文の状況が変わっていないか、もう一度確認してからにしよう。昨日書いたことが、今日もそのまま正しいとは限らないからね」


 マルタはそう言って、会計台の奥から帳面を持ってきた。


 黒麦粉の入荷日は、依然として分かっていない。


 北方の道路補修は進められているものの、重量荷車の通行制限は解除されておらず、《フォルン商会》からも新しい到着予定は示されていなかった。


 そのため、《麦穂亭》では黒麦パンの新規予約と店頭販売を止めたまま、すでに受けている注文について慎重に対応している。


「オットー、昨日確認した内容から、何か変わったところはあるかい?」


「いや。今朝の時点では変わらん。黒麦粉が届かないうちは、これ以上のことは約束できないな」


「分かったよ。それなら、昨日の書面で問題なさそうだね」


 マルタは帳面を閉じ、シアへ目を向けた。


「《銀鹿亭》には、既存の注文についても入荷状況によって調整が必要になる可能性があること、それから、ほかの種類のパンについては相談を受けられることを伝える。ただし、数量や日付は先方の希望を聞いてから改めて確認する、という内容だよ」


「はい。昨日、確認させていただいた内容と同じですね」


 シアは頷いた。


 昨日、自分が提案したことが、店としての返事に含まれている。


 そのことを改めて実感すると、胸の奥に小さな緊張が生まれた。


 自分の考えが仕事に役立つかもしれないのは嬉しい。けれど、だからこそ、その提案が本当に相手の助けになるのか、気になってもいた。


 マルタはそんな彼女の表情に気づいたのか、穏やかな声で言った。


「シア、先方が別のパンを希望しなかったとしても、それは提案が間違っていたということじゃないからね。相手が選べるようにしておくことと、必ず選んでもらうことは別なんだよ」


 思いがけない言葉に、シアは顔を上げた。


「……はい。ありがとうございます」


「まずは、今できることを正確に伝える。それで十分だよ」


 マルタはそう言って微笑むと、開店の準備へ戻っていった。


 シアはその後ろ姿を見つめながら、静かに息を整えた。


(選んでいただけなくても、失敗ではない。そう考えても、よいのですね)


