↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
71/75

第71話 返しそびれた一冊と、冬の市へ続く道で見つけたもの


冬の市を迎える準備が進む街には、普段とは違う朝の音が増えていた。


《麦穂亭》の二階にある小さな部屋で、シアは窓の外から聞こえてくる荷車の車輪の音に耳を澄ませていた。石畳をゆっくり進む車輪は、ときおり継ぎ目に当たって低い音を立て、そのたびに荷台の木箱がかすかに揺れる音が重なっている。まだ陽が昇りきらない時間だというのに、広場へ向かう人々はすでに仕事を始めているらしかった。


窓辺の秋灯草には、淡い黄色の花がいくつも残っていた。冷たい朝の光を受けた花弁は薄い布のように見え、シアは鉢の向きを整えながら、葉の間に指を入れて土の状態を確かめた。表面は乾き始めているものの、少し下にはまだ湿り気があるため、今日も水を足さずに様子を見ることにする。


その判断を終えたところで、机の端に置いていた本が目に入った。


『窓辺で育てる季節の草花』。


図書館で借りてきた一冊で、先日ようやく最後まで読み終えたものだった。植物の育て方だけでなく、季節によって変わる日差しの扱い方や、室内で花を楽しむための工夫が書かれており、シアは何度も頁を戻しながら読んでいた。


冬の市へ行く日に、ミレイユと一緒に図書館へ寄って返却しよう。


そう考えていたはずなのに、今朝はその予定が妙に気になった。


シアは本を手に取り、表紙の裏側に挟まれていた貸出票を開いた。そこには借りた日と、返却期限が丁寧な文字で記されている。


図書館で説明された貸出期間は十日間だった。


シアは指先で日付をたどり、窓辺の帳面に書き留めていた勤務の日を思い返した。最初の休日に借りてから、店で働き、靴の修理を頼み、ミレイユと冬の市の約束をするまで、思っていた以上に日が過ぎている。


返却期限は、すでに過ぎていた。


「……あ」


思わず小さな声が漏れたあと、シアは貸出票をもう一度確かめた。読み間違いであってほしいと思ったが、日付が変わるわけではなく、指先に触れる紙の感触だけが妙にはっきりしていた。


(……私、返す日をきちんと確認していませんでした。ミレイユさんと出かける日に返そうと考えていましたが、それでは遅かったのですね)


胸の奥に、ひやりとしたものが広がった。


借りたものを期限までに返すことは、当然守るべき約束だ。しかも図書館の本は、自分だけのものではなく、次に読みたい人がいるかもしれない。


読み終えたことに安心して、返却する日を先延ばしにしてしまった。


シアは貸出票を閉じ、しばらく本の表紙を見つめていた。今すぐ図書館へ向かいたい気持ちはあったが、まだ開館前であり、《麦穂亭》の朝の仕事も始まる時間だった。


焦って店の仕事を放り出すことはできない。


それでも、次の休日まで待つのは違う。


(……今日、マルタさんに相談しましょう。返却できる時間を作れるか、まず確かめなければなりません)


