第70話 冬の市に集まる人々と、私が守りたい小さな居場所
中央広場の方角から聞こえてくる木槌の音が、今朝はいつもより近く感じられた。
シアが二階の窓を開けると、冷たい空気が頬を撫で、まだ薄暗い街並みの向こうから人々の話し声が届いた。冬の市の準備は着実に進んでいるらしく、昨日まで建物の隙間から見えていた広場の一角には、いつの間にか布張りの屋根がいくつか並んでいる。
夜の間に降りた霜が屋根瓦を白く染め、通りの石畳には朝露が細かな光を散らしていた。冬が近づくにつれて、街の景色は少しずつ変わっている。
シアは窓を閉め、机の上に置いた帳面へ目を向けた。
そこには、ミレイユと冬の市へ行く約束が記されている。
中央広場の噴水前で待ち合わせ、屋台を見て回り、時間があれば図書館へも寄る予定だった。
約束を交わしたのは昨日のことだ。
それなのに、もう何日も前から楽しみにしていたような気がする。
(……私から誘ったお出かけが、本当に実現するのですね)
シアは小さく微笑み、身支度を始めた。
修理を終えた革靴は、今日も足にしっかりと馴染んでいる。靴紐を結びながら、彼女は靴屋で支払った四十八銅貨のことを思い出した。
決して小さな出費ではなかった。
けれど、歩くたびに踵が不安定になることを気にせずに済むのは、それだけの価値があることだった。
以前のシアなら、自分のためにお金を使うことをためらい、まだ履けるのだからと無理をしていたかもしれない。
今は違う。
自分の身体を守るために必要なものを選ぶことも、大切な判断なのだと少しずつ理解できるようになっていた。
窓辺の秋灯草は、今朝も黄色い花を咲かせていた。
土の表面を指先で確かめると、昨日より乾いているものの、まだわずかに湿り気が残っている。シアは水差しへ手を伸ばしかけたが、少し考えてから元の場所へ戻した。
必要なことを見極める。
それは、何かをすることだけではない。
何もしない方がよいと判断することも含まれている。
シアは鉢の向きを少し整え、階下へ向かった。
◇
《麦穂亭》の厨房には、朝から香ばしい匂いが満ちていた。
オットーは大きな作業台の前で生地をこねており、マルタは棚へ並べるパンの種類を確認している。
冬の市が近づくにつれて、広場の周辺を歩く人々が増えているらしい。
昨日も普段より客足が多く、今日も同じような忙しさになるかもしれなかった。
「おはようございます」
シアが挨拶すると、マルタが顔を上げた。
「おはよう、シア。今日は少し忙しくなりそうだよ」
「はい。昨日も冬の市のお話をされるお客様が多かったですね」
「そうなんだよ。準備を手伝っている人たちも、朝から動いているみたいだからね」
マルタはそう言って、店の入口の方へ目を向けた。
「それで、昨日話していた棚の配置だけれど、今日から少し変えてみようと思うんだ」
シアは頷いた。
昨日、二人で相談したのは、入口近くの小さな台を少し奥へ移すことだった。
客が増えたときに通り道を確保しつつ、商品が見えにくくならないようにする。
大きな変更ではないが、店の使いやすさに関わることだった。
「承知しました。開店前に位置を調整いたしますね」
「うん。私も手伝うよ」
二人は棚の位置を確かめながら、小さな台を慎重に動かした。
ほんの少し場所を変えただけだったが、入口から会計台までの通り道が以前より広く感じられる。
シアは店の外へ出て、扉を開けたときに商品がどのように見えるかも確認した。
「こちらからですと、丸パンと胡桃パンがよく見えますね」
「そうだね。これなら、初めてのお客様にも分かりやすいかもしれない」
マルタは満足そうに頷いた。
「しばらく様子を見て、使いにくければまた変えようか」
「はい。その方がよいと思います」
シアは微笑んだ。
自分の意見が店の仕事に役立っている。
そのことが、静かな喜びになっていた。
◇
開店して間もなく、最初の客が訪れた。
厚手の外套を着た男性で、手には小さな工具箱を持っている。
広場で屋台の組み立てを手伝っているらしく、朝食用のパンを買いに来たという。
「丸パンを六つ頼むよ。仲間の分も買っていきたいんだ」
「ありがとうございます。丸パンを六つですね。三十銅貨になります」
シアが包みを用意すると、男性は店内を見回した。
「ここは広場から近くて助かるな。今朝はまだ何も食べていなかったんだ」