 伯爵家にいた頃、誰かの望みに応えられなければ、自分の価値まで失われるような気がしていた。


 けれど、今の仕事では違う。


 相手に必要な情報を伝え、選んでもらう。


 その結果まで、自分一人で背負う必要はないのだ。


 シアは気持ちを切り替え、パンを並べる作業へ戻った。


     ◇


 開店すると、店には朝食用のパンを求める客が続けて訪れた。


 外の空気が冷たいせいか、扉が開くたびに客たちは肩をすくめ、店内へ入ると焼きたての香りにほっとしたような表情を浮かべる。


 冬の市の準備をしている職人たちも、仕事へ向かう前に立ち寄っていた。


「丸パンを四つ頼むよ。今日は広場の東側で作業なんだ」


「ありがとうございます。お持ち帰りでよろしいでしょうか」


「ああ。昼までに食べるつもりだから、包んでもらえると助かる」


 シアは注文を確認し、丸パン四つを包んだ。


 一つ銅貨五枚なので、合計は銅貨二十枚になる。受け取った代金を確かめてから包みを渡すと、男性は礼を述べ、足早に店を出ていった。


 次に入ってきた女性は胡桃パンを二つ買い、店先の台が以前より奥へ移されたことに気づいたようだった。


「ここ、通りやすくなったわね。前は荷物を持っていると、少し気をつけないといけなかったもの」


「ありがとうございます。お客様が増える時期ですので、マルタさんと相談して位置を変えました」


 シアが答えると、女性は入口の方を振り返った。


「冬の市が始まったら、もっと人が増えるでしょうね。うちの主人も、今年は広場へ行きたいと言っているのよ」


「そうなのですね。楽しみですね」


「ええ。でも、人が多いところでは、荷物を持つ手にも気をつけないとね」


 女性は笑いながら包みを受け取り、店を出ていった。


 その後も客足は途切れなかったが、注文が重なったときにはマルタが会計を手伝い、シアが包装を担当することで、大きな混乱なく対応できた。


 忙しい時間が続く中、シアはふと、昨日レオンハルトと話したことを思い出した。


 北方の道路では、安全確認が済むまで重量荷車の通行制限を解除できない。


 それは、商会から聞いた内容とも一致していた。


 自分たちにとっては材料が届かず困る状況でも、道を利用する人々の安全を考えれば、簡単に制限を緩めるわけにはいかないのだろう。


 シアは包装用の紐を結びながら、店の外へ目を向けた。


 広場へ向かう人々の間を、小さな荷車がゆっくりと通っていく。


 通行人たちは道を譲り、荷車を引く男性も周囲を確かめながら進んでいた。


 街の暮らしは、多くの人の判断と協力によって成り立っている。


 そのことを、最近は以前より強く感じるようになっていた。


     ◇


 午前の忙しさが落ち着いた頃、《麦穂亭》の扉が開き、一人の女性が入ってきた。


 落ち着いた色の外套を着たその女性には、シアも見覚えがあった。


 《銀鹿亭》で、黒麦パンについて話をした相手だった。


「こんにちは。《麦穂亭》の皆さん」


 女性が挨拶すると、シアは少し驚きながらも丁寧に頭を下げた。


「こんにちは。先日はお時間をいただき、ありがとうございました」


「こちらこそ、わざわざ知らせを届けてくださって助かりました。今日は宿の用事で近くまで来たので、少し寄らせていただいたんです」


 女性はそう言って、マルタの姿を探すように店内を見回した。


 シアが厨房へ声をかけると、マルタはすぐに出てきた。


「いらっしゃいませ。《銀鹿亭》の方ですね」


「はい。先日はご丁寧にありがとうございました。黒麦パンの件で、少しお話ししたいことがありまして」


 マルタは頷き、会計台の脇にある、人の通行を妨げない場所へ女性を案内した。


「ちょうど、こちらからもお返事を届けようとしていたところなんですよ。今朝、改めて状況を確認したところです」


「そうでしたか。それなら、ちょうどよかったです」


 女性は安心したように微笑んだ。


 シアは二人の邪魔にならない位置で待ちながら、ほかの客が入ってきたときにも対応できるよう、会計台の様子を確かめていた。


 マルタは用意していた書面を取り出し、内容を説明した。


「まず、黒麦粉については、まだ入荷日が決まっていません。注文そのものが取り消されたわけではありませんが、到着がさらに遅れた場合、すでにお受けしている黒麦パンの注文にも影響が出る可能性があります」


 女性は真剣な表情で頷いた。


「やはり、そうなのですね」


「はい。こちらとしても、できる限り対応したいとは思っています。ただ、今の段階で必ず用意できるとお約束するのは、かえってご迷惑になると思いまして」


 マルタは落ち着いた声で続けた。


「そこで、もし宿の方でご都合が合うようでしたら、丸パンなど、現在作っている別の種類についてもご相談を受けられます。ただし、こちらも仕込み量には限りがありますので、必要な数と日付を伺ってから、対応できるか確認する形になります」


 女性は書面を受け取り、しばらく内容を読んでいた。


 その表情には、残念そうな色があった。


 黒麦パンを予定どおり用意できることが、宿にとって最も望ましいのだろう。


 けれど、女性はすぐに顔を上げ、丁寧に礼を述べた。


「ありがとうございます。実は、こちらでも別のパンを使うことを考え始めていたんです。ただ、どの程度お願いできるのか分からなかったので、まだ具体的には決めていませんでした」