シアは本を傷めないよう布で包み、机の上に置いた。


失敗したことを考えると気持ちは沈んだが、黙っていても返却期限は戻らない。今できることを考えようと自分に言い聞かせ、身支度を整えて階下へ向かった。


◇


厨房では、オットーが大きな木鉢を作業台に据え、朝の生地を仕込んでいた。窯にはすでに火が入り、薪のはぜる音とともに、温められた石の匂いが漂っている。


「おはようございます、オットーさん」


「おう、おはよう。今日は少し早いな。まだ朝食まで時間があるぞ」


「はい。目が覚めてしまいましたので、先にお手伝いできればと思いまして」


シアが手を洗おうとすると、オットーは生地を折り返す手を止め、彼女の顔を見た。


「何か気になることでもあるのか? いつもより少し難しい顔をしているぞ」


その言葉に、シアは一瞬ためらった。


借りた本を期限までに返せなかった。


口にしてしまえば、それが自分の失敗だったことを認めることになる。けれど、オットーの視線は責めるものではなく、ただ様子を気にかけているだけだった。


「……図書館でお借りした本の返却期限を、過ぎてしまっていたのです」


シアは事情を説明し、今日のうちに返しに行けないか、マルタにも相談したいと伝えた。


オットーは少し驚いたように眉を上げたものの、怒ることも呆れることもなかった。木鉢の縁についた粉を払い、厨房の時計へ目を向けてから答える。


「それなら、朝の仕事が落ち着いてからマルタと話してみろ。図書館が何時まで開いているかも確かめた方がいいな」


「はい。ご迷惑をおかけすることになってしまいますが……」


「まだ迷惑をかけると決まったわけじゃないだろう。店の都合と合わせて考えればいい」


オットーはそこで少し笑った。


「それに、返し忘れたと気づいたなら、あとは返すしかない。心配しているだけじゃ本は棚へ戻らんからな」


もっともな言葉だった。


シアは小さく頭を下げ、作業台の反対側へ回った。


生地を扱う手順は、朝のうちに何度も確認する必要がある。今朝は気温が低いため、オットーは発酵の進み具合を慎重に見ながら、窯へ入れる順番を調整していた。


シアは指示された布を用意し、作業台を整えながら、目の前の仕事へ意識を向けた。


失敗をしたからといって、ほかの仕事まで雑にしてよいわけではない。


そのことは、今の彼女にも分かっていた。


しばらくすると、マルタが裏口から入ってきた。外套の肩には冷たい朝の空気が残り、髪をまとめ直しながら、厨房の様子を見渡している。


「おはよう。今朝は広場へ向かう荷車が多かったよ。冬の市が近づいてきたって感じだね」


シアが挨拶すると、マルタはいつものように微笑んだ。


その表情を見て、シアは今のうちに相談しようと決めた。


「マルタさん。お仕事のことで、一つご相談してもよろしいでしょうか」


「ああ、もちろんだよ。どうしたんだい?」


シアは図書館の貸出票を確認したこと、返却期限を過ぎていたこと、できれば今日のうちに返したいことを順に話した。


言葉を選んでいるうちに頬が熱くなったが、マルタは途中で遮らず、最後まで聞いてくれた。


「なるほどね。図書館の本かい。それなら、返しに行った方がいいね」


「はい。ただ、お店が忙しいときに私だけ外へ出るわけにはいきませんので、もし可能な時間があればと思いまして」


マルタは腕を組み、朝の仕込みの進み具合を見た。


「今日は広場の作業員さんたちが来るかもしれないから、午前中は忙しくなりそうだね。でも、昼を過ぎれば少し落ち着くこともある。今すぐ約束はできないけれど、様子を見て決めようか」


「ありがとうございます。もし難しければ、閉店後に間に合うかも確認してみます」


「そうしよう。ただし、返すのが遅れたことは、受付の人にちゃんと伝えるんだよ」


シアは頷いた。


それは、言われるまでもなく自分がしなければならないことだった。


けれど、実際に受付で遅れたことを話す場面を想像すると、胸の奥が少し重くなる。


マルタはそんな彼女の様子に気づいたのか、前掛けの紐を結びながら穏やかに続けた。


「失敗しない人なんていないさ。大事なのは、そのあとどうするかだよ。相手に事情を話して、決まりに従えばいい」


「……はい。きちんとお返ししてきます」


そう答えたとき、シアはようやく少しだけ息を深く吸うことができた。


◇


開店からしばらくの間、《麦穂亭》には普段より多くの客が訪れた。


中央広場で働く職人たちが朝食用のパンを買いに来るほか、荷物を運ぶ途中らしい人々が、手早く食べられるものを探して店へ立ち寄っていく。入口近くの小さな台を奥へ移したことで通り道には余裕が生まれていたが、会計台の前にはときおり数人が並び、シアは包み紙を折る手を止める暇もなかった。


昼前になると、厚手の作業着を着た若い男性が、仲間らしい二人と一緒に店へ入ってきた。


「丸パンを八つと、胡桃パンを四つ頼めるかい? 広場の方へ持っていくんだ」


「ありがとうございます。丸パンが八つで四十銅貨、胡桃パンが四つで二十四銅貨ですので、合わせて六十四銅貨になります」


シアが注文を確認すると、男性は頷き、腰の革袋から硬貨を取り出した。


後ろにいた一人は窓際へ寄り、外の通りを眺めている。もう一人は壁際に立ったまま、肩を回していた。


「今日はずいぶん人が多いんですね」


シアが包みを整えながら尋ねると、男性は疲れたように笑った。


「広場の屋台が増えたからね。朝から木材を運んでいるんだけど、思ったより時間がかかってるんだ」


男性は包み紙の上に並べられるパンを見ながら、少し声を落とした。


「それに、広場の南側の通りがまだ使いにくくてさ。荷車を回す場所が狭いから、通るたびに誰かが誘導しないと危ないんだよ」


シアは手を止めずに耳を傾けた。


中央広場の周辺では、一部の道路補修が続いているとレオンハルトから聞いている。彼が市の安全に関わる仕事をしていることも知っていたが、実際に作業している人から聞く話には、また違った重みがあった。


