第72話 届かなかった荷車の知らせと、私が守るべき約束
冬の朝の空気は、窓を開ける前から冷たさを感じさせるほど澄んでいた。
シアが目を覚ましたとき、《麦穂亭》の二階にはまだ薄い暗がりが残っていたが、通りの向こうではすでに荷車が動き始めていた。石畳を踏む馬の蹄の音と、遠くから聞こえてくる人々の声が重なり、冬の市を迎える街が今日も忙しい一日を始めようとしていることを知らせている。
寝台から起き上がったシアは、厚手の毛布を丁寧に畳み、窓辺の秋灯草へ目を向けた。小さな黄色い花は今朝も変わらず咲いていたが、鉢の土は昨日より乾いており、指先で少し下を確かめても、以前ほどの湿り気は感じられなかった。
シアは水差しを手に取り、土の状態を見ながら少しずつ水を注いだ。鉢の底から水があふれるほど与える必要はなく、植物の様子を確かめながら世話をすることが大切だと、図書館で借りた本には書かれていた。
(……本はお返ししましたけれど、教えていただいたことは、これからも大切にできますね)
昨日、返却期限を過ぎてしまった本を無事に返したことを思い出すと、胸の奥に小さな安堵が広がった。失敗したことは恥ずかしかったが、図書館の職員は事情を聞き、次から気をつけるための方法を教えてくれた。
机の上の帳面には、今後本を借りる際は返却期限をその日のうちに記録する、と書き加えてある。シアはその文字を一度確かめてから帳面を閉じ、仕事の支度を始めた。
修理した革靴の紐を結び、立ち上がって数歩歩いてみる。踵の補強部分はまだ少し硬いものの、痛みはなく、足を運ぶたびに靴底が不安定になることもなかった。
冬の市へ行く日には、きっと普段より長く歩くことになるだろう。だからこそ、足の状態を確かめながら無理をしないことが大切だった。
シアは外套を手に取り、階下へ向かった。
◇
厨房では、オットーが大きな木鉢の前に立ち、仕込みを進めていた。
窯の火はすでに十分な熱を持ち、薪のはぜる音とともに、焼き始めたパンの香りが漂っている。作業台には丸パン用の生地が並べられ、その隣には胡桃を混ぜ込む前の生地が布を掛けられて休ませてあった。
「おはようございます、オットーさん」
「おう、おはよう。昨日は図書館まで歩いたんだろう。足の具合はどうだ?」
オットーは生地から手を離さずに尋ねたが、その声には気遣いが感じられた。シアは手を洗いながら、修理した靴で問題なく歩けたことを伝えた。
「それならよかった。靴屋の主人も、いい仕事をしてくれたみたいだな」
「はい。長く使えるように、大切に履いていきたいと思います」
シアが答えると、オットーは満足そうに頷いた。
それから彼は、作業台の端に置かれた小さな紙片へ視線を向けた。そこには今日の仕込み量と、すでに受けている注文の内容が書かれている。
「今日は広場の作業員向けの注文が少し増えている。朝のうちに丸パンを多めに焼くつもりだが、店頭分までなくならないように気をつけないとな」
「承知しました。お取り置きの分と店頭に並べる分を、間違えないように分けておきます」
「頼む。特に今は黒麦粉のこともあるから、作れるものを確実に用意していくしかない」
その言葉に、シアは静かに頷いた。
北方から運ばれてくる黒麦粉は、道路補修に伴う重量荷車の通行制限によって、予定どおり届いていない。入荷日が分からないため、《麦穂亭》では黒麦パンの新しい予約と店頭販売を止め、すでに受けている注文についても状況を確認しながら対応していた。
いつもの材料が届かないことは、パン屋にとって小さな問題ではない。
それでもオットーは、今ある材料を使い、品質を落とさずにパンを焼き続けている。シアはその仕事ぶりを見ながら、自分にもできることを一つずつ確実に進めようと考えた。
しばらくすると、裏口からマルタが入ってきた。
外套の肩には朝の冷気が残っており、彼女は手袋を外しながら、少し気になることがあるような表情で厨房を見回した。
「おはよう。今朝は商会の方から連絡が来るかもしれないよ」
オットーが顔を上げた。
「黒麦粉の件か?」
「まだ分からないけれどね。昨日の夕方、商会の人が広場の近くを通っていたから、状況を尋ねたんだ。新しい情報が入ったら知らせると言っていたよ」
マルタはそう説明したあと、シアへ視線を向けた。
「ただ、まだ何も決まったわけじゃないから、お客様にはこれまでどおり説明しておくれ」
