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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第68話 冬の市へ続く道と、私が初めて断ったお願い



 朝の冷え込みは、昨日よりも少し厳しくなっていた。


 窓の外では、隣家の屋根に薄い霜が降り、煙突から立ち上る煙が灰色の空へゆっくりと溶けている。シアは寝台の上で身体を起こすと、肩から滑り落ちかけた毛布を引き寄せ、冷たい空気に慣れるまでしばらく窓辺を眺めていた。


 昨夜、読み終えた本は机の端に置いてある。


 その隣には、次の休日にしたいことを書き留めた帳面があった。


 ミレイユと冬の市を見に行くこと。


 図書館へ本を返すこと。


 そして、できれば街をゆっくり歩いてみること。


 どれもまだ正式に決まった予定ではなかったが、書かれた文字を見るだけで、胸の奥が少し温かくなった。


(……楽しみにしていることがある朝は、こんなにも気持ちが違うのですね)


 シアは小さく微笑み、寝台から足を下ろした。


 床板は冷たく、素足で触れた瞬間に思わず肩がすくんだ。急いで靴下を履き、昨夜きちんと揃えておいた革靴へ足を入れると、修理された踵がしっかりと足を支えてくれる。


 靴紐を結びながら、シアは昨日一日履いたときの感触を思い出した。


 痛みはなかった。


 ただ、新しく補強された部分にはまだ少し硬さが残っているため、靴屋の主人から言われたとおり、しばらくは注意しておこうと思っている。


 身支度を終えると、秋灯草の鉢へ目を向けた。


 黄色い花は今朝も静かに咲いている。


 土の表面を指先で確かめたところ、まだ水分が残っていたため、今日は水を足さずにおくことにした。


 以前のシアなら、何か世話をしなければと焦っていたかもしれない。


 けれど、借りた本には、植物の状態を確かめずに水を与えすぎないことも大切だと書かれていた。


 必要なことを見極める。


 それは、何もしないという判断も含まれているのだ。


 シアは鉢の位置を少し整えると、階下へ向かった。


     ◇


 《麦穂亭》の厨房では、オットーがすでに朝の仕込みを始めていた。


 大きな作業台には小麦粉を振った跡が残り、窯の近くでは薪が乾いた音を立てて燃えている。外の冷たい空気とは対照的に、厨房には発酵した生地と温かな麦の香りが満ちていた。


「おはようございます、オットーさん」


「おう、おはよう。今朝は冷えるな。足元は大丈夫か?」


「はい。靴も問題ありません。昨日一日履いてみましたが、痛みはありませんでした」


「そうか。それならよかった。だが、しばらくは無理するなよ」


 オットーは生地を丸めながらそう言った。


 シアは手を洗い、いつものように作業台の端へ立つ。


 朝の仕込みを手伝いながら、彼女は昨日の売れ行きについて簡単に確認した。


 黒麦パンの店頭販売は、今日も休止したままである。


 北方からの黒麦粉の到着予定は依然として分からず、店では既存の予約に必要な材料を確保しながら営業を続けていた。


 シアは昨日、黒麦パンを求めて来店した女性のことを思い出した。


 食欲の落ちた母親のために、好きなパンを買いに来た人だった。


 結局、小さな白パンを二つ購入して帰ったものの、それを母親が食べられたかどうかは分からない。


 何かできることはなかったのだろうか。


 そう考えかけたところで、オットーが声をかけた。


「シア、そっちの布を取ってくれるか」


「はい。こちらですね」


 布を渡すと、オットーは生地へふんわりとかぶせた。


 そして、シアの表情を見たのか、少しだけ首を傾げる。


「何か気になることでもあるのか?」


「……昨日のお客様のことを、少し考えていました」


 シアは正直に答えた。


「お母様のために黒麦パンを探していらした方です。ご希望のものをご用意できなかったので、ほかに何かできたのではないかと思いまして」


 オットーはすぐには答えなかった。


 作業台の上を整え、手についた粉を払い落としてから、静かに口を開く。


「気持ちは分かる。だが、店にないものを用意することはできんし、相手の事情を全部解決してやることもできん。お前が昨日したように、正直に説明して、選べるものを示す。それ以上は客自身が決めることだ」


