第65話 小さな手を差し伸べた午後と、私が選んだ優しさ
朝の冷たい空気が窓辺に漂い、シアは毛布の中でゆっくりと目を覚ました。
夜の間に風が強くなったらしく、窓枠の向こうでは、通りに面した店の看板が時折小さな音を立てている。空はまだ薄暗く、向かいの建物の屋根も淡い灰色に沈んでいたが、階下からはすでにオットーが仕事を始めた気配が伝わってきた。
シアは身体を起こし、肩まで掛けていた厚い茶色の毛布を丁寧に畳んだ。
この毛布をマルタから借りたばかりの頃は、夜の寒さをしのげることがありがたく、それだけで十分だと思っていた。けれど今は、朝まで安心して眠れることが、翌日の仕事を続けるためにも大切なのだと感じている。
窓辺の秋灯草は、今日も黄色い花を咲かせていた。
シアは鉢の土を確かめ、表面の乾き具合と葉の様子を見比べる。昨夜も水を足さなかったが、内側にはまだ湿り気が残っているようだったので、今朝も水差しには手を伸ばさなかった。
(寒くなってきましたから、夏と同じように考えてはいけないのですね。花が元気だからといって、何でもたくさん与えればよいわけではありませんし)
図書館で借りた本に書かれていたことを思い出し、シアは鉢の位置を少しだけ確かめた。
それから、部屋の入口近くに置いた貸し靴へ視線を向ける。
長い旅を共にした自分の革靴は、現在、ニコの父親が営む靴屋で修理を受けている。昨日はニコが《麦穂亭》まで知らせを届けてくれ、作業は予定どおり進んでいるものの、受け取りは仕上がりを確かめてからになると教えてくれた。
シアは椅子へ腰を下ろし、借りた靴を履いた。
足首の辺りに感じていた硬さは、靴屋の主人が紐の結び方を調整してくれたことで、以前より気にならなくなっている。昨日も仕事中に痛みは出なかったが、今朝も立ち上がって数歩歩き、踵が浮かないことを確かめた。
(今日も、大丈夫そうです)
小さく息を吐き、身支度を整える。
昨日は《銀鹿亭》の使いの女性が訪れ、黒麦パンの予約について確認があった。材料の入荷日は依然として決まっておらず、店としても慎重に状況を見守っている。
ただ、今日はそのことばかり考えていてはいけない。
店には毎日客が訪れ、パンを必要としている人がいる。
今のシアにできることは、目の前の仕事を丁寧に進めることだった。
そう考えながら、彼女は階段を下りていった。
◇
厨房へ入ると、窯の熱が冷えた身体を包んだ。
オットーは大きな木鉢の中で生地をまとめており、作業台には焼き上がりを待つパンが並んでいる。窓の外ではまだ朝の光が弱かったが、厨房の中にはすでに一日の仕事が始まった活気があった。
「おはようございます、オットーさん。本日もよろしくお願いいたします」
「おう、おはよう。今日は風が冷たいぞ。外へ出るときは気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
シアは手を洗い、作業台の上に置かれた布を整えた。
オットーは生地の状態を確かめながら、少し考えるように眉を寄せた。
「今朝は冷えてるから、発酵の様子をいつもよりよく見ておかないとな。シア、そっちの生地はまだ触らずに、道具の準備を頼む」
「承知しました」
シアは頷き、必要な道具を揃えていった。
以前は、何かを任されるたびに、間違えないようにと緊張していた。今も慎重になることはあるが、分からないことがあれば確認してよいと分かっているため、以前ほど身体が強張ることはなくなっている。
しばらくすると、マルタが厨房へ顔を出した。
「おはよう、シア。今日は朝から冷えるねえ」
「おはようございます、マルタさん。はい。窓の外も、昨日より寒そうに見えました」
「そうだろうね。そろそろ朝の外套も厚いものが欲しくなる頃だよ」
マルタはそう言ってから、シアの足元へ視線を向けた。
「靴の方はどうだい? 昨日も一日履いていたけれど、痛くならなかったかい?」
「はい。今朝も問題ありませんでした。修理が終わるまで、大切に使わせていただこうと思っています」
「うん。それならよかった」
マルタは微笑み、店頭へ戻っていった。
シアはその背中を見送りながら、胸の奥に温かさを感じた。
毎朝のように、誰かが自分の体調や足元を気にかけてくれる。
以前の暮らしでは、そうしたことを当たり前だと思ったことはなかった。
けれど今は、その優しさを受け取ることに、少しずつ慣れてきている。
◇
