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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第73話 まだ届かない黒麦粉と、私が初めて伝えた小さな提案


 冬の朝、《麦穂亭》の厨房には、いつもより少し早く灯りがともっていた。


 窓の外では夜明け前の薄い青色が石畳の通りを覆い、遠くから荷車の車輪が軋む音が聞こえてくる。中央広場では冬の市の準備が進んでおり、ここ数日は朝早くから人々が行き交うようになっていた。


 シアが厨房へ下りると、オットーはすでに作業台の前に立ち、丸パンの生地を丁寧にまとめていた。窯の中では薪が赤く燃え、冷えた厨房へ少しずつ温かな空気が広がっている。


「おはようございます、オットーさん。今日はいつもよりお早いのですね」


「おう、おはよう。広場の作業員たちから追加の注文が入っているからな。朝のうちに焼き上げておきたいんだ」


 オットーはそう答えながら、生地の表面を確かめた。


 作業台の端には、丸パンの数が書かれた紙が置かれている。普段の店頭販売分とは別に、注文を受けた分を確保する必要があるらしい。


「私もお手伝いいたします。先に注文分を分けておいた方がよろしいでしょうか」


「ああ、頼む。ただし、店頭に並べる分まで減らしすぎないようにな。冬の市が近いせいか、最近は朝から客が多い」


「はい。数を確認しながら進めます」


 シアは手を洗い、清潔な布を用意すると、作業台の空いている場所へ移動した。


 焼き上がったパンを置く籠を並べ、注文分と店頭分を間違えないよう、それぞれの位置を決める。以前なら、こうした作業も一つずつ指示を待っていたが、今では必要な準備を考え、確認してから動けるようになっていた。


 その変化を、オットーは何も言わずに見守っていた。


 やがて厨房の奥からマルタが現れ、二人へ朝の挨拶をした。


「おはよう。今日も冷えるねえ。シア、昨日はよく休めたかい?」


「はい。ありがとうございます。足の痛みもありませんし、体調も問題ありません」


「それならよかったよ。今日は《銀鹿亭》への返事を用意しないといけないからね」


 その言葉に、シアは昨日の出来事を思い出した。


 黒麦粉の輸送について、《フォルン商会》から新しい連絡が届いた。しかし、道路補修は進んでいるものの重量荷車の通行制限は続いており、入荷日はまだ分かっていない。


 シアはその状況を《銀鹿亭》へ伝えに行き、宿の女性から一つの質問を受けていた。


 もし黒麦粉の入荷がさらに遅れた場合、すでに注文している黒麦パンにも影響が出るのか。


 その場では判断できなかったため、マルタとオットーに確認してから返事をすると約束している。


「はい。昨日お預かりしたご質問について、どのようにお伝えするか確認させていただきたいと思っています」


 シアが答えると、マルタは頷いた。


「まずは朝の仕込みを終わらせよう。そのあとで、今ある材料と注文の状況を一緒に確認するよ」


「承知しました」


 シアは返事をして、再び作業台へ向かった。


 仕事を急ぐ必要はある。


 けれど、急ぐことと、慌てることは違う。


 オットーが丁寧に生地を扱う様子を見ながら、シアは自分の手元にも意識を向けた。


     ◇


 開店前の準備が一段落すると、マルタは会計台の奥にある帳面を持ってきた。


 そこには、すでに受けている注文と、使用する材料の予定が記されている。黒麦パンについては新しい予約を受けておらず、店頭販売も停止しているため、今後の対応を考えるには、現在残っている注文の確認が重要だった。


