第75話 冬の市を前にした最後の準備と、私が選んだ休日の過ごし方
朝の光が窓辺へ差し込む頃、シアは衣装箱の前に膝をついていた。
《麦穂亭》の二階にある小さな部屋には、昨夜のうちに畳んでおいた衣服が並べられている。普段の仕事着とは別に、休日に着るための落ち着いた色の服を取り出し、袖口や裾に傷みがないかを確かめているところだった。
冬の市へ出かける日が、いよいよ近づいていた。
ミレイユとは、午後の二つ目の鐘が鳴る頃、中央広場の噴水前で待ち合わせる約束をしている。彼女は午前中に騎士としての勤務があるため、その仕事を終えてから合流する予定だった。
シアは衣服を広げ、窓から差し込む光の下で縫い目を確かめた。
袖口の内側には、以前自分で繕った小さな箇所がある。糸が緩んでいる様子はなく、布地もまだ十分に丈夫そうだった。
(……この服なら、長く歩いても動きやすそうですね)
そう考えながら、シアは衣服を丁寧に畳み直した。
冬の市には、布小物や木工品、保存食など、さまざまな品物が並ぶと聞いている。ミレイユと一緒に見て回ることを想像するだけで、胸の奥が少し弾んだ。
けれど、楽しみだからといって、必要以上に買い物をするつもりはなかった。
今の自分には、《麦穂亭》で働いて得た収入がある。
住み込みで働いているため、食事や寝る場所に困ることはないが、だからこそ、お金の使い方は自分で考えていきたい。
シアは机の引き出しから小さな革袋を取り出した。
中に入っている銅貨を数え、帳面に記録してある手持ちの金額と照らし合わせる。以前から必要なものを買うたびに書き留めていたため、何にどれだけ使ったのかは確認できた。
靴の修理には銅貨四十八枚を使った。
あれは決して小さな出費ではなかったが、毎日歩くために必要なものだった。
秋灯草の鉢を買ったときも、花を眺める時間が自分にとって大切なものになるとは、まだ想像していなかった。
シアは窓辺へ目を向けた。
小さな黄色い花は、今朝も静かに咲いている。
(……必要なものと、欲しいもの。その両方を考えながら選べばよいのですね)
伯爵家にいた頃、自分のために何かを買う機会はほとんどなかった。
衣服も装飾品も、家の体面や父の判断によって用意されるものだった。欲しいかどうかを尋ねられることは少なく、たとえ尋ねられても、自分の希望を口にすることにはためらいがあった。
今は違う。
小さな布小物を一つ買うかどうかも、自分で考えて決められる。
何も買わず、屋台を眺めて帰ってきてもよい。
その自由が、シアには何より嬉しかった。
彼女は革袋をしまい、今日の仕事に必要な身支度を整えた。
冬の市を楽しむのは、休みの日になってからだ。
今日はまだ、《麦穂亭》で果たすべき仕事がある。
◇
厨房へ下りると、オットーが大きな木鉢の前で生地をまとめていた。
窯の中では薪が赤く燃え、石壁に蓄えられた熱が厨房を温めている。外の冷たい空気とは違い、ここには小麦粉と焼きたてのパンが混ざった、慣れ親しんだ香りが満ちていた。
「おはようございます、オットーさん」
「おう、おはよう。今日は少し早いな」
「はい。目が覚めましたので、先に身支度を整えておりました」
シアが答えると、オットーは生地から顔を上げた。
「冬の市へ行く準備でもしていたのか?」
思いがけず言い当てられ、シアは少し頬を赤くした。
「……はい。着ていく服に傷みがないか、確かめておりました」
オットーは一瞬目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「そうかそうか。そりゃあ、楽しみだろうな」
「はい。ミレイユさんと一緒に出かけるのが、とても楽しみです」
以前なら、そんな気持ちを口にすることさえためらっていたかもしれない。
けれど、今は自然に答えられた。
オットーは満足そうに頷き、作業台の端に置かれた布を指さした。
「それなら、今日の仕事をしっかり終わらせて、休みの日は思いきり楽しんでこい。まずはこっちの準備を頼むぞ」
