第67話 冬の街に灯る小さな楽しみと、私が自分で選んだ休日
朝の光が窓辺へ差し込む頃、シアはいつもより少し早く目を覚ました。
厚い毛布の中には昨夜の温もりが残っていたものの、窓の向こうには薄い雲が広がり、隣家の屋根には白く冷たい朝露が降りている。秋灯草の黄色い花は、窓から少し離した場所で静かに咲いており、寒さが深まっていることを感じさせながらも、部屋の中には穏やかな空気が流れていた。
シアは毛布を畳んでから、寝台の脇へ視線を向けた。
そこには、昨日修理を終えて戻ってきた革靴が揃えて置かれている。
踵は丁寧に補強され、薄くなっていた靴底にも必要な手当てが施されていた。長い旅の間についた細かな傷は残っているものの、それらはシアにとって、決して消してしまいたいものではなかった。
(今日から、またこの靴でお仕事ができるのですね)
胸の奥に小さな喜びが広がり、シアは靴を手に取った。
修理前より少しだけしっかりした感触のある踵を指先で確かめる。靴屋の主人からは、最初の数日は履き心地を注意して見るように言われているため、今日も無理をせず、足に違和感があれば早めに相談するつもりだった。
そのまま身支度を整えたシアは、秋灯草の土を確かめてから、窓辺に置いた本へ目を向けた。
図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』である。
読み終えるまであと少しだった。
借りたときに教えてもらった返却期限も、そろそろ意識しておかなければならない。今日の仕事が終わってから図書館へ行くには時間が足りないかもしれないが、次の休日には返却できるようにしておきたい。
そう考えたところで、シアはふと昨日の夕食での会話を思い出した。
マルタは、ミレイユとの約束を大切にしてほしいと言ってくれた。
オットーも、休日まで仕事の心配をし続けなくてよいと話してくれた。
その言葉を思い出すと、シアの胸が少しだけ温かくなった。
(次のお休みには、ミレイユさんとお会いできるでしょうか。もしご都合が合うなら、図書館へ本を返しに行くこともお話ししてみたいです)
自分から誘っておきながら、具体的な予定を決めることにはまだ緊張があった。
けれど、以前のように相手の返事を恐れているわけではない。
予定が合わなければ、また別の日を考えればよい。
そう思えるようになったことが、シアには少し不思議だった。
やがて階下からオットーの作業する音が聞こえてきたため、彼女は靴紐を丁寧に結び、部屋を出た。
◇
厨房では、オットーが大きな作業台の前に立ち、朝の仕込みを進めていた。
窯にはすでに火が入っており、薪の燃える音とともに温かな空気が広がっている。外の冷え込みが強いせいか、厨房へ入った瞬間の温度差はいつも以上に大きく、シアは思わず小さく息を吐いた。
「おはようございます、オットーさん。本日もよろしくお願いいたします」
「おう、おはよう。靴の具合はどうだ?」
オットーは生地を扱う手を止めずに尋ねた。
シアは自分の足元へ視線を落とし、穏やかに答える。
「今朝も履いてみましたが、今のところ問題ありません。昨日、靴屋さんから数日は様子を見るようにと言われましたので、今日も気をつけながら働こうと思います」
「それがいい。修理したところが馴染むまでは、無理に動き回らなくていいからな」
「はい。ありがとうございます」
シアが手洗いを済ませて戻ると、オットーは作業台の端に置かれた布を示した。
「今日は丸パンの仕込みを少し多めにしている。黒麦パンを買えない客が丸パンを選ぶこともあるからな。ただ、必要以上に焼いて余らせるわけにもいかん。午前の売れ行きを見て、午後の分を調整するつもりだ」
「承知しました。お客様が何をお求めになったか、できる範囲で正確に確認しておきますね」
「ああ。ただし、買っていったものだけで満足したかどうかまでは分からん。そこは混同しないようにな」
オットーの言葉に、シアは頷いた。
黒麦粉の入荷が遅れている問題は、まだ解決していない。