「お仕事、お疲れさまです。冬の市の準備をされているのですか?」
「ああ。屋台の骨組みを組んでいるところさ。今日は風が強くなりそうだから、布を張る前にしっかり固定しておかないとな」
男性はそう言って、工具箱を持ち直した。
「今年は少し屋台の数が増えるらしくてね。通り道を広く取るために、配置を何度も確認しているんだ」
シアは興味深そうに頷いた。
「人が多く集まる場所ですから、安全に歩けることも大切なのですね」
「そういうことだ。せっかくの市で怪我人が出たら困るからな」
男性は包みを受け取り、代金を支払った。
「ありがとう。温かいうちに持っていくよ」
「はい。どうぞ、お気をつけて」
男性が出ていくと、シアは扉の向こうへ目を向けた。
冬の市は、ただ屋台が並ぶだけの催しではない。
その準備には、たくさんの人々が関わっている。
木を組み立てる人。
荷物を運ぶ人。
道を整える人。
そして、訪れる人々を迎える店の人たち。
それぞれの仕事が重なり合って、一つの賑わいが生まれるのだ。
そう考えると、冬の市がますます楽しみになった。
◇
午前中は、いつもより客足が多かった。
広場の準備を手伝っている人々が何人も訪れ、丸パンや胡桃パンが次々と売れていく。
シアは注文を聞きながら、昨日変更した棚の配置が役立っていることに気づいた。
入口の近くで客が立ち止まっても、奥へ進む人の邪魔になりにくい。
会計台の前も、以前より少し余裕がある。
マルタも同じことを感じていたらしく、客足が落ち着いたところで小さく頷いた。
「シア、昨日の案は正解だったね」
「ありがとうございます。お客様が通りやすくなったようで、よかったです」
「うん。こういう小さな工夫が、店を続けるうえでは大切なんだよ」
シアは嬉しそうに頷いた。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、見覚えのある年配の男性だった。
以前から何度か店を訪れている客で、今日は少し困ったような表情をしている。
「こんにちは。黒麦パンは、まだ買えないのかな?」
シアは丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ。申し訳ありません。現在も黒麦粉の入荷予定が分からず、店頭での販売をお休みしております」
男性は残念そうに眉を下げた。
「そうか。そろそろ戻ってくるかと思ったんだがな」
「北方の道路補修は進んでいると聞いておりますが、重量荷車の通行制限は続いているそうです。そのため、到着時期についてはまだお伝えできないのです」
シアは、分かっていることだけを正確に説明した。
男性はしばらく考えたあと、棚に並んだ丸パンへ目を向けた。
「それなら、今日は丸パンを四つもらおうか」
「ありがとうございます。四つで二十銅貨になります」
シアは包みを用意しながら、男性の表情を確かめた。
残念そうではあるものの、怒っている様子はない。
以前なら、希望の商品を用意できないことに強い責任を感じていたかもしれない。
けれど今は、店としてできることとできないことを、少しずつ区別できるようになっていた。
男性は代金を支払い、包みを受け取った。
「入ってきたら、また買いに来るよ」
「はい。入荷の見通しが分かりましたら、お店でもご案内いたします」
「ありがとう。忙しそうだが、頑張ってな」
男性はそう言って、店を出ていった。
シアは穏やかな気持ちで見送った。
できないことを無理に約束しない。
分かっていないことを、分かったように伝えない。
それも、客を大切にするために必要なことなのだ。
◇
昼食の時間になると、厨房には少し落ち着いた空気が戻ってきた。
マルタは温かなスープを器へよそい、オットーは焼き上がったパンの一部を食卓へ運んだ。
シアは手を洗い、椅子へ腰を下ろした。
「今日はずいぶん忙しかったですね」
シアが言うと、マルタは笑った。
「そうだね。冬の市が始まったら、もっと賑やかになるかもしれないよ」
「それは楽しみですが、お仕事も大変になりそうですね」
「まあ、忙しいのは悪いことじゃないさ。ただ、無理をしないようにしないとね」
マルタはそう言って、スープを口へ運んだ。
オットーは少し考えたあと、口を開いた。