「はい。入荷日が確認できるまでは、確かなことだけをお伝えいたします」
シアはそう答えた。
知らせが来るかもしれない。
その言葉だけで、少し期待してしまう自分がいる。
けれど、期待と確定した情報は違う。
その区別を忘れないようにしながら、シアは朝の仕事へ戻った。
◇
開店すると、店には早い時間から客が訪れた。
冬の市の準備をしている作業員たちが、朝食用のパンを買いに来る。厚手の作業着を着た男性たちは、店内へ入ると冷えた手をこすり合わせ、焼きたてのパンの香りにほっとしたような表情を浮かべていた。
シアは注文を聞き、会計を済ませながら、入口近くの通り道にも気を配った。小さな台を少し奥へ移したことで客が行き交いやすくなり、複数人が入ってきても、以前ほど窮屈には感じられない。
午前の半ば頃、丸パンを買いに来た女性が、包みを受け取りながら広場の方へ目を向けた。
「今年の冬の市は、ずいぶん賑やかになりそうね。昨日も屋台を組み立てている人たちが遅くまで働いていたわ」
「そうなのですね。私も、少しずつ準備が進んでいるのを見かけました」
シアが答えると、女性は楽しそうに笑った。
「でも、道が混むのは少し困るわね。昨日なんて、荷車が止まってしまって、遠回りすることになったのよ」
その言葉に、シアは昨日の出来事を思い出した。
石畳の継ぎ目に車輪が入り込み、動けなくなっていた荷車。通行に困っていた親子へ別の道を案内し、そのあとレオンハルトが作業員たちへ安全を確保するよう指示していた。
「昨日、図書館から戻る途中で、私も荷車が止まっているところを見かけました。皆さんで対応されていたようですが、その後は無事に動かせたそうです」
「あら、そうだったのね。それならよかったわ」
女性は安心したように頷き、包みを抱え直した。
「冬の市は楽しみだけれど、怪我をする人が出ないようにしてほしいものね」
「はい。私もそう思います」
シアは丁寧に頭を下げ、女性を見送った。
客が帰ったあと、彼女はふと、店の外へ目を向けた。
通りにはいつもより多くの人が歩いている。
冬の市が始まれば、さらに賑やかになるのだろう。
その光景を想像すると楽しみな気持ちが広がる一方で、昨日見た荷車のことも思い出された。
多くの人が集まる場所では、小さな問題が思わぬ危険につながることもある。
レオンハルトが安全を優先していた理由を、シアは少しだけ理解できた気がした。
◇
昼前、店の扉が開き、一人の男性が入ってきた。
落ち着いた色の外套を着たその人物は、《フォルン商会》のベルトだった。
シアは顔を上げ、丁寧に挨拶した。
「いらっしゃいませ、ベルトさん」
「こんにちは、シアさん。マルタさんはいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ちください」
シアが厨房へ声をかけると、マルタがすぐに出てきた。
ベルトは会計台の前で帽子を取り、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「お忙しいところ失礼します。黒麦粉の件で、北方の輸送担当から連絡が入りましたので、お伝えに来ました」
マルタの表情が引き締まった。
「そうかい。何か進展があったのかい?」
ベルトは持参した書類を開き、内容を確かめながら説明を始めた。
「北方の道路補修そのものは進んでいます。ただ、重量荷車の通行制限については、まだ解除の見通しが立っていません。昨日、輸送担当が現地の状況を確認したそうですが、少なくとも今すぐ通常の運搬を再開できる状態ではないとのことです」
マルタは腕を組み、静かに頷いた。
「つまり、黒麦粉がいつ届くかは、まだ分からないということだね」
「はい。申し訳ありません。今回の連絡では、具体的な到着日をお伝えできません」
ベルトはそこで一度言葉を切り、書類の別の箇所へ目を向けた。
「ただし、注文そのものが取り消されたわけではありません。商会側でも、すでに受けている数量は確認しています。輸送経路についても検討は続いていますが、現時点で確実に使える代替経路が決まったわけではないため、安易なお約束はできません」
シアは会計台の内側で、その説明を静かに聞いていた。
入荷の知らせを期待していた気持ちが、少しずつ落ち着いていく。