北方の道路補修は進んでいるものの、重量のある荷車の通行制限は続いており、注文した黒麦粉がいつ積み込まれ、いつ届くのかは分からないままだった。
既存の予約については、残っている材料と使用予定を照らし合わせながら対応している。
しかし、新しい予約を受けられる状況ではなく、店頭での黒麦パンの販売も引き続き休止していた。
シアはそのことを理解していたが、だからこそ、ほかのパンを購入した客の気持ちまで勝手に決めつけないようにしたいと思っていた。
黒麦パンが欲しかった人が丸パンを買ったとしても、それで困りごとがなくなったとは限らない。
それでも、今の店にできることを丁寧に伝えることはできる。
シアは包み紙を揃えながら、今日も一つ一つの注文を大切にしようと考えた。
しばらくしてマルタが厨房へ入ってきた。
「おはよう、シア。今朝も冷えるねえ。手がかじかんでいないかい?」
「おはようございます、マルタさん。少し冷たかったのですが、厨房へ入ってから温まりました」
「それならよかったよ。今日は風も強そうだから、店の扉を開けるときは気をつけようね」
マルタはそう言ってから、シアの足元へ目を向けた。
「それにしても、靴が戻ってくると気分も違うだろう?」
シアは少し照れながら微笑んだ。
「はい。昨日も嬉しかったのですが、今朝また履いてみると、本当に戻ってきたのだと実感しました」
「大切にしていたものだからね。これからも長く履けるといいねえ」
「はい。手入れも忘れずに、大切にしたいと思います」
マルタは満足そうに頷き、朝食の準備へ取りかかった。
その様子を見ながら、シアはふと気づいた。
ここでは、自分が嬉しかったことを話してもよいのだ。
靴が直ったことも、花が元気に咲いていることも、友人と出かける約束をしたことも。
そんな小さな出来事を、誰かと分かち合える。
それは彼女が思っていた以上に、温かなことだった。
◇
開店すると、冷たい風に背中を押されるようにして、客たちが次々と店へ入ってきた。
朝の通りには薄い雲の影が落ちていたが、店内には焼きたてのパンの香りが満ちている。扉が開くたびに冷気が入り込み、マルタが入口近くの布を整える音が聞こえた。
最初に訪れたのは、近くで働いているという中年の男性だった。
男性は丸パンを六つ注文し、会計を待つ間に店内の掲示へ目を向けた。
「黒麦パンは、まだ難しいのかい?」
「はい。申し訳ありません。北方からの黒麦粉の到着日が、まだ決まっておりませんので、店頭での販売は引き続きお休みしております」
シアが答えると、男性は少し残念そうに眉を下げた。
「そうか。うちの親父が好きなんだが、仕方ないな。道路が通れないんじゃ、店の人も困っているだろう」
「お気遣いありがとうございます。入荷について確かな情報が分かりましたら、店頭でもお知らせする予定です」
「分かったよ。丸パンも美味しいから、今日はこれを持って帰る」
男性はそう言って代金を支払い、包みを受け取った。
シアは礼を述べて見送ったあと、客が黒麦パンを希望していたことを記録する。
男性が丸パンを選んだ理由について、勝手な推測は書き加えなかった。
それからしばらくは、いつもどおりの営業が続いた。
胡桃パンを二つ買っていく女性。
朝食用に小さな白パンを選ぶ若い職人。
家族の分をまとめて購入する年配の男性。
それぞれが異なる目的で店を訪れ、パンを選んでいく。
シアは注文を聞きながら、店内の様子にも気を配った。
そのとき、扉の鈴が鳴り、一人の女性が入ってきた。
年の頃は三十代後半ほどだろうか。厚手の外套を羽織り、片手には買い物籠を持っている。
女性は棚に並んだパンを眺めたあと、黒麦パンの販売休止を知らせる掲示の前で足を止めた。
しばらく文字を追っていたが、やがて困ったような表情で会計台へ近づいてくる。
「あの、少し聞いてもいいかしら?」
「はい。どうぞ」
シアが答えると、女性は掲示へ視線を向けた。
「黒麦パンのことなんだけれど、ここに書いてあるのは、しばらく買えないという意味なのよね?」
「はい。現在、黒麦粉の入荷が遅れておりますので、新しいご予約と店頭での販売をお休みしております」