開店すると、店内には朝食用のパンを求める客が次々と訪れた。
丸パンを三つ買っていく男性、胡桃パンを選ぶ年配の女性、小さな白パンを二つ手に取る子ども連れの母親。シアは注文を聞き、代金を確かめ、パンを丁寧に袋へ入れていった。
朝の忙しさが一段落した頃、入口の鈴が鳴った。
「こんにちは。まだ丸パンはありますか?」
店へ入ってきたのは、見覚えのない若い女性だった。
少しくたびれた外套を羽織り、片手には小さな買い物籠を持っている。もう片方の手では、五歳ほどに見える男の子の手を握っていた。
男の子は母親の外套の陰に半分隠れながら、棚に並ぶパンをじっと見つめている。
「いらっしゃいませ。はい、丸パンはまだございます」
シアが答えると、女性は安心したように微笑んだ。
「よかった。朝から用事が長引いてしまって、まだ買い物が終わっていなかったんです」
「そうでしたか。寒い中、お疲れさまでございます」
シアは穏やかに答え、棚の丸パンを示した。
女性は籠を持ち直し、男の子へ顔を向けた。
「ほら、今日はここでパンを買って帰ろうね。お父さんも待っているから」
男の子は小さく頷いたが、視線は棚の端に置かれた蜂蜜パンへ向いていた。
丸パンとは違う、ほんのり甘い香りのするパン。
その前で、男の子はしばらく動かなかった。
女性はその様子に気づき、少し困ったように笑った。
「甘いパンが気になるのね。でも今日は、家で食べるパンを買いに来たんだから」
男の子は母親を見上げ、何か言いかけた。
しかし、結局何も言わず、小さく頷いた。
シアはそのやり取りを見ながら、胸の奥にかすかな痛みを覚えた。
欲しいものがあっても、口に出さずに諦める。
それ自体は、決して悪いことではない。
買い物には予算があり、家族の都合もある。
けれど、男の子が何も言わずに視線を落とした姿が、なぜか以前の自分と重なって見えた。
シアはすぐに声をかけることはせず、女性が注文を決めるのを待った。
「丸パンを四つお願いします」
「ありがとうございます。丸パン四つで二十銅貨になります」
シアは注文を繰り返し、パンを袋へ入れた。
女性が財布を取り出したとき、男の子が小さな声で尋ねた。
「……お母さん、あのパンは、どんな味?」
女性は少し驚いたように息子を見た。
「蜂蜜パンのこと?」
男の子は頷いた。
「甘いの?」
「そうね。蜂蜜が入っているから、甘いと思うわ」
女性は少し考え、シアへ視線を向けた。
「すみません。あの蜂蜜パンは、一ついくらですか?」
「一つ七銅貨でございます」
シアが答えると、女性は財布の中を確かめた。
しばらく銅貨を数え、それから小さく息を吐いた。
「今日は……やっぱり丸パンだけにしておきます」
男の子は何も言わなかった。
ただ、蜂蜜パンから視線を外し、母親の外套をぎゅっと握った。
シアはその様子を見て、言葉を探した。
けれど、勝手に値引きすることはできない。
店のパンは、オットーが材料を使い、時間をかけて焼いた商品だ。
自分の気持ちだけで代金を変えたり、無料で渡したりすることは、店の約束を壊してしまう。
それでも、何かできることはないだろうか。
シアは少し考え、女性へ穏やかに声をかけた。
「もしよろしければ、蜂蜜パンについて少しご説明してもよろしいでしょうか?」
女性は顔を上げた。
「ええ、もちろん」
「蜂蜜パンは、丸パンよりも甘みがありますが、食事のあとに少しずつ召し上がる方もいらっしゃいます。ただ、今日すぐにお買い求めいただかなくても、また機会がございましたらお試しいただければと思います」
シアは男の子へ視線を向け、柔らかく微笑んだ。
「とてもよい香りがするパンですので、気になってくださって嬉しいです」
男の子は少し驚いたように顔を上げた。
「……ぼく、甘いパン、好き」
「そうなのですね」
シアは頷いた。
「いつか召し上がっていただけたら、嬉しいです」
男の子はしばらくシアを見つめ、それから小さく笑った。
「うん」
女性はその様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございます。今日は丸パンだけですけど、また来ますね」
「はい。お待ちしております」
シアは二十銅貨を受け取り、パンの袋を渡した。
女性は男の子の手を取り、店を出ていった。
扉が閉まったあと、シアは静かに息を吐いた。
何か特別なことをしたわけではない。