 オットーは帳面を覗き込み、しばらく考えてから口を開いた。


「今の状況なら、予定している分をすべて問題なく焼けるとは言い切れんな。黒麦粉が届く時期によっては、調整が必要になる」


 マルタは頷き、指先で帳面の一箇所を押さえた。


「だからといって、今すぐ全部取り消す必要があるとも決まっていない。大切なのは、先方が準備できるように、早めに状況を知らせることだね」


「そうだな。届く見込みが立っていない以上、確実な約束はできん」


 二人の会話を聞きながら、シアは昨日の宿の女性の表情を思い出した。


 残念そうではあったが、知らせてもらえるだけでも助かると言っていた。


 宿では旅人たちの食事を用意する必要がある。黒麦パンが届かない可能性があるなら、別の献立を考える時間も必要になるだろう。


 シアは少し迷ってから、静かに口を開いた。


「あの、マルタさん。少しご相談してもよろしいでしょうか」


「もちろんだよ。どうしたんだい?」


 マルタが顔を上げる。


 オットーも手を止め、シアへ目を向けた。


 シアは二人の視線を受け、少しだけ緊張した。


 けれど、昨日から考えていたことだった。


「《銀鹿亭》の方は、黒麦パンが届くかどうかによって、食事の準備を変える必要があるとおっしゃっていました。ですので、もし黒麦パンを予定どおりご用意できない場合に備えて、ほかのパンについてもご相談できるようにしておくのは、いかがでしょうか」


 言い終えると、シアは二人の反応を待った。


 マルタはすぐには答えず、少し考えるように腕を組んだ。


「ほかのパン、かい?」


「はい。もちろん、黒麦パンの代わりになると勝手に決めることはできません。ただ、《銀鹿亭》の方が必要とされるのであれば、丸パンなど、現在ご用意できる種類についてもお知らせしておくことで、選択肢が増えるのではないかと思ったのです」


 シアは言葉を選びながら続けた。


「ただし、お店の仕込み量にも限りがありますので、私だけでは判断できません。お二人に確認していただいたうえで、先方へご案内できることがあればと思いまして……」


 オットーはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「なるほどな。黒麦パンそのものを用意できるわけじゃないが、宿の方で別のパンを使えるなら、多少は助けになるかもしれん」


 マルタも考え込むように頷いた。


「悪くない提案だね。ただ、丸パンだって無制限に焼けるわけじゃない。冬の市の準備で注文が増えているから、どの程度なら対応できるか、きちんと確かめないといけないよ」


「はい。そこは私も気になっていました」


 シアが答えると、マルタは少し笑った。


「そうかい。ちゃんとそこまで考えていたんだね」


 その言葉に、シアの胸が小さく跳ねた。


 褒められたことが嬉しかった。


 けれど、それ以上に、自分の考えを最後まで聞いてもらえたことが嬉しかった。


 オットーは帳面へ目を戻し、今日と明日の仕込み予定を確認した。


「まずは今の注文を優先する。そのうえで、追加できる余地があるか見てみよう。今ここで数量を約束するのは早いが、相談を受けること自体はできる」


 マルタは頷き、シアへ向き直った。


「それなら、《銀鹿亭》への返事には、黒麦パンの入荷日は未定で、既存の注文についても状況によっては調整が必要になる可能性があることを書こう。それから、ほかの種類のパンについては、ご希望があれば相談を受けると添えておくよ」


「はい。ありがとうございます」


 シアは丁寧に頭を下げた。


 マルタはその様子を見て、少しだけ表情を和らげた。


「シア、自分の考えを伝えるのは悪いことじゃないんだよ。もちろん、何でも思いついたとおりに決めていいわけじゃないけれど、相談することまで遠慮しなくていい」


 その言葉に、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……はい。これからも、必要なときにはご相談させていただきます」


