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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第66話 修理を終えた靴と、冬の街で交わされた新しい約束


 朝の冷え込みが、少しずつ厳しくなっていた。


 シアが目を覚ましたとき、窓の外にはまだ夜の名残が残っており、向かいの建物の屋根も薄い灰色に沈んでいた。寝台の中はマルタから借りた厚い毛布のおかげで温かかったが、そこから腕を出すと、部屋の空気が思っていた以上に冷たいことに気づいた。


 しばらく毛布の中で身体を温めてから、シアはゆっくりと起き上がった。窓辺に置いた秋灯草へ目を向けると、黄色い花は今日も静かに咲いており、夜の間に強い風が吹いたらしい窓の外とは対照的に、部屋の中には穏やかな時間が流れている。


(昨日は、いろいろなことがありましたね。あの男の子は、蜂蜜パンを美味しく食べられたでしょうか)


 昨日、《麦穂亭》を二度訪れた親子のことを思い出すと、シアの口元に自然と笑みが浮かんだ。最初は丸パンだけを買って帰った二人だったが、午後には再び店を訪れ、男の子が気にしていた蜂蜜パンを一つ買っていった。


 母親が財布の中身を確かめながら買い物をしていたことも、男の子が欲しいものを我慢していたことも、シアは覚えている。だからこそ、最後に二人が見せてくれた嬉しそうな表情は、彼女の心に深く残っていた。


 けれど、昨日の出来事で最も大きかったのは、それだけではなかった。


 ミレイユを、自分から次の外出へ誘ったのだ。


 思い返すだけで、胸の奥が少しくすぐったくなる。相手の都合を考えて遠慮することはあっても、自分が誰かと過ごしたいという気持ちを言葉にした経験は、シアにとってまだ決して多くなかった。


 それでもミレイユは、驚いたあとに嬉しそうな笑顔を見せてくれた。


(また一緒に出かけたいと思ってくださっていたなんて、本当に嬉しかったです)


 シアは窓辺へ歩み寄り、秋灯草の鉢をそっと確かめた。土の表面は少し乾き始めていたが、指先で慎重に触れると内側にはまだ湿り気が残っていたため、今朝も水を足さずに様子を見ることにする。


 そのまま視線を下ろすと、椅子の横には靴屋から借りている革靴が揃えて置かれていた。


 修理をお願いした自分の靴は、昨日の時点ではまだ仕上がっていなかった。ニコが知らせてくれたところによれば、踵の作業は進んでいるものの、靴底の調整もあるため、完成したら改めて連絡をもらえることになっている。


 シアは借りた靴を履き、紐を丁寧に結んだ。


 足首の辺りには多少の硬さが残っているものの、仕事をするうえで困るほどではない。これまで何日か履き続けても痛みが出なかったことを思えば、靴屋の主人が慎重に選んでくれたことが分かる。


 自分の靴が戻ってきたら、きちんと礼を伝えたい。


 そんなことを考えながら身支度を整えたシアは、階下から聞こえてくる作業の音に耳を澄ませ、それから部屋を出た。


     ◇


 厨房では、オットーがすでにパン生地の様子を確かめていた。


 窯の火は赤々と燃えており、外の寒さが嘘のように温かな空気が広がっている。大きな作業台の上には布を掛けた生地が並び、壁際の棚には朝の仕事に使う道具が整然と収められていた。


「おはようございます、オットーさん。本日もよろしくお願いいたします」


「おう、おはよう。今朝は冷えるぞ。外に出たら、息が白くなるくらいだった」


 オットーは手を止めずに答えたが、シアが手洗いを済ませて戻ってくると、作業台の端を顎で示した。


「今日は生地の上がりが少し遅い。焦って窯に入れるわけにはいかないから、先に包み紙と布の準備を頼めるか」


「はい。いつもの枚数を揃えておきますね。ただ、今朝の焼き上がりが少し遅くなるようでしたら、店頭でのお知らせも必要でしょうか」


 シアが尋ねると、オットーは生地の表面を確かめながら考えた。


「今のところは、開店までに間に合うと思う。ただ、焼き上がりの順番は少し変えるかもしれん。マルタにも伝えておこう」


「承知しました。では、準備を進めながら、必要になりましたら確認いたします」


 そう答えて布を取り出すと、オットーが小さく笑った。


「最近は、先のことまでよく気がつくようになったな」


 シアは手元の布を揃えながら、少しだけ頬を緩めた。


「以前は、言われたことを間違えないようにするだけで精一杯でした。でも、マルタさんとオットーさんのお仕事を見ているうちに、次に何が必要になるのか考えることも大切なのだと思うようになりました」


