第69話 冬の市の招待状と、私が自分のために選んだ約束
冬の朝、シアは窓の向こうから聞こえてくる木槌の音で目を覚ました。
まだ夜明けから間もない空は青みを帯びた灰色で、向かいの建物の屋根には薄く霜が降りている。遠くで何かを組み立てているらしく、規則正しい音がしばらく続いたあと、男たちの声が風に乗ってかすかに届いた。
中央広場で始まった冬の市の準備だろうか。
《麦穂亭》は広場から二本裏の通りにあるため、普段は朝早くから人の声が届くことなどほとんどない。それでも冬の市が近づくにつれて、街全体が少しずつ落ち着かなくなっているようだった。
(……もう、準備が進んでいるのですね)
シアは毛布を肩から外し、冷たい床へ足を下ろした。
窓辺に置いた秋灯草は、今朝も小さな黄色い花を咲かせていた。土の表面を確かめると昨日より少し乾いていたものの、指先を浅く入れたところにはまだ湿り気が残っている。水を足すのはもう少し待とうと決め、窓から離れた。
身支度を整え、修理を終えた革靴へ足を入れる。
踵の補強部分にはまだ新しい革特有の硬さがあるが、足を入れたときの収まりはよく、歩いても痛みはない。靴屋の主人が丁寧に直してくれたことを思い出しながら紐を結ぶと、シアは机の上の帳面へ目を向けた。
次の休日にしたいことが書かれている。
ミレイユと冬の市へ行くこと。
図書館へ本を返すこと。
街をゆっくり歩くこと。
ただし、まだ友人の勤務予定は確定していない。自分の休みも店の都合によって変わる可能性があるため、約束として決まったわけではなかった。
それでも、予定が書かれた頁を見ると、胸の奥に温かなものが灯る。
シアは帳面を閉じ、階下へ向かった。
◇
厨房では、オットーが大きな木鉢の中で生地をこねていた。
窯から伝わる熱が冷えた頬を温め、焼き始めたパンの香りが鼻先をくすぐる。作業台には丸める前の生地が並び、その脇には朝の注文を確認するための紙が置かれていた。
「おはようございます、オットーさん」
「おう、おはよう。外はずいぶん冷えるらしいな。今朝はいつもより窯の火がありがたい」
「はい。広場の方から、何かを組み立てているような音が聞こえました」
「冬の市の準備だろうな。あの時期は、朝から大工も荷運びも忙しいんだ」
オットーは生地を折り返しながら答えた。
「広場へ屋台を出す連中の中には、毎年同じ場所を使う者もいる。だが、今年は通りの一部を直しているから、配置が少し変わるかもしれんな」
「そうなのですね。人が多く集まる場所ですから、通り道も大切なのですね」
「そういうことだ。人だけならともかく、荷車も出入りするからな」
シアは手を洗い、作業台の端へ立った。
パン屋の仕事に慣れ始めた今でも、朝の仕込みには独特の緊張感がある。生地の状態は気温や湿度によって少しずつ変わり、同じ手順を繰り返していても、まったく同じ結果になるとは限らない。
オットーはその変化を指先で確かめながら、必要な作業を選んでいる。
シアは彼の手元を見つめ、教わったことを思い返しながら生地を整えた。
しばらくすると、マルタが裏口から入ってきた。
肩には厚手の外套を掛け、片手に小さな紙包みを持っている。
「おはよう。二人とも、今朝はちょっと面白いものを見つけたよ」
マルタは外套を脱ぐと、紙包みを作業台の端へ置いた。
中に入っていたのは、小さな焼き菓子だった。表面には細かな砂糖が振られ、香ばしい匂いが漂っている。
「広場の準備を手伝っている人が、試しに焼いたものを分けてくれたんだ。冬の市で売るつもりらしいよ」
「へえ、ずいぶん早いな」
オットーが顔を上げる。
「まだ屋台も立っていないのに、もう試作か」
「今年は香辛料を少し変えたらしくてね。味を見てほしいと言われたんだよ」
マルタは菓子を三つに分け、シアにも差し出した。
「仕事の区切りがついたら食べてごらん。冬の市へ行く前に、少しだけ雰囲気を味わえるよ」
「ありがとうございます。とてもいい香りですね」
シアは嬉しくなって、思わず笑みを浮かべた。
それを見たマルタは、何か思いついたように目を細める。
「そういえば、シア。冬の市へ行くなら、あんたにも一つ教えておきたいことがあるんだ」