「そうしておくれ」


 マルタは微笑み、返事の書面を用意するために帳面を閉じた。


     ◇


 午前中の営業が始まると、《麦穂亭》には次々と客が訪れた。


 冬の市の準備をしている作業員たちが朝食用のパンを買いに来るほか、普段から店を利用している住民たちも、寒さを避けるように足早に入ってくる。


 シアは会計台の内側で注文を聞き、パンを包みながら、店内の様子にも気を配っていた。


 入口近くの台を少し奥へ移したことで、客がすれ違いやすくなっている。


 以前は二人が同時に入ると通り道が狭くなりがちだったが、今は少し余裕ができていた。


 その変化を、常連の女性が気づいたようだった。


「あら、ここ、少し広くなったのね」


「はい。冬の市の準備でお客様が増えておりますので、通りやすいように台の位置を調整いたしました」


 シアが答えると、女性は満足そうに頷いた。


「いいわね。荷物を持っていると、狭いところは通りにくいもの」


「ありがとうございます。もしご不便なところがございましたら、遠慮なくお知らせください」


 シアはそう言って、注文されたパンを包んだ。


 女性は笑顔で礼を述べ、店を出ていった。


 その後も客足は続いたが、午前の忙しさが落ち着く頃には、店内に少し余裕が戻ってきた。


 マルタは会計台の奥で書面を書き終え、シアへ声をかけた。


「シア、《銀鹿亭》への返事ができたよ。内容を一緒に確認してくれるかい?」


「はい」


 シアは手を拭き、マルタの隣へ移動した。


 書面には、黒麦粉の入荷日が未定であること、既存の注文についても状況によっては調整が必要になる可能性があること、そして代わりにほかの種類のパンを希望する場合は相談できることが記されていた。


 ただし、具体的な数量や日付については、先方の希望を聞いてから確認する形になっている。


「この内容なら、今分かっていることを正確にお伝えできると思います」


 シアが答えると、マルタは頷いた。


「そうだね。あとは先方がどう考えるかだよ」


 シアは書面を見つめながら、少し考えた。


 自分が提案したことが、実際の仕事の中へ取り入れられている。


 それは小さなことかもしれない。


 けれど、彼女にとっては大きな意味があった。


 伯爵家にいた頃、何かを提案しても、余計なことをするなと言われることが多かった。


 自分の考えを持つより、与えられた役割を間違えずに果たすことが求められていた。


 だからこそ、今のように相談し、考えを聞いてもらえることが、まだ少し不思議だった。


(……私は、ここで働く一人として、考えてもいいのですね)