「そうなのですね。荷物を運ぶ方々も、歩いて通る方々もいらっしゃいますものね」


「ああ。今のところ大きな問題はないけど、屋台が全部立ったらもっと混むだろうな。担当の人たちも通路を確認してるから、何とかなるとは思うけどね」


男性はそこで、少し慌てたように首を振った。


「おっと、別に心配させたいわけじゃないんだ。みんな安全に市を開こうと頑張ってるって話さ」


「はい。皆さんが準備してくださっていることが、よく分かりました」


シアは包みを渡し、代金を受け取った。


男性たちは礼を言い、店を出ていった。


そのあとも何人か客が続き、シアは仕事へ戻ったが、先ほどの話が頭の片隅に残っていた。


冬の市は楽しみな催しであると同時に、たくさんの人が働き、気を配ることで成り立っている。


そのことを、彼女は少しずつ実感していた。


◇


昼の混雑が落ち着いた頃、マルタは売り場から厨房へ戻り、シアに声をかけた。


「今なら少し手が空きそうだね。図書館のことだけれど、午後の早いうちに行っておいで」


シアは驚いて顔を上げた。


「よろしいのですか? まだお仕事が残っておりますが……」


「包み紙の整理はあとでもできるし、今日はオットーも手伝えると言っているからね。ただ、長く外に出てもらうわけにはいかないから、本を返したら戻ってきておくれ」


「はい。ありがとうございます。できるだけ早く戻ります」


マルタは頷き、少し考えてから付け加えた。


「それと、中央広場の近くは荷車が増えているそうだから、急いで歩かないこと。人が多い道を避けて、落ち着いて行くんだよ」


「承知しました。通り道にも気をつけます」


シアは前掛けを外し、手を洗ってから二階へ上がった。


机の上には、朝のうちに布で包んだ本が置かれている。貸出票が落ちていないことを確かめ、包みを抱えるように持つと、胸の奥に再び緊張が生まれた。


期限を過ぎてしまった本を返す。


ただそれだけのことなのに、以前の自分が抱えていた恐れが、少しずつ顔を出してくる。


何を言われるだろう。


叱られるかもしれない。


もう借りられなくなるかもしれない。


けれど、どれもまだ起きていないことだった。


(……分からないことを、怖い想像だけで決めつけないようにしましょう。まずは事情をお伝えして、図書館の決まりを確かめればよいのです)


シアは外套を羽織り、修理した靴の紐を確かめた。


階下へ戻ると、マルタが店の入口まで見送ってくれた。


「慌てなくていいからね。転んだりしたら、そっちの方が大変だよ」


「はい。行ってまいります」


扉を開けると、冷たい風が頬へ当たった。


シアは本を抱え直し、図書館へ向かって歩き始めた。


◇


昼過ぎの街は、朝とは違う賑わいに包まれていた。


通りの角では荷車が一台止まり、積まれた木箱を二人の男性が慎重に下ろしている。向かいの店先では厚手の布を広げた女性が、冬の市へ持っていく品らしいものを確認していた。


遠くからは木槌の音が聞こえ、風に乗って焼き栗のような香ばしい匂いが漂ってくる。


まだ市が始まったわけではないのに、街の空気は少し浮き立っていた。


シアは中央広場へ直接向かう道を避け、一本奥の通りを選んだ。


図書館へ行くには少し遠回りになるが、荷車の出入りが多い場所を通るより安全だと思ったからだ。マルタにも急がないよう言われているため、足元の石畳を確かめながら歩いていく。