男の子に蜂蜜パンを買ってあげたわけでも、女性の困りごとを解決したわけでもない。
それでも、男の子が最後に笑ってくれたことが、胸の奥に残っていた。
(……欲しいと思う気持ちまで、隠さなくてもよいのですよね)
シアは会計台の上を整えながら、そう考えた。
何かを買えるかどうかと、それを好きだと思うことは別の話だ。
自分も、青灰色の外套をまだ買っていない。
けれど、欲しいと思ったこと自体を、恥ずかしいと感じる必要はないのだろう。
そのことに気づくと、シアの胸に小さな温かさが広がった。
◇
昼前になると、店内の客足が少し落ち着いた。
シアは棚の残りを確認し、会計台の下へ紙袋を補充していた。
そのとき、入口の鈴が鳴り、見覚えのある女性が店へ入ってきた。
赤みがかった髪を後ろでまとめ、落ち着いた足取りで店内へ進んでくる。
「こんにちは、シア」
ミレイユ・クローデルだった。
シアは顔を上げ、思わず微笑んだ。
「ミレイユさん! こんにちは。お久しぶりです」
「久しぶりね。近くまで来る用事があったから、少し寄ってみたの」
ミレイユは穏やかに答え、棚に並ぶパンへ目を向けた。
今日は騎士としての仕事の途中らしく、動きやすい服装の上から外套を羽織っている。腰には普段どおり装備があり、立ち姿には自然な緊張感があったが、シアへ向ける表情は柔らかかった。
「今日は何をお探しですか?」
「そうね。昼食に食べられるものを買おうと思って。丸パンと胡桃パンがあるなら、それぞれ一つずつお願いできる?」
「はい。丸パン一つと胡桃パン一つで、十一銅貨になります」
シアはパンを袋へ入れながら、ミレイユの顔を見た。
以前、休日に一緒に街を歩いたときのことを思い出す。
中央広場の噴水で待ち合わせをし、図書館へ行き、温かなスープを食べた。
その日は、誰かと一緒に過ごす休日がこんなにも楽しいものなのだと、シアが初めて実感した日でもあった。
「お仕事は、お忙しいですか?」
シアが尋ねると、ミレイユは少し笑った。
「冬が近づいているからね。街の中でも、寒くなる前に確認しておかなければならないことが増えているの。今日は巡回の途中で、少しだけ時間ができたところよ」
「そうなのですね。お疲れさまでございます」
「ありがとう。でも、シアも毎日早くから働いているでしょう? 無理はしていない?」
「はい。マルタさんとオットーさんに助けていただきながら、元気に働いております」
シアは微笑んだ。
ミレイユはその表情を見て、安心したように頷いた。
「それならよかった。そういえば、前に話していた靴はどうなったの?」
「昨日、靴屋さんから修理が進んでいるとご連絡をいただきました。今は貸し靴を履いているのですが、仕事中も問題なく使えています」
「そう。よかったわ」
ミレイユはシアの足元へ視線を向けた。
「冬は足元が大事だからね。特に朝の石畳は、雨が降っていなくても冷え込みで滑りやすくなることがあるの」
「レオンハルト様にも、同じようなお話を伺いました」
シアが何気なく答えると、ミレイユは少しだけ目を瞬かせた。
「レオンハルト様に?」
「はい。先日、お店へパンを買いにいらしたときに、靴の修理についてお話ししたのです」
「そうだったのね」
ミレイユは穏やかに頷いた。
その表情に、特別な驚きや詮索する様子はなかった。
「レオンハルト様は、領内の道路や橋のことも気にかけていらっしゃるから、そういう話には詳しいのかもしれないわね」
「はい。黒麦粉の入荷についても、道路の補修が進んでいることと、荷車が安全に通れることは別だと教えていただきました」
シアが答えると、ミレイユは少し真剣な表情になった。
「なるほど。確かにそうね。道が直ったからといって、すぐに重い荷車を通せるとは限らないもの」
彼女は棚の端に貼られた黒麦パンの販売休止のお知らせへ目を向けた。
「まだ材料は届いていないのね」
「はい。到着日は決まっておりません。ただ、仕入れ先の方が状況を知らせてくださっていますので、店でも確認を続けております」
「そう。早く落ち着くといいわね」
ミレイユはそう言い、パンの袋を受け取った。
シアは十一銅貨を受け取りながら、少しだけ迷った。
以前、一緒に街を歩いた時間は、とても楽しかった。
また会いたいと思っていたが、相手は騎士として忙しく働いている。
自分から誘ってよいのだろうか。