大きな進展ではなかった。
けれど、何も分からないまま待つよりは、現在の状況がはっきりしたことに意味がある。
マルタも同じように考えたらしく、ベルトへ確認した。
「今のところ、こちらが頼んでいる数量に変更はないんだね?」
「はい。ご注文いただいている数量に変更はありません。ただ、到着日が未定のため、今後の販売計画については慎重に考えていただいた方がよいと思います」
「分かったよ。こちらも新しい予約は受けていないし、店頭販売も止めている。今の対応を続けるしかなさそうだね」
ベルトは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご不便をおかけして、本当に申し訳ありません。新しい情報が入りましたら、確認できた内容を改めてお知らせします」
マルタは首を横に振った。
「あなたが謝ることじゃないよ。運べないものを無理に運んで事故になったら、それこそ大変だからね」
その言葉に、ベルトの表情が少し和らいだ。
シアも、昨日見た荷車のことを思い出していた。
石畳の小さな段差でも、荷物を積んだ車が動けなくなることがある。
北方の道路がどのような状態なのか、彼女には詳しく分からない。
それでも、重量のある荷車を通すには十分な安全確認が必要なのだろう。
マルタは書類の内容をもう一度確かめ、ベルトへ礼を述べた。
「知らせに来てくれてありがとう。状況が分かっただけでも助かるよ」
「そう言っていただけるとありがたいです。それでは、また連絡いたします」
ベルトは帽子をかぶり直し、店を出ていった。
扉の鈴が鳴り、冷たい風が一瞬だけ店内へ入り込む。
マルタはその後ろ姿を見送ったあと、ゆっくりと息を吐いた。
「さて、どうしたものかねえ」
その声には、疲れよりも考え込むような響きがあった。
◇
昼食の時間になると、マルタはベルトから聞いた内容をオットーへ伝えた。
厨房の食卓には温かなスープと丸パンが並んでいたが、いつもより少し静かな空気が流れている。
オットーは説明を最後まで聞き、腕を組んだ。
「そうか。やはり、すぐには戻らんか」
「うん。道路の補修は進んでいるらしいけれど、重量荷車の制限はまだ続くそうだよ」
「それなら、今ある材料で回していくしかないな」
オットーはそう言いながら、パンを一口食べた。
シアは二人の会話を聞き、少し考えてから口を開いた。
「マルタさん、オットーさん。黒麦パンをお待ちのお客様には、今回の連絡についてお伝えした方がよいのでしょうか」
マルタはシアへ目を向けた。
「そうだね。ただ、入荷日が決まったわけではないから、知らせ方には気をつけないといけないよ」
「はい。道路の補修は進んでいるものの、重量荷車の通行制限が続いており、到着日はまだ分からない、とお伝えするのがよいでしょうか」
シアが確認すると、マルタは頷いた。
「それでいいと思うよ。特に《銀鹿亭》には、状況が変わらないことも含めて知らせておいた方がいいかもしれないね」
その名前を聞き、シアは以前店を訪れた女性のことを思い出した。
《銀鹿亭》では黒麦パンを必要としており、入荷の見通しが分かったら知らせてほしいと頼まれていた。
今のところ、黒麦粉が届く日付は分からない。
けれど、商会から新しい連絡があったことは事実だった。
マルタはスープの器を置き、少し考えた。
「ただし、今日はまだ店の仕事もあるからね。知らせを届けるなら、誰が行くか考えないといけない」
オットーは窯の方へ目を向けた。
「俺は午後の仕込みがある。マルタも店を離れにくいだろう」
その言葉に、シアは自然と背筋を伸ばした。
「もしお役に立てるのでしたら、私がお届けしましょうか」
マルタはすぐには答えなかった。
昨日、シアは図書館へ本を返すため、仕事の合間に外出している。
今日もまた店を離れることになれば、負担が偏るかもしれない。
そのことを考えているのだろうと、シアにも分かった。
「シア、昨日も外へ出たばかりだろう? 無理に引き受けなくていいんだよ」
「はい。ですが、今日はお店の用事ですし、必要でしたらお手伝いしたいと思っています。ただ、午後の忙しさによっては難しいかもしれませんので、マルタさんにご判断いただければと思います」
シアはそう答えた。
以前なら、何が何でも自分が行かなければならないと考えていたかもしれない。