 マルタは頷いた。


「それなら、必要な数を整理してから相談していただければと思います」


「はい。宿の厨房とも確認してみます。黒麦パンを使う予定だった食事を、すべてそのまま別のパンへ変えられるわけではありませんので」


 女性はそう言いながら、書面を丁寧に折った。


 シアはその言葉を聞き、胸の奥で小さく頷いた。


 黒麦パンには、黒麦パンを使う理由がある。


 別のパンを用意できるからといって、簡単に置き換えられるとは限らない。


 だからこそ、相手が選べるようにしておくことが大切なのだろう。


 マルタは女性へ確認した。


「もし丸パンなどをご希望でしたら、希望する日付と数量、それから受け取りの時間をお知らせください。そのうえで、オットーと仕込みを確認してお返事します」


「承知しました。今日はまだ注文を確定せず、宿へ戻って相談してから改めてご連絡します」


「はい。それでお願いします」


 二人はそう話し、互いに頭を下げた。


 話が一段落したところで、女性はシアへ目を向けた。


「そういえば、先日知らせを届けてくださったのは、あなたでしたね」


「はい。シアと申します」


「シアさん。あの日、分からないことを無理に答えず、きちんと確認してくださったでしょう。宿の方でも、その対応はありがたかったと話していたんですよ」


 突然そう言われ、シアは少し驚いた。


「……ありがとうございます。ですが、私だけでは判断できませんでしたので」


「ええ。だからこそ、安心できたんです」


 女性は穏やかに微笑んだ。


「こちらも食事を用意する仕事をしていますから、できるかどうか分からないことを、その場で約束されると困ってしまうことがあります。確認してから返事をすると言っていただけたので、私たちも落ち着いて考えられました」


 シアは思わず、手元の指を軽く握り合わせた。


 昨日、宿で質問を受けたとき、自分は十分な返事ができなかったのではないかと少し気にしていた。


 けれど、相手はそう受け取っていなかった。


 分からないことを分からないと伝えることも、信頼につながる場合があるのだ。


「……そう言っていただけて、嬉しいです。これからも、できる限り正確にお伝えできるよう努めます」


 シアが答えると、女性は優しく頷いた。


「こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」


 それから女性は丸パンを二つ購入し、宿へ戻っていった。


 扉の鈴が鳴り、店内へ冷たい風が一瞬だけ流れ込む。


 シアはその後ろ姿を見送ったあと、静かに息を吐いた。


 緊張していた肩の力が、少しずつ抜けていく。


     ◇


 昼食の時間になると、マルタは《銀鹿亭》の女性との会話をオットーへ伝えた。


 厨房の食卓には温かな野菜のスープと丸パンが並び、窯の熱が残る室内には、外の冷たさを忘れさせるような穏やかな空気が漂っている。


 オットーは説明を最後まで聞き、納得したように頷いた。


「なるほど。宿の方でも、代わりのパンを使うことを考えているんだな」


「そうらしいよ。ただ、今のところ追加の注文は決まっていない。向こうで必要な数と日付を整理してから、改めて相談するそうだ」


「それなら、こちらも今すぐ仕込みを変える必要はないな。連絡が来たときに、ほかの注文と合わせて考えよう」


 オットーはそう言いながら、スープを一口飲んだ。


 シアは二人の会話を聞き、少し考えてから口を開いた。


「マルタさん、オットーさん。先ほど《銀鹿亭》の方から、分からないことを確認してから答えたのがありがたかった、と言っていただきました」


 マルタは顔を上げた。


「そうだったのかい。それはよかったね」


「はい。私は、すぐにお答えできなかったことを少し気にしていたのですが……」


 シアはそこで言葉を選んだ。


「正確にお伝えするために確認することも、大切なのだと分かりました」


 オットーは静かに頷いた。


「そうだな。パンを焼くときだって同じだ。生地の状態を確かめずに、いつもと同じ時間だけ待てばいいというものじゃない。分からないことがあれば、見て、触って、必要なら考え直す」