「そりゃあ、いいことだ。ただし、考えたことが全部正しいとは限らんからな。分からないときは今みたいに聞いてくれればいい」


 オットーは穏やかにそう言い、発酵を待つ生地へ再び布を掛けた。


 その言葉に、シアは静かに頷いた。


 何かを考えて提案しても、間違っていたからといって叱責されるわけではない。分からないことを尋ねれば、理由を説明してもらえる。


 そうした日々の積み重ねが、彼女の中にあった失敗への恐怖を少しずつ和らげていた。


 やがてマルタが厨房へ顔を出し、朝食の準備を始めた。オットーから生地の状態を聞いた彼女は、店頭に並べる順番を確認しながら、無理に焼き上がりを急がせることなく予定を整えていった。


 シアも二人の会話を聞きながら、自分が担当する準備を進めた。


 寒い朝には、寒い朝の仕事の進め方がある。


 同じ一日を繰り返しているように見えても、毎日まったく同じことが起きるわけではない。その違いに合わせて動くことも、ここで働くうえで覚えなければならないことなのだろう。


     ◇


 開店からしばらくすると、店内には焼きたてのパンの香りが満ちた。


 朝の冷たい風を避けるように入ってくる客たちは、温かな店内へ足を踏み入れると、ほっとしたような表情を見せる。通りでは荷車の車輪が石畳を鳴らしていたが、店の中ではパンを選ぶ声や紙袋の擦れる音が重なり、いつもの朝の賑わいが戻ってきていた。


 シアは会計台に立ち、注文を聞きながらパンを包んでいった。


 丸パンを買いに来た常連の男性は、外の冷え込みについてひとしきり話したあと、温かなスープに合わせるつもりだと言って五つ購入していった。別の女性は胡桃パンを二つ選び、家族が朝食を楽しみにしているのだと笑っていた。


 そんな客たちを見送るうちに、シアは以前より自然に会話を交わせるようになっている自分に気づいた。


 もちろん、初めて会う人に話しかけられると緊張することはある。それでも、相手の言葉を聞き、自分の考えを返すことが、少しずつ怖くなくなってきていた。


 昼前、客足が落ち着いたところで、マルタが会計台の横へやってきた。


「シア、少し休憩しておいで。朝から立ちっぱなしだったろう?」


「ありがとうございます。でも、まだ疲れてはおりませんので、棚の整理を終えてからでも大丈夫です」


「棚は私が見るよ。休めるときに休んでおくのも仕事のうちだからね」


 マルタはそう言って、シアが持っていた布を受け取った。


 シアは一瞬だけ迷ったものの、すぐに頷いた。


「それでは、お言葉に甘えます。少しだけ休ませていただきますね」


 厨房の隅に置かれた椅子へ腰を下ろすと、窯の熱が背中を温めてくれた。温かな白湯を少しずつ飲みながら、シアは店頭から聞こえてくるマルタの声に耳を傾けた。


 以前なら、自分が休んでいる間に誰かが働いていることを、申し訳なく思っただろう。


 けれど、マルタは何度も教えてくれた。


 休憩を取ることは怠けることではなく、仕事を続けるために必要なことなのだと。


 その言葉を思い出しながら、シアは白湯の入った器を両手で包んだ。


 自分の身体を大切にすることも、ここで暮らし続けるためには必要なのだ。


     ◇


 昼食を終えた頃、店の入口で鈴が鳴った。


 シアが顔を上げると、そこにはニコの姿があった。


 少年はいつもより少し厚手の上着を着ており、頬を寒さで赤くしている。片手には小さな布袋を持っていたが、店内へ入るとまずマルタへ挨拶し、それからシアを見つけて嬉しそうに笑った。


「こんにちは、シアさん! 父さんから伝言だよ」


「こんにちは、ニコさん。寒い中、わざわざありがとうございます」


 シアが会計台の前へ出ると、ニコは得意そうに胸を張った。


「靴の修理が終わったんだ! 父さんが最後まで確認したから、今日から受け取りに来ても大丈夫だって」


 その言葉を聞いた瞬間、シアは思わず目を見開いた。


「本当ですか?」


「うん。ただ、受け取るときにはちゃんと履いて歩いてほしいって。靴底も踵も直したけど、実際に足に合うかどうかは確かめないと分からないからさ」


 ニコは父親から言われたことを忘れないようにしているのか、いつもより慎重な口調で続けた。


「もし少しでも変なところがあったら、その場で言ってほしいって。直したばかりの靴だから、無理して履いて帰るのは駄目なんだってさ」


 シアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 修理を終えたという知らせだけでも嬉しかったが、靴屋の主人が最後まで足の具合を気にかけてくれていることが、何よりありがたかった。