けれど今は、仕事を引き受けることと、無理をすることは違うと理解し始めている。
マルタはその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「そうだね。それなら、午後の様子を見てから決めようか。急ぎの知らせではあるけれど、今すぐ走っていかなければならないわけじゃないからね」
「はい。承知しました」
シアは頷き、食事へ戻った。
自分から提案できたことが嬉しかった。
けれど、それ以上に、相談しながら決められたことが心地よかった。
◇
午後の営業が始まると、店には落ち着いた時間が戻ってきた。
午前中に比べると客足は少なく、マルタは会計台の整理を進め、オットーは厨房で次の仕込みに取りかかっている。
シアは包み紙と紐の在庫を確認しながら、今日の使用量を帳面へ書き留めていた。
冬の市の準備が進むにつれて、丸パンをまとめて買う客が増えている。
包み紙も普段より多く使っているが、今すぐ不足するほどではない。
シアは数を確かめ、追加が必要になる時期を考えながら、帳面へ印をつけた。
しばらくすると、マルタが近づいてきた。
「シア、《銀鹿亭》への知らせだけれど、今なら行ってもらえそうだよ」
シアは顔を上げた。
「承知しました。お伝えする内容を、もう一度確認してもよろしいでしょうか」
「もちろん。黒麦粉の注文は取り消されていないこと、道路補修は進んでいるけれど重量荷車の通行制限が続いていること、それから入荷日はまだ決まっていないこと。この三つだね」
マルタはそう言って、短い書面を差し出した。
「口頭だけだと伝わりにくいこともあるから、簡単に書いておいたよ。先方へ渡しておくれ」
シアは両手で受け取った。
書面には、現在分かっている状況が簡潔に記されていた。
到着日については未定であることが明確に書かれており、期待を持たせるような表現は使われていない。
「ありがとうございます。確かにお届けいたします」
「それと、先方から何か尋ねられても、分からないことは分からないと伝えるんだよ。新しい約束を勝手にしなくていいからね」
「はい。お店で確認してからお返事するようにいたします」
マルタは満足そうに頷いた。
「うん。それなら安心だ。気をつけて行っておいで」
シアは外套を羽織り、書面を折れないよう布に包んだ。
《銀鹿亭》へ向かう道は、以前にも歩いたことがある。
冬の市の準備で通りが混雑している可能性もあるため、時間に余裕を持って出発することにした。
◇
外へ出ると、午後の陽射しが石畳を淡く照らしていた。
空気は冷たいものの、朝ほど風は強くなく、通りには買い物帰りの人々や荷物を運ぶ職人たちが行き交っている。
シアは広場の近くへ向かう道を歩きながら、周囲の様子を確かめた。
昨日、荷車が動けなくなっていた通りには、今日は作業員が数人立っていた。
石畳の継ぎ目を確認しているらしく、道の一部には簡単な囲いが置かれ、通行する人々が近づきすぎないよう案内されている。
シアは少し離れた場所から、その様子を見た。
昨日、レオンハルトが翌朝の確認を指示していたことを思い出す。
実際に補修が必要なのか、どの程度の作業になるのかは分からない。
けれど、昨日の出来事がそのまま放置されていないことに、少し安心した。
作業員の一人が通行する人々へ別の道を案内していたため、シアもその指示に従って角を曲がった。
少し遠回りにはなるが、安全に歩ける道を選ぶ方がよい。
昨日の経験が、今日の判断にもつながっていた。
やがて、目的地である《銀鹿亭》の看板が見えてきた。
落ち着いた造りの宿の前には、旅人らしい人々が数人立っており、荷物を持った男性が入口へ向かっている。
シアは外套の襟を整え、宿の中へ入った。
◇
《銀鹿亭》の中は、外の冷たさとは対照的に温かな空気に包まれていた。
入口近くには旅人の荷物を置く場所があり、奥の食堂からは煮込み料理の香りが漂っている。受付では一人の女性が帳面を確認しており、シアが近づくと顔を上げた。
「こんにちは。何かご用でしょうか?」
「こんにちは。《麦穂亭》から参りました。黒麦パンの件で、状況をお知らせしたく伺いました」
シアが名乗ると、女性はすぐに事情を理解したようだった。
「ああ、パン屋さんからですね。少々お待ちください。担当の者を呼んでまいります」