「冬の市が始まるなら、朝の仕込みも少し調整した方がいいかもしれんな」
「そうだね。でも、黒麦粉のこともあるから、急に種類を増やすわけにはいかないよ」
「分かっている。今ある材料で、無理なく作れる範囲を考えるだけだ」
二人は自然に相談を始めた。
シアはそのやり取りを聞きながら、店の仕事について考えていた。
冬の市は楽しみな催しだ。
けれど、店にとっては客足が増える可能性がある時期でもある。
普段と同じように働くだけでは、対応しきれないこともあるかもしれない。
だからこそ、事前に準備をする必要がある。
「マルタさん、もしよろしければ、冬の市が始まる前に包み紙や紐の数を確認しておきましょうか」
シアが提案すると、マルタは顔を上げた。
「それは助かるね。客が増えると、包み紙もいつもより多く使うだろうから」
「はい。足りなくなってから慌てないように、今のうちに確認しておきたいと思います」
「うん。お願いするよ」
シアは嬉しそうに頷いた。
自分から仕事を見つけ、提案する。
そのことが、以前より自然にできるようになっていた。
◇
午後になると、空は少し明るくなった。
店の窓から差し込む光が棚の上を照らし、焼きたてのパンの表面を柔らかく輝かせている。
シアはマルタと一緒に包み紙や紐の在庫を確認していた。
棚の奥に置かれた束を取り出し、種類ごとに数を確かめる。
不足しそうなものがあれば、帳面へ書き留める。
そうした作業を進めていると、扉の鈴が鳴った。
シアが顔を上げると、そこには見覚えのある青年が立っていた。
整った身なりに、落ち着いた表情。
アルヴェイン公爵家の跡取りである、レオンハルトだった。
「こんにちは。お忙しいところ、失礼します」
「レオンハルト様!」
シアは思わず姿勢を正した。
レオンハルトは穏やかに微笑み、軽く頭を下げた。
「こんにちは、シアさん。今日は近くで用事がありまして、少し立ち寄らせていただきました」
「いらっしゃいませ。お越しいただき、ありがとうございます」
シアは丁寧に答えた。
レオンハルトが店を訪れることは、以前にもあった。
道路の補修や街の様子について話をしたこともある。
けれど、こうして突然姿を見せると、やはり少し緊張してしまう。
それでも、以前のように身体が強張ることはなかった。
彼がいつも穏やかに話してくれることを、シアは知っている。
レオンハルトは店内を見回し、少しだけ目を細めた。
「棚の配置が変わりましたね」
その言葉に、シアは驚いた。
「お気づきになったのですか?」
「ええ。以前より入口の通り道が広くなったように見えます」
レオンハルトはそう言って、入口から会計台までの空間へ視線を向けた。
「冬の市が近づいているので、お客様が増えることを考えて少し位置を変えたのです」
「なるほど。よい工夫ですね」
その言葉に、シアの胸が温かくなった。
「ありがとうございます。マルタさんと相談して、少しずつ試しているところです」
レオンハルトは穏やかに頷いた。
「実際に使う方の意見を取り入れることは、とても大切だと思います」
その言葉は、シアにとって嬉しいものだった。
自分の考えが、店の役に立っている。
そして、それを誰かが気づいてくれる。
そんな経験が、少しずつ自信につながっていた。
◇
レオンハルトは丸パンを二つと胡桃パンを一つ購入した。
シアが包みを用意していると、彼は窓の外へ目を向けた。
「中央広場の準備も、だいぶ進んできましたね」
「はい。今朝も、屋台を組み立てる音が聞こえました」
「今年は通りの補修が一部残っているため、荷車の出入りには少し注意が必要なのですが、準備を進めている方々が協力してくださっています」
レオンハルトは穏やかに話した。
「冬の市は、多くの人にとって楽しみな催しですから、できるだけ安全に開けるようにしたいと思っています」
シアは頷いた。
「私も、冬の市を楽しみにしています」
その言葉に、レオンハルトは少し驚いたように目を向けた。
「そうなのですか?」
「はい。友人と一緒に見に行く約束をしたのです」
シアは嬉しそうに答えた。
「この街で冬の市へ行くのは初めてなので、どのようなものが並ぶのか、とても楽しみです」
レオンハルトはその表情を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「それはよかったですね。きっと楽しい時間になると思います」