「……はい」


「何でも自分の責任だと思い始めると、商売は続けられなくなるぞ。客を大切にすることと、客の困りごとを全部背負うことは違うからな」


 シアはその言葉を胸の中で繰り返した。


 客を大切にすること。


 客の困りごとを、すべて背負うこと。


 確かに、それは同じではない。


 けれど、彼女にとって二つを区別するのは、まだ少し難しかった。


「ありがとうございます。私、できないことまで何とかしようとしてしまうことがあるのだと思います」


「それ自体は悪いことじゃない。ただ、無理をして約束を破るくらいなら、最初からできないと言った方がいい」


 オットーはそう言って、再び生地へ手を伸ばした。


 その背中を見ながら、シアは静かに頷いた。


     ◇


 開店前、マルタが厨房へ入ってきた。


 いつものように髪をまとめ、厚手の前掛けを身につけている。外から戻ったばかりらしく、頬には冷たい風に当たった赤みが残っていた。


「おはよう、二人とも。今朝は広場の方が少し賑やかだったよ」


 その言葉に、シアは顔を上げた。


「中央広場ですか?」


「ああ。冬の市の準備が始まっているみたいだね。まだ店を出しているわけじゃないけれど、荷物を運び込んだり、屋台の場所を確認したりしている人たちがいたよ」


 シアの胸が小さく弾んだ。


 昨日、ミレイユから聞いた冬の市。


 まだ想像の中にしかなかった場所が、実際に準備されているのだ。


「そうなのですね。ミレイユさんから、冬の市を一緒に見に行かないかとお誘いいただいたのです」


 シアが嬉しそうに答えると、マルタは目を細めた。


「そうだったね。ちょうど準備が始まっているなら、いい時期かもしれないよ」


「はい。まだ日程は決まっていませんが、楽しみにしています」


「冬の市は、買い物をしなくても見ているだけで面白いからねえ。普段は別の通りで商売している人たちが、広場の近くへ店を出すこともあるんだよ」


 マルタは昔のことを思い出すように笑った。


「私も若い頃は、何か珍しいものがないかと見て回ったものさ。もっとも、オットーと一緒に行くと、あの人は食べ物の屋台ばかり見ていたけれどね」


「おい、余計なことを言うな」


 オットーが厨房の奥から声を上げる。


 その声音に本気で怒っている様子はなく、マルタは楽しそうに肩を揺らした。


「本当のことじゃないか。焼き栗だの温かいスープだの、片っ端から気にしていたくせに」


「職人として味を確かめていただけだ」


「はいはい。そういうことにしておこうかね」


 二人のやり取りに、シアは思わず笑みをこぼした。


 夫婦が自然に冗談を交わす姿を見るたび、彼女は不思議な安心感を覚える。


 意見が違っても、少しからかっても、関係が壊れるわけではない。


 そんな当たり前のことを、ここで少しずつ知ってきた。


 マルタは笑い終えると、シアへ視線を戻した。


「そうだ、シア。次の休みだけれど、今のところ予定どおり取ってもらえそうだよ。まだ店の都合で絶対とは言い切れないけれど、今日はそのつもりで仕事を進めておくからね」


「ありがとうございます。ミレイユさんにも、予定が確認できましたらお伝えしたいと思います」


「うん。せっかく自分から誘ったんだから、楽しんでおいで」


 シアは胸の奥が温かくなるのを感じながら、深く頷いた。


     ◇


 午前の営業は、いつもより少し慌ただしかった。


 冷たい風を避けるようにして客が次々と入ってきて、丸パンや胡桃パンが順調に売れていく。


 シアは注文を聞き、代金を確かめ、包み紙を丁寧に折りながら対応した。


 その途中、扉の鈴が鳴り、見覚えのある年配の女性が店へ入ってきた。


 女性は何度か丸パンを買いに来たことがあり、シアも顔を覚えている。


「こんにちは。今日は丸パンを四ついただこうかしら」


「いらっしゃいませ。丸パンを四つですね。ありがとうございます」


 シアが包みを用意していると、女性は店内を見回した。


「あら、今日はいつもより人が多いのね」


「はい。朝からお客様が続いております」


「そうなのね。忙しいところ悪いのだけれど、少しお願いしてもいいかしら?」


 その言葉に、シアは顔を上げた。


「はい。どのようなことでしょうか?」


 女性は持っていた買い物籠を会計台の脇へ置き、少し困ったように笑った。


「実はね、家へ戻る途中で薬屋へ寄らなければならないのだけれど、足が少し痛くて。もしよかったら、買ったパンを家の近くまで運んでもらえないかと思ったのよ」


 シアは一瞬、言葉に詰まった。


 女性の足が痛いという事情は、心配だった。


 けれど、今は営業中であり、店にはほかの客もいる。


 自分が店を離れれば、マルタへ負担をかけることになる。


 それでも、困っている人から頼まれたことを断るのは、シアにとって簡単ではなかった。


(……どうしましょう。お困りなのは本当でしょうし、少しの距離なら運べるかもしれません。でも、今はお仕事の途中です)