「はい。もちろんです」
シアは手を洗い、清潔な布を広げた。
今日の仕込みでは、丸パンと胡桃パンを中心に用意する予定だった。黒麦粉の入荷日は依然として決まっていないため、黒麦パンの新規予約と店頭販売は止めたままになっている。
シアは注文表を確かめ、すでに受けている注文分と店頭販売分を分けて準備した。
作業を進めていると、マルタが厨房へ入ってきた。
「おはよう、二人とも。今日も広場の方は賑やかだよ」
「おはようございます、マルタさん」
シアが挨拶すると、マルタは外套を脱ぎながら続けた。
「屋台の準備も、だいぶ進んできたみたいだね。今朝は看板を運んでいる人たちを見かけたよ」
「そうなのですね」
「ただ、まだ作業中の場所もあるから、通り道には気をつけないといけないね」
その言葉に、シアは数日前に見かけた荷車のことを思い出した。
石畳の継ぎ目に車輪が入り込み、動けなくなっていた荷車。
レオンハルトが周囲の安全を確保するよう指示し、その後、担当者たちが石畳を確認していた。
冬の市が近づくにつれて、街の賑わいは増している。
けれど、その裏側では、多くの人が安全に気を配りながら準備を進めているのだ。
「私も、通行の案内をよく確認するようにいたします」
シアが答えると、マルタは頷いた。
「うん。それがいいね。さて、今日は少し忙しくなりそうだから、朝のうちにできることを進めておこうか」
シアは返事をし、作業台へ向き直った。
◇
開店すると、《麦穂亭》には朝食用のパンを求める客が次々と訪れた。
広場で働く職人たちのほか、冬の市へ出す品物を準備しているらしい商人も立ち寄っていく。厚手の外套を着た男性たちは、冷えた手をこすり合わせながら店内へ入り、焼きたてのパンの香りに表情を和らげていた。
「丸パンを六つと、胡桃パンを三つ頼めるかい?」
「ありがとうございます。丸パンが六つで銅貨三十枚、胡桃パンが三つで銅貨十八枚ですので、合わせて銅貨四十八枚になります」
シアが注文を確認すると、男性は革袋から硬貨を取り出した。
会計を済ませ、包みを渡すと、男性は満足そうに頷いた。
「助かるよ。今日は屋台の飾りつけを終わらせる予定なんだ。昼までに片づけたい仕事が山ほどあってね」
「お忙しいのですね。どうぞ、お怪我のないようお気をつけください」
「ありがとう。そちらも冬の市が始まったら忙しくなるだろうから、頑張ってくれよ」
男性はそう言って笑い、店を出ていった。
その後も客足は続いたが、シアは落ち着いて対応した。
注文を聞き、金額を確かめ、パンを包む。
会計台の前に客が重なったときには、マルタが隣へ立ち、二人で役割を分けた。
以前なら、忙しい時間になると、間違えないことばかり考えて身体が強張っていた。
今でも緊張しないわけではない。
けれど、何を優先すればよいのか、少しずつ判断できるようになっていた。
目の前の客へ丁寧に対応すること。
次の客を待たせすぎないよう、必要なときにはマルタへ声をかけること。
そして、急いでいるからといって、金額や注文の確認を省かないこと。
その一つ一つが、今の彼女にとって大切な仕事だった。
◇
午前の忙しさが落ち着いた頃、店の扉が開き、見覚えのある男性が入ってきた。
《フォルン商会》のベルトだった。
「こんにちは、マルタさん。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
マルタは顔を上げ、すぐに頷いた。
「もちろんだよ。黒麦粉の件かい?」
「はい。ただ、残念ながら、到着日が決まったという知らせではありません」
ベルトはそう前置きしてから、持参した書類を取り出した。
シアは会計台の内側で、二人の会話に耳を傾けた。
「北方の輸送担当から、改めて連絡がありました。道路の補修は予定されている箇所から順に進んでいますが、重量荷車の通行制限は引き続き継続されています」
マルタは静かに頷いた。