 その言葉に、シアは思わず微笑んだ。


「今朝、秋灯草の土を確かめたときにも、少し似たことを考えていました」


「ほう。花の世話も同じか」


「はい。昨日水を与えましたので、今日は土の様子を確かめるだけにしたのです。毎日同じ量を与えるのではなく、必要なときに世話をすることが大切だと、本で読みました」


 オットーは感心したように頷いた。


「なるほどな。ちゃんと覚えているんだな」


 マルタも笑みを浮かべた。


「本を返しても、読んだことは残るものね」


「はい。図書館で教えていただいたことも、これから大切にしたいと思っています」


 シアはそう答えた。


 図書館の返却期限を過ぎてしまったことは、反省すべき失敗だった。


 けれど、実際に返却し、次から気をつける方法を考えたことで、今ではその出来事も自分の経験の一つになっている。


 失敗したからといって、そこで終わりではない。


 その後どうするかを考えることができる。


 そんな当たり前のことを、シアはこの街で少しずつ学んでいた。


 食事を終える頃、マルタはふと思い出したように言った。


「そういえば、シア。冬の市へ行く日のことだけれど、ミレイユさんとはもう時間を決めたのかい?」


 シアは少し目を瞬かせた。


「いえ。中央広場の噴水前でお会いすることは決めておりますが、詳しい時間については、まだ相談しているところです」


「そうだったのかい。お互いの休みが合っているなら、早めに決めておいた方が安心だね」


「はい。ミレイユさんは半日のお休みをいただけるそうですので、勤務の終わる時間に合わせて、無理のない予定にしたいと思っています」


 マルタは頷いた。


「それがいいよ。冬の市は人も多いだろうし、待ち合わせるなら時間をはっきりさせておいた方がいい」


 シアはその言葉を聞き、改めて考えた。


 ミレイユとは、冬の市へ行く約束をしている。


 自分の休みも、マルタに確認してもらっている。


 けれど、ミレイユの半日休暇が具体的にいつからなのか、まだ聞いていなかった。


(楽しみにするだけでなく、ちゃんと相談しておかなければいけませんね)