 胸の奥に、昔から馴染みのある焦りが広がった。


 頼まれたことを断ってはいけない。


 相手を失望させてはいけない。


 そんな考えが反射的に浮かび、指先が少しだけ強張る。


 けれど、シアはすぐに返事をしなかった。


 昨日、オットーから聞いた言葉が頭をよぎったからだ。


 できない約束をするくらいなら、最初から正直に伝えた方がよい。


 シアは一度ゆっくりと息を吸い、女性へ向き直った。


「お足が痛むのですね。それはお辛いと思います」


「そうなのよ。大したことはないと思うのだけれど、今日は少し歩くのが億劫でね」


 女性はそう言って、申し訳なさそうに笑った。


 シアは包み紙を持つ手を整え、慎重に言葉を続けた。


「申し訳ありません。今はお店の営業中ですので、私がお宅までお運びすることはできないのです」


 言い終えた瞬間、胸がどきりとした。


 相手が怒るかもしれない。


 冷たい人間だと思われるかもしれない。


 そんな不安が、すぐに頭をもたげる。


 しかし、女性は少し驚いた顔をしたあと、困ったように頷いた。


「ああ、そうよね。忙しいものね。こちらこそ、無理なお願いをしてしまったわ」


 その反応に、シアはほっとした。


 けれど、女性が本当に困っていることも変わらない。


 シアは少し考え、店内の奥へ視線を向けた。


「もしよろしければ、少しお待ちいただけますか。お持ち帰りの方法について、マルタさんにも相談してみます」


「ええ。急いでいるわけではないから、大丈夫よ」


 シアは礼を述べ、マルタのところへ向かった。


 事情を聞いたマルタは、女性の足元へ目を向けながら考え込んだ。


「なるほどねえ。確かに、今日は客足が多いから、シアに配達へ出てもらうわけにはいかないね」


「はい。ですので、お断りしたのですが……。何か別の方法がないかと思いまして」


 マルタはシアを見つめ、穏やかに頷いた。


「それでいいんだよ。まずはお店の仕事を優先してくれて助かったよ」


 そう言ってから、女性へ声をかけた。


「お客様、よろしければ、パンを一つの包みにまとめて、持ちやすいようにいたしましょうか。籠に入れたときに片寄らないようにもできますよ」


 女性はほっとしたように笑った。


「あら、それは助かるわ。荷物がばらばらにならなければ、ずいぶん持ちやすいものね」


「それなら、そうしましょう。薬屋へ寄られるのでしたら、少し休んでからお帰りになるのもいいかもしれませんね」


「そうね。無理をしないようにするわ」


 マルタはそう答え、シアへ包み方を示した。


 パンを潰さないように重ね、持ち手のある籠へ収まりやすい形に整える。


 女性はその様子を見ながら、何度も頷いていた。


「ありがとう。これなら大丈夫そうだわ」


 シアは包みを渡し、代金を受け取った。


「どうぞ、お気をつけてお帰りください」


「ええ。あなたもお仕事頑張ってね。無理なお願いをしてごめんなさいね」


「いえ。お話しいただき、ありがとうございました」


 女性は穏やかに笑い、店を出ていった。


 扉が閉まったあと、シアはしばらくその方を見つめていた。