 シアは心の中でそう呟いた。


 その思いは、胸の奥に静かに広がっていった。


     ◇


 昼過ぎ、店の扉が開き、見覚えのある少年が顔を覗かせた。


 靴屋の息子であるニコだった。


「こんにちは、シア姉ちゃん!」


「こんにちは、ニコ君。今日はお買い物ですか?」


 シアが微笑むと、ニコは元気よく頷いた。


「うん! 父ちゃんに頼まれて、丸パンを買いに来たんだ」


 少年は小さな布袋を差し出し、中に入っている銅貨を確かめた。


 シアは注文された数を聞き、パンを包みながら尋ねた。


「お父様はお元気ですか?」


「うん。最近は冬の市が近いから、靴の修理を頼みに来る人が増えてるんだって」


 ニコは少し誇らしそうに答えた。


「父ちゃん、毎日忙しそうだけど、ちゃんと休んでるよ。母ちゃんにも、無理しすぎるなって言われてるから」


「それなら安心ですね」


 シアは笑顔で頷いた。


 自分の靴も、ニコの父親に修理してもらったものだった。


 今では痛みもなく歩けている。


 そのことを伝えると、ニコは嬉しそうに目を輝かせた。


「ほんと? 父ちゃんに言っておくね!」


「はい。とても助かっているとお伝えください」


 ニコは大きく頷き、パンの包みを受け取った。


 それから、ふと思い出したように言った。


「そうだ、シア姉ちゃん。冬の市って行くの?」


「はい。お休みの日に、友人と一緒に行く予定です」


「いいなあ! 僕も行きたいんだけど、父ちゃんの仕事が忙しいから、まだ分からないんだ」


 ニコは少し残念そうに肩を落とした。


 シアはその表情を見て、優しく微笑んだ。


「お仕事が落ち着いたときに、ご家族で行けるとよいですね」


「うん! 父ちゃんにも言ってみる!」


 少年は元気を取り戻し、布袋を抱えて店を出ていった。


 その後ろ姿を見送りながら、シアは小さく笑った。


 冬の市を楽しみにしているのは、自分だけではない。


 街の人々も、それぞれの暮らしの中で、その日を待っているのだ。


     ◇


 午後の営業が落ち着いた頃、マルタは《銀鹿亭》への返事について、改めてシアへ声をかけた。


「今日のうちに届けてもいいけれど、昨日も行ってもらったばかりだからね。無理に続けて出かける必要はないよ」


 シアは少し考えた。


 返事は早い方がよい。


 けれど、今すぐ届けなければならないほど急いでいるわけではない。


 店の仕事も残っている。


「それでしたら、明日の状況を見てからでもよろしいでしょうか。もしほかにお届けできる方がいらっしゃるのでしたら、その方にお願いしてもよいと思います」


 マルタは頷いた。


「うん。それでいいよ。シアが全部引き受ける必要はないんだからね」


 その言葉に、シアは少し照れたように笑った。


「ありがとうございます」


 以前なら、自分が行くと言い切っていたかもしれない。


 けれど今は、店全体の仕事を考えながら、自分にできることを判断する大切さを理解し始めていた。


 マルタは書面を丁寧に折り、会計台の奥へしまった。


「明日の朝、改めて決めようか」


「はい。承知しました」


 シアは返事をして、残っている仕事へ戻った。


     ◇


 夕方になると、中央広場の方から人々の声が聞こえてきた。


 冬の市の準備は今日も進んでいるらしく、店の前を通る人々の中には、木材や布を運ぶ者もいた。


 シアは店先を整えながら、その様子を眺めた。


 冬の市が始まれば、きっと今より多くの人が集まるだろう。


 その中をミレイユと一緒に歩くことを想像すると、自然と胸が弾んだ。


 けれど、楽しみな気持ちだけではない。


 この街で働くようになってから、彼女は少しずつ、自分が暮らしている場所を大切に思うようになっていた。


 広場で働く人々。


 パンを買いに来る客たち。


 図書館の職員や靴屋の家族。


 そして、《麦穂亭》のマルタとオットー。


 その一人一人が、この街の日常を作っている。


 シアは店の看板を確かめ、入口の周囲を整えた。


 風で飛ばされそうな紙片がないことを確認し、最後に扉の取っ手を軽く拭いた。


 小さな仕事だった。


 けれど、こうした積み重ねが店を支えているのだと、今では理解できる。


 そのとき、通りの向こうから見覚えのある人物が歩いてくるのが見えた。


 落ち着いた色の外套を着た、背の高い青年。


 レオンハルトだった。


 シアは思わず姿勢を正した。


「レオンハルト様」


 声をかけると、彼は足を止め、こちらへ目を向けた。


「こんにちは、シアさん。今日は店先の整理をしているのですか?」


「はい。冬の市が近づいておりますので、お客様が通りやすいように整えておりました」


 シアが答えると、レオンハルトは店の入口へ視線を向けた。


「なるほど。以前より、入口の周囲に余裕ができていますね」


「はい。マルタさんと相談して、台の位置を少し奥へ移しました」


「よい工夫ですね。人が増える時期には、小さな配置の違いが安全につながることもあります」


 その言葉に、シアは少し嬉しくなった。


 レオンハルトは広場の方へ目を向けた。


「昨日の荷車の件もありましたから、通行の安全については、引き続き確認を進めています」