 シアは心の中でそう考え、次に会ったときには時間を確認しようと決めた。


     ◇


 午後になると、店内は午前中より落ち着いた雰囲気になった。


 シアは会計台の奥で包装用の紙と紐を整理し、今日使った分を帳面へ書き留めていた。


 冬の市の準備が進むにつれて、まとめ買いをする客が増えている。


 そのため、包装用の紙や紐も普段より多く使っているが、現在の在庫はまだ十分に残っていた。


 ただし、今後さらに客足が増えれば、必要な量も変わってくる。


 シアは数を確かめながら、次の仕入れを考える際に参考になるよう、使用量を丁寧に記録した。


 その途中で、店の扉が開いた。


「こんにちは、シア」


 聞き慣れた声に顔を上げると、そこにはミレイユが立っていた。


 今日は騎士の制服ではなく、落ち着いた色の外套を羽織っている。腰にはいつもの剣を下げていたが、表情は仕事中に見せるものより少し柔らかかった。


「ミレイユさん。こんにちは」


 シアは嬉しくなり、自然と笑みを浮かべた。


「今日はお仕事の途中ですか?」


「ええ。巡回の交代まで少し時間があったから、パンを買いに来たの。もちろん、仕事に戻る時間には間に合うわ」


 ミレイユはそう言って、店内に並んだパンを眺めた。


「丸パンを二つお願いできるかしら」


「はい。ありがとうございます」


 シアは丸パンを二つ取り、包み紙の上へ並べた。


 その間、ミレイユは入口近くの台へ目を向け、少し感心したような表情を浮かべた。


「ここ、前より歩きやすくなったわね」


「はい。マルタさんと相談して、台の位置を少し奥へ移しました」


「いいと思うわ。冬の市が始まったら、普段より荷物を持った人も増えるでしょうし」


 ミレイユはそう言って、シアがパンを包む様子を眺めた。


 彼女の手つきは以前より落ち着いている。


 包装用の紙を無駄に使わず、形を整えてから紐を結ぶ動作にも迷いが少なかった。


 ミレイユはその変化を嬉しく思いながら、ふと口を開いた。


「そうだ、シア。冬の市へ行く日のことで、少し相談したかったの」


 シアは顔を上げた。


「私も、詳しい時間をお伺いしたいと思っていたところです」


「あら、ちょうどよかったわね」


 ミレイユは微笑み、会計台の前で少し姿勢を整えた。


「半日の休暇だけれど、午後に取れることになったの。午前中は勤務があるから、広場へ行けるのは昼を過ぎてからになるわ」


 シアは頷いた。


「そうなのですね。それでしたら、待ち合わせは午後にした方がよろしいでしょうか」


「ええ。午前の仕事を終えてから着替えて向かうことになるから、少し余裕を持たせたいの」


 ミレイユは考えながら続けた。


「午後の二つ目の鐘が鳴る頃なら、落ち着いて行けると思うわ。シアはどうかしら?」


 シアは頭の中で、その日の予定を確かめた。


 自分は通常の休みをもらっている。


 朝から店の仕事をする必要はなく、身支度を整えてから広場へ向かうことができる。


 図書館の本もすでに返却しているため、ほかの用事を急いで済ませる必要はなかった。


「はい。その時間でしたら、私も余裕を持って伺えます」


「よかった。それなら、午後の二つ目の鐘が鳴る頃、中央広場の噴水前で待ち合わせましょう」


「はい。よろしくお願いいたします」


 シアが微笑むと、ミレイユも嬉しそうに笑った。


 これで、待ち合わせの場所だけでなく、時間も決まった。


 まだ冬の市が始まる前だというのに、シアの胸には少しずつ楽しみな気持ちが広がっていく。


 ミレイユは包みを受け取りながら、ふと思い出したように尋ねた。


「そういえば、図書館の本はもう返したのよね?」


「はい。先日、無事にお返ししました。ですので、当日は冬の市を中心に見て回れます」


「それなら、布のお店をゆっくり見られそうね。シアは縫い物もするでしょう?」


「はい。布や糸を見るのは好きです。普段使うものとは違う品もあるかもしれませんので、楽しみにしています」


 シアは少し照れながら答えた。


 ミレイユはその表情を見て、柔らかく微笑んだ。


「私も楽しみよ。仕事で広場を歩いているときは、屋台の配置や通行の様子ばかり気になってしまうけれど、休みの日なら、きっと違うものが見えるでしょうから」


「はい。私も、ミレイユさんと一緒に歩けることが嬉しいです」


 その言葉に、ミレイユは少しだけ目を細めた。


「ありがとう、シア。私も同じ気持ちよ」


 二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。


 店の外では荷車が通り過ぎ、車輪の音が少しずつ遠ざかっていく。


 ミレイユは時計代わりの鐘の音を気にするように窓の外へ目を向け、それから名残惜しそうに笑った。


「そろそろ戻らないと。今日は少ししか話せなかったけれど、待ち合わせの時間を決められてよかったわ」


「はい。お忙しいところ、ありがとうございました」


「それじゃあ、またね。シアも仕事を頑張って」


「ありがとうございます。ミレイユさんも、お仕事お気をつけてください」


 シアは丁寧に頭を下げ、ミレイユを見送った。


 扉の鈴が鳴り、外の冷たい空気が一瞬だけ店内へ入り込む。


 そのあとも、シアの胸には温かな余韻が残っていた。


     ◇


 ミレイユが店を出てからしばらくすると、マルタが会計台の奥へやってきた。


「今のはミレイユさんだったね。冬の市の相談かい?」


「はい。待ち合わせの時間が決まりました」


 シアが答えると、マルタは嬉しそうに頷いた。


「それはよかったね。いつにしたんだい?」


「お休みの日の午後、二つ目の鐘が鳴る頃に、中央広場の噴水前でお会いすることになりました。ミレイユさんは午前中にお仕事があるそうなので、そのあとで合流する予定です」