 断っても、怒られなかった。


 それどころか、相手は事情を理解してくれた。


 胸の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていく。


     ◇


 昼食の時間、シアは午前中の出来事を思い返していた。


 厨房の隅に置かれた小さな食卓には、温かなスープとパンが並んでいる。窯の火は少し落ち着き、朝から続いていた慌ただしさも、ようやく一段落していた。


 マルタはシアの表情を見ながら、静かに尋ねた。


「さっきのお客様のこと、まだ気になっているのかい?」


 シアは少し迷ってから頷いた。


「はい。お断りしたとき、少し怖くなってしまいました」


「怖かった?」


「……はい。お困りの方から頼まれたことを断るのは、よくないことなのではないかと思ってしまって」


 マルタは匙を置き、シアへ向き直った。


「でも、あのお客様は怒らなかっただろう?」


「はい。むしろ、こちらの事情を理解してくださいました」


「それなら、何も問題はなかったんじゃないかい?」


 シアは静かに頷いたものの、すぐには言葉が出なかった。


 頭では理解できる。


 けれど、身体に染みついた不安は、そう簡単には消えない。


 マルタはその様子を見て、少しだけ声を柔らかくした。


「シア、人に親切にすることは大切だよ。でもね、親切にするために自分の仕事を放り出したり、無理をしたりする必要はないんだ」


「……はい」


「それに、できないことを断るのと、相手を大切にしないことは別だよ。あんたはちゃんと事情を聞いて、ほかにできることを考えたじゃないか」


 シアはマルタの言葉を聞きながら、胸の奥に広がる温かさを感じた。


 断ることは、拒絶することではない。


 自分にできる範囲を伝えること。


 そのうえで、相手を思いやる方法を探すこともできる。


 そんな考え方を、彼女はこれまでほとんど知らなかった。


「……ありがとうございます。私、断ることは相手を傷つけることだと思っていたのかもしれません」


 シアが小さな声で言うと、マルタは静かに頷いた。


「そう思ってしまうこともあるだろうね。でも、相手の希望を全部叶えられる人なんていないよ。私だって、オットーだって、できないことはあるんだから」


 その言葉に、オットーが顔を上げた。


「俺にできないことなんて、山ほどあるぞ。店を一人で回せと言われても無理だし、マルタみたいに客の顔と好みを全部覚えることもできん」


「全部は覚えていないよ」


 マルタが笑う。


「それに、あんたがいなければ、この店のパンは焼けないじゃないか」


「そういうことだ。互いにできることが違うんだから、全部一人でやろうとする必要はない」


 オットーはそう言って、スープを口に運んだ。


 シアは二人を見つめながら、少しだけ笑った。


 この店では、誰か一人がすべてを背負っているわけではない。


 それぞれが自分のできることを持ち寄り、足りないところを補い合っている。


 だからこそ、毎日の仕事が続いているのだろう。


(……私も、できることとできないことを、ちゃんと考えてよいのですね)