「はい。今日、石畳を確認されている方々を見かけました」


「そうですか。作業が進んでいるようで何よりです」


 レオンハルトは穏やかに頷いた。


 その表情には、普段の落ち着きがあったが、仕事について話すときの真剣さも感じられた。


 シアは少し迷ってから、口を開いた。


「あの、レオンハルト様。昨日は、荷車の件でありがとうございました」


 レオンハルトは少し驚いたように目を向けた。


「私に礼を言う必要はありませんよ。あの場にいた皆さんが協力してくださったからこそ、大きな事故にならずに済んだのです」


「はい。ですが、通行する方々が危険な場所へ近づかないように、すぐにご指示されていたことが印象に残っております」


 シアはそう答えた。


 レオンハルトはしばらく彼女を見つめ、それから静かに微笑んだ。


「ありがとうございます。そう言っていただけると、励みになります」


 その声は穏やかだった。


 シアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 レオンハルトは続けた。


「シアさんも、あの場で困っていた方々へ道を案内していたそうですね」


 シアは少し驚いた。


「……はい。小さなお子様を連れた方がいらっしゃいましたので、通れる道をお伝えしただけなのですが」


「それも大切なことです。危険を避けるためには、大きな判断だけでなく、周囲の人々ができることを行う必要がありますから」


 シアはその言葉を静かに受け止めた。


 自分がしたことは、ほんの小さな案内だった。


 けれど、レオンハルトはそれを軽く扱わなかった。


 そのことが、彼女には嬉しかった。


「……ありがとうございます」


 シアは丁寧に頭を下げた。


 レオンハルトは柔らかく微笑み、店の中へ視線を向けた。


「ところで、今日はまだパンを買うことができますか?」


「はい。もちろんです。どうぞお入りください」


 シアは扉を開き、彼を店内へ案内した。


     ◇


 店内へ入ると、マルタがレオンハルトに気づき、丁寧に挨拶した。


「いらっしゃいませ、レオンハルト様」


「こんにちは、マルタさん。お忙しいところ失礼します」


「とんでもありません。今日は何をお求めですか?」


 レオンハルトは並んでいるパンを眺め、少し考えた。


「丸パンをいくつかいただけますか。今日は持ち帰って食べようと思っています」


「ありがとうございます」


 シアは注文されたパンを包みながら、ふと、黒麦粉のことを思い出した。


 レオンハルトは領内の道路や橋の管理に関わっている。


 けれど、だからといって、商会からの輸送状況をすべて把握しているとは限らない。


 シアは少し考えたあと、仕事に関係することとして、慎重に尋ねた。


「レオンハルト様、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」


「はい。何でしょう?」


「北方からの荷物について、道路の補修が進んでいると伺いました。ただ、重量荷車の通行制限はまだ続いているそうで……。もし差し支えなければ、今後の見通しについて、何か分かっていることはございますか?」


 レオンハルトはすぐには答えず、少し考えた。


 その表情は、先ほどまでの穏やかなものから、仕事について考えるときの真剣なものへ変わっていた。


「北方の道路については、私の方でも状況を確認しています。ただ、補修の進み具合だけでなく、実際に重量荷車を安全に通せるかどうかを確かめる必要があります」


 彼は落ち着いた声で続けた。


「現時点で、通行制限を解除できる日付をお伝えすることはできません。安全確認が済む前に予定を約束するわけにはいきませんから」


 シアは静かに頷いた。


「そうなのですね。ありがとうございます」


「何か、お困りのことがあるのですか?」


 レオンハルトが尋ねると、シアは少し迷ってから答えた。


「はい。お店で使う黒麦粉が、予定どおり届いていないのです。すでに注文をいただいているお客様もいらっしゃいますので、入荷の見通しが分からないことが少し心配で……」


 レオンハルトは真剣な表情で耳を傾けた。


「なるほど。パン屋にとって、材料が届かないのは大きな問題ですね」


「はい。ただ、商会の方も状況を確認してくださっていますし、マルタさんとオットーさんも、今できる対応を考えていらっしゃいます」


 シアはそう答えた。


 レオンハルトは少しだけ表情を和らげた。


「そうですか。皆さんで対応を進めているのですね」


「はい。私も、できることをお手伝いしたいと思っています」


 その言葉に、レオンハルトは静かに頷いた。


「シアさんらしいですね」


 思いがけない言葉に、シアは少し目を瞬かせた。


「……私らしい、でしょうか?」


「ええ。困っていることがあっても、ただ不安になるだけではなく、今できることを考えようとしているように見えます」


 レオンハルトは穏やかに答えた。


 シアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 そんなふうに見てもらえているとは、思っていなかった。