「そうなのね。実は、母が黒麦パンを食べたがっていて……。少し前までは買えたものだから、今日ならあるかもしれないと思って来てみたの」
女性の声には、責めるような響きはなかった。
ただ、困っていることが伝わってくる。
シアはその表情を見ながら、慎重に言葉を選んだ。
「お母様がお好きなのですね。せっかくお越しいただいたのに、ご用意できず申し訳ありません」
「いいのよ。あなたたちのせいじゃないもの。ただ、母は最近あまり食欲がなくてね。好きなものなら少し食べてくれるかと思ったの」
女性はそう言って、小さく息を吐いた。
シアは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
食欲がない人のために、好物を買いに来たのだ。
それなら、黒麦パンが買えないことは、単に好みの問題ではないのかもしれない。
けれど、だからといって代わりのパンを勧めればよいとも限らない。
シアは少し考え、女性へ尋ねた。
「お母様は、黒麦パンのどのようなところがお好きなのでしょうか。もし差し支えなければ、教えていただけますか?」
女性は少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうねえ……。あの独特の香りと、噛んだときの味が好きみたい。柔らかいパンも食べるけれど、黒麦パンは昔から好きだったのよ」
「そうでしたか。でしたら、ほかのパンでは同じものをご用意できないと思います」
シアは正直に答えた。
「今あるパンをご案内することはできますが、お母様のお好きな味とは違うかもしれません。それでも、もしご覧になりたいものがありましたら、ご説明いたします」
女性はしばらくシアを見つめ、それから小さく笑った。
「ありがとう。無理に別のものを勧められるのかと思っていたけれど、そうじゃないのね」
「はい。お母様のために選ばれるものですから、納得していただけるものがよいと思います」
シアが答えると、女性は棚へ目を向けた。
「それなら、今日は小さな白パンを二ついただこうかしら。母が食べるかどうかは分からないけれど、私も食べられるしね」
「ありがとうございます。二つで六銅貨になります」
シアはパンを包み、女性へ差し出した。
女性は代金を支払うと、包みを買い物籠へ入れながら言った。
「黒麦パンが戻ったら、また買いに来るわ。そのときは母にも持っていってあげたいから」
「はい。入荷の予定が分かりましたら、お店でお知らせいたします」
「ありがとう。あなたも身体に気をつけてね」
女性はそう言って、店を出ていった。
シアは扉が閉まるのを見送りながら、しばらく考えていた。
相手の事情を聞いたことで、できることが増えたわけではない。
黒麦パンを用意できないという事実は変わらなかった。
それでも、相手が何を大切にしているのかを知ることで、言葉の選び方は変わる。
シアはそのことを、今日のやり取りから学んだような気がした。
◇
昼前になると、店の客足は少し落ち着いた。
マルタが会計台へやってきたため、シアは先ほどの女性とのやり取りを簡単に報告した。
黒麦パンを希望していたこと。
母親のために買いに来たこと。
代わりとして小さな白パンを二つ購入したものの、黒麦パンの代用品として満足したかどうかは分からないこと。
マルタは最後まで聞いてから、静かに頷いた。
「そうかい。食欲のないお母さんのために、好きなパンを探していたんだね」
「はい。何かお力になれればと思ったのですが、今は黒麦パンをご用意できませんので……」
シアが少し残念そうに言うと、マルタは穏やかな表情で答えた。
「できないことまで、できるように見せる必要はないよ。シアはちゃんと事情を聞いて、今あるものを案内したんだろう? それで十分だと思うよ」
「……ありがとうございます」
「それに、黒麦パンが好きな理由も人それぞれなんだね。単に別のパンを増やせばいいという話ではないことが、よく分かるよ」
マルタはそう言って、棚に残ったパンへ視線を向けた。
店を営むうえでは、売上も大切だった。
けれど、長く通ってくれる客たちが何を求めているのかを知ることも、同じくらい重要なのだろう。