やがて、通りの先に見覚えのある建物が現れた。


落ち着いた色の外壁と、大きな窓。


以前ミレイユと訪れた図書館だった。


入口へ続く石段には、数人の利用者が行き交っている。厚手の外套を着た老人が本を抱えて出てきたところで、シアは道を譲り、静かに中へ入った。


館内には紙と木の匂いが漂っていた。


外の冷たい空気から離れると、身体の強張りが少しずつほどけていく。高い書棚の間には柔らかな光が差し込み、閲覧席では何人かが静かに本を読んでいた。


以前ここへ来たときのことが思い出される。


ミレイユと並んで本棚を見て回り、どの本を借りようか迷ったこと。


植物について書かれた一冊を選び、貸出票を受け取ったこと。


その日の帰り道には、花を買って部屋へ飾った。


楽しかった記憶が胸をよぎる一方で、今日は返却期限を過ぎてしまったことを伝えなければならない。


シアは受付へ向かった。


そこには、落ち着いた色の服を着た女性職員が座っていた。机の上には返却された本が数冊積まれ、女性は一冊ずつ状態を確かめながら記録をつけている。


シアが近づくと、職員は顔を上げた。


「こんにちは。返却でしょうか?」


「はい。こちらの本をお返ししたいのですが……」


シアは布包みを開き、本と貸出票を差し出した。


職員は丁寧に受け取り、表紙と頁の状態を確認してから、貸出票へ目を向けた。


その視線が日付のところで止まったのを見て、シアの胸が小さく縮む。


「……申し訳ありません。返却期限を過ぎてしまいました。私が日付をきちんと確認していなかったためです」


言い終えると、シアは静かに頭を下げた。


職員は貸出票を確かめ、少しだけ眉を寄せたものの、声を荒らげることはなかった。


「期限は過ぎていますね。次に借りたい方がいる場合もありますので、今後は日付を確認していただけると助かります」


「はい。今後は必ず確認いたします」


「本の状態には問題がなさそうです。返却の記録をつけますので、少しお待ちください」


シアは頷き、受付の前で待った。


職員は台帳を開き、借りたときの記録と返却した日を照合している。ペン先が紙を滑る音が、静かな館内では思いのほかはっきりと聞こえた。


やがて職員は台帳を閉じ、シアへ顔を向けた。


「返却の手続きは終わりました。今回は本も無事に戻っていますので、これで大丈夫です。ただ、次からは期限内にお願いしますね」


「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」


シアがもう一度頭を下げると、職員は穏やかに頷いた。


「貸出票に返却日が書いてありますから、借りたときに確認しておくと忘れにくいですよ。ご自分の予定と合わせて、早めに返せる日を考えておくのもよいと思います」


その助言は、シアにとってありがたかった。


期限を守れなかったことは変わらない。


けれど、失敗を認めて返却し、次に同じことを繰り返さないための方法を教えてもらうことができた。


「はい。次からは、借りた日に帳面へ書き留めるようにいたします」


職員は小さく微笑んだ。


「それなら安心ですね。また読みたい本がありましたら、どうぞご利用ください」


シアは礼を述べ、受付から離れた。


手元から本がなくなったことで、少し寂しい気持ちもあった。


けれど、それ以上に、ようやく約束を果たせたという安堵が大きかった。


◇


図書館を出る前に、シアは少しだけ足を止めた。


閲覧席の近くには、季節の植物について書かれた本を集めた棚があり、以前借りた本と似た背表紙が並んでいる。新しい本を手に取ってみたい気持ちはあったが、今日は仕事の合間に返却へ来ているだけだった。


時間をかけて選ぶのは、また別の日にしよう。


そう考えて出口へ向かいかけたとき、壁際の掲示板が目に入った。


そこには、冬の市の期間に合わせた図書館の利用案内が貼られていた。


普段の開館時間に加え、市の開催中は周辺の通りが混雑する可能性があること、図書館へ向かう際は通行案内に注意してほしいことが書かれている。


シアは立ち止まり、内容を丁寧に読んだ。


中央広場の周辺では、荷車の搬入経路と歩行者の通路を分けるため、一部の道で通り方が変わる可能性があるらしい。


まだ確定していない部分もあるため、当日の案内を確認してほしいとも記されていた。


(……ミレイユさんと出かける日も、通る道をよく確かめた方がよさそうですね)