「ありがとうございます」
シアは少し照れながら答えた。
レオンハルトは続けて言った。
「冬の市には、毎年さまざまな手仕事の品が並びます。もし興味があるなら、布小物や木工品を扱う屋台も見てみるとよいかもしれません」
「はい。私も、布小物を見てみたいと思っていました」
「そうでしたか。それなら、きっと気に入るものが見つかるかもしれませんね」
レオンハルトはそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見ていると、シアの胸の奥が穏やかに温かくなる。
彼と話しているとき、以前のように身分の違いばかりを意識することが少なくなっていた。
もちろん、レオンハルトが公爵家の跡取りであることは理解している。
けれど、彼はいつもシアの話を最後まで聞き、一人の人間として接してくれる。
そのことが、彼女にとって何よりありがたかった。
◇
レオンハルトが店を出たあと、マルタは会計台の近くへやってきた。
「今日はレオンハルト様もいらしたんだね」
「はい。近くでお仕事があったそうです」
「そうかい。冬の市の準備も、いろいろ大変なんだろうね」
マルタはそう言って、窓の外へ目を向けた。
シアは包み紙を整えながら、先ほどの会話を思い返していた。
レオンハルトは、店の棚の配置が変わったことに気づいてくれた。
ほんの小さな変化だったのに、それを見て、よい工夫だと言ってくれた。
その言葉が、胸の奥に残っていた。
「シア、何か嬉しいことでもあったのかい?」
マルタに尋ねられ、シアは少し驚いた。
「……はい。棚の配置を変えたことに、レオンハルト様が気づいてくださったのです」
マルタは目を細めた。
「なるほどね。自分たちで考えたことを褒めてもらえると、嬉しいものだよね」
「はい。とても嬉しかったです」
シアは素直に答えた。
マルタはそれ以上からかうことなく、穏やかに頷いた。
「それなら、これからも少しずつ工夫していこうか」
「はい」
シアは微笑んだ。
その笑顔は、以前よりずっと自然なものになっていた。
◇
夕方、店の営業が終わる頃には、外の空気が再び冷たくなっていた。
シアは棚を拭き、残った包み紙を整えながら、今日の仕事を振り返っていた。
冬の市の準備をしている人々が来店したこと。
棚の配置を変えたことで、客が通りやすくなったこと。
包み紙や紐の在庫を確認できたこと。
そして、レオンハルトが立ち寄ってくれたこと。
どれも、彼女にとって大切な出来事だった。
マルタは帳簿を閉じ、シアへ声をかけた。
「今日もお疲れさま。忙しかったけれど、よく頑張ってくれたね」
「ありがとうございます。少しずつ、お店のことを考えて動けるようになってきた気がします」
「そうだね。最初の頃より、ずいぶん頼もしくなったよ」
その言葉に、シアは少し照れた。
「まだまだ教えていただくことばかりですが……」
「それでいいんだよ。私たちだって、今でも新しく覚えることはあるんだから」
マルタはそう言って、優しく笑った。
シアは深く頷いた。
この店で働くようになってから、彼女はたくさんのことを学んだ。
パンの扱い方。
客との接し方。
帳簿や在庫の管理。
そして、仕事をするうえで、自分の判断を持つこと。
どれも、今の彼女を支えている。
◇
夕食のあと、シアは自室へ戻った。
窓の外には夜の街が広がり、中央広場の方角からは、まだ人々の声がかすかに聞こえてくる。
机の上には、冬の市の予定を書いた帳面が置かれていた。
シアは椅子へ腰を下ろし、今日の出来事を丁寧に書き留めた。
棚の配置を少し変えたこと。
包み紙や紐の在庫を確認したこと。
冬の市の準備をしている人々が、店を訪れたこと。
そして、レオンハルトが来店し、店の工夫に気づいてくれたこと。
書き終えた文字を眺めていると、胸の奥に静かな喜びが広がった。
この街へ来たばかりの頃、彼女は自分の居場所を見つけることだけで精一杯だった。
誰にも知られず、静かに暮らせる場所がほしかった。
それだけで十分だと思っていた。
けれど、今は少し違う。
自分の仕事が誰かの役に立つこと。
友人と出かける約束があること。
店の人々と相談しながら、毎日を過ごせること。
そんな小さな喜びが、少しずつ増えていた。