シアはその言葉を胸に留め、午後の準備を進めた。
厨房へ戻ると、オットーが昼食のために手を洗っているところだった。
「午前はどうだった?」
「丸パンをお求めになる方が多かったです。ただ、黒麦パンを希望されていた方もいらっしゃいましたので、記録を分けております」
「そうか。あとで見せてもらおう」
オットーはそう答えてから、少しだけ表情を引き締めた。
「黒麦粉の残りについては、今朝もう一度確認した。今のところ、受けている予約の分をすぐに減らす必要はない。ただ、次の入荷が見えない以上、余裕があるとは言えん」
「はい。新しいご予約をお受けしないことも、引き続き徹底いたします」
「ああ。困っている客を見ると何とかしたくなるだろうが、できない約束をするわけにはいかんからな」
シアは静かに頷いた。
約束を守るためには、時として新しい約束を控えなければならない。
その考え方は、以前の彼女にとって少し難しいものだった。
頼まれたことは、できる限り引き受けなければならない。
そう思い込んでいた時期が長かったからだ。
けれど今は、引き受けられないことを正直に伝えるのも、相手を大切にする方法の一つなのだと理解し始めていた。
◇
午後の営業が始まってしばらくした頃、店の扉が開いた。
シアは会計台で包み紙を整えていたが、聞き覚えのある声に顔を上げた。
「こんにちは。今日は少しだけ時間ができたから、寄ってみたの」
そこに立っていたのは、ミレイユだった。
赤みがかった髪をいつものように後ろでまとめ、外套の下には騎士としての服装が見えている。寒い風の中を歩いてきたらしく、頬が少し赤くなっていた。
「ミレイユさん!」
シアは思わず明るい声を上げた。
その反応に、ミレイユは嬉しそうに目を細めた。
「ふふ、そんなに喜んでもらえるなら、寄った甲斐があったわね」
「はい。お会いできて嬉しいです」
シアはそう答えてから、少しだけ頬を赤くした。
以前なら、こんなふうに自分の気持ちを素直に伝えることは難しかっただろう。
けれど、ミレイユはその言葉を自然に受け取ってくれる。
だからこそ、シアも安心して笑うことができた。
ミレイユは棚に並んだパンへ視線を向け、丸パンを二つ選んだ。
「今日はこれをお願いしようかしら。勤務の合間に食べるものが欲しかったの」
「ありがとうございます。二つで十銅貨になります」
シアが包みを用意すると、ミレイユは代金を差し出しながら、ふと彼女の足元を見た。
「あら、その靴……」
「はい。昨日、修理が終わって戻ってきたのです」
シアは嬉しそうに答えた。
ミレイユは少し身をかがめ、靴の様子を確かめる。
「本当ね。踵がきれいになっているわ。履き心地はどう?」
「今のところ、問題ありません。靴屋さんが丁寧に調整してくださったので、以前よりも安定して歩けるようになりました」
「それならよかった。シアが大切にしていた靴だものね」
ミレイユはそう言って、穏やかに微笑んだ。
シアはその言葉に胸が温かくなるのを感じた。
ミレイユは、靴の修理を考えていたことを覚えてくれていた。
それだけで、何だか嬉しかった。
「ありがとうございます。これからも大切に履きたいと思います」
「ええ。でも、無理はしないでね。直したばかりなら、しばらく様子を見た方がいいでしょうし」
「はい。靴屋さんからも同じように教えていただきました」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そのとき、ミレイユが少しだけ表情を改めた。
「そうだ、シア。今日はパンを買うだけじゃなくて、もう一つ話したいことがあったの」
シアは顔を上げた。
「はい。何でしょうか?」
「この前、次のお休みに一緒に出かけようって話したでしょう? 私の勤務予定が少し分かったから、シアの都合も聞いておこうと思って」
その言葉を聞いた瞬間、シアの胸が弾んだ。
自分から誘った約束を、ミレイユも覚えていてくれたのだ。
しかも、わざわざ予定を確認してくれた。
「ありがとうございます。私も、次のお休みについてマルタさんたちに相談しようと思っていたところです」