「承知しました。受け取る際には、きちんと試し履きをさせていただきます。お父様にも、丁寧に修理してくださってありがとうございますとお伝えください」


「それは、シアさんが来たときに直接言ってあげてよ。父さん、そういうの聞くと嬉しそうにするから」


 ニコはそう言って笑った。


 その無邪気な言葉に、シアも思わず微笑む。


 すると、厨房から出てきたマルタが二人の会話を聞き、声をかけた。


「靴が仕上がったのかい。それはよかったねえ、シア」


「はい。今日から受け取りに伺ってもよいそうです」


「それなら、仕事が終わったら行っておいで。あまり遅くなると暗くなるし、今日は片づけを少し早めに進めようか」


 シアは驚いてマルタを見た。


「よろしいのですか? いつもどおりのお仕事を終えてからでも、私は構いませんが……」


「もちろん、仕事を途中で放り出すわけじゃないよ。でも、三人で手分けすれば片づけは進むだろう? 靴屋さんにも都合があるだろうし、明るいうちに行けるなら、その方が安心だよ」


 マルタは当然のようにそう言った。


 シアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。では、今日の仕事をきちんと終えられるように、私も準備を進めます」


 ニコは二人のやり取りを見て、満足そうに頷いた。


「じゃあ、父さんに今日来るかもしれないって伝えておくね!」


「はい。よろしくお願いいたします」


 シアが答えると、ニコは元気よく手を振り、店を出ていった。


 扉が閉まったあとも、シアの胸には小さな喜びが残っていた。


 あの靴が、戻ってくる。


 ベルフォード家を出た日から、長い旅を支えてくれた革靴。


 何度も歩き、何度も立ち止まりながら、ここまで自分を運んでくれた靴だった。


 その靴を、もう一度履けるのだ。


     ◇


 午後の営業は、いつもより少し忙しく感じられた。


 実際には特別多くの客が訪れたわけではないが、シアは仕事をしながらも、靴の修理が終わったという知らせを何度か思い出していた。


 そのたびに気持ちが弾みそうになるものの、目の前の仕事をおろそかにしないよう意識を戻す。会計では代金を確かめ、客の注文を聞き間違えないようにし、棚の整理も普段どおり丁寧に進めていった。


 やがて夕方が近づき、客足が落ち着き始めた頃、マルタが会計台へやってきた。


「シア、そろそろ片づけを始めようか。今日はオットーも厨房の仕事を早めに終えられそうだし、靴屋さんへ行く時間は取れると思うよ」


「ありがとうございます。では、残っているパンの数を確認してから、会計台を整えますね」


「うん。慌てなくていいから、いつもどおり頼むよ」


 シアは頷き、棚に残ったパンを数え始めた。


 仕事を終えてから靴屋へ向かうという、ささやかな予定。


 けれど、それは彼女にとって大切な一歩だった。


 以前の自分なら、必要なものが壊れても、自分の判断で修理を頼むことは難しかっただろう。誰かに許可を求め、費用を使ってよいか確かめ、場合によっては我慢するしかなかった。


 今は違う。


 自分で働いて得たお金を使い、自分の暮らしに必要なものを整えることができる。


 それは、自由という言葉の中に含まれている、ごく小さくて確かな喜びなのだと思えた。


 閉店後の片づけが終わると、マルタはシアへ声をかけた。


「さあ、行っておいで。帰り道は冷えるだろうから、外套を忘れないようにね」


「はい。ありがとうございます。靴を受け取りましたら、まっすぐ戻ってまいります」


 シアは丁寧に頭を下げ、自室へ戻って外套を羽織った。


 貸し靴の紐をもう一度確かめ、修理代として用意していた四十八銅貨を財布に入れる。以前から決めていた金額ではあったが、実際に支払う日を迎えると、少しだけ緊張した。


 けれど、その緊張は不安だけではなかった。


 自分で選んだことを、自分の手で最後まで進められる。


 そのことへの、静かな期待も混じっていた。


     ◇


 《麦穂亭》を出ると、夕方の街には冷たい風が吹いていた。


 石畳の上には昼間の光がまだわずかに残っていたが、建物の影は長く伸び、通りを行き交う人々も外套の襟を立てて歩いている。シアは足元に気を配りながら、以前ニコに案内してもらった靴屋への道を進んだ。


 貸し靴の底が石畳へ触れる感覚は、今ではすっかり馴染んでいた。


 ただ、自分の靴とは歩いたときの音が少し違う。


 その違いを感じるたびに、もうすぐ元の靴へ戻れるのだと思い、胸の奥が温かくなった。


 やがて、見覚えのある靴屋の看板が見えてきた。


 店の窓からは温かな灯りが漏れており、扉の向こうには革の匂いと作業道具の気配が感じられる。


 シアは一度だけ息を整え、扉を開けた。


「こんにちは。シアです。靴の修理が終わったと伺いましたので、受け取りに参りました」


 店の奥から顔を上げた靴屋の主人は、シアの姿を認めると穏やかに頷いた。


「ああ、来たか。ちょうど仕上げの確認も済んだところだよ。ニコから話は聞いているかい?」


「はい。修理は終わっているものの、受け取る前に試し履きをするようにと伺いました」


「そのとおりだ。見た目を直すだけなら簡単なこともあるが、靴は実際に歩けなければ意味がないからね」


 主人はそう言って、作業台の脇に置かれた一足の革靴を手に取った。


 シアは、その靴を見た瞬間、言葉を失いかけた。


 見覚えのある革の色。


 長い旅の間についた細かな傷。


 何度も手入れを重ねてきた甲の部分。


 間違いなく、自分が履いてきた靴だった。


 けれど、傷みが目立っていた踵は丁寧に整えられ、薄くなっていた靴底にも必要な補修が施されている。新しい靴になったわけではないが、これまでの形を大切に残しながら、もう一度歩けるように直されていた。