「そこは前に聞いた話と変わらないんだね」
「はい。ただ、今回の連絡では、商会側でも荷物の扱いについて確認を進めていることが分かりました」
ベルトは書類の一箇所を指さした。
「輸送を待っている品物について、傷みやすいものと、保管を続けられるものを分けて確認しているそうです。黒麦粉についても、保管状態を確かめながら、今後の輸送に備えているとのことでした」
シアはその説明を聞き、少しだけ安堵した。
黒麦粉が届く日付は分からない。
けれど、商会側でも何もせずに待っているわけではないのだ。
マルタは慎重に尋ねた。
「それなら、こちらが頼んでいる分も、今のところ注文は維持されているんだね?」
「はい。注文は維持されています。ただし、輸送が再開できる日付は未定ですので、到着をお約束することはできません」
「分かったよ。こちらも、今の対応を続けるしかなさそうだね」
ベルトは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご不便をおかけします。新しい情報が入りましたら、またお知らせします」
マルタは首を横に振った。
「知らせてくれるだけでも助かるよ。無理に運んで事故になるより、確かな状況を教えてもらった方がいいからね」
その言葉に、ベルトは少し表情を和らげた。
シアも静かに頷いた。
黒麦粉が届かないことは、店にとって困った状況だ。
けれど、道路を利用する人々の安全や、荷物を運ぶ人々の負担を考えれば、無理に輸送を進めるわけにはいかない。
レオンハルトが以前話していたことを思い出しながら、シアはその説明を受け止めた。
ベルトが帰ったあと、マルタは書類を帳面の間へ挟んだ。
「さて、少しずつ状況は分かってきたけれど、まだ安心できる段階じゃないね」
「はい。入荷日が決まるまでは、今の対応を続ける必要がありますね」
シアが答えると、マルタは頷いた。
「そうだね。それから、《銀鹿亭》の方から追加の相談が来るかもしれないから、そのときは改めて仕込みを確認しよう」
「承知しました」
シアはそう答え、帳面へ今日の連絡内容を記録した。
新しい情報があったからといって、すべてが解決したわけではない。
けれど、何が分かっていて、何がまだ分からないのかを整理することはできる。
その大切さを、彼女は以前より深く理解できるようになっていた。
◇
昼食の時間になると、厨房には温かなスープの香りが広がった。
マルタは器を並べ、オットーは焼き上がった丸パンの一部を食卓へ運んだ。
シアも手を洗い、二人と一緒に席へ着いた。
食事を始めると、マルタは黒麦粉についてベルトから聞いた内容をオットーへ伝えた。
オットーは最後まで聞き、静かに頷いた。
「保管状態を確認しているなら、少しは安心できるな。ただ、届くまでは油断できん」
「そうだね。こちらも今の材料を大切に使っていこう」
マルタはそう答え、スープを一口飲んだ。
シアは二人の会話を聞きながら、ふと昨日の《銀鹿亭》の女性のことを思い出した。
宿では、黒麦パンの代わりにほかの種類のパンを使うことも検討しているという。
ただし、具体的な数量や日付はまだ決まっていない。
シアは少し考えてから、口を開いた。
「マルタさん。《銀鹿亭》の方から、まだ新しいご相談は届いていないのですよね?」
「そうだね。今のところは何も来ていないよ」
「承知しました。もしご連絡がありましたら、必要な数量や受け取りの日付を確認してから、仕込みを考える形ですね」
マルタは頷いた。
「うん。そのとおりだよ。先方にも都合があるから、急かさずに待とうと思っている」
オットーも同意するように頷いた。
「こちらも、注文が決まってからでないと、どの程度作れるか判断できんからな」
シアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
待つことも、仕事の一つなのだろう。
ただ何もせずに待つのではない。