「そうだったのね。それなら、ちょうどよかったわ」
ミレイユは嬉しそうに頷いた。
「私は数日後に半日ほど自由な時間が取れそうなの。ただ、勤務の都合で少し変わる可能性もあるから、今の時点で絶対とは言えないのだけれど」
「そうなのですね。でしたら、無理にその日に合わせなくても大丈夫です」
シアが答えると、ミレイユは柔らかく首を振った。
「無理をするつもりはないわ。でも、私もシアと出かけたいと思っているの。だから、お互いの予定が合うなら、その日を大切にしたいわね」
その言葉に、シアは少しだけ息を呑んだ。
自分だけが楽しみにしているのではない。
ミレイユも、同じように時間を作ろうとしてくれている。
そのことが、胸の奥へ静かに染み込んでいった。
「……はい。私も、とても楽しみにしています」
シアが微笑むと、ミレイユは満足そうに頷いた。
「それでね、もしよければ、冬の市を少し見て歩かない?」
「冬の市、ですか?」
「ええ。中央広場の近くで、寒い季節に使う小物や保存食を扱う店が増える時期なの。大きなお祭りというほどではないけれど、普段とは少し違うものが並ぶのよ」
ミレイユは楽しそうに説明した。
「手袋や厚手の布、それから温かい飲み物を売る屋台も出ることがあるわ。毎日同じ店が並ぶわけではないから、何があるかは行ってみないと分からないけれど」
シアはその話を聞きながら、想像を膨らませた。
冬の街に並ぶ小さな店。
温かな飲み物の湯気。
寒さを避けながら買い物を楽しむ人々。
まだ見たことのない景色が、頭の中に広がっていく。
「素敵ですね。私、そういう場所をゆっくり見て歩いたことがあまりないので、とても興味があります」
「それなら、きっと楽しいと思うわ。もちろん、何か買わなきゃいけないわけじゃないから、見て回るだけでもいいのよ」
ミレイユはそう言って微笑んだ。
その言葉に、シアはほっとした。
買い物をするとなれば、使えるお金のことも考えなければならない。
靴の修理代として四十八銅貨を支払ったばかりであり、今後も冬の暮らしに必要なものが出てくるかもしれない。
だからこそ、無理に買い物をせず、街を歩くだけでもよいと言ってもらえたことが嬉しかった。
「ありがとうございます。実は、図書館で借りた本もそろそろ返却したいと思っておりまして……。もしお時間が許すようでしたら、途中で図書館へ寄ることはできますでしょうか?」
シアが少し遠慮がちに尋ねると、ミレイユは明るく笑った。
「もちろんよ。前に一緒に行ったときも楽しかったもの。返却だけならそれほど時間はかからないでしょうし、また本を見てもいいわね」
「はい。ありがとうございます」
「それに、シアがどんな本を選ぶのか、私も少し気になるわ」
ミレイユはそう言って、いたずらっぽく目を細めた。
シアは少し照れながら答えた。
「今借りているのは、窓辺で育てる草花についての本なのです。秋灯草の世話をするときにも参考になりました」
「そうだったのね。あの黄色い花、元気にしている?」
「はい。寒くなってきましたので、窓から少し離した場所に置いています。今のところ、花も葉も元気そうです」
「よかった。シアが大切にしている花だものね」
ミレイユの声は温かかった。
シアはその言葉に頷きながら、胸の奥が少しだけくすぐったくなるのを感じた。
ミレイユは、以前一緒に過ごした時間のことも、そのとき話した小さな出来事も覚えてくれている。
自分にとって大切なものを、相手も大切に扱ってくれる。
それが、友人という関係なのかもしれない。
◇
二人が話しているところへ、マルタが厨房から顔を出した。
「おや、ミレイユさん。いらっしゃい」
「こんにちは、マルタさん。お仕事中に長話をしてしまって、ごめんなさい」
ミレイユが軽く頭を下げると、マルタは笑って首を振った。
「いいんだよ。ちょうど客足も落ち着いているところだからね。それより、シアとのお出かけの話かい?」
「はい。私の勤務予定が少し分かったので、相談していたところです」
マルタはシアへ視線を向けた。