「……こんなに、きれいにしていただけたのですね」


 シアが思わず呟くと、主人は少し照れくさそうに笑った。


「まだ褒めるのは早いよ。まずは履いてみてくれ。足に合わなければ、いくら見た目がよくても困るからね」


「はい。ありがとうございます」


 シアは椅子へ腰を下ろし、借りていた靴を丁寧に脱いだ。


 主人が差し出してくれた自分の靴を受け取り、片足ずつ履いていく。


 足を入れた瞬間、懐かしい感覚が戻ってきた。


 甲の部分が足に触れる位置も、踵を包む革の形も、長い時間をかけて馴染んだものだった。


 けれど、立ち上がると、以前とは違う感触があった。


 薄くなっていた靴底が補修されたことで、床に足を置いたときの安定感が増している。踵も以前のように頼りなく沈むことはなく、身体の重さをしっかり支えてくれた。


「どうだい? どこか当たるところはないか」


 主人が尋ねると、シアは慎重に数歩歩いた。


 店内の床をゆっくり進み、向きを変えてから戻ってくる。


 その間、主人はシアの足元を注意深く見つめていた。


「今のところ、痛みはありません。以前よりも、足を置いたときにしっかり支えられているように感じます」


「それなら、もう少し歩いてみよう。普段の速さで構わないが、無理に大股で歩かなくていい」


 シアは頷き、店内の空いた場所をもう一度歩いた。


 靴底が床へ触れる音が、規則正しく響く。


 長い旅の途中、石の多い道を歩いたときには、足裏へ伝わる衝撃を気にすることがあった。今はその不安が和らいでおり、歩くたびに足元が安定していることを実感できる。


 ただ、数歩歩いたところで、シアは少しだけ足を止めた。


「……あの、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」


「もちろんだ。何か気になるかい?」


 主人はすぐに顔を上げた。


 シアは自分の右足へ視線を落とし、感覚を確かめながら言葉を選んだ。


「痛みではないのですが、右の踵が以前より少し硬く感じます。修理したばかりだからでしょうか。それとも、調整していただいた方がよいのでしょうか」


 主人は真剣な表情で頷いた。


「よく言ってくれたね。修理した部分は、履き慣れた革とは感触が違うことがある。ただ、硬いと感じる場所によっては調整した方がいい場合もあるから、少し見せてくれ」


 シアは椅子へ戻り、右足の靴を脱いだ。


 主人は踵の内側を確かめ、補修した部分を指先で慎重に押した。


「ここが当たる感じかい?」


「はい。その辺りです。ただ、痛いというほどではありません」


「なるほど。革の端が少し立っているようだね。ほんのわずかだが、ここを馴染ませておこう」


 主人は作業台へ戻り、道具を使って内側を丁寧に調整した。


 シアはその手元を見守りながら、胸の奥に不思議な感覚を覚えていた。


 以前なら、少し気になることがあっても、相手の手を煩わせるのが申し訳なくて黙っていたかもしれない。


 けれど今は、自分の身体に関わることだからこそ、きちんと伝えなければならないと思える。


 それを聞いた主人も、嫌な顔をするどころか、当然のように確かめてくれた。


(気になることを伝えるのは、わがままではないのですね。相手の仕事を信じているからこそ、きちんと確かめることも大切なのだと思います)