 彼女は包み終えたパンを丁寧に差し出した。


「ありがとうございます。ですが、私一人では何もできません。マルタさんやオットーさんに教えていただきながら、少しずつ覚えているところです」


 レオンハルトは包みを受け取り、柔らかく微笑んだ。


「それで十分だと思いますよ。誰かと協力しながら仕事を覚えていくことも、大切な力ですから」


 その言葉に、シアは静かに頷いた。


 会計を終えると、レオンハルトは店を出る前に、もう一度シアへ目を向けた。


「冬の市も近づいていますね。忙しい日が続くと思いますが、どうか無理をなさらないでください」


「はい。ありがとうございます。レオンハルト様も、お仕事でお忙しいと思いますので、どうぞお身体にお気をつけください」


 シアが答えると、レオンハルトは少しだけ目を細めた。


「ありがとうございます。それでは、また」


「はい。またのお越しをお待ちしております」


 シアは丁寧に頭を下げ、彼を見送った。


 扉の鈴が静かに鳴り、冬の冷たい空気が一瞬だけ店内へ入り込む。


 レオンハルトの姿が通りの向こうへ消えるまで、シアは少しだけその後ろ姿を見つめていた。


     ◇


 レオンハルトが店を出たあと、マルタは会計台の奥からシアへ目を向けた。


「ずいぶん真剣に話していたね」


 シアは少し驚いたように振り返った。


「はい。黒麦粉の輸送について、何か分かっていることがないかお尋ねしました」


「そうだったのかい」


「ただ、やはり通行制限がいつ解除されるかは、まだ分からないそうです。安全確認が必要だとおっしゃっていました」


 マルタは頷いた。


「それなら、商会から聞いた話とも合っているね」


「はい。確かな日付をお伝えできないことは残念ですが、安全のためには必要なことなのだと思いました」


 シアが答えると、マルタは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。


「そうだね。焦っても仕方のないことはあるよ。だからこそ、今できることを丁寧にやっていくしかない」


「はい」


 シアは静かに頷いた。


 レオンハルトの言葉が、まだ胸の奥に残っていた。


 誰かと協力しながら仕事を覚えていくことも、大切な力。


 その言葉は、今日マルタとオットーに相談したこととも重なっているように思えた。


 自分一人ですべてを抱え込む必要はない。


 できることを考え、必要なときには相談し、少しずつ前へ進めばいい。


 その考え方が、以前よりも自然に受け入れられるようになっていた。


     ◇


 夜、仕事を終えたシアは二階の自室へ戻った。


 窓の外では、中央広場の方角に小さな灯りがいくつも見えている。


 冬の市の準備は今日も進んでいるのだろう。


 シアは外套を脱ぎ、机の前へ座った。


 帳面を開き、今日あったことを書き留める。


 黒麦粉の入荷日は、まだ分からない。


 《銀鹿亭》への返事は用意できたが、届けるのは明日の状況を見てから決めることになった。


 そして、ほかの種類のパンについて相談を受けるという、自分の提案が採用された。


 そのことを書きながら、シアは少しだけ微笑んだ。


(……私の考えを、聞いていただけたのですね)


 それは、彼女にとって大切な出来事だった。


 伯爵家にいた頃、自分の意見を口にすることは、いつも怖かった。


 間違っていると言われるかもしれない。


 余計なことをするなと叱られるかもしれない。


 そう考えるうちに、何も言わない方が安全だと思うようになっていた。


 けれど、《麦穂亭》では違う。


 マルタもオットーも、彼女の考えを聞いたうえで、一緒に判断してくれる。


 必要なら修正し、難しいことは難しいと説明してくれる。


 その積み重ねが、シアの中に少しずつ自信を育てていた。


 シアはペンを置き、胸元の銀のペンダントへそっと触れた。


 母が残してくれた大切な品。


 その冷たい感触を指先に感じながら、彼女は静かに目を閉じた。


(……お母様。私は、少しずつですが、自分の考えを伝えられるようになってきました)


 誰かに認められるためだけではない。


 自分が大切にしたいものを守るために、考え、選び、行動する。


 そのことが、今の彼女には何より大切だった。


 窓の外では冬の風が静かに吹いている。


 遠くの広場には、まだ作業を続ける人々の灯りが見えた。


 この街には、今日も多くの人々の暮らしがある。


 そして、自分もその中の一人として働いている。


 シアは帳面を閉じ、窓辺の秋灯草へ目を向けた。


 小さな黄色い花は、今日も静かに咲いていた。


 明日もまた、できることを一つずつ進めていこう。


 黒麦粉の問題はまだ解決していない。


 けれど、今の自分には、相談できる人がいる。


 一緒に考えてくれる人がいる。


 そして、自分の言葉を聞いてくれる人がいる。


 そのことを思いながら、シアは灯りを消した。


 冬の夜の静けさに包まれた《麦穂亭》で、彼女はゆっくりと眠りへ落ちていった。

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