「そうかい。シア、次のお休みのことなら、今夜オットーと確認しておこうと思っていたんだよ。まだ確定ではないけれど、いつもの間隔で取れるように考えているからね」
シアは驚いたように目を見開いた。
「ありがとうございます。お店の予定もありますので、決まってからミレイユさんへお伝えした方がよいでしょうか?」
「そうだね。お互いの都合があることだから、今すぐ決めなくてもいいんじゃないかい?」
マルタが答えると、ミレイユも頷いた。
「ええ。私も勤務の確認がまだ必要だから、今日は候補を考えるくらいにしておきましょう」
シアはほっとしたように微笑んだ。
「はい。それでは、予定が分かりましたら、改めてご相談させてください」
「もちろんよ。私も分かり次第、知らせるわ」
ミレイユはそう言ってから、包んでもらった丸パンを手に取った。
「それじゃあ、そろそろ戻らないと。今日は寄れてよかったわ」
「私も、お会いできて嬉しかったです」
シアが答えると、ミレイユは柔らかく笑った。
「またね、シア。靴の具合にも気をつけて」
「はい。ミレイユさんも、お仕事お気をつけてください」
ミレイユは軽く手を振り、店を出ていった。
扉が閉まると、シアはしばらくその方を見つめていた。
次の休日に、冬の市を見に行く。
まだ日程は決まっていない。
それでも、具体的な行き先を話し合えたことが嬉しかった。
自分から誘った約束が、少しずつ形になろうとしている。
そのことを思うと、胸の奥に温かな期待が広がっていった。
◇
午後の営業が終わる頃には、空が早くも薄暗くなり始めていた。
シアは会計台を整え、残ったパンの数を確かめてから、マルタと一緒に店内の片づけを進めた。
修理した靴で一日働いたが、今のところ足に痛みはなかった。
ただ、靴屋の主人から言われたことを思い出し、片づけの途中で一度だけ足首を軽く動かしてみる。
右の踵には修理した部分の感触が残っているものの、朝よりも馴染んできたように感じられた。
それを確かめていると、マルタが声をかけた。
「足は大丈夫かい?」
「はい。今のところ問題ありません。ただ、修理したばかりですので、少し気をつけながら動いています」
「それならいいよ。何かあったら、すぐに言うんだよ」
「ありがとうございます」
シアは穏やかに微笑んだ。
以前なら、こんなふうに自分の身体の状態を聞かれると、迷惑をかけてはいけないという気持ちが先に立っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
大丈夫なときは大丈夫だと伝え、困ったときには相談する。
それが当たり前のことなのだと、少しずつ思えるようになっていた。
片づけを終えて厨房へ戻ると、オットーが翌日の仕込みについて考えていた。
黒麦粉の入荷に関する新しい知らせは、今日も届いていない。
そのため、店では引き続き現在の予約と残りの材料を照らし合わせながら、無理のない範囲で営業を続けることになっていた。
シアは午前中に記録した客の希望をマルタへ渡し、必要な説明を加えた。
マルタは内容を確かめ、頷いた。
「ありがとう。こうして記録しておいてくれると、どんな声があったのか分かりやすいね」
「はい。ただ、お客様がほかのパンを買われたからといって、黒麦パンを必要とされなくなったわけではないと思いますので、その点は分けております」
「うん。それでいいと思うよ」
マルタはそう答え、記録を帳簿の近くへ置いた。
シアはその様子を見ながら、自分の仕事が少しずつ店の役に立っていることを感じた。
大きなことはできない。
道路を直すことも、黒麦粉を運ぶことも、自分にはできない。
けれど、客の声を聞き、必要な情報を残し、今できることを丁寧に続けることはできる。
それもまた、店を支える仕事の一つなのだろう。
◇
夕食の時間になると、マルタは昼間の約束どおり、次の休日について話を切り出した。
「シア、次のお休みだけれどね。今のところ、いつもの間隔で取ってもらえるように考えているよ」
シアは匙を置き、顔を上げた。
「ありがとうございます。ミレイユさんも数日後に半日ほどお時間が取れそうだとおっしゃっていましたので、予定が合えば嬉しいです」