 そう思うと、胸の奥に残っていた緊張が、ようやく静かに消えていった。


     ◇


 午後になると、空の雲が少し薄くなり、店の窓から柔らかな光が差し込んできた。


 シアは会計台を整えながら、午前中の出来事を忘れないように心へ留めていた。


 断ることは怖かった。


 けれど、断ったあとにも相手との穏やかな会話は続いた。


 その経験は、彼女にとって大きな意味を持っていた。


 そんなことを考えていると、扉の鈴が鳴った。


 入ってきたのは、近くの通りで働いているという若い女性だった。


 女性は棚を眺め、胡桃パンを二つ選んだ。


「こんにちは。胡桃パンを二つお願いします」


「いらっしゃいませ。ありがとうございます。二つで十二銅貨になります」


 シアが包みを用意すると、女性は代金を差し出しながら、何気なく尋ねた。


「そういえば、中央広場の方で冬の市の準備をしているみたいですね」


「はい。今朝、マルタさんからお聞きしました」


「今年もいろいろな店が出るといいですね。私は毎年、温かい飲み物を売る屋台を楽しみにしているんです」


 その言葉に、シアは少しだけ目を輝かせた。


「温かい飲み物ですか?」


「ええ。香辛料を入れた果実の飲み物や、温めた乳を売る店が出ることもあるんですよ。寒い日に飲むと、とても美味しいんです」


 女性は楽しそうに話した。


「もちろん、今年も同じ店が出るかは分かりませんけれど」


「そうなのですね。私、冬の市へ行くのは初めてなので、とても楽しみです」


 シアが答えると、女性は嬉しそうに笑った。


「あら、それならきっと楽しいですよ。手袋や布小物を売る店もありますし、見ているだけでも飽きませんから」


「ありがとうございます。友人と一緒に行けたらと思っております」


「それは素敵ですね。どうぞ、楽しい時間を過ごしてください」


 女性はそう言って、包みを受け取った。


 シアは礼を述べて見送ると、胸の奥に広がる期待を感じた。


 冬の市には、どんなものが並ぶのだろう。


 ミレイユと一緒に歩いたら、どんな話をするのだろう。


 考えるだけで、自然と頬が緩んでしまう。


 けれど、彼女はすぐに気持ちを切り替え、次の客を迎える準備をした。


 楽しみなことがあっても、今の仕事を大切にする。


 その二つは、決して矛盾しないのだ。


     ◇


 夕方、店の片づけが始まる頃には、通りを歩く人々の姿も少なくなっていた。


 空には薄い橙色が残り、遠くの屋根の向こうへ日が沈もうとしている。


 シアは会計台の上を拭き、残った包み紙を揃えてから、マルタと一緒に棚を確認した。


 今日も黒麦粉についての新しい知らせは届かなかった。


 北方の道路補修は続いており、重量荷車の通行制限も解除されていない。


 そのため、店では引き続き既存の予約を守ることを優先し、新しい黒麦パンの予約は受けない方針を維持していた。


 シアは必要な記録を整理しながら、午前中に来店した客のことを思い出した。


 足の痛みを訴えていた年配の女性。


 あの人は、無事に家へ帰れただろうか。


 少し気になったものの、シアには確かめる方法がなかった。


 だからこそ、できることとできないことを区別しなければならないのだろう。


 彼女は記録を閉じ、静かに息を吐いた。


 そのとき、マルタが声をかけた。


「シア、今日もお疲れさま。ずいぶん落ち着いて仕事ができるようになったね」


「ありがとうございます。まだ分からないことも多いですが、少しずつ慣れてきたように思います」


「それでいいんだよ。最初から何でもできる人なんていないからね」


 マルタはそう言って、店の奥へ視線を向けた。


「それより、次のお休みのことだけれど、オットーとも話したよ。今のところ、予定どおり取ってもらって大丈夫そうだ」


 シアは思わず顔を上げた。


「本当ですか?」


「ああ。ただ、急な事情があれば相談することもあるかもしれないけれど、今のところはそのつもりでいていいよ」


「ありがとうございます。ミレイユさんにも、予定が合うか確認してみたいと思います」


 シアが嬉しそうに答えると、マルタは目を細めた。


「うん。楽しんでおいで。冬の市なら、きっといろいろなものが見られるだろうからね」


 その言葉に、シアは深く頷いた。


     ◇


 その日の夕食は、温かな野菜のスープと、昼の営業で残ったパンだった。


 窓の外では風が強くなり、時折、建物の隙間を抜ける音が聞こえてくる。


 マルタはスープを器へよそいながら、冬の市の話を始めた。