「何でしょうか?」
「屋台では、同じように見えるものでも値段が違うことがあるんだよ。布小物なんかは特にそうさ。見た目だけで決めず、手に取って確かめてから買うといい」
シアは頷いた。
「縫い目や布の厚さなども、確かめた方がよいのでしょうか」
「そうだね。あんたなら、そういうところを見るのが上手そうだ。もっとも、見て回るだけでも十分楽しいんだから、無理に何か買う必要はないよ」
その言葉に、シアは少しだけ肩の力が抜けた。
何かを買わなければならないわけではない。
ただ、見て楽しむだけでもよい。
自分のための時間を過ごすことに、まだ少し慣れていない彼女にとって、その考え方は心地よかった。
◇
開店すると、店には次々と客が訪れた。
冷え込みが強くなったせいか、温かいパンを求める人が多い。丸パンや胡桃パンを買っていく客の中には、冬の市の準備について話していく人もいた。
シアは注文を聞きながら、少しずつ広場の様子を知っていった。
木製の屋台が運び込まれていること。
今年は布小物や木工品を扱う店が増えるらしいこと。
温かい飲み物を売る店も出る予定だということ。
どれも客同士の会話から聞こえてきた話であり、確かな情報ばかりとは限らない。それでも、街の人々が冬の市を楽しみにしていることは十分に伝わってきた。
昼前、若い母親が小さな男の子を連れて来店した。
男の子は棚に並んだパンをじっと見つめ、母親の袖を引っ張っている。
「お母さん、あれがいい」
「どれのこと?」
「あの、丸くて小さいの」
母親が視線を向けた先には、小さな白パンが並んでいた。
シアは微笑み、会計台の向こうから声をかけた。
「こちらの小さな白パンでしょうか?」
男の子は少し恥ずかしそうに頷いた。
「はい……」
「ありがとうございます。一つ三銅貨になります」
母親は二つ買うことにしたらしく、財布を取り出した。
シアが包みを用意していると、男の子は店の奥へ視線を向け、興味深そうに尋ねた。
「パンって、どうやって丸くするの?」
思いがけない質問に、シアは一瞬だけ驚いた。
けれど、男の子の真剣な表情を見ているうちに、自然と笑みが浮かんだ。
「生地を手で包み込むようにして、少しずつ形を整えるのですよ」
「手で?」
「はい。ただ、柔らかい生地なので、強く押しすぎないように気をつけるのです」
男の子は自分の小さな手を見つめ、指を丸めてみせた。
「こう?」
「そうですね。とても上手です」
シアが答えると、男の子は嬉しそうに笑った。
母親もその様子を見て、柔らかな表情になる。
「この子、最近何でも自分でやりたがるんです。家でもパンを作りたいと言い出していて」
「そうなのですね。きっと楽しいと思います」
シアは包みを渡しながら、男の子へ目を向けた。
「でも、熱い窯や火の近くでは、必ず大人の方と一緒にしてくださいね」
「うん!」
男の子は元気よく頷き、母親と手をつないで店を出ていった。
シアはその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に小さな温かさを感じた。
誰かが何かを知りたいと思うこと。
自分の手で試してみたいと思うこと。
その気持ちを、周囲の大人が笑わずに受け止めること。
今の自分も、少し似た場所にいるのかもしれない。
そう思うと、不思議と嬉しくなった。
◇
昼食のあと、マルタは帳簿を確認しながら、シアへ声をかけた。
「今日は午後のうちに、少し棚の配置を変えておこうかと思うんだ」
「棚の配置ですか?」
「ああ。冬の市が始まると、広場へ向かう人がこの通りを通ることもあるだろう? 店の前が少し賑やかになるかもしれないからね」
シアは店内を見回した。
入口の近くには丸パンと胡桃パンが並び、奥には甘いパンや小さな白パンが置かれている。会計台の前は普段なら十分な広さがあるが、客が重なると少し狭く感じることもあった。
「なるほど。お客様が増えたとき、通りやすいようにするのですね」
「そういうことだよ。ただ、売り場を大きく変えるつもりはないんだ。いつものお客様が迷ってしまっても困るからね」
マルタはそう言って、棚の端へ手を置いた。
「シアはどう思う?」