女性は奥へ声をかけ、シアには受付の脇で待つよう案内した。
シアは礼を述べ、通行の邪魔にならない場所へ移動した。
宿の中には、旅人たちの声が静かに響いている。
遠方から来たらしい男性が受付で宿泊について尋ね、別の客は食堂へ向かっていた。
《麦穂亭》とは違う種類の忙しさが、ここにはある。
パン屋では客が商品を買い、家へ持ち帰る。
宿では、旅人たちが一晩の休息を求め、食事を取り、翌日の旅へ備える。
その暮らしの中に、《麦穂亭》のパンも関わっているのだと思うと、シアは少し背筋が伸びるのを感じた。
しばらくすると、以前店へ知らせを聞きに来た女性が奥から現れた。
「あら、《麦穂亭》の方ですね。今日はわざわざありがとうございます」
「こんにちは。こちらこそ、お忙しいところ申し訳ありません」
シアは丁寧に頭を下げ、マルタから預かった書面を差し出した。
「黒麦粉について、商会から新しい連絡がありましたので、お伝えに参りました」
女性は書面を受け取り、内容を確かめた。
その表情が少しずつ真剣なものになる。
「……なるほど。道路の補修は進んでいるけれど、重量荷車の制限は続いているのですね」
「はい。注文そのものは取り消されておりませんが、入荷日については、まだ確かな見通しが立っていないそうです」
シアは落ち着いて説明した。
女性は書面をもう一度読み、静かに息を吐いた。
「そうですか。冬の市が近いので、そろそろ届くかもしれないと期待していたのですが……」
その声には、残念そうな響きがあった。
シアは胸の奥が少し痛むのを感じた。
宿では、食事の準備を考えなければならない。
黒麦パンが必要だと分かっていても、届く日が決まらなければ予定を立てにくいだろう。
けれど、だからといって、確かな根拠のない約束をするわけにはいかない。
「申し訳ありません。現在のところ、具体的な日付をお伝えすることができないのです」
女性は顔を上げ、首を横に振った。
「いいえ。こうして知らせていただけるだけでも助かります。何も分からないまま待つより、こちらでも準備を考えられますから」
その言葉に、シアは少しだけ安堵した。
女性は書面を丁寧に畳み、受付の帳面の上へ置いた。
「ただ、一つ確認してもよろしいでしょうか。もし入荷がさらに遅れた場合、すでにお願いしている分についても、用意できなくなる可能性はあるのでしょうか」
シアはすぐには答えなかった。
その質問は、宿にとって重要なものだ。
けれど、今の自分には、在庫や今後の仕込みについて最終的な判断をする権限はない。
シアは一度息を整え、相手の目を見て答えた。
「その点につきましては、私の判断だけでお約束することができません。お店へ戻ってマルタさんとオットーさんに確認し、改めてお伝えしてもよろしいでしょうか」
女性は少し考えたあと、頷いた。
「ええ、もちろんです。無理に今お返事をいただく必要はありません。ただ、こちらでも献立を考える必要がありますので、分かる範囲で知らせていただけると助かります」
「承知しました。必ずお伝えいたします」
シアは深く頭を下げた。
女性も丁寧に礼を返し、受付の奥へ戻っていった。
シアは宿を出る前に、預かった質問を忘れないよう心の中で整理した。
入荷がさらに遅れた場合、既存の注文に影響が出る可能性はあるのか。
その判断は、自分だけではできない。
だからこそ、店へ持ち帰って相談する必要がある。
それが、今日の自分に任された仕事だった。
◇
《銀鹿亭》を出ると、空は少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
中央広場の方角には、冬の市の屋台がいくつも並んでいる。まだ営業は始まっていないが、木製の骨組みには布が掛けられ、遠くから見ると小さな店が集まったように見えた。
シアは少しだけ足を止め、その光景を眺めた。
ミレイユと一緒に歩く日には、あの場所がどのように変わっているのだろう。
温かな飲み物の香り。
手仕事の品が並ぶ屋台。
楽しそうに話す人々。
想像すると胸が弾んだが、今は店へ戻る途中だった。
シアは視線を戻し、歩き始めた。
そのとき、通りの向こうから見覚えのある声が聞こえてきた。
「シア?」
顔を上げると、そこにはミレイユが立っていた。