仕事の邪魔にならないだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
けれど、ミレイユは以前から、また一緒に出かけようと言ってくれていた。
それなら、自分の気持ちを伝えてもよいのではないだろうか。
シアは小さく息を整えた。
「あの、ミレイユさん」
「なあに?」
「もし、またお時間が合うことがございましたら……一緒に街を歩いていただけませんか?」
言い終えた瞬間、胸が少しだけ高鳴った。
自分から誰かを誘うことには、まだ慣れていない。
断られたらどうしようという不安も、完全には消えていなかった。
けれど、ミレイユは驚いたように目を見開いたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんよ。私も、またシアと出かけたいと思っていたの」
その言葉に、シアは思わず顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。前に図書館へ行ったときも楽しかったもの。今度は、冬の街を歩いてみるのもいいかもしれないわね」
シアの胸が、ふわりと温かくなった。
冬の街。
それは、レオンハルトが話してくれた景色でもあった。
「私も、冬の街を見てみたいと思っていたのです」
シアがそう答えると、ミレイユは嬉しそうに笑った。
「それなら、ちょうどいいわね。ただ、私の勤務もあるし、シアのお休みもあるでしょう? 日にちは、また都合を確認してから決めましょう」
「はい。ありがとうございます」
具体的な日程は、まだ決まっていない。
けれど、今度はシア自身が誘い、ミレイユが喜んで応じてくれた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
◇
ミレイユが店を出たあと、シアはしばらく胸の奥に残る温かさを感じていた。
自分から誰かを誘う。
それは、今までの彼女にとって、とても勇気のいることだった。
ベルフォード家にいた頃は、誰かと出かけたいと願っても、自由に予定を決められる立場ではなかった。
許可を求めても、必要のない外出だと言われることがあった。
だから、いつしか自分の希望を口にすること自体を諦めるようになっていた。
けれど、今は違う。
自分が行きたいと思った場所へ、誰かを誘うことができる。
相手が忙しければ、都合のよい日を相談すればいい。
断られたとしても、それだけで自分の価値がなくなるわけではない。
その当たり前のことを、シアは少しずつ理解し始めていた。
(……また、一緒に出かけられるのですね)
シアは小さく微笑み、会計台の上を整えた。
そのとき、厨房からマルタが顔を出した。
「ミレイユさん、来ていたんだね」
「はい。お仕事の途中で、昼食用のパンを買いにいらしてくださいました」
「そうかい。元気そうだった?」
「はい。冬が近づいているので、お仕事で確認することが増えているそうです」
シアはそう答えてから、少しだけ頬を赤くした。
「それと……また、お休みの日に一緒に街を歩いていただけないかと、お誘いしました」
マルタは一瞬だけ目を丸くした。
そして、すぐに嬉しそうに笑った。
「まあ、シアから誘ったのかい?」
「はい。まだ日にちは決まっておりませんが、ミレイユさんも喜んでくださいました」
「それはよかったねえ」
マルタは心から嬉しそうに頷いた。
「友達と出かける予定があるって、いいものだよ。仕事の日とは違う楽しみができるからね」
「はい。前にご一緒したときも、とても楽しかったのです」
シアが答えると、マルタは穏やかな眼差しを向けた。
「そうかい。それなら、今度も楽しんでおいで」
その言葉に、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が友人と出かけたいと思うことを、マルタは当然のように喜んでくれる。
そのことが、まだ少し不思議だった。
けれど、今は素直に嬉しいと思えた。
◇
午後の営業が始まる頃には、空を覆っていた雲が少し薄くなっていた。
窓から差し込む光は弱いものの、通りの石畳には淡い日差しが落ちている。
シアは棚のパンを整えながら、午前中に訪れた親子のことを思い出していた。
蜂蜜パンを見つめていた男の子。
買ってもらえないと分かっても、何も言わずに頷いた姿。
そして、最後に見せてくれた小さな笑顔。
あの子は、いつか蜂蜜パンを食べられるだろうか。