待ち合わせ場所は中央広場の噴水前だ。


そこから冬の市を見て回り、時間があれば図書館へ寄る予定だった。


けれど、今は本を返し終えたため、図書館へ寄ることを必ずしも優先する必要はなくなった。ミレイユにはそのことを伝え、当日は二人で行きたい場所を相談し直せばよい。


シアは掲示板の内容を覚え、図書館を出た。


外へ出ると、冷たい風が頬へ当たった。


石段を下りながら、彼女は胸の奥に残っていた緊張が、ようやく静かにほどけていくのを感じた。


期限を過ぎてしまったことを隠さずに伝えられた。


職員の話を最後まで聞き、次からどうすればよいかも考えられた。


失敗そのものをなかったことにはできないが、そのあとに取る行動は自分で選べる。


その実感は、思っていた以上に大きかった。


◇


帰り道、シアは図書館へ来たときとは別の角を曲がった。


広場の近くを避けるつもりだったが、通りの先に人が集まっているのが見え、思わず足を止める。


そこでは、一台の荷車が道の端へ寄せられ、数人の作業員が荷台の木箱を確認していた。車輪の片側が石畳の継ぎ目に深く入り込み、荷車がわずかに傾いている。


大きな事故ではないようだったが、周囲には通行を待つ人が何人か立っていた。


シアは近づきすぎないようにしながら、状況を確かめた。


作業員の一人が車輪の下へ木片を差し込もうとしている。別の男性は荷台が揺れないよう押さえ、通りの端では女性が小さな子どもの手を引いて、通行できる場所を探していた。


シアはその親子の近くへ歩み寄った。


「こんにちは。こちらを通られるのですか?」


女性は振り返り、少し困ったように頷いた。


「ええ。向こう側へ行きたいのだけれど、荷車が止まってしまっていて。子どもを連れているから、あまり狭いところは通りたくないのよ」


シアは周囲を見回した。


荷車の脇には人が一人通れるほどの隙間があるものの、作業員たちが車輪を動かそうとしているため、今そこを通るのは危ない。


反対側には少し遠回りになる道があり、シア自身も先ほど通ってきたばかりだった。


「それでしたら、一本手前の通りから回ると、向こう側へ出られます。少し遠くなりますが、こちらより歩きやすいと思います」


女性は安心したように表情を和らげた。


「あら、そうなのね。ありがとう。そちらから行ってみるわ」


子どもは母親の手を握ったまま、荷車の方を不安そうに見ていた。


シアはその視線に気づき、穏やかに微笑んだ。


「大きな荷物を運んでいるので、皆さんが安全に通れるように作業されているのだと思います。少し遠回りになりますが、気をつけて歩いてくださいね」


子どもは小さく頷いた。


女性が礼を述べて歩き出すと、シアはその後ろ姿を見送った。


自分にできることは、それほど大きくない。


荷車を持ち上げる力もなければ、道路の補修を指示する立場でもない。


けれど、知っている道を伝えることならできる。


そのことを嬉しく思いながら、シアも遠回りの道へ向かおうとした。


そのとき、背後から落ち着いた声が聞こえた。


「シアさん?」


振り返ると、通りの反対側からレオンハルトが歩いてきていた。


今日は以前店へ立ち寄ったときよりも動きやすそうな外套を身につけ、少し離れたところには書類を持った男性が一人付き従っている。


シアは驚いて姿勢を正した。


「レオンハルト様。こんにちは」


「こんにちは。こんなところでお会いするとは思いませんでした」


レオンハルトは穏やかに微笑んだが、すぐに視線を荷車へ向けた。


「通行に問題が起きているようですね。少し確認してもよろしいですか」


「はい。どうぞ」


シアが道の端へ寄ると、レオンハルトは同行していた男性へ短く声をかけ、荷車のそばへ向かった。


作業員たちは彼に気づくと、すぐに姿勢を正した。


「レオンハルト様。申し訳ありません。車輪が石畳の継ぎ目に入り込んでしまいまして、今、動かせるようにしているところです」


作業員の一人が事情を説明した。


レオンハルトは荷車の傾きと周囲の通路を確認し、作業員たちの話を聞いた。


「荷台の固定はできていますか。無理に引くと木箱が崩れる可能性がありますから、まず周囲の人が近づかないようにしてください」


「はい。荷物は紐で留めていますが、念のため確認し直します」


「お願いします。通行する方には、しばらく迂回していただきましょう。必要なら近くの担当者にも知らせてください」


声は落ち着いていたが、指示は明確だった。


シアは少し離れた場所から、その様子を見守った。


レオンハルトは作業員を責めることなく、まず安全を確かめている。同行していた男性も、周囲の人々へ声をかけ、通れる道を案内し始めた。


荷車の問題がすぐに解決するわけではない。


けれど、誰が何をするべきかが整理されるにつれ、周囲の人々の表情も少しずつ落ち着いていった。


シアはその様子を見ながら、昨日《麦穂亭》で交わした会話を思い出した。


冬の市を安全に開くためには、たくさんの人の協力が必要だとレオンハルトは話していた。


今、目の前で行われているのは、まさにその仕事だった。


◇


荷車の周囲の安全が確保されると、レオンハルトは作業員たちにあとの対応を任せ、シアのところへ戻ってきた。


「お待たせしました。通りにくいところへ出くわしてしまいましたね」


「いいえ。皆さんが安全に通れるように対応されているのを拝見しました」


シアはそう答え、少しだけ視線を荷車へ向けた。


「先ほど、小さなお子様を連れた方がいらしたのですが、こちらを通るのは危なそうでしたので、別の道をご案内したところだったのです」


レオンハルトは静かに頷いた。


「そうでしたか。ありがとうございます。歩行者の方が無理に通ろうとすると、作業中の人にも危険が及びますから」


「私には、道をご案内することくらいしかできませんでしたが……」


シアがそう言いかけると、レオンハルトは少しだけ首を傾げた。


「その『くらい』という言い方は、必要ないと思いますよ」


思いがけない言葉に、シアは顔を上げた。


レオンハルトは荷車の方へ一度視線を向け、それから彼女へ戻した。


「安全な道を知っている人が、それを必要としている人に伝える。簡単なことのように見えても、知らなければできないことです。特に、小さな子どもを連れている方には助けになったでしょう」


シアはすぐには答えられなかった。


自分がしたことは、ただ道を教えただけだと思っていた。


けれど、レオンハルトはその行動を、必要な役割の一つとして受け止めている。


「……ありがとうございます。そう言っていただけると、少し安心します」


シアが微笑むと、レオンハルトも柔らかく表情を和らげた。


「ところで、今日はお休みだったのですか?」


「いえ。図書館へ本を返しに行っておりました。お店の仕事の合間に、マルタさんから少し時間をいただいたのです」


「そうでしたか。図書館はこの先ですね」


「はい。もう返却を終えましたので、これから《麦穂亭》へ戻るところです」


レオンハルトは頷き、彼女が抱えていた布包みに目を向けた。


「無事に返せたのなら、よかったですね」


シアは少し迷ったあと、正直に話すことにした。


「実は、返却期限を過ぎてしまっていたのです。今日になって気づきまして……。図書館の方にはお詫びして、今後は気をつけるとお伝えしてきました」


言い終えたあと、シアは少し恥ずかしくなって視線を落とした。


レオンハルトは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな表情へ戻った。


「そうだったのですね。それなら、今日は返却できてよかったです」


「はい。もっと早く確認しておくべきでした」


「次に同じことをしないようにすれば、今回の経験も無駄にはならないと思います。私も書類の提出期限を見落とさないよう、予定を確認することがありますから」


その言葉に、シアは少し驚いた。


公爵家の跡取りであるレオンハルトも、期限を守るために工夫している。


当たり前のことなのかもしれないが、彼が自分と同じように日々の仕事を一つずつ管理しているのだと思うと、少しだけ親しみを感じた。


「レオンハルト様も、予定を確認されるのですね」


「もちろんです。覚えているつもりでも、仕事が重なると抜けてしまうことがありますから。大切なことほど、記録しておいた方が安心できます」


彼はそう言って、少し笑った。


その笑顔には、仕事の場で見せていた厳しさとは違う、柔らかな雰囲気があった。


シアは胸の奥に温かさを感じながら、静かに頷いた。


◇


通りの向こうでは、荷車の車輪を動かすための作業が続いていた。


作業員たちは声を掛け合いながら木片の位置を調整し、荷台が傾かないよう慎重に支えている。近くを通る人々は案内に従って迂回し、先ほどまでの混雑は少しずつ解消されていた。