 しばらくして、主人が靴を差し出した。


「これでどうかな。もう一度履いてみてくれ」


 シアは靴を受け取り、再び足を入れた。


 先ほどと同じように立ち上がり、店内を歩いてみる。


 右の踵に感じていた硬さは、完全になくなったわけではないものの、当たり方が柔らかくなっていた。


「先ほどより、ずっと自然に感じます。ありがとうございます」


「それならよかった。しばらく履いてみて、また気になることがあれば持っておいで。修理した靴は、最初の数日で具合が分かることもあるからね」


 主人はそう言ってから、貸し靴へ視線を向けた。


「そちらも、問題なく使えたようだね」


「はい。お借りしている間、仕事でも外出でも助けていただきました。大切に使わせていただきましたので、返却前に汚れが残っていないか確認していただけますか」


 シアが差し出すと、主人は靴の表面と底を確かめ、満足そうに頷いた。


「うん。きれいに使ってくれたね。これなら問題ないよ」


 シアはほっと息を吐いた。


 借りたものを無事に返せることも、修理した靴を受け取れることと同じくらい嬉しかった。


     ◇


 試し履きが終わると、シアは財布から四十八銅貨を取り出した。


 事前に聞いていた修理代である。


 主人は金額を確認し、代金を受け取った。


「確かに四十八銅貨、いただいたよ。修理した部分については、しばらく様子を見てくれ。靴底が急に滑るような場所は避けて、最初はいつもどおりの道を歩くといい」


「承知しました。丁寧に修理していただき、本当にありがとうございました」


 シアは深く頭を下げた。


 主人は少し困ったように笑った。


「そこまで頭を下げなくてもいいよ。こちらは仕事をしただけだからね」


「それでも、私にとっては大切な靴なのです」


 シアは顔を上げ、静かに続けた。


「長い道を歩いてきたときも、この靴がずっと支えてくれました。もう履けなくなるのではないかと思っていましたので、こうして直していただけたことが、本当に嬉しいのです」


 主人はしばらくシアを見つめていた。


 彼女がどこから来たのか、どんな事情でこの街へ辿り着いたのか、詳しいことは知らない。


 ただ、最初に靴を持ち込んできたときの慎重な様子や、修理代を確かめながら何度も考えていた姿は覚えていた。


 だからこそ、その靴が単なる履物以上の意味を持っていることは、今の言葉から十分に伝わってきた。


「……そうかい。それなら、直した甲斐があったよ」


 主人は穏やかに答えた。


「靴は、履く人と一緒に道を歩くものだからね。傷んだところを直して、また歩けるようになるなら、それが一番いい」


 その言葉を聞いた瞬間、シアの胸の奥が熱くなった。


 自分が歩いてきた道を、誰かが詳しく知っているわけではない。


 けれど、その道を支えてくれたものを大切にしてもらえた。


 それだけで、過去の自分まで少し救われたような気がした。


「……はい。これからも、大切に履きます」


 シアは微笑んだ。


 主人も満足そうに頷き、作業台の上へ道具を戻した。


 店を出る前に、シアはもう一度足元を確かめた。


 自分の革靴が、しっかりと足を包んでいる。


 その感触が嬉しくて、彼女は思わず小さく笑った。


     ◇


 靴屋を出ると、夕方の空は薄い紫色へ変わり始めていた。


 通りの向こうでは店じまいの準備をする商人たちが声を交わし、荷車を引く馬の足音が石畳へ響いている。冷たい風が頬を撫でたが、シアは外套の襟を少し寄せながら、ゆっくりと歩き始めた。


 修理した靴で石畳を踏むと、以前とは違う確かな感触が足裏へ伝わってきた。


 靴底が安定し、踵もしっかりと身体を支えている。


 シアは無理に歩幅を広げず、いつもの速さで進んだ。


 しばらく歩いても痛みはなく、足首にも不自然な負担は感じられない。


(……本当に、直ったのですね)