そんなことを考えていたとき、入口の鈴が鳴った。
顔を上げると、先ほどの親子が再び店へ入ってきた。
「こんにちは。先ほどはありがとうございました」
女性は少し照れくさそうに微笑んだ。
男の子も、母親の外套の陰から顔を出している。
「いらっしゃいませ。こちらこそ、ありがとうございました」
シアが答えると、女性は財布を取り出した。
「実は、帰り道で用事が一つ済んで、少しだけ余裕ができたんです。それで、この子がずっと気にしていたパンを、一つ買って帰ろうと思いまして」
シアは思わず目を瞬かせた。
女性は棚の蜂蜜パンを指さした。
「蜂蜜パンを一つ、お願いします」
「ありがとうございます。蜂蜜パン一つで七銅貨になります」
シアは丁寧にパンを袋へ入れた。
男の子は、その様子をじっと見つめている。
袋が母親の手へ渡ると、男の子は嬉しそうに顔を輝かせた。
「お母さん、ありがとう!」
「帰ってから、みんなで分けて食べようね」
「うん!」
女性はシアへ視線を向けた。
「先ほど、この子に優しく話してくださってありがとうございました。買えないからといって、気にしなくていいようにしてくださったのが嬉しくて」
シアは少し驚いた。
「いえ、私は何も……」
そこまで言いかけて、言葉を止めた。
何もしていないわけではない。
男の子が好きだと思った気持ちを、否定しなかった。
それだけのことかもしれない。
けれど、女性はそのことを覚えていてくれたのだ。
「……そう言っていただけて、嬉しいです」
シアは静かに答えた。
女性は微笑み、男の子の手を取った。
「また来ますね」
「はい。お待ちしております」
親子が店を出ると、シアはしばらく扉の方を見つめていた。
胸の奥には、言葉にしにくい温かさが広がっている。
自分がしたことは、本当に小さなことだった。
けれど、その小さなことが、誰かにとって嬉しいものになることもある。
その事実が、今のシアにはとても大切に思えた。
◇
夕方になると、店内の客足は少しずつ落ち着いてきた。
シアは残ったパンの数を確かめ、会計台を拭き、棚の布を整えた。
マルタは売上帳を閉じ、オットーは厨房で道具の片づけを進めている。
いつもの閉店作業が終わると、三人は卓を囲み、今日の出来事を簡単に振り返った。
「今日は、親子のお客さんが二度来てくださったんです」
シアがそう話すと、マルタは興味深そうに顔を上げた。
「そうなのかい?」
「はい。朝に丸パンを四つ買ってくださったのですが、そのとき男の子が蜂蜜パンを気にしていらして……。最初は買わずに帰られたのですが、午後にもう一度来てくださって、一つお買い上げくださいました」
マルタは穏やかに微笑んだ。
「それはよかったね」
「はい。男の子が、とても嬉しそうで……」
シアは少し考えながら続けた。
「私は、何か特別なことをしたわけではありません。ただ、好きだと思う気持ちを、無理に隠さなくてもよいのではないかと思ったのです」
マルタはしばらく黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「うん。それは大切なことだと思うよ」
オットーも、作業台の片づけを終えてから席についた。
「店で売っているものを、みんながいつでも買えるわけじゃないからな。でも、気に入ってくれるだけでも嬉しいものだ」
シアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
オットーは少し照れくさそうに続けた。
「もちろん、買ってもらえればありがたいがな。けど、子どもがパンを見て嬉しそうにしてるのは、悪い気分じゃない」
マルタは小さく笑った。
「そうだね。だからこそ、また来たいと思ってもらえる店でありたいものだよ」
シアは静かに頷いた。
店の仕事は、パンを売ることだけではない。
客が安心して入れる場所であること。
買うかどうかを、自分で選べること。
そして、また来たいと思ってもらえること。
その一つ一つが、《麦穂亭》を支えているのだと思えた。
◇
夕食の席では、黒麦粉の入荷についても話した。
今日も、ハンスから新しい知らせは届いていない。
北方道路の補修は進んでいるものの、重量荷車の通行制限は続いており、注文した黒麦粉の積み込み日も到着日も決まっていなかった。
マルタは必要数一覧を見ながら、静かに言った。