「そういえば、今年は手仕事の品を扱う店が少し増えるかもしれないって聞いたよ」


「手仕事の品、ですか?」


 シアが尋ねると、マルタは頷いた。


「厚手の布や手袋、それから小さな飾り物なんかだね。冬になると家の中で使うものも増えるから、そういう品を探す人が多いんだろう」


 シアは興味深そうに耳を傾けた。


 裁縫は、彼女にとって馴染みのある仕事だった。


 布の厚さや縫い目の細かさを見ることも好きであり、手仕事の品が並ぶと聞くと、自然と興味が湧いてくる。


「素敵ですね。どのような縫い方をされているのか、見てみたいです」


 その言葉に、マルタは少し驚いたように笑った。


「なるほどねえ。シアはそういうところにも目が向くんだね」


「はい。以前から裁縫をすることがありましたので、布や縫い目を見るのは好きなのです」


「それなら、きっと楽しめるだろうね」


 オットーはパンをちぎりながら、二人の会話を聞いていた。


「冬の市は人も増えるから、荷物には気をつけろよ。買い物をするなら、持ち歩ける分だけにしておいた方がいい」


「はい。ありがとうございます。今のところ、大きな買い物をする予定はありませんので、まずは見て回りたいと思っています」


「それがいい。欲しいものがあっても、すぐに決める必要はないからな」


 シアは頷いた。


 以前の彼女なら、欲しいものを見つけても、自分のためにお金を使うことをためらっていたかもしれない。


 けれど今は、必要なものを考え、手持ちのお金と相談しながら選ぶことができる。


 靴の修理代として四十八銅貨を支払ったばかりではあるが、その出費も、自分の暮らしを守るために必要なものだった。


 これから冬が深まれば、ほかにも必要なものが出てくるだろう。


 だからこそ、無理をせず、楽しむことと暮らしを整えることの両方を大切にしたい。


 そう考えながら、シアは温かなスープを口へ運んだ。


     ◇


 夕食を終えたあと、シアは自室へ戻った。


 階段を上がる途中、修理した靴の踵が床板を踏む感触を確かめる。


 今日も痛みはなく、歩き方に違和感もなかった。


 部屋へ入ると、窓の外にはすでに夜の街が広がっていた。


 遠くの建物から漏れる灯りが、冷たい空気の中で小さく揺れている。


 シアは外套を脱ぎ、靴を丁寧に揃えたあと、机の前へ腰を下ろした。


 帳面を開くと、昨日書き留めた休日の予定が目に入る。


 ミレイユと冬の市を見に行く。


 図書館へ本を返す。


 街をゆっくり歩く。


 シアはその文字を眺めながら、少し考えた。


 まだミレイユの勤務予定は確定していない。


 だから、今すぐ何かを決める必要はない。


 それでも、もし一緒に出かけられるなら、どんな時間を過ごしたいだろう。


(……私は、ミレイユさんとゆっくりお話ししたいです)


 その気持ちは、思っていた以上にはっきりしていた。


 冬の市を見ることも楽しみだった。


 図書館へ行くことも楽しみだった。


 けれど、それ以上に、友人と一緒に過ごす時間そのものが嬉しかった。


 シアは少しだけ頬を緩め、帳面の端へ小さく書き加えた。


 無理をせず、楽しく過ごすこと。


 その文字を書き終えたとき、彼女はふと午前中の出来事を思い出した。


 足の痛い女性から、パンを家まで運んでほしいと頼まれたこと。


 そして、自分にはできないと伝えたこと。


 あのときは、胸が苦しくなるほど緊張した。


 けれど、女性は怒らなかった。


 むしろ、事情を理解してくれた。


 マルタも、自分の判断を認めてくれた。


 シアは帳面の上に置いた手を、そっと握りしめた。


(……断っても、嫌われるとは限らないのですね)


 その考えは、まだ彼女にとって新しいものだった。


 これまでの人生では、誰かの希望に応えることが、自分の役割だと思っていた。


 断れば、怒られる。


 失敗すれば、責められる。


 役に立たなければ、居場所を失う。


 そんな恐れが、いつも胸の奥にあった。


 けれど、この街では違う。


 できないことを伝えても、話を聞いてもらえる。


 困ったときには相談できる。


 自分の希望を口にしても、笑われない。


 その一つ一つが、シアの中にあった古い思い込みを、少しずつ変えていた。


 彼女は机の引き出しから、母の形見である銀のペンダントを取り出した。


 小さな銀の飾りは、灯りを受けて柔らかく輝いている。


 指先で表面をなぞると、胸の奥に懐かしい温もりが広がった。


(……お母様。私は今、自分で選ぶことを少しずつ覚えています)