「それならよかったねえ。ただ、まだお互い確定じゃないんだろう?」
「はい。ミレイユさんも勤務の確認が必要だそうですので、正式に決まりましたら改めて相談することになっています」
マルタは満足そうに頷いた。
「うん。それなら、焦らず決めればいいよ。せっかくのお出かけなんだから、お互い気持ちよく過ごせる日がいいだろう?」
「はい。私もそう思います」
シアは微笑んだ。
オットーはスープを飲みながら、二人の会話を聞いていたが、やがて口を開いた。
「冬の市へ行くなら、足元には気をつけろよ。朝晩は石畳が冷えるし、場所によっては滑りやすくなるからな」
「はい。靴屋さんからも、修理したばかりなので無理をしないようにと言われています」
「それなら安心だ。せっかく直した靴なんだから、長く使えるようにしてやれ」
シアは素直に頷いた。
マルタはそんな二人を見て、楽しそうに笑った。
「それにしても、シアが自分からお出かけの予定を立てるようになるなんてねえ。最初の頃を思うと、なんだか嬉しくなるよ」
その言葉に、シアは少しだけ頬を赤くした。
「……私も、少し不思議な気持ちです」
そう答えてから、彼女は自分の胸の内を確かめるように続けた。
「以前は、自分が何をしたいのか考えることが、あまりありませんでした。何かを選ぶときも、ほかの方のご都合を優先することばかり考えていたように思います」
マルタは何も言わず、静かに耳を傾けていた。
シアは少しだけ視線を落とした。
「でも、ここへ来てから、好きなものを選んだり、行ってみたい場所を考えたりすることが増えました。ミレイユさんと出かけるのも、私からお誘いしたいと思ったのです」
その言葉を口にすると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
自分の気持ちを言葉にすることは、まだ簡単ではない。
けれど、今はその気持ちを隠さなくてもよいと思える。
マルタは柔らかく微笑んだ。
「それは、とてもいいことだと思うよ。シアが自分で選んだことなら、きっと大切な思い出になるだろうね」
オットーも頷いた。
「仕事も暮らしも、自分で考えて決めることが増えていくもんだ。もちろん、分からないことがあれば相談すればいい。全部一人で抱える必要はないからな」
シアは二人を見つめ、静かに頷いた。
「……はい。ありがとうございます」
その言葉には、以前のような遠慮だけではなく、心からの感謝が込められていた。
◇
夕食を終え、自室へ戻ったシアは、まず修理した靴を丁寧に脱いだ。
一日履き続けたあとでも、足に痛みはなかった。
右の踵にはまだ少しだけ新しい革の感触が残っているが、歩くことに支障はなく、靴屋の主人が丁寧に調整してくれたことが分かる。
シアは靴の汚れを落とし、明日も履けるように揃えて置いた。
それから窓辺の秋灯草を確かめ、机の上に置いた本を手に取る。
『窓辺で育てる季節の草花』。
返却する前に、残りの頁を読んでおきたかった。
シアは椅子へ腰を下ろし、灯りの下で本を開いた。
寒い季節に植物を育てる際の注意や、日当たりの変化について書かれた部分を読み進める。秋灯草の世話に役立ちそうなところでは、時折視線を上げて実際の鉢を確かめた。
やがて最後の頁まで読み終えると、シアは本を閉じた。
借りたときには、こんなに多くのことを学べるとは思っていなかった。
花の世話だけではない。
植物の状態を見て、自分で判断すること。
必要なときに手をかけ、必要でないときには見守ること。
そうした考え方は、今の自分の暮らしにも少し似ているような気がした。
(次に図書館へ行ったら、どんな本を借りましょうか)
シアは小さく微笑んだ。
以前なら、本を借りることさえ贅沢だと思っていたかもしれない。
けれど今は、読みたい本を選び、期限までに返し、また新しい本を探すことができる。
それは、ごく当たり前のことなのかもしれない。
しかし、彼女にとっては大切な自由だった。
シアは本を丁寧に閉じ、返却を忘れないように帳面へ書き留めた。