 胸の奥から、静かな喜びが湧き上がってきた。


 ベルフォード家を出た朝、シアは自分がどこまで歩けるのか分からなかった。


 知らない街道を進み、宿を探し、初めての土地で眠る。


 誰かに行き先を決めてもらうことも、身の回りのことを整えてもらうこともない旅だった。


 怖くなかったと言えば、嘘になる。


 道を間違えたらどうしよう。


 お金が足りなくなったらどうしよう。


 誰にも受け入れてもらえなかったら、どうすればいいのだろう。


 そんな不安を抱えながら、それでも彼女は歩き続けた。


 そして今、同じ靴を履いて、アルヴェイン公爵領の街を歩いている。


 けれど、あの頃とは違う。


 帰る場所がある。


 働く場所がある。


 自分を待ってくれる人たちがいる。


 そのことを思うと、シアは足元の靴だけでなく、自分自身も少しずつ変わってきたのだと感じた。


 通りの角へ差しかかったとき、前方から荷物を抱えた年配の女性が歩いてきた。


 女性は片手に買い物籠を持ち、もう片方の手で外套を押さえている。風が強く吹いた瞬間、籠の上に掛けていた布がめくれ、中に入っていた小さな包みが石畳へ落ちた。


「あら、困ったねえ……」


 女性は立ち止まり、荷物を抱え直そうとしたが、両手が塞がっていてすぐには拾えない様子だった。


 シアは周囲の人の流れを確かめ、邪魔にならない位置へ移動してから声をかけた。


「よろしければ、そちらをお拾いしましょうか?」


 女性は顔を上げ、ほっとしたように微笑んだ。


「まあ、ありがとう。助かるよ」


 シアは包みを拾い、表面に目立つ汚れがないことを確かめてから女性へ渡した。


 女性は礼を言い、籠の中へ丁寧に収める。


「今日は風が強くてねえ。買い物を済ませたら早く帰ろうと思っていたんだけど、荷物が多くなってしまったよ」


「そうでしたか。お気をつけてお帰りください。石畳も冷えておりますので」


 シアが答えると、女性は嬉しそうに頷いた。


「ありがとう、お嬢さん。あなたも気をつけるんだよ」


 女性が歩き出すのを見送ってから、シアも再び足を進めた。


 ほんの短いやり取りだったが、胸の奥には温かな余韻が残っていた。


 以前なら、知らない人に声をかけることさえ躊躇していただろう。


 相手が迷惑に思わないか、自分が余計なことをしていないか、そんなことばかり考えていたかもしれない。


 けれど今は、相手の様子を見て、必要なら手を差し伸べることができる。


 それがいつも正しいとは限らないとしても、相手の気持ちを確かめながら行動することはできるのだ。


 シアは少しだけ歩調を緩め、夕暮れの街を見渡した。


 石畳の隙間には冷たい影が落ち、店先の灯りが一つ、また一つと増えている。


 その景色を眺めながら、彼女はミレイユと交わした約束を思い出した。


 冬の街を、一緒に歩く。


 まだ日にちは決まっていない。


 けれど、今なら自分の靴で、安心して出かけられる。


 そう思うと、次の休日がますます楽しみになった。


     ◇


 《麦穂亭》へ戻る頃には、店の入口にも夕方の影が落ちていた。


 シアが扉を開けると、厨房からマルタの声が聞こえてきた。


「おかえり、シア。靴はどうだった?」


「ただいま戻りました。おかげさまで、無事に修理していただけました」


 シアは外套を脱ぎ、足元を見せるように少しだけ身体を向けた。


 マルタはその靴を見て、嬉しそうに目を細めた。


「まあ、ずいぶんきれいになったねえ。歩き心地はどうだい?」


「はい。店内で試し履きをして、帰り道も歩いてきましたが、今のところ痛みはありません。右の踵が少し硬く感じたので、その場で調整もしていただきました」


「ちゃんと伝えられたんだね。それなら安心だよ」


 マルタはそう言って頷いた。


 その言葉に、シアは少しだけ頬を赤くした。


「以前でしたら、少し気になる程度なら我慢していたかもしれません。でも、靴屋のご主人が、気になることはその場で言ってほしいとおっしゃってくださったので……」


「それでいいんだよ。身体に合わないものを無理に使って、あとで困る方が大変だからね」


 マルタは穏やかに答えた。


 そこへ、厨房からオットーも顔を出した。


「おう、帰ったか。靴はどうだ?」


「はい。無事に受け取れました。修理代も、伺っていたとおり四十八銅貨をお支払いしました」


 オットーはシアの足元を見て、満足そうに頷いた。


「いい仕事をしてもらったみたいだな。これなら、しばらくは安心して歩けそうだ」


「はい。ただ、修理したばかりですので、数日は様子を見ながら履くようにと言われました」


「そりゃあ大事だ。靴が直ったからって、急に長い距離を歩く必要はないからな」


 オットーの言葉に、シアは素直に頷いた。


 以前なら、修理が終わったというだけで、もう何も問題はないと思い込もうとしたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 直ったことを喜びながらも、しばらく様子を見る必要があると理解している。


 それもまた、自分の暮らしを大切にすることなのだろう。


 マルタはシアの表情を見て、柔らかく微笑んだ。


「それにしても、嬉しそうだねえ」


 シアは少し驚いたように顔を上げた。


「……はい。とても嬉しいです」


 そう答えると、マルタの笑みがさらに深くなった。


「うん。大切にしていたものが戻ってくるのは、いいことだよ」


 シアは静かに頷いた。


 自分が大切にしているものを、誰かが一緒に喜んでくれる。


 そのことが、靴を受け取れた喜びと同じくらい、胸に温かく残った。


     ◇


 夕食の時間になると、三人はいつもの卓を囲んだ。


 マルタが用意してくれた温かなスープから湯気が立ち、焼いたパンの香りが食卓へ広がっている。外では風が窓枠を小さく鳴らしていたが、厨房の中は窯の余熱で心地よく温まっていた。


 食事を始めてしばらくすると、マルタがシアへ声をかけた。


「そういえば、ミレイユさんとのお出かけは、まだ日にちが決まっていなかったね」


「はい。お互いの予定を確認してから決めましょうと、お話ししました」


「それなら、次のお休みの予定が分かったら教えておくれ。店の仕事もあるけれど、友達との約束は大切にしてほしいからね」


 シアは匙を置き、少し考えた。


「ありがとうございます。ただ、黒麦粉のこともありますし、お店が忙しくなるようでしたら、無理にお休みをいただくつもりはありません」


 その言葉に、マルタは小さく首を振った。


「シア、それは別の話だよ。店のことで考えなきゃいけないことはあるけれど、だからといって休みをなくしていいわけじゃない。七日に一度のお休みは、最初に約束したことだろう?」