騎士の制服の上に厚手の外套を羽織り、腰にはいつものように剣を下げている。巡回の途中らしく、少し離れたところには同じ制服を着た騎士が一人いた。
「ミレイユさん。こんにちは」
シアが微笑むと、ミレイユも明るい表情になった。
「こんにちは。こんなところで会うなんて珍しいわね。今日はお店のお使い?」
「はい。《銀鹿亭》へお知らせを届けに行っておりました。これからお店へ戻るところです」
シアが答えると、ミレイユは納得したように頷いた。
「そうだったのね。私も巡回の途中なの。冬の市の準備が進んでいるから、普段より確認する場所が増えているのよ」
ミレイユはそう言って、広場の方へ目を向けた。
「まだ始まっていないのに、もう人が多いでしょう? 屋台の準備をしている人たちと、普段から通る人たちが重なるから、少し気をつけないといけないの」
「はい。昨日も荷車が動けなくなっているところを見かけました」
シアが話すと、ミレイユの表情が少し真剣になった。
「ええ。その件は私たちの方にも報告が来ているわ。今朝、担当の人たちが石畳を確認していたはずよ」
「はい。今日も作業されているところを見かけました」
「それならよかった。大きな事故にならなかったとはいえ、同じことが続いたら困るものね」
ミレイユはそう答えたあと、ふと何かを思い出したように笑った。
「そういえば、冬の市へ行く日のことだけれど、楽しみにしている?」
その言葉に、シアの表情が自然と明るくなった。
「はい。とても楽しみにしています」
「私もよ。仕事で広場を歩くことはあっても、ゆっくり屋台を見る機会はなかなかないから」
ミレイユは少し肩をすくめ、楽しそうに続けた。
「それに、シアと一緒なら、普段は気づかないものも見つけられそうな気がするの」
「私と、ですか?」
「ええ。シアは小さなものをよく見ているでしょう? 布の縫い目とか、花の色とか、そういうところに気づくのが上手だもの」
思いがけない言葉に、シアは少し頬を赤くした。
「……ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
ミレイユは柔らかく笑った。
シアはそこで、図書館のことを思い出した。
「そうでした。ミレイユさんに、一つお伝えしたいことがあるのです」
「何かしら?」
「以前お借りした本なのですが、昨日、図書館へお返ししてきました。ですので、冬の市へ行く日に図書館へ寄る予定は、変更しても大丈夫になりました」
ミレイユは少し驚いたように目を瞬かせた。
「あら、もう返したのね。それなら、当日は屋台をゆっくり見て回れるかもしれないわね」
「はい。ただ、もしミレイユさんが図書館へ行きたいのでしたら、もちろんご一緒したいと思っています」
シアがそう続けると、ミレイユは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。でも、今回は冬の市を中心に楽しみましょうか。図書館は、また別の日にゆっくり行けばいいもの」
「はい。そうしましょう」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みを浮かべた。
そのとき、少し離れたところにいた騎士が、ミレイユへ声をかけた。
「ミレイユ、そろそろ次の通りを確認しよう」
ミレイユは振り返り、短く返事をした。
それからシアへ向き直る。
「ごめんなさい。そろそろ戻らないと」
「いいえ。お仕事中にお引き止めしてしまい、申し訳ありません」
「そんなことないわ。少し話せて嬉しかったもの」
ミレイユはそう言って、柔らかく微笑んだ。
「それじゃあ、またね。お店へ戻る道も気をつけて」
「はい。ミレイユさんも、お仕事お気をつけてください」
シアは丁寧に頭を下げ、ミレイユを見送った。
騎士たちは通りの向こうへ歩いていき、やがて人々の間に姿を消した。
シアはその後ろ姿を眺めながら、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
友人と偶然会い、少し言葉を交わす。
それだけのことが、こんなにも嬉しい。
この街へ来たばかりの頃には、想像もできなかった時間だった。
◇
《麦穂亭》へ戻ると、マルタが会計台の整理をしていた。
シアは外套を脱ぎ、手を洗ってから、預かった仕事の報告をした。