そして、次の休日についても小さく記した。
ミレイユと冬の市を見に行くこと。
図書館へ本を返すこと。
時間があれば、街の景色をゆっくり眺めること。
書き終えた文字を見つめていると、胸の奥に温かな期待が広がっていった。
まだ正式に決まった予定ではない。
それでも、こうして楽しみにできることがある。
その事実が、シアには何より嬉しかった。
◇
一方、夜の騎士詰所では、ミレイユが勤務の確認を進めていた。
昼間の仕事を終えたあとも、翌日以降の巡回予定を確かめる必要があり、机の上にはいくつかの書類が広げられている。
窓の外では冷たい風が吹き、遠くの通りから荷車の音が聞こえていた。
ミレイユは書類へ目を通しながら、ふと昼間のシアの笑顔を思い出した。
修理した靴を嬉しそうに見せてくれたこと。
次の休日を楽しみにしていると、少し照れながら話してくれたこと。
そして、自分から図書館へ寄りたいと希望を伝えてくれたこと。
その一つ一つが、ミレイユには嬉しかった。
(シア、少しずつ自分のしたいことを話してくれるようになったわね)
最初に会った頃の彼女は、いつも相手の様子を気にしていた。
親切にされても戸惑い、何かを受け取るたびに申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
今もその癖が完全になくなったわけではない。
けれど、以前よりも自然に笑うことが増えた。
自分が嬉しいと思ったことを、言葉にしてくれるようになった。
ミレイユはその変化を、友人として喜ばしく感じていた。
彼女がどのような過去を持っているのか、詳しいことは知らない。
無理に聞き出そうとも思っていなかった。
ただ、今のシアが安心して暮らせるようになっているなら、それでよい。
そして、もし何か困ったことがあれば、友人として力になりたい。
そんな思いを胸に、ミレイユは再び勤務表へ視線を戻した。
数日後の予定には、まだ最終確認が必要な部分がある。
確定していないことを、今の段階でシアへ約束するわけにはいかない。
けれど、もし予定が合うなら、冬の市を一緒に歩きたい。
その時間を、ミレイユ自身も楽しみにしていた。
彼女は書類を丁寧に揃え、確認が必要な箇所へ印をつけた。
明日、担当者へ確かめよう。
そう決めると、自然と口元に小さな笑みが浮かんだ。
◇
《麦穂亭》の二階では、シアが寝台へ入る準備を整えていた。
窓の外はすっかり暗くなり、遠くの建物から漏れる灯りが、夜の街に小さな光を落としている。
秋灯草は静かに咲き、机の上には読み終えた本と帳面が置かれていた。
シアは厚い毛布を肩まで掛け、今日の出来事を思い返した。
修理した靴で一日働けたこと。
黒麦パンを求める客の事情を聞き、今できることを考えたこと。
ミレイユが店へ来てくれたこと。
そして、次の休日に何をしたいのか、自分の言葉で話せたこと。
どれも大きな事件ではない。
けれど、シアにとっては大切な出来事だった。
(……私は、少しずつ変わってきているのでしょうか)
その問いに、すぐには答えられなかった。
まだ怖いことはある。
突然大きな声が聞こえれば、身体が強張ることもある。
自分の希望を伝える前には、相手の迷惑にならないかと考えてしまう。
それでも、以前よりもできることが増えた。
自分で修理を頼み、必要な費用を支払うことができた。
困っている客の話を聞き、無理な約束をせずに対応できた。
友人へ、自分から一緒に出かけたいと伝えることができた。
その一つ一つが、今の彼女を支えていた。
シアは静かに息を吐き、毛布の中で目を閉じた。
冬の街には、まだ知らない景色がある。
これから出会う人々も、学ぶことも、きっとたくさんあるのだろう。
そのすべてを急いで手に入れる必要はない。
今日できたことを大切にしながら、明日もまた、自分の足で歩いていけばよい。
修理を終えた革靴は、部屋の入口で静かに並んでいた。
その靴とともに、シアの新しい暮らしはこれからも続いていく。
窓の外で風が小さく鳴る中、彼女は次の休日への期待を胸に抱きながら、穏やかな眠りへ落ちていった。