その問いに、シアは少し驚いた。
自分の意見を求められることは、以前より増えてきた。
それでも、店の配置について尋ねられると、まだ少し緊張する。
シアは棚と入口の距離を見比べ、慎重に考えた。
「……もし、入口に近いこちらの小さな台を少し奥へ移せば、お客様が立ち止まっても通り道を確保できると思います」
マルタは視線を向けた。
「なるほどね。確かに、そこなら邪魔にならないかもしれない」
「ただ、奥へ移しすぎると、商品が見えにくくなってしまうかもしれません。少しだけ位置を変えて、様子を見るのはいかがでしょうか」
シアがそう続けると、マルタは満足そうに頷いた。
「いい考えだね。最初から大きく変えず、試してみるのがよさそうだ」
その言葉に、シアはほっとした。
自分の意見が、店の仕事に役立つ。
それは嬉しいことだった。
けれど、以前のように、正しい答えを出さなければならないという焦りはなかった。
考えを伝え、相手と相談しながら決める。
それでよいのだと、少しずつ思えるようになっていた。
◇
午後の営業が始まってしばらくすると、扉の鈴が軽やかに鳴った。
シアが顔を上げると、そこには見覚えのある女性騎士が立っていた。
赤みがかった茶色の髪を後ろでまとめ、肩には厚手の外套を掛けている。冷たい風に当たった頬が少し赤くなっていたが、琥珀色の瞳はいつものように明るかった。
「こんにちは、シア」
「ミレイユさん!」
思わず声が弾んだ。
ミレイユはその反応に嬉しそうに笑い、店の中へ入ってきた。
「仕事の途中じゃないから安心して。今日は少し早く勤務が終わったの」
「そうなのですね。お疲れさまです」
「ありがとう。実は、伝えたいことがあって寄ったのよ」
その言葉に、シアの胸が高鳴った。
もしかすると、冬の市の予定だろうか。
ミレイユは会計台の前へ立ち、少しだけ声を落とした。
「この前話していた半日休暇、正式に取れることになったの」
シアは目を見開いた。
「本当ですか?」
「ええ。勤務の調整が終わったから、もう大丈夫よ。もしシアの都合がよければ、その日に冬の市へ行かない?」
胸の奥に、温かな喜びが広がった。
シアはすぐに返事をしかけたが、そこで一度立ち止まった。
自分の休みについては、マルタから予定どおり取れそうだと聞いている。
けれど、まだ最終的な確認をしていない。
以前なら、相手を待たせたくない一心で、その場で約束してしまったかもしれない。
しかし、今は違う。
シアは少しだけ息を整え、ミレイユへ向き直った。
「ぜひご一緒したいです。ただ、お店のお休みについて、もう一度確認してもよろしいでしょうか」
ミレイユは穏やかに頷いた。
「もちろん。急いで決めなくても大丈夫よ」
「ありがとうございます。少しだけお待ちください」
シアはマルタのところへ向かった。
事情を聞いたマルタは、すぐに頷いた。
「ああ、例のお休みだね。今朝もオットーと確認したから、予定どおり取ってもらって大丈夫だよ」
「本当ですか?」
「もちろん。せっかくの約束なんだから、楽しんでおいで」
シアは胸の奥がいっぱいになるのを感じた。
「ありがとうございます」
そして、ミレイユのところへ戻ると、嬉しさを隠しきれないまま答えた。
「お休みをいただけることになりました。ぜひ、一緒に冬の市へ行きたいです」
ミレイユはぱっと笑顔になった。
「よかった! それじゃあ、決まりね」
その言葉を聞いた瞬間、シアは自分の胸が大きく弾むのを感じた。
友人と約束をする。
その日を楽しみに待つ。
そんな当たり前のことが、今の彼女にはとても大切だった。
◇
ミレイユは丸パンを二つ買い、包みを受け取ったあとも少しだけ店内に残っていた。
ほかの客がいない時間だったため、シアは会計台の内側から、冬の市について話を聞くことができた。
「中央広場では、もう屋台の準備が始まっているそうですね」
「ええ。今朝も巡回の途中で見かけたわ。木製の屋台が何台も運び込まれていて、職人たちが忙しそうにしていたの」
「私も、朝に音が聞こえました」
「そうなのね。まだ全部の店が決まったわけじゃないみたいだけれど、今年もいろいろなものが並ぶと思うわ」
ミレイユは楽しそうに話した。