「なるほど。半日休みなら、その方が無理がなさそうだね」


 マルタはそう言って、少し考えた。


「冬の市は人が多いだろうから、待ち合わせの場所も分かりやすくていいと思うよ。ただ、当日は寒くなるかもしれないから、しっかり着込んで行くんだよ」


「はい。手袋も用意しておきます」


「それと、無理に全部の屋台を見ようとしなくていいからね。疲れたら休んで、温かいものでも飲んでおいで」


 シアはその言葉に微笑んだ。


「ありがとうございます。ミレイユさんとも相談しながら、ゆっくり楽しみたいと思っています」


 マルタは満足そうに頷いた。


 それから、少しだけ声を柔らかくした。


「シアがこうして休みの日の予定を楽しみにしているのを見ると、私も嬉しいよ」


 その言葉に、シアは少し驚いた。


「……そうでしょうか」


「そうだよ。ここへ来たばかりの頃は、休みの日も何か仕事をしなければいけないと思っているようだったからね」


 シアは思わず、視線を落とした。


 確かに、最初の頃はそうだった。


 仕事をしていなければ、自分がここにいてよい理由がなくなるような気がしていた。


 休みの日に何をしたいかと尋ねられても、すぐには答えられなかった。


 けれど今は、違う。


 図書館へ行きたい。


 花を育てたい。


 友人と冬の市を歩きたい。


 そんな小さな希望を、少しずつ口にできるようになっていた。


「……マルタさんのおかげです」


 シアが静かに言うと、マルタは首を横に振った。


「私たちは、ここで働く場所を用意しただけだよ。外へ出て、人と話して、友達を作ったのはシア自身だろう?」


 シアはすぐには答えられなかった。


 胸の奥に、温かなものが広がっていく。


 マルタは優しく微笑んだ。


「だから、休みの日くらい、仕事のことを気にせず楽しんでおいで」


「……はい。ありがとうございます」


 シアは丁寧に頭を下げた。


 その声は少し震えていたが、悲しいからではなかった。


 自分がここで暮らしていることを、誰かが自然に受け入れてくれている。


 その安心感が、今の彼女には何より大切だった。


     ◇


 夕方、中央広場では冬の市の準備が続いていた。


 屋台の骨組みには布が掛けられ、木製の看板を取り付ける職人たちの姿が見える。通りの端には荷物を置く場所が設けられ、作業を終えた人々が道具を片づけていた。


 その広場の一角で、レオンハルトは担当者から報告を受けていた。


 昨日までに確認された石畳の継ぎ目については、通行の妨げになっていた箇所を調べ、必要な補修を進めているという。作業中は通行人が近づきすぎないよう、簡単な囲いと案内を設けていた。


「荷車の通行については、今のところ大きな問題はありません。ただ、冬の市が始まれば、人の流れが変わる可能性があります」


 担当者の説明に、レオンハルトは頷いた。


「分かりました。屋台の配置が整った段階で、もう一度通行経路を確認してください。特に、荷物を運ぶ人と買い物客が同じ場所へ集中しないようにしたいですね」


「承知しました」


 担当者は書類を閉じ、次の確認へ向かった。


 レオンハルトは広場を見渡した。


 冬の市は、街の人々にとって楽しみな催しだ。


 商人たちは品物を売る機会を得て、住民たちは普段とは違う買い物を楽しむ。遠方から訪れる人々もいるため、街全体が普段より賑やかになる。


 その一方で、人が増えれば危険も増える。


 荷車の通行、屋台の設置、火を使う店の配置、混雑する場所の確認。


 楽しみな催しを安全に開くためには、目立たないところで多くの準備が必要だった。


 レオンハルトは書類を持ち直し、広場の中央にある噴水へ目を向けた。


 まだ冬の市は始まっていないが、その周囲には作業を見物する人々が集まっている。


 以前、《麦穂亭》でシアと話したことを思い出した。


 彼女は友人と冬の市へ行く予定だと言っていた。


 布の手仕事や木工品を見るのを楽しみにしている様子だった。


(……あの方も、ここを歩くことになるのでしょうね)