レオンハルトはその様子を確認すると、シアへ向き直った。


「冬の市へ行く日も、この辺りは人が増えると思います。通行案内が出ている場所では、そちらを優先してくださいね」


「はい。図書館にも、冬の市の期間中は周辺の道が混雑する可能性があると書かれていました」


「そうでしたか。図書館の方でも案内してくださっているのですね」


レオンハルトは少し安心したように頷いた。


「当日は、広場へ向かう道の一部で歩行者の通り方が変わる可能性があります。ただ、まだ調整中の場所もあるので、今ここで確定した経路をお伝えすることはできません」


「承知しました。ミレイユさんと相談しながら、案内を確認して歩こうと思います」


名前を口にしてから、シアは自然に続けた。


「一緒に出かける友人なのです。騎士のお仕事をされていて、以前から街のことをいろいろ教えていただいています」


レオンハルトはその説明を聞き、穏やかに頷いた。


「そうなのですね。騎士の方なら、街の通りにも詳しいでしょう。お二人で楽しい時間を過ごせるとよいですね」


「ありがとうございます。私も、とても楽しみにしています」


シアが微笑むと、レオンハルトは少しだけ目を細めた。


その視線は優しかったが、長く見つめ続けるようなものではなかった。彼はすぐに周囲の状況へ目を向け、仕事へ戻る必要があることを確かめている。


「そろそろ戻らなければなりません。シアさんも、お店へ戻る途中でしたね」


「はい。お忙しいところ、お話ししてくださってありがとうございました」


「こちらこそ。どうぞ、お気をつけて」


シアは丁寧に頭を下げ、遠回りの道へ向かった。


数歩進んだところで振り返ると、レオンハルトはすでに同行者と話しながら、荷車のそばへ戻っていた。


彼には彼の仕事がある。


自分には、自分の仕事がある。


それでも、こうして街の中で出会い、少し言葉を交わせることが嬉しかった。


シアは外套の襟を整え、冷たい風の中を歩き始めた。


◇


《麦穂亭》へ戻ったとき、店内には午後の穏やかな時間が流れていた。


会計台の前には客が一人立っていたが、マルタが対応しており、厨房からはオットーが道具を片づける音が聞こえてくる。


シアは客の邪魔にならないよう店の奥へ入り、外套を脱いでからマルタへ声をかけた。


「ただいま戻りました。お時間をいただき、ありがとうございました」


マルタは客を見送ったあと、振り返って微笑んだ。


「おかえり。無事に返せたかい?」


「はい。期限を過ぎてしまったことをお詫びして、返却の手続きをしていただきました」


「それならよかったね。受付の人には、何か言われたかい?」


「次からは期限を確認するようにと教えていただきました。本も問題なく返却できましたので、今後は同じことを繰り返さないようにいたします」


マルタは満足そうに頷いた。


「うん。それでいいんだよ。ちゃんと返しに行けたんだから、あとは気をつければいい」


シアはほっとして微笑んだ。


それから、帰り道で荷車が動けなくなっていたこと、レオンハルトが安全を確認していたことを簡単に伝えた。


マルタは少し驚いたように眉を上げた。


「そんなことがあったのかい。大きな事故にならなくてよかったね」


「はい。作業員の皆さんが協力して対応されていました。レオンハルト様も、通る方々の安全を優先するようお話しされていました」


「なるほどねえ。冬の市の準備も、思っている以上に大変なんだろうね」


マルタは窓の外へ目を向けた。


通りを歩く人々の姿は、午前中より少し落ち着いている。


けれど、広場の方角からはまだ木槌の音が聞こえていた。


「それにしても、シア。今日はいい経験をしたね」


マルタがそう言うと、シアは少し不思議そうに首を傾げた。


「いい経験、でしょうか?」


「ああ。図書館のこともそうだけれど、街の中で何が起きているのか、自分の目で見てきたんだろう?」


シアは静かに頷いた。


「はい。お店にいるだけでは分からなかったことを、少し知ることができたように思います」


「そうだね。店の仕事も大切だけれど、街の様子を知ることも役に立つものさ」


マルタはそう言って、会計台の上に置いた布を手に取った。


「さあ、戻ってきたところで悪いけれど、夕方の準備を手伝ってもらおうか」


「はい。もちろんです」


シアは笑顔で答え、前掛けを身につけた。


今は、自分の仕事へ戻る時間だった。


◇


夕方の営業では、冬の市の準備を終えたらしい人々が何人か立ち寄った。


朝から働いていたという男性は、家族への土産に胡桃パンを買い、別の客は温かい夕食に合わせるため丸パンを選んでいった。


シアは一人一人の注文を聞きながら、昼間に見た街の様子を思い返していた。


荷車が動けなくなった通り。


安全な道を探していた親子。


作業員たちの声。


そして、周囲の状況を確かめながら指示を出していたレオンハルト。


店の中にいると、客はパンを買いに来る人として見える。