 シアは一瞬、言葉を失った。


 確かに、ここで働き始めたとき、マルタとオットーは休みのこともきちんと説明してくれた。


 それは、店で働くための条件の一つだった。


 けれど、何か問題が起きているときには、自分の都合を後回しにしなければならないという考えが、まだ心のどこかに残っていたのだろう。


「……そうでしたね。申し訳ありません」


 反射的に謝ると、マルタは責めることなく微笑んだ。


「謝ることじゃないよ。ただ、シアが無理をしすぎないようにしたいだけさ。店のことを大事に思ってくれるのは嬉しいけれど、自分の暮らしも同じくらい大切にしておくれ」


 オットーも、パンをちぎりながら頷いた。


「休みの日まで仕事の心配ばかりしていたら、身体が持たんぞ。店のことは俺たちが考えるから、休みの日はちゃんと楽しんでくればいい」


 シアは二人を見つめ、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 自分のために時間を使うことを、許されるだけではない。


 むしろ、そうしてほしいと言ってもらえる。


 それがどれほどありがたいことなのか、彼女にはよく分かっていた。


「……ありがとうございます。次のお休みは、ミレイユさんと予定が合えば、街を歩いてみたいと思います」


 シアがそう答えると、マルタは嬉しそうに頷いた。


「うん。それがいいよ。冬の街も、なかなかきれいなものだからね」


 その言葉に、シアはレオンハルトが以前話してくれた景色を思い出した。


 寒い季節の朝。


 薄い光を受ける石畳。


 いつもとは違う表情を見せる街並み。


 まだ自分の目で確かめていない景色が、すぐ近くにある。


 そのことを考えるだけで、胸が少し弾んだ。


     ◇


 夕食を終え、自室へ戻ると、シアはまず修理した靴を丁寧に脱いだ。


 靴屋からの帰り道では問題なく歩けたが、主人に言われたとおり、しばらくは様子を見る必要がある。彼女は靴底に付いた小さな汚れを落とし、踵の補修部分を改めて確かめてから、部屋の入口近くへ揃えて置いた。


 その靴を眺めているうちに、長い旅の記憶が静かに蘇ってきた。


 伯爵家を出た朝。


 まだ人通りの少ない道を歩きながら、何度も背後を振り返りそうになったこと。


 見知らぬ宿で一夜を過ごし、翌朝また歩き始めたこと。


 旅の途中で出会った人たちの親切に戸惑いながらも、少しずつ受け取れるようになったこと。


 そして、アルヴェイン公爵領へ辿り着き、《麦穂亭》の求人を見つけたこと。


 どの出来事も、この靴とともに経験してきたものだった。


 シアは椅子へ腰を下ろし、胸元の銀のペンダントへそっと触れた。


 母の形見である小さな飾りは、今も変わらず彼女の胸元にある。


 家を出るとき、持ち出せるものは多くなかった。


 けれど、母の形見だけは、どうしても手放したくなかった。


 そして、この靴もまた、彼女が新しい暮らしへ辿り着くために欠かせないものだった。


(あの日の私は、ここまで来られると思っていたでしょうか)


 心の中でそう問いかけても、すぐに答えは出なかった。


 あの頃の自分は、先のことを考える余裕さえなかった。


 ただ、もうあの家へ戻りたくないという思いだけを頼りに、歩き続けていた。


 それでも、今は違う。


 朝になれば、仕事へ向かう。


 マルタとオットーに挨拶をし、パンの香りに包まれながら働く。


 客と話し、時には失敗し、分からないことを教えてもらう。


 仕事が終われば、自分の部屋へ戻り、好きな本を読んだり、花の世話をしたりできる。


 そして、次の休日には友人と出かける約束をしようとしている。


 その一つ一つが、以前の自分には遠いものだった。


 シアは静かに息を吐き、机の上に置いた小さな帳面を開いた。


 今日の出来事を書き留めようと筆を取ったが、最初の一文を書こうとしたところで、少しだけ手が止まった。


 靴の修理が終わった。


 その事実だけを書けば、簡単に済む。


 けれど、今日の出来事は、彼女にとってそれ以上の意味を持っていた。


 自分で修理を頼み、費用を支払い、仕上がりを確かめ、気になるところを伝えた。


 そのすべてを、自分の判断で進めることができたのだ。


 シアはゆっくりと筆を動かし、今日の出来事を丁寧に書き留めていった。


 書き終える頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。


 彼女は筆を置き、窓辺の秋灯草へ目を向けた。


 黄色い花は、夜の灯りの中でも柔らかな色を保っている。


 寒さが厳しくなってきたため、鉢の位置には気を配らなければならないが、今のところ葉も花も元気そうだった。


 シアは椅子から立ち上がり、鉢の様子を確かめた。


 土の乾き具合を見て、今夜も水を足さずにおくことにする。


 その小さな判断にも、以前とは違う落ち着きがあった。


 何かを大切にするためには、ただ手をかければよいわけではない。


 相手の様子を見て、必要なことを考え、無理をしない。


 靴屋の主人が靴を直してくれたように、マルタとオットーが店を守っているように、自分も少しずつ暮らしを整えていきたい。


 そんな思いが、胸の奥に静かに広がっていた。


     ◇


 その頃、《麦穂亭》の厨房では、マルタとオットーが翌日の準備について話していた。


 シアが自室へ戻ったあとも、二人には確認しておくことがいくつかあった。黒麦粉の入荷日はまだ決まっておらず、既存の予約を守るためには、残りの材料と今後の使用予定を引き続き慎重に見ていく必要がある。