「私も久しぶりにゆっくり見て回れるから、楽しみなの。普段は巡回で広場を通ることがあっても、仕事中に屋台を眺めるわけにはいかないもの」
「そうですよね。お仕事中は、周囲の安全を確認しなければなりませんものね」
「ええ。だから、休みの日くらいは普通のお客さんとして歩きたいのよ」
その言葉に、シアは微笑んだ。
騎士として働くミレイユは、いつも凛としている。
けれど、こうして話しているときの彼女は、友人と出かけることを楽しみにしている一人の女性だった。
シアはその姿が、なんだか嬉しかった。
「私も、普通のお客様として冬の市を見て回りたいです」
「それなら、きっと楽しいわ。何か見たいものはある?」
シアは少し考えた。
「布小物や手仕事の品を見てみたいです。それから、温かい飲み物を売る屋台があるとお聞きしましたので、そちらも気になっています」
ミレイユは目を輝かせた。
「ああ、いいわね。寒い日に飲む温かい果実の飲み物は、本当に美味しいのよ」
「そうなのですね。ますます楽しみになってきました」
「それに、冬の市には小さな飾り物も並ぶことがあるわ。窓辺に置くものや、紐で吊るすものなんかもね」
シアは思わず、部屋の秋灯草を思い浮かべた。
窓辺に置く小さな飾り。
もし気に入ったものがあれば、花の隣に置いてみるのもよいかもしれない。
けれど、今すぐ買うと決める必要はない。
まずは見てから考えよう。
そう思うと、気持ちが少し軽くなった。
◇
話がひと段落したところで、ミレイユはふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、シア。靴の具合はどう?」
シアは嬉しそうに頷いた。
「はい。修理していただいた靴を履いていますが、今のところ痛みはありません」
「それならよかった。冬の市は歩くことが多いから、足元が心配だったのよ」
「ありがとうございます。靴屋の方にも、しばらくは様子を見るように言われていますので、無理をしないようにします」
ミレイユは安心したように微笑んだ。
「それなら大丈夫そうね。でも、当日少しでも痛くなったら、遠慮なく言ってちょうだい。途中で休むこともできるし、全部見て回らなくてもいいんだから」
その言葉に、シアは少しだけ胸が温かくなった。
以前なら、せっかく誘ってもらったのだから、最後まで付き合わなければならないと思っていただろう。
けれど、ミレイユは最初から、無理をしなくてよいと言ってくれる。
それが、とても嬉しかった。
「はい。ありがとうございます。私も、無理をせずに楽しみたいと思います」
「うん。それが一番よ」
ミレイユはそう言って、柔らかく笑った。
シアも自然と笑みを返した。
そのとき、店の奥からマルタが声をかけた。
「ミレイユさん、せっかくだから、冬の市のことをもう少し教えてやっておくれ。シアは初めてなんだよ」
「もちろんです。私も詳しいわけではありませんが、知っていることなら何でも」
ミレイユは明るく答えた。
マルタは満足そうに頷き、厨房へ戻っていった。
シアはその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に静かな喜びを感じた。
自分の友人が店を訪れ、マルタと自然に言葉を交わしている。
その光景が、なんだかとても温かかった。
◇
しばらくして、ミレイユは外套の襟を整えた。
「それじゃあ、そろそろ戻るわね。今日は少し早く仕事が終わったとはいえ、明日の準備もあるから」
「はい。お忙しい中、わざわざお知らせに来てくださってありがとうございます」
「いいのよ。私も早く伝えたかったから」
ミレイユはそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「それに、シアが喜んでくれると思ったら、つい足が向いちゃったの」
その言葉に、シアの頬が少し熱くなった。
「……とても嬉しかったです」
素直に答えると、ミレイユは優しく微笑んだ。
「私もよ。当日は、中央広場の噴水のところで待ち合わせましょうか。前に会った場所なら、分かりやすいでしょう?」
「はい。分かります」