必要な情報を整理し、準備できることを進めながら、相手の返事を待つ。
その考え方は、今の彼女にとって少し新鮮だった。
◇
午後になると、店内は午前中より落ち着いた時間になった。
シアは会計台の奥で、包装用の紙と紐の在庫を整理していた。
冬の市の準備が進むにつれて、まとめ買いをする客が増えているため、包装用品の使用量も少しずつ増えている。
昨日までの記録と今日の使用量を比べると、普段より多く使っていることが分かった。
ただし、今すぐ不足するほどではない。
シアは帳面に数字を書き留め、次の仕入れを考える際に参考になるよう整理した。
その途中で、マルタが近づいてきた。
「シア、何か気になることでもあるのかい?」
「はい。包装用の紙と紐の使用量が、冬の市の準備が始まってから少し増えております」
シアは帳面を見せながら説明した。
「まだ十分に残っておりますが、冬の市が始まると、さらにお客様が増える可能性がありますので、早めに確認しておいた方がよいかと思いまして」
マルタは帳面を覗き込み、少し考えた。
「なるほどね。確かに、今のうちに確認しておくのは悪くないね」
彼女は棚の中を見渡し、包装用品の残量を確かめた。
「ただ、今すぐ追加を頼むほどではなさそうだ。冬の市が始まる前に、もう一度数を確認しようか」
「はい。承知しました」
シアは頷き、帳面へその予定を書き加えた。
マルタは少し笑った。
「最近のシアは、こういうところによく気がつくようになったね」
その言葉に、シアは少し照れた。
「……ありがとうございます。以前、足りなくなってから慌てるより、早めに確認した方がよいと教えていただきましたので」
「ちゃんと覚えてくれているんだね」
マルタは満足そうに頷いた。
シアは胸の奥に温かなものを感じた。
自分が覚えたことを、実際の仕事で役立てられる。
そのことが、彼女には嬉しかった。
伯爵家にいた頃、仕事を覚えることは、失敗しないための義務のように感じていた。
けれど今は違う。
覚えたことを使い、少しずつできることが増えていく。
その変化を、前向きに受け止められるようになっていた。
◇
夕方が近づく頃、店の扉が開き、一人の女性が入ってきた。
厚手の外套を羽織り、手には小さな籠を持っている。
シアは顔を上げ、丁寧に挨拶した。
「いらっしゃいませ」
女性は店内を見回し、少し考えてから口を開いた。
「丸パンを三つと、胡桃パンを二つお願いできるかしら」
「ありがとうございます。丸パンが三つで銅貨十五枚、胡桃パンが二つで銅貨十二枚ですので、合わせて銅貨二十七枚になります」
シアが注文を確認すると、女性は頷いた。
包みを用意している間、女性は窓の外へ目を向けた。
「冬の市が近いせいか、街がずいぶん賑やかになってきたわね」
「はい。中央広場では、屋台の準備が進んでいるようです」
シアが答えると、女性は楽しそうに笑った。
「今年は娘と一緒に行く予定なの。あの子、布小物を見るのが好きでね」
その言葉に、シアは思わず微笑んだ。
「私も、友人と一緒に布小物のお店を見て回りたいと思っています」
「あら、そうなのね。それなら楽しみね」
女性は少し考えたあと、優しく続けた。
「でも、冬の市は人が多いから、無理に全部見ようとしない方がいいわよ。気になるお店をいくつか決めておくと、ゆっくり楽しめると思うわ」
シアはその助言をありがたく受け取った。
「ありがとうございます。友人とも相談しながら、無理のないように回りたいと思います」
女性は満足そうに頷き、パンの包みを受け取った。
その後ろ姿を見送りながら、シアは少し考えた。
冬の市には、たくさんの屋台が並ぶ。
けれど、すべてを見て回る必要はない。
ミレイユと一緒に歩き、気になるものを見つけたら立ち止まり、疲れたら休む。
それだけでも、十分に楽しい時間になるだろう。
(……私は、何かをたくさん手に入れたいわけではないのですね)
シアは心の中でそう考えた。
もちろん、気に入った品物があれば買ってみたい。