 マルタは卓の上に置いた帳簿を閉じ、向かいに座る夫へ視線を向けた。


「シアの靴、無事に直ってよかったねえ」


「ああ。あの靴はずいぶん傷んでいたからな。きちんと修理してもらえたなら安心だ」


 オットーはそう答え、温かな飲み物を一口飲んだ。


 マルタは少し考え込むように視線を落とした。


「最初にあの子が店へ来たときのこと、覚えているかい?」


「もちろんだ。ずいぶん緊張していたな。何を頼んでも、まず謝るような子だった」


「そうだね。仕事は丁寧だったけれど、失敗することを怖がっているのが分かったよ」


 マルタは静かに頷いた。


 シアが何を経験してきたのか、二人は詳しく知らない。


 彼女自身が話していないことを、無理に聞き出すつもりもなかった。


 けれど、働き始めた頃の様子と今の姿を比べれば、少しずつ変わってきていることは分かる。


 以前は、何かを尋ねられるだけで身体を強張らせることがあった。


 今も突然の大きな声には驚くことがあるが、分からないことを自分から質問し、必要なことを相談できるようになってきた。


 そして今日、修理した靴について、気になる部分を自分から伝えられたと嬉しそうに話していた。


「いい変化だと思うよ」


 オットーが静かに言った。


「仕事を覚えるのも大事だが、自分のことを自分で決められるようになるのは、それ以上に大事なことかもしれん」


 マルタは夫の言葉に頷いた。


「そうだね。あの子がここへ来てよかったと思えるなら、私も嬉しいよ」


 窯の火はすでに弱まり、厨房には穏やかな静けさが戻っていた。


 マルタは帳簿を片づけながら、明日の仕事について考える。


 黒麦粉の問題は、まだ解決していない。


 仕入れ先から新しい知らせが届けば、また判断しなければならないことも出てくるだろう。


 けれど、それは店を営む自分たちが引き受けるべき仕事だった。


 シアには、ここで働きながら、少しずつ自分の暮らしを作っていってほしい。


 マルタはそう願いながら、最後の灯りを確かめた。


     ◇


 自室では、シアが図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』を開いていた。


 頁には、寒い季節に植物を育てるときの注意が書かれている。窓辺の冷え込みや水の与えすぎに気をつけること、葉の様子をよく観察することなど、最近のシアが実際に試していることも多かった。


 彼女は文章を読み進めながら、ときどき秋灯草へ目を向けた。


 以前なら、本に書かれていることを一つ残らず正しく実行しなければならないと思ったかもしれない。


 けれど、今は違う。


 本に書かれていることを参考にしながら、目の前の植物の状態を確かめ、自分で判断する。


 それが大切なのだと、少しずつ理解していた。


 しばらく読書を続けたあと、シアは本を閉じた。


 明日も仕事がある。


 修理した靴で初めて丸一日働くことになるため、足元の具合には気を配る必要があるだろう。


 それでも、不安より楽しみの方が大きかった。


 彼女は寝台へ入り、厚い毛布を肩まで掛けた。


 窓の外では、遠くの鐘が夜の時刻を告げている。


 その音を聞きながら、シアは今日の靴屋でのやり取りを思い出した。


 大切な靴を直してもらえたこと。


 気になることを伝えられたこと。


 そして、自分の足で再び街を歩けたこと。


 どれも、誰かから見れば小さな出来事なのかもしれない。


 けれど、シアにとっては確かな前進だった。


(……これからも、少しずつ歩いていきたいです)


 彼女は毛布の中で静かに微笑んだ。


 遠い街で始まった新しい暮らしは、まだ途中にある。


 分からないことも、解決していない問題も、これから出会う人々もいるだろう。


 それでも、今のシアには帰る場所があり、相談できる人がいて、自分で選べる明日がある。


 修理を終えた靴は、部屋の入口で静かに並んでいた。


 その靴で、明日もまた《麦穂亭》へ向かう。


 そしていつか、ミレイユと冬の街を歩き、まだ知らない景色を見に行くのだ。


 そんな未来を思い描きながら、シアはゆっくりと目を閉じた。


 窓の外では冷たい風が吹き続けていたが、毛布の中は温かかった。


 彼女はその温もりに包まれながら、穏やかな眠りへ落ちていった。

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