「それじゃあ、午前中の少し遅い時間にしましょう。あまり早いと、屋台の準備が終わっていないかもしれないから」
シアは頷いた。
具体的な時間については、二人で相談しながら決めた。
待ち合わせ場所は、中央広場の噴水前。
冬の市が始まってからの、互いの休みが重なる日。
そして、無理をせず、ゆっくり見て回ること。
それが、二人の約束になった。
「それでは、当日を楽しみにしています」
「ええ。私も楽しみにしているわ」
ミレイユは最後にもう一度笑い、店を出ていった。
扉の鈴が鳴り、冷たい外気が一瞬だけ店内へ入り込む。
シアはその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に広がる温かさを感じていた。
約束ができた。
自分から行きたいと伝え、相手と相談し、予定を決めた。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
夕方の営業を終える頃、店の外では冷たい風が強くなっていた。
シアは棚を整えながら、今日の出来事を思い返していた。
ミレイユが来てくれたこと。
冬の市へ行く約束が決まったこと。
そして、自分の希望をきちんと伝えられたこと。
どれも、彼女にとって大切な出来事だった。
マルタは会計台を拭きながら、そんなシアの表情を見て笑った。
「今日はずいぶん嬉しそうだね」
シアは少し照れながら頷いた。
「はい。ミレイユさんと冬の市へ行く約束ができましたので」
「それはよかった。あの子も楽しみにしているみたいだったね」
「はい。私も、とても楽しみです」
マルタは満足そうに頷いた。
「せっかくの休日なんだから、仕事のことは気にせず楽しんでおいで」
「ありがとうございます」
シアはそう答えながら、ふと気になっていたことを口にした。
「ただ……私が休むことで、お店が忙しくなってしまわないでしょうか」
マルタは少し驚いたように眉を上げた。
「何を言っているんだい。休みの日は休むものだよ」
「はい。分かっているつもりなのですが、冬の市が始まるとお客様も増えるかもしれませんし……」
「だからこそ、今のうちに準備しているんじゃないか」
マルタは穏やかに笑った。
「シアが休む日も、店はちゃんと回るように考えているよ。あんたがいなければ何もできないなんてことになったら、それこそ困るだろう?」
シアはその言葉に、はっとした。
自分が必要とされることは嬉しい。
けれど、自分がいなければ誰も困ることを解決できないという状態は、決してよいことではない。
店は、マルタとオットーが長年守ってきた場所だ。
自分はその一員として働いているのであって、すべてを背負うためにいるわけではない。
「……そうですね。ありがとうございます」
シアが静かに答えると、マルタは優しく頷いた。
「うん。楽しみなことがあるなら、遠慮せず楽しみにしておきなさい」
その言葉が、シアの胸に深く残った。
◇
夕食のあと、シアは自室へ戻った。
窓の外には夜の街が広がり、遠くの広場の方から、まだ作業を続けているらしい音がかすかに聞こえてくる。
机の上には、読み終えた本と帳面が置かれていた。
シアは椅子へ腰を下ろし、帳面を開いた。
そこには、以前書き留めた休日の予定が並んでいる。
彼女はその下へ、今日決まったことを丁寧に書き加えた。
ミレイユと冬の市へ行く。
中央広場の噴水前で待ち合わせる。
図書館へも寄る予定。
無理をせず、ゆっくり楽しむこと。
書き終えた文字を眺めていると、胸の奥が温かくなった。
自分のために予定を立てる。
友人と会う約束をする。
行きたい場所を考える。
どれも、以前の自分には遠いものだった。
伯爵家にいた頃、彼女の一日は、誰かから命じられた仕事や役割で埋まっていた。
自分の希望を尋ねられることはほとんどなく、たとえ尋ねられたとしても、相手が望む答えを選ぶことが当たり前になっていた。
だからこそ、今こうして自分の予定を書いていることが、不思議に感じられる。
(……私は、こんなふうに楽しみにしていてもよいのですね)
シアは静かに微笑んだ。
そのとき、机の端に置いた銀のペンダントが目に入った。
母の形見である小さな銀の飾り。