 レオンハルトは静かに考えた。


 シアがどの友人と来るのか、詳しいことは知らない。


 けれど、彼女が楽しみにしている催しを、安全に迎えられるようにしたいと思った。


 もちろん、それはシア一人のためではない。


 街で暮らす人々も、遠方から訪れる人々も、誰もが安心して冬の市を楽しめることが大切だった。


 レオンハルトは視線を戻し、次の確認場所へ歩き始めた。


 仕事はまだ残っている。


 それでも、広場に並び始めた屋台を見ていると、冬の市が近づいていることを実感できた。


     ◇


 同じ頃、《麦穂亭》では、夕方の営業が終わりに近づいていた。


 シアは会計台の整理を進め、売れ残ったパンの数を確認していた。


 午前中は忙しかったものの、午後は落ち着いた時間が多く、今日の注文も大きな問題なく対応できている。


 マルタは帳面を確認しながら、ふと顔を上げた。


「シア、今日は《銀鹿亭》の方が直接来てくれて助かったね」


「はい。こちらからお返事を届ける前に、お話しすることができました」


「そうだね。これで、向こうの希望を待ってから次の対応を考えられる」


 マルタはそう言って、帳面の一箇所へ印をつけた。


「ただ、黒麦粉の問題そのものはまだ解決していないからね。商会から新しい連絡が来るまでは、今の対応を続けるよ」


「はい。承知しました」


 シアは頷いた。


 今日、《銀鹿亭》との話は一歩進んだ。


 けれど、黒麦粉が届いたわけではない。


 代わりのパンについても、まだ注文は確定していない。


 分かっていることと、これから決まることを分けて考える必要がある。


 そのことを、シアは以前より自然に理解できるようになっていた。


 作業を終えると、オットーが厨房から顔を出した。


「シア、今日はもう上がっていいぞ。残りは俺たちで片づける」


「ありがとうございます。何かお手伝いできることはございませんか?」


「大丈夫だ。明日も仕事があるんだから、ちゃんと休んでおけ」


 オットーはそう言って笑った。


 シアも微笑み、丁寧に頭を下げた。


「それでは、お先に失礼いたします」


 厨房を出る前に、彼女はふと立ち止まった。


 マルタとオットーが、いつものように仕事を続けている。


 その光景は、今では見慣れたものになっていた。


 けれど、見慣れているからといって、大切さが薄れるわけではない。


 むしろ、毎日同じ場所へ戻ってこられることが、どれほどありがたいことなのか、シアは少しずつ理解するようになっていた。


     ◇


 夜、自室へ戻ったシアは、机の前に座って帳面を開いた。


 窓の外では、冬の風が建物の壁を静かに撫でている。


 中央広場の方角には、まだいくつかの灯りが残っていた。


 シアはペンを取り、今日の出来事を書き始めた。


 《銀鹿亭》の女性が店を訪れ、黒麦パンについて改めて話をしたこと。


 黒麦粉の入荷日はまだ決まっておらず、既存の注文についても状況によっては調整が必要になる可能性があること。


 ほかの種類のパンについては、宿側で希望する数量や日付を整理してから、改めて相談することになったこと。


 そして、自分が分からないことを確認してから答えたことについて、感謝の言葉をもらったこと。


 そこまで書き終えると、シアは一度ペンを置いた。


 今日、宿の女性から言われた言葉が、まだ胸の奥に残っている。


『だからこそ、安心できたんです』


 シアはその言葉を思い返し、静かに息を吐いた。


(……すぐに答えられないことは、必ずしも悪いことではないのですね)