けれど、店の外へ出れば、その一人一人に仕事や暮らしがあり、別の場所で誰かと関わっている。


冬の市は、そんな人々が集まる場所なのだろう。


シアはそのことを考えながら、最後の客へ包みを渡した。


閉店後、マルタと一緒に棚を整えていると、厨房からオットーが出てきた。


「今日は包み紙の減りが早かったな。冬の市が始まったら、もう少し余裕を持たせた方がよさそうだ」


「そうですね。昨日確認した分だけでは、忙しい日が続くと心配かもしれません」


シアは帳面を開き、今日使った包み紙の数を確かめた。


ただし、すぐに追加の注文を決めるのではなく、普段の使用量と比べてどの程度増えているかを整理することにした。


マルタもその考えに賛成し、翌日以降の売れ行きを見ながら判断しようと話した。


シアは数字を書き留めながら、ふと昼間の出来事を思い出した。


図書館の貸出票に書かれた日付。


確認を後回しにしたことで、返却期限を過ぎてしまったこと。


店の仕事でも、同じようなことが起きるかもしれない。


必要なものを使い切ってから気づくのではなく、早めに確かめておく。


小さな確認を怠らないことが、誰かとの約束を守ることにつながる。


シアは帳面の文字を見つめ、静かに頷いた。


◇


その夜、夕食の席では、冬の市の話が自然と始まった。


マルタは温かなスープをよそいながら、広場の屋台が少しずつ形になっていることを話し、オットーは以前見かけた木工職人の品について思い出していた。


「そういえば、昔は小さな木の玩具を売る店が出ていたな。子どもたちがずいぶん集まっていたのを覚えている」


「今年も出るかもしれないね。手仕事の品を扱う店が増えるって聞いたから」


マルタはそう答え、シアへ目を向けた。


「シアは何か見たいものがあるんだったね?」


「はい。布小物や手仕事の品を見てみたいと思っています。それから、温かい飲み物の屋台にも興味があります」


シアが答えると、マルタは嬉しそうに笑った。


「それなら、きっと楽しめるだろうね。あまり欲張って全部回ろうとしなくてもいいんだよ」


「はい。ミレイユさんとも、無理をせずに歩こうとお話ししています」


オットーは頷き、パンをちぎった。


「人が多いところでは、足元にも気をつけろよ。靴は直したばかりだし、慣れない道を長く歩くと疲れることもあるからな」


「ありがとうございます。痛みはありませんが、無理をしないようにいたします」


シアは穏やかに答えた。


今日、図書館へ行く途中で歩いた道は、普段より少し遠回りだった。


それでも、修理した靴に痛みはなく、歩き終えたあとも足の状態は変わらなかった。


靴屋の主人が丁寧に直してくれたことを、改めてありがたく思う。


しばらくして、マルタが思い出したように尋ねた。


「そういえば、図書館の本はもう返したんだろう? ミレイユさんと出かける日に寄る予定だったんじゃないかい?」


「はい。もともとはそのつもりでしたが、今日返却しましたので、当日は別の場所を見て回ることもできそうです」


「それなら、ミレイユさんと相談して決めるといいね」


「はい。次にお会いしたときにお伝えしようと思います」


シアはそう答えながら、少しだけ笑った。


予定が変わったからといって、楽しみが減るわけではない。


むしろ、選べることが増えたのかもしれない。


図書館へ行きたければ、また行けばよい。


冬の市をゆっくり見て回りたければ、そうしてもよい。


その日の時間を、二人で相談しながら決められることが嬉しかった。


◇


夕食を終えたあと、シアは自室へ戻った。


窓の外では、中央広場の方角に小さな灯りがいくつも見えていた。昼間に組み立てられていた屋台の一部へ灯りが置かれているらしく、暗くなった街の中で、そこだけが少し明るく浮かび上がっている。


机の上には、今朝まで置いていた本の跡が残っていた。


何日も同じ場所にあったため、何も置かれていない机の端が少し広く感じられる。


シアは椅子へ腰を下ろし、帳面を開いた。


まず、図書館の本を返却したことを書き留める。


その下には、次に本を借りるときのために、返却期限を借りた日に記録すること、予定が変わった場合も早めに確認することを書き加えた。


書き終えると、胸の奥に残っていた小さな重みが、ようやく消えたような気がした。


今日の失敗を、忘れてしまいたいとは思わない。


けれど、いつまでも自分を責め続ける必要もない。


大切なのは、次にどうするかだ。


シアはペンを置き、窓辺の秋灯草へ目を向けた。


借りた本を読んだことで、花の世話について知ったことが増えた。


水を与えるタイミングも、置く場所も、以前より慎重に考えられるようになっている。


返却が遅れてしまったことは反省しなければならないが、本から学んだことまで失われるわけではない。


(……借りた本を返しても、そこから教えていただいたことは、私の中に残るのですね)