けれど、それ以上に、友人と一緒に過ごす時間を楽しみにしている。
そのことに気づくと、胸の奥が少し温かくなった。
◇
同じ頃、中央広場では、レオンハルトが冬の市の準備状況を確認していた。
屋台の骨組みはほとんど整い、布の屋根や看板を取り付ける作業が進んでいる。
通りの端には荷物を置く場所が設けられ、作業員たちは通行人の邪魔にならないよう、道具を片づけながら仕事を進めていた。
レオンハルトは担当者から報告を受け、広場の周囲へ目を向けた。
「石畳の補修箇所については、今日の確認で問題ありませんでした。ただし、冬の市の期間中も、荷車の通行には注意するよう作業員へ伝えています」
担当者が説明すると、レオンハルトは頷いた。
「分かりました。歩行者の通路についても、屋台の配置が整った段階でもう一度確認してください」
「承知しました」
担当者は書類を閉じ、次の確認へ向かった。
レオンハルトは広場を見渡した。
冬の市は、街の人々にとって楽しみな催しだ。
商人たちは品物を売る機会を得て、住民たちは普段とは違う買い物を楽しむ。
遠方から訪れる人々もいるため、街全体が普段より賑やかになる。
その一方で、人が増えれば、普段は問題にならない小さな段差や通路の狭さが危険につながることもある。
だからこそ、準備の段階でできる限り確認しておく必要があった。
レオンハルトは噴水の周囲へ目を向けた。
そこには、冬の市を楽しみにしているらしい人々が何人か立ち止まり、屋台の準備を眺めている。
以前、《麦穂亭》でシアと話したことを思い出した。
彼女は友人と冬の市へ行く予定だと言っていた。
布小物や手仕事の品を見るのを楽しみにしている様子だった。
(……あの方も、ここを歩くことになるのでしょうね)
レオンハルトは静かに考えた。
シアがどの友人と来るのか、詳しいことは知らない。
けれど、彼女が楽しみにしている催しを、安全に迎えられるようにしたいと思った。
もちろん、それはシア一人のためではない。
街で暮らす人々も、遠方から訪れる人々も、誰もが安心して冬の市を楽しめることが大切だった。
レオンハルトは書類を持ち直し、次の確認場所へ歩き始めた。
仕事はまだ残っている。
それでも、広場に並び始めた屋台を見ていると、冬の市が近づいていることを実感できた。
◇
夜、《麦穂亭》では、夕食の準備が整っていた。
マルタは温かなスープを器へよそい、オットーは焼き上がったパンの一部を食卓へ運んだ。
シアも手を洗い、二人と一緒に席へ着いた。
食事を始めると、マルタは今日の商会からの連絡について、改めて話した。
「黒麦粉の入荷日はまだ分からないけれど、保管状態を確認しているそうだから、少しは安心できるね」
オットーは頷いた。
「そうだな。ただ、届くまでは今の対応を続けるしかない」
「うん。《銀鹿亭》の方からも、まだ新しい相談は来ていないしね」
マルタはそう答え、スープを一口飲んだ。
シアは二人の会話を聞きながら、静かに頷いた。
黒麦粉の問題は、まだ解決していない。
けれど、今できることを考えながら対応している。
そのことが、少しずつ安心感につながっていた。
しばらくすると、マルタがシアへ目を向けた。
「そういえば、冬の市へ行く準備は進んでいるかい?」
シアは少し照れたように微笑んだ。
「はい。今朝、着ていく服を確認しました。手袋も用意してあります」
「それならよかったね。寒い日になるかもしれないから、しっかり着込んで行くんだよ」
「はい。ありがとうございます」
オットーも頷いた。
「靴の具合も問題ないんだろう?」
「はい。痛みはありません。長く歩くときには、無理をしないようにいたします」
「それなら安心だ」
オットーはそう言って笑った。
マルタは少し考えたあと、穏やかに続けた。
「シア、冬の市へ行く日は、ちゃんと休みを楽しんでおいで。仕事のことは私たちで何とかするからね」