 伯爵家にいた頃、彼女は何かを尋ねられるたびに、正しい答えをすぐに返さなければならないと思っていた。


 間違えれば叱られる。


 迷えば、役に立たないと思われる。


 そんな恐れが、いつも胸の奥にあった。


 けれど、今は少し違う。


 分からないことは確認する。


 判断できないことは相談する。


 相手の希望を聞いてから、できることを考える。


 その一つ一つが、仕事の中で大切な役割を持っている。


 シアはペンを持ち直し、帳面の次の行へ目を向けた。


 そこには、もう一つ書き留めたいことがあった。


『冬の市――ミレイユさんと、午後の二つ目の鐘が鳴る頃、中央広場の噴水前で待ち合わせ』


 シアは文字を丁寧に書き終え、少しだけ微笑んだ。


 約束が、以前よりも具体的になった。


 ただ楽しみにしているだけではなく、実際に会う時間と場所が決まっている。


 そのことが、彼女にはとても嬉しかった。


 シアは椅子から立ち上がり、衣装箱を開いた。


 中には、普段着ている衣服と、寒い日に使う手袋や靴下が丁寧にしまわれている。


 冬の市へ行く日は、長く外を歩くことになるかもしれない。


 だから、暖かく動きやすい服装を選ぶ必要がある。


 シアは手袋を取り出し、指先に傷みがないかを確かめた。


 以前、自分で繕った部分も問題なく、まだ十分に使えそうだった。


 それから、修理した革靴へ目を向ける。


 踵の補強部分は少し硬いものの、今のところ歩くことに支障はない。


 冬の市へ行く日までに、もう少し足に馴染んでくれるだろう。


 シアは手袋を衣装箱へ戻し、蓋を閉じた。


 そのとき、胸元の銀のペンダントが小さく揺れた。


 彼女は指先でそっと触れ、しばらくその感触を確かめた。


 母が残してくれた、大切な品。


 この街へ来たばかりの頃は、ペンダントに触れるたびに、失ったものばかりを思い出していた。


 家族に必要とされなかったこと。


 婚約者に裏切られたこと。


 自分の居場所が、突然なくなってしまったように感じたこと。


 その記憶が消えたわけではない。


 今でも、ふとした瞬間に胸が痛むことはある。


 けれど、最近はペンダントに触れながら、今の暮らしについて考えることも増えていた。


 《麦穂亭》で働くこと。


 マルタとオットーと食事をすること。


 ミレイユと友人として言葉を交わすこと。


 そして、レオンハルトが自分の仕事を見て、穏やかに声をかけてくれたこと。


 どれも、以前の彼女には想像できなかった日々だった。


(……お母様。私は、今の暮らしを大切にしたいと思っています)


 シアは静かに考えた。


 過去を忘れたいわけではない。


 母との思い出まで消してしまいたいわけでもない。


 けれど、過去に縛られたまま、これからの人生を決めたくはなかった。


 この街で出会った人々との時間を、自分の意思で大切にしていきたい。


 その思いは、以前よりもはっきりした形になっていた。


 シアはペンダントから手を離し、窓辺の秋灯草へ目を向けた。


 小さな黄色い花は、冬の夜の静けさの中で、変わらず咲いている。


 その姿を眺めながら、彼女は少しだけ笑った。


 明日もまた、《麦穂亭》で仕事がある。


 黒麦粉の問題はまだ解決していないし、《銀鹿亭》から新しい相談が届く可能性もある。


 けれど、それらは一人で抱え込まなければならない問題ではない。


 マルタとオットーと相談し、必要なことを確かめながら、少しずつ対応していけばいい。


 そして、休みの日には、ミレイユと冬の市を楽しむ。


 仕事も、休みも、友人との時間も。


 そのどれか一つだけではなく、すべてを大切にしてよいのだと、今は思えるようになっていた。


 シアは帳面を閉じ、机の灯りを消した。


 寝台へ入り、厚い毛布を肩まで掛けると、冷えていた身体が少しずつ温まっていく。


 窓の外では、冬の風が静かに吹いていた。


 遠くの中央広場では、明日の準備を終えた人々が、少しずつ家路についているのだろう。


 冬の市が始まる日も、もう遠くない。


 その日を楽しみに思いながら、シアはゆっくりと目を閉じた。


 誰かに与えられた役割を果たすためだけではなく、自分が選んだ日々を大切にするために。


 明日もまた、この街で生きていこう。


 そんな穏やかな思いに包まれながら、シアは静かに眠りへ落ちていった。


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