(……私は、この場所が本当に好きなのですね)
シアは静かに微笑んだ。
以前、レオンハルトへ、この街が好きだと伝えたことがある。
そのときも本心だった。
けれど、今はその気持ちが、さらに深くなっているように感じた。
この街には、まだ知らないことがたくさんある。
冬の市も、その一つだ。
けれど、知らないことがあるからこそ、これから知っていく楽しみがある。
そう思うと、未来が少しだけ明るく見えた。
シアは机の引き出しから、母の形見である銀のペンダントを取り出した。
小さな銀の飾りは、灯りを受けて柔らかく輝いている。
指先で表面をなぞりながら、彼女は静かに息を吐いた。
(……お母様。私は今、少しずつ自分の居場所を作っています)
その思いは、言葉にすることなく胸の中へしまった。
母が生きていた頃の記憶は、今も大切に残っている。
けれど、失ったものばかりを見つめるのではなく、今ここにある温かさを大切にしたい。
そう思えるようになったことが、何より嬉しかった。
◇
同じ頃、レオンハルトは公爵家の執務室で、冬の市に関する書類を確認していた。
机の上には中央広場周辺の簡単な図面が広げられ、屋台の配置や荷車の通行経路についての記録が並んでいる。
今年は一部の道路補修が続いているため、例年より慎重な調整が必要だった。
レオンハルトは担当者からの報告を読み、必要な箇所へ印をつけた。
人が多く集まる催しだからこそ、安全を優先しなければならない。
屋台の配置が少し変わるだけでも、人の流れは大きく変わる。
そのことを考えながら、彼はふと、今日立ち寄った《麦穂亭》のことを思い出した。
店の入口近くの棚が、少しだけ移動されていた。
ほんの小さな変化だったが、通り道が広くなり、客が入りやすくなっていた。
そして、その工夫について話すシアの表情は、とても嬉しそうだった。
(……あの店での暮らしが、彼女にとって大切なものになっているのだろうな)
レオンハルトは静かに思った。
シアがどこから来たのか、どのような過去を持っているのか、詳しいことは知らない。
けれど、彼女が今の仕事を大切にしていることは、話していれば伝わってくる。
小さな工夫を喜び、客のことを考え、店の人々と相談しながら働いている。
その姿には、自然と好感を覚えた。
レオンハルトは書類へ視線を戻した。
冬の市が始まれば、街はさらに賑やかになるだろう。
シアも友人と一緒に見に行くと言っていた。
その時間が、彼女にとって楽しいものになればよい。
そう願いながら、彼は再び仕事へ集中した。
◇
《麦穂亭》の二階では、シアが寝台へ入る準備を整えていた。
窓の外では冷たい風が吹き、遠くの広場からは、冬の市の準備を終えた人々の話し声がかすかに届いている。
秋灯草は今夜も静かに咲き、机の上には帳面が置かれていた。
シアは厚い毛布を肩まで掛け、今日の出来事を思い返した。
冬の市へ向けて、街が少しずつ変わっていること。
店も、その変化に合わせて準備を進めていること。
そして、自分もその一員として働けていること。
それが、何より嬉しかった。
以前の彼女は、誰かの役に立つことを、自分の価値を証明するためのものだと思っていた。
役に立たなければ、居場所を失う。
そんな恐れが、いつも胸の奥にあった。
けれど今は違う。
仕事ができた日も、うまくいかなかった日も、マルタとオットーは変わらず接してくれる。
ミレイユは友人として会いに来てくれる。
レオンハルトも、彼女の話を丁寧に聞いてくれる。
その一つ一つが、シアの中に新しい安心感を育てていた。
(……私は、ここで暮らしていきたいです)
その思いは、以前よりもはっきりしていた。
この街で働き、友人と笑い、季節の移り変わりを感じながら暮らしていく。
そんな未来を、今は自然に思い描ける。
シアは静かに目を閉じた。
冬の市が始まる日には、きっと中央広場がたくさんの人で賑わうだろう。
屋台にはさまざまな品が並び、温かな飲み物の香りが漂い、笑い声が聞こえてくるかもしれない。
その中を、ミレイユと一緒に歩く。
想像するだけで、胸の奥が温かくなった。
自分のために選んだ約束。
自分の手で少しずつ作っている居場所。
そのどちらも、今のシアにとって大切なものだった。
窓の外で冬の風が静かに鳴る中、彼女は穏やかな眠りへ落ちていった。