その言葉に、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
以前なら、休みの日に仕事をしないことを、どこか申し訳なく思っていた。
けれど今は、少しずつ違う。
休むことも、暮らしの一部なのだ。
そのことを、マルタとオットーは何度も教えてくれている。
シアは二人の顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「当日は、ミレイユさんと一緒に、ゆっくり楽しんでまいります」
マルタは嬉しそうに頷いた。
「うん。それがいいよ」
◇
夕食を終えたあと、シアは二階の自室へ戻った。
窓の外では、中央広場の方角に小さな灯りがいくつも見えている。
冬の市の準備は、今日も進んでいるのだろう。
シアは机の前に座り、帳面を開いた。
今日の出来事を書き留める。
黒麦粉について、商会から新しい連絡があったこと。
入荷日はまだ分からないが、保管状態の確認が進められていること。
《銀鹿亭》からの追加の相談は、まだ届いていないこと。
そして、冬の市へ行く準備を少しずつ進めていること。
そこまで書き終えると、シアはペンを置いた。
窓辺の秋灯草へ目を向ける。
小さな黄色い花は、冬の夜の静けさの中で、変わらず咲いている。
シアは椅子から立ち上がり、花の近くへ歩み寄った。
鉢の土はまだ適度に湿っている。
今日は水を与える必要はなさそうだった。
彼女は葉の状態を確かめ、窓からの冷気が直接当たりすぎないよう、鉢の位置を少しだけ調整した。
(……この花も、少しずつ今の場所に馴染んでいるのですね)
シアは静かに微笑んだ。
この街へ来たばかりの頃、自分がここで暮らしていけるのか、分からなかった。
伯爵家を離れ、遠い街へ来た。
名前を変え、パン屋で働き始めた。
最初は、何もかもが不安だった。
仕事を覚えられるだろうか。
人々とうまく話せるだろうか。
ここにいてもよいのだろうか。
そんな思いが、いつも胸の奥にあった。
けれど今は、少しずつ違う。
《麦穂亭》には、自分の仕事がある。
マルタとオットーがいて、毎日一緒に働いている。
ミレイユという友人ができ、休日に一緒に出かける約束もある。
レオンハルトとも、街の中で言葉を交わす機会が増えてきた。
その一つ一つが、彼女の新しい暮らしを形作っている。
シアは胸元の銀のペンダントへそっと触れた。
母が残してくれた、大切な品。
その冷たい感触を指先に感じながら、彼女は静かに目を閉じた。
(……お母様。私は、今の暮らしを大切にしたいと思っています)
過去を忘れたいわけではない。
母との思い出まで消してしまいたいわけでもない。
けれど、過去に縛られたまま、これからの人生を決めたくはなかった。
この街で出会った人々との時間を、自分の意思で大切にしていきたい。
その思いは、以前よりもはっきりした形になっていた。
シアはペンダントから手を離し、机の上の帳面へ目を向けた。
そこには、冬の市へ行く約束が記されている。
『午後の二つ目の鐘が鳴る頃、中央広場の噴水前でミレイユさんと待ち合わせ』
シアはその文字を見つめ、自然と笑みを浮かべた。
もうすぐ、その日が来る。
冬の市で何を買うかは、まだ決めていない。
どの屋台を見るかも、当日ミレイユと相談しながら決めればいい。
大切なのは、友人と一緒に過ごす時間を楽しむことだ。
シアは帳面を閉じ、机の灯りを消した。
寝台へ入り、厚い毛布を肩まで掛けると、冷えていた身体が少しずつ温まっていく。
窓の外では、冬の風が静かに吹いていた。
遠くの中央広場では、明日の準備を終えた人々が、少しずつ家路についているのだろう。
冬の市が始まる日も、もう遠くない。
その日を楽しみに思いながら、シアはゆっくりと目を閉じた。
誰かに与えられた役割を果たすためだけではなく、自分が選んだ日々を大切にするために。
明日もまた、この街で生きていこう。
そんな穏やかな思いに包まれながら、シアは静かに眠りへ落ちていった。