彼女はそっと手に取り、指先で表面をなぞった。
冷たい金属の感触が、少しずつ手の温もりを帯びていく。
母が生きていた頃の記憶は、今も胸の奥に残っている。
けれど、今の自分には、新しい思い出も増えていた。
マルタとオットーに迎えられた日。
初めて自分の仕事で給金を受け取った日。
ミレイユと図書館へ行った日。
そして、冬の市へ行く約束をした今日。
その一つ一つが、彼女の中で大切なものになっている。
シアはペンダントを胸元へ戻し、静かに息を吐いた。
(……お母様。私は今、少しずつ幸せな時間を増やしています)
その思いを胸に抱きながら、彼女は窓の外へ目を向けた。
冬の街には、まだ知らない景色がたくさんある。
けれど、これからはそれを一人で眺めるだけではない。
友人と一緒に歩き、笑い、話しながら、新しい思い出を作ることができる。
その未来を思うと、自然と頬が緩んだ。
◇
同じ頃、ミレイユは自室で外套を脱ぎ、椅子へ腰を下ろしていた。
窓の外では冷たい風が吹き、遠くの通りに灯る明かりが揺れている。
彼女は今日、《麦穂亭》で見たシアの笑顔を思い出していた。
冬の市へ行く約束が決まったとき、あの少女は本当に嬉しそうだった。
その表情を思い出すだけで、ミレイユの胸にも温かなものが広がる。
(……よかった。シアも楽しみにしてくれているのね)
最初に出会った頃のシアは、何かを頼まれるとすぐに謝り、自分の希望を口にすることをためらっていた。
けれど、最近は少しずつ変わってきた。
自分の好きなことを話し、行きたい場所を伝え、友人との時間を楽しみにしている。
ミレイユはその変化を嬉しく思っていた。
もちろん、シアがどのような過去を過ごしてきたのか、詳しいことは知らない。
無理に聞き出すつもりもなかった。
ただ、今の彼女が安心して笑える場所を見つけているなら、それでよい。
そして、自分もその時間の一部になれたら嬉しい。
そう思いながら、ミレイユは机の上の予定表へ目を向けた。
冬の市へ行く日には、騎士としてではなく、一人の友人としてシアと歩きたい。
仕事の話ばかりではなく、好きなものや気になるものについて話したい。
もしシアが何かを買うなら、一緒に選ぶのも楽しそうだ。
ミレイユは小さく笑い、予定表を閉じた。
明日も仕事はある。
けれど、その先に楽しみな約束があると思うと、少しだけ気持ちが軽くなる。
それは、シアだけではなく、ミレイユにとっても同じだった。
◇
《麦穂亭》の二階では、シアが寝台へ入る準備を整えていた。
秋灯草は今夜も静かに咲き、机の上には冬の市の予定を書いた帳面が置かれている。
シアは厚い毛布を肩まで掛け、今日の出来事を思い返した。
ミレイユが訪ねてきてくれたこと。
自分の休みを確認してから、約束を決めたこと。
そして、楽しみにしている気持ちを素直に伝えられたこと。
どれも、彼女にとって大切な一歩だった。
以前なら、相手を待たせることが怖くて、すぐに返事をしていたかもしれない。
けれど、今日は違った。
自分の予定を確認し、相手と相談しながら決めることができた。
そのことが、静かな自信につながっていた。
(……私は、少しずつ変わっているのでしょうか)
答えは、まだはっきりとは分からない。
けれど、以前の自分と今の自分が、まったく同じではないことは感じていた。
怖いことがなくなったわけではない。
不安になることも、迷うこともある。
それでも、自分の気持ちを大切にしながら、少しずつ前へ進めるようになってきた。
シアは静かに目を閉じた。
冬の市へ行く日には、きっとたくさんの人が広場を歩いているだろう。
屋台にはさまざまな品が並び、温かな飲み物の香りが漂い、誰かの笑い声が聞こえてくるかもしれない。
その中を、ミレイユと一緒に歩く。
想像するだけで、胸の奥が温かくなる。
シアは毛布の中で小さく微笑み、ゆっくりと息を吐いた。
自分のために選んだ約束。
それは、彼女にとって新しい暮らしの大切な一頁だった。
窓の外では冬の風が静かに吹き、遠くの広場では、明日もまた市の準備が続いていくのだろう。
その音をかすかに聞きながら、シアは穏やかな眠りへ落ちていった。