 その思いを言葉にすることはなかった。


 ただ、ペンダントをしばらく見つめていた。


 母が生きていた頃の記憶は、今も彼女の中に大切に残っている。


 けれど、失ったものばかりを見つめていては、今ここにある温かさを見逃してしまうかもしれない。


 シアはペンダントをそっと胸元へ戻した。


 この街には、マルタとオットーがいる。


 ミレイユがいる。


 そして、自分のことを一人の人間として見てくれる人々がいる。


 そのことを思うと、胸の奥に静かな安心感が広がっていった。


     ◇


 一方、夜の騎士詰所では、ミレイユが翌日以降の勤務について確認を進めていた。


 机の上には巡回予定を書き込んだ書類が広げられ、窓の外からは冷たい風の音が聞こえている。


 昼間の仕事を終えたあと、担当者へ確認したところ、数日後の半日休暇については、今のところ予定どおり取れそうだという返事があった。


 ただし、最終的な勤務調整が終わるまでは、まだ確定ではない。


 ミレイユはそのことを理解しながら、書類へ目を通していた。


 ふと、昨日のシアの笑顔が思い浮かぶ。


 修理した靴を嬉しそうに見せてくれたこと。


 冬の市へ行く話をしたとき、目を輝かせていたこと。


 図書館へ寄りたいと、自分の希望を伝えてくれたこと。


 どれも、ミレイユにとって嬉しい変化だった。


(……シアは、少しずつ自分の楽しみを見つけているのね)


 最初に会った頃の彼女は、いつも相手の顔色をうかがっているように見えた。


 何かを頼まれても、断ることができないのではないかと思うほど、慎重に言葉を選んでいた。


 けれど、最近は違う。


 自分から友人を誘い、行きたい場所を話し、嬉しいことを素直に伝えてくれる。


 ミレイユはその変化を、心から喜ばしく感じていた。


 もちろん、シアの過去について詳しいことは知らない。


 無理に聞き出そうとも思っていなかった。


 ただ、今の彼女が安心して暮らし、少しずつ笑顔を増やしているなら、それでよい。


 そして、もし何か困ったことがあれば、友人として力になりたい。


 そう思いながら、ミレイユは勤務表へ視線を戻した。


 数日後の予定は、明日にはもう少しはっきりするだろう。


 確定したら、《麦穂亭》へ知らせに行こう。


 そう考えると、自然と口元に小さな笑みが浮かんだ。


     ◇


 《麦穂亭》の二階では、シアが寝台へ入る準備を整えていた。


 窓の外では風が吹き、遠くの通りから時折、人の話し声が聞こえてくる。


 秋灯草は今夜も静かに咲き、机の上には読み終えた本と帳面が置かれていた。


 シアは厚い毛布を肩まで掛け、今日の出来事を思い返した。


 困っている人からのお願いを、初めて自分の判断で断ったこと。


 そのあとも、相手と穏やかに話せたこと。


 マルタとオットーが、自分の判断を認めてくれたこと。


 そして、冬の市へ行く予定が少しずつ近づいていること。


 どれも、彼女にとって大切な出来事だった。


 シアは静かに息を吐き、毛布の中で目を閉じた。


 自分で選ぶことは、まだ少し怖い。


 けれど、怖いからといって、何も選ばずにいる必要はない。


 できることを考え、できないことを伝え、困ったときには誰かへ相談する。


 その積み重ねが、今の自分を支えている。


(……明日も、私にできることを大切にしていきたいです)


 そう思うと、胸の奥に穏やかな温もりが広がった。


 冬の街には、まだ知らない景色がある。


 これから出会う人々も、学ぶことも、きっとたくさんあるのだろう。


 そのすべてを急いで手に入れる必要はない。


 今日できたことを大切にしながら、明日もまた、自分の足で歩いていけばよい。


 修理を終えた革靴は、部屋の入口で静かに並んでいた。


 その靴とともに、シアの新しい暮らしはこれからも続いていく。


 窓の外で風が小さく鳴る中、彼女は次の休日への期待を胸に抱きながら、穏やかな眠りへ落ちていった。

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