「ただいま戻りました。《銀鹿亭》へ書面をお届けし、現在の状況をお伝えしてまいりました」
「おかえり。ありがとう。先方は何と言っていたかい?」
マルタが尋ねると、シアは宿の女性との会話を順に説明した。
道路の補修は進んでいるものの、入荷日は未定であることを伝えたこと。
宿側も献立の準備が必要なため、状況を知ることができて助かると言っていたこと。
そして、入荷がさらに遅れた場合、既存の注文に影響が出る可能性について質問を受けたこと。
マルタは最後まで聞き、少し考え込んだ。
「なるほどね。確かに、それは気になるだろうね」
「はい。私だけでは判断できませんでしたので、お店へ戻って確認するとお伝えしました」
「それで正解だよ。よく勝手に約束せずに戻ってきてくれたね」
その言葉に、シアは少しだけ安堵した。
マルタは厨房へ声をかけ、オットーを呼んだ。
二人は現在の材料と、すでに受けている注文について確認を始めた。
シアは帳面を用意し、必要な情報を書き留められるようにした。
オットーは黒麦粉の残量について説明し、今後の仕込みにどの程度余裕があるかを慎重に考えた。
ただし、ここで新しい注文を受けたり、すべての予約を確実に用意できると約束したりすることはできない。
入荷日が分からない以上、今後の状況によって判断が変わる可能性があるからだ。
「《銀鹿亭》には、今のところ既存の注文を取り消す予定はないが、入荷がさらに遅れた場合は影響が出る可能性もある、と伝えた方がいいだろうな」
オットーがそう言うと、マルタは頷いた。
「そうだね。ただ、まだ決まっていないことを必要以上に不安にさせてもいけない。こちらで確認を続けて、状況が変わったら早めに知らせるという形にしようか」
シアは二人の会話を聞きながら、帳面へ必要な内容を書き留めた。
分かっていること。
まだ分からないこと。
今後、確認しなければならないこと。
それぞれを分けて整理することで、何を伝えるべきかが少しずつ明確になっていく。
マルタは最後に、シアへ目を向けた。
「今日はもう遅くなるから、返事は明日こちらで用意しよう。シアも、今日は十分働いてくれたからね」
「はい。承知しました」
シアは頷いた。
今日の仕事は、ここで一区切りとなる。
けれど、《銀鹿亭》への返事という新しい仕事が残った。
そのことを忘れないように、帳面へ丁寧に記録した。
◇
夕食の時間になると、厨房にはいつもの温かな空気が戻ってきた。
マルタはスープを器へよそい、オットーは焼き上がったパンの一部を食卓へ運んだ。
シアは椅子へ腰を下ろし、今日一日の出来事を思い返していた。
黒麦粉について商会から連絡があったこと。
《銀鹿亭》へ知らせを届けたこと。
帰り道でミレイユと会ったこと。
どれも、彼女にとって大切な出来事だった。
「今日はずいぶん歩いたんじゃないか?」
オットーが尋ねると、シアは微笑んだ。
「はい。ただ、靴の具合もよく、足が痛くなることはありませんでした」
「それならよかった。とはいえ、無理はするなよ」
「ありがとうございます。気をつけます」
マルタは二人のやり取りを聞きながら、少し笑った。
「シアも、最近は街のいろいろな場所へ行くようになったね」
その言葉に、シアは少し考えた。
この街へ来たばかりの頃、彼女が知っている場所は本当に少なかった。
《麦穂亭》と、そこへたどり着くまでに歩いた道。
それから、生活に必要なものを買うための店。
けれど今は、図書館や靴屋、広場、そして《銀鹿亭》への道も分かるようになっている。
「……そうですね。少しずつ、知っている場所が増えてきました」
シアは静かに答えた。
「以前は、知らない道を歩くことが怖かったのですが、今は少し楽しみに思えることもあります」
マルタは優しく頷いた。
「それはいいことだね。でも、知らない場所へ行くときは、ちゃんと気をつけるんだよ」
「はい。今日も、通行の案内に従って遠回りをしました」
「それなら安心だ」
オットーはそう言って、スープを口へ運んだ。
シアは二人の穏やかな会話を聞きながら、胸の奥に静かな温かさを感じた。
仕事の話をし、今日あったことを伝え、食事を共にする。
その時間が、彼女にとって何より大切なものになっていた。
◇
同じ頃、中央広場の近くでは、ミレイユが巡回を終えようとしていた。