シアは静かに微笑んだ。


そのとき、昼間のレオンハルトの言葉が思い出された。


安全な道を知っている人が、それを必要としている人に伝える。


簡単に見えても、知らなければできないこと。


彼はそう話していた。


シアは自分の手を見つめた。


この手でできることは、まだ限られている。


パンを包み、帳面をつけ、布を縫い、花の世話をする。


そして、困っている人に、自分が知っていることを伝える。


以前なら、そんな小さなことに意味があるとは思えなかったかもしれない。


伯爵家では、誰かの役に立つことが当然とされ、それができなければ責められることもあった。


けれど、今は違う。


自分ができることを、相手と相談しながら選べる。


できないことは、無理に引き受けなくてもよい。


その違いを、今日もまた少し学んだ気がした。


◇


同じ頃、レオンハルトは公爵家の執務室で、中央広場周辺の通行状況について報告を受けていた。


机の上には、冬の市の準備区域を示した図面が広げられている。屋台の位置や荷車の搬入経路が書き込まれ、補修中の通りには別の印がつけられていた。


昼間、荷車が動けなくなった場所についても、担当者から報告が届いていた。


車輪は無事に動かされ、荷物にも大きな損傷はなかったという。ただし、石畳の継ぎ目が荷車の通行に影響した可能性があるため、翌朝に改めて状態を確認する予定になっていた。


レオンハルトは報告書を読み、必要な箇所へ印をつけた。


今回、大きな事故にはならなかった。


しかし、冬の市が始まれば、荷車だけでなく歩行者も増える。


同じ場所で似た問題が起きないよう、事前に確かめておく必要がある。


彼は担当者へ確認事項を伝え、図面を閉じた。


そこで、昼間に出会ったシアのことを思い出した。


彼女は図書館から戻る途中で、通行に困っていた親子へ別の道を教えていたという。


自分にはそれくらいしかできなかったと話していたが、レオンハルトには、その行動が決して小さなものには思えなかった。


困っている人に気づき、周囲の状況を確かめ、無理のない方法を伝える。


それは、街の安全を守るうえでも大切なことだった。


(……彼女は、自分が思っているよりも、周囲をよく見ているのかもしれない)


レオンハルトは静かに考えた。


《麦穂亭》の棚の配置を工夫したことも、客の通り道を気にかけた結果だった。


今日の行動にも、同じような気遣いが表れていた。


もちろん、シアがどのような過去を持ち、なぜこの街へ来たのか、彼は詳しく知らない。


ただ、彼女が今の暮らしを大切にし、目の前のことへ真剣に向き合っていることは伝わってくる。


レオンハルトは書類を重ね、窓の外へ目を向けた。


冬の市が始まるまで、まだ確認しなければならないことは多い。


街の人々が安心して楽しめるよう、できることを一つずつ進めていこう。


そう考え、彼は再び仕事へ戻った。


◇


《麦穂亭》の二階では、シアが窓辺に立ち、夜の街を眺めていた。


遠くの広場には小さな灯りが揺れ、風に乗って作業を終えた人々の声がかすかに届いてくる。


冬の市が始まれば、あの場所はもっと賑やかになるのだろう。


ミレイユと一緒に歩く日も、少しずつ近づいている。


シアは窓の外を眺めながら、今日の出来事を思い返した。


返却期限を過ぎてしまったことに気づき、マルタへ相談したこと。


図書館で事情を伝え、無事に本を返せたこと。


帰り道で困っている親子へ道を教え、レオンハルトが仕事をしている姿を見たこと。


どれも、大きな事件ではなかった。


けれど、今の彼女にとっては、自分の暮らしを少しずつ形作る大切な出来事だった。


シアは窓を閉め、机の上の帳面へ目を向けた。


そこには、冬の市へ行く約束が記されている。


ミレイユと会う日には、今日のことを話してみよう。


図書館の本を返せたこと。


広場の周辺では、通る道に注意した方がよさそうなこと。


そして、当日は無理をせず、二人で見たいものを選びながら歩きたいということ。


シアはその予定を眺め、自然と笑みを浮かべた。


自分のために楽しみな時間を持つこと。


失敗したときには、きちんと向き合うこと。


誰かが困っているときには、自分にできる範囲で力になること。


そのどれもが、今の暮らしの中で少しずつ身についてきた。


(……明日も、今日できたことを大切にしながら過ごしたいです)


シアは帳面を閉じ、寝台のそばへ置いた。


外では冬の風が静かに吹いている。


けれど、窓の向こうに広がる街は、もう知らない場所ではなかった。


働く店があり、顔を覚えた人々がいて、友人と会う約束がある。


そして、困ったときには相談できる相手がいる。


シアはそのことを胸に抱きながら、灯りを落とした。


冬の市へ続く道は、まだ準備の途中にある。


けれど、そこで働く人々の手によって、少しずつ形を整えていた。


自分の新しい暮らしも、きっと同じなのだろう。


急いで完成させる必要はない。


昨日より少しだけできることが増え、今日の失敗から何かを学び、明日へつなげていく。


その積み重ねを大切にしたいと思いながら、シアは毛布を引き寄せた。


窓の外では、中央広場の灯りが夜の街に静かに揺れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。