夕方の空は薄い紫色へ変わり、屋台の骨組みの間には、作業を終えた人々が道具を片づける姿が見える。
ミレイユは同行していた騎士と最後の確認を済ませ、広場の端へ目を向けた。
今日も大きな問題は起きなかった。
ただ、冬の市が近づくにつれて、通行する人々の数は確実に増えている。
仕事の上では、まだ気を抜けない日が続くだろう。
それでも、ミレイユの表情には少し明るさがあった。
昼間、偶然シアと会えたからだ。
彼女は《銀鹿亭》へ知らせを届ける仕事を終え、店へ戻る途中だった。
以前なら、仕事のために外へ出るだけでも緊張していたように見えた少女が、今は自分の役割を理解し、落ち着いて行動している。
その変化を、ミレイユは嬉しく思っていた。
(……シアは、本当に少しずつ変わっているのね)
もちろん、彼女がどのような過去を過ごしてきたのか、ミレイユは詳しく知らない。
けれど、最初に出会った頃のシアが、何かを尋ねられるたびに必要以上に身構えていたことは覚えている。
今は、自分の希望を口にすることも増えた。
冬の市へ行く約束も、シアの方から誘ってくれたものだった。
そのことが、ミレイユには何より嬉しかった。
彼女は広場の方へ目を向けた。
屋台が並び始めた場所には、まだ人々が作業を続けている。
冬の市が始まれば、ここはきっと賑やかになるだろう。
その中を、騎士としてではなく、一人の友人としてシアと歩く。
そう考えると、自然と笑みが浮かんだ。
ミレイユは外套の襟を整え、詰所へ戻る道を歩き始めた。
◇
夜、《麦穂亭》の二階で、シアは机の前に座っていた。
窓の外には冬の街が広がり、中央広場の方角には小さな灯りがいくつも見えている。
机の上には、今日の出来事を書き留めた帳面が置かれていた。
シアはペンを手に取り、最後の頁へ目を向けた。
黒麦粉について、商会から連絡があったこと。
入荷日はまだ分からないこと。
《銀鹿亭》へ知らせを届け、既存の注文について質問を受けたこと。
そして、その返事は明日、マルタとオットーが確認した内容をもとに伝える予定であること。
書き終えた文字を眺めながら、シアは静かに息を吐いた。
今日の仕事は、ただ知らせを届けるだけでは終わらなかった。
相手から質問を受け、自分では判断できないことを持ち帰り、店の人々と相談した。
その過程で、仕事にはさまざまな役割があるのだと改めて感じた。
自分一人ですべてを解決する必要はない。
分からないことを認め、必要な人へ相談することも、大切な仕事なのだ。
(……以前の私なら、何とかその場でお答えしなければと思っていたかもしれません)
シアは静かに考えた。
伯爵家にいた頃、彼女は失敗することを何より恐れていた。
誰かから頼まれたことを断れず、分からないことがあっても尋ねるのをためらい、自分だけで何とかしようとしていた。
けれど今は、少しずつ違う。
マルタとオットーは、相談することを責めない。
むしろ、分からないことを勝手に決めないよう教えてくれる。
そのことが、彼女にとって大きな安心感になっていた。
シアはペンを置き、窓辺の秋灯草へ目を向けた。
今朝与えた水が土へ馴染み、花は静かに咲いている。
植物も、人の暮らしも、急いだからといってよい結果になるわけではない。
必要なことを確かめ、無理をせず、少しずつ育てていく。
その積み重ねが大切なのだろう。
シアは小さく微笑み、帳面を閉じた。
明日は、《銀鹿亭》へ返事を届けるための準備がある。
黒麦粉の問題は、まだ解決していない。
けれど、何もできないわけではない。
今分かっていることを整理し、相手へ正しく伝え、必要な準備を進めることはできる。
その一つ一つを大切にしていこう。
そう考えながら、シアは寝台へ向かった。
厚い毛布を肩まで掛けると、冷えていた身体が少しずつ温まっていく。
窓の外では冬の風が静かに吹き、遠くの広場にはまだ小さな灯りが残っていた。
冬の市へ続く街の道は、今日も多くの人々の手によって整えられている。
《麦穂亭》もまた、その街の一部だった。
シアは目を閉じ、明日も自分にできることを丁寧に続けていこうと思った。
誰かの期待に応えるためだけではなく、自分が大切にしたい場所を守るために。
そして、そこで暮らす人々と、これからも笑い合える日々を重ねていくために。
冬の夜の静けさに包まれながら、シアはゆっくりと眠りへ落ちていった。