「《銀鹿亭》には昨日話ができたし、今のところ予約を変更する必要があるとは決まっていない。だから、今日も予定どおり進めていこうと思うよ」
「そうだな。材料の残りは引き続き確認しておく」
オットーは頷いた。
シアも、二人の言葉を聞きながら静かに頷いた。
問題はまだ解決していない。
けれど、今できることは進められている。
それだけでも、以前より落ち着いて考えられるようになった。
食事が終わる頃、マルタがシアへ視線を向けた。
「そういえば、ミレイユさんとまた出かける話をしたんだったね」
「はい。まだ日にちは決まっておりませんが、またご一緒できることになりました」
「それなら、次のお休みが近づいたら相談しておくれ。仕事の予定も見ながら考えよう」
「ありがとうございます」
シアは微笑んだ。
自分から誰かを誘ったこと。
その相手が喜んでくれたこと。
そして、こうしてマルタも応援してくれること。
そのすべてが、今のシアには嬉しかった。
◇
夕食を終え、自室へ戻ると、窓の外には夜の街が広がっていた。
向かいの建物の窓から漏れる灯りが、石畳の一部を淡く照らしている。
シアは外套を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。
机の上には、図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』と、小さな帳面が置かれている。
シアは筆を取り、今日の出来事を書き留めた。
朝に訪れた親子のこと。
蜂蜜パンを気にしていた男の子のこと。
午後にもう一度来てくれたこと。
そして、ミレイユを自分から誘えたこと。
書き終えると、シアは筆を置き、しばらく帳面を見つめた。
今日一日を振り返ると、大きな出来事があったわけではない。
黒麦粉の問題も続いているし、靴の修理もまだ終わっていない。
けれど、胸の奥には確かな温かさが残っていた。
誰かに優しくすること。
自分の気持ちを伝えること。
相手の気持ちを尊重すること。
それらは、特別な力がなければできないことではない。
今の自分にも、少しずつできることなのだ。
シアは胸元の銀のペンダントへそっと触れた。
母の形見である小さな銀の飾りは、今も変わらずそこにある。
ベルフォード家を出た日、彼女は自分の未来がどうなるのか分からなかった。
誰にも必要とされないのではないか。
どこへ行っても居場所が見つからないのではないか。
そんな不安を抱えながら、ただ歩き続けていた。
けれど、今は違う。
《麦穂亭》で働き、マルタとオットーに支えられ、ミレイユという友人がいる。
レオンハルトとも、少しずつ自然に話せるようになってきた。
ニコや靴屋の主人のように、困ったときに相談できる人もいる。
そして、今日の親子のように、ほんの短い時間でも温かな気持ちを分け合える人たちがいる。
その一つ一つが、シアの世界を少しずつ広げていた。
(私は、ここで生きていきたいのですね)
その思いは、以前よりもはっきりしていた。
誰かに認めてもらうためではない。
誰かの期待に応えるためだけでもない。
自分が選んだ場所で、自分の力で働き、少しずつ暮らしを整えていきたい。
その気持ちを、今は大切にしたかった。
シアは帳面を閉じ、窓辺の秋灯草へ目を向けた。
黄色い花は、夜の灯りの中でも柔らかな色を保っている。
その姿を見ながら、シアは今日の男の子の笑顔を思い出した。
蜂蜜パンを買ってもらえたときの、あの嬉しそうな表情。
自分が何かをしてあげたわけではない。
けれど、好きだと思う気持ちを否定しなかったことが、少しでも安心につながったのなら嬉しい。
そして、自分自身もまた、好きだと思うものを大切にしてよいのだと感じた。
青灰色の外套。
冬の街の景色。
ミレイユと過ごす休日。
レオンハルトと交わす穏やかな会話。
どれも、今すぐ手に入れなければならないものではない。
けれど、楽しみに思うことは自由なのだ。
シアは小さく微笑み、図書館で借りた本を開いた。
寒い季節の植物の手入れについて書かれた頁を少し読み進める。
そこには、冬の間は成長がゆっくりになる植物も多く、変化が見えないからといって無理に世話を増やす必要はないと説明されていた。
シアはその文章を読み、静かに頷いた。
自分の暮らしも、きっと同じなのだろう。
毎日大きく変わるわけではない。
けれど、小さな出来事を重ねることで、少しずつ前へ進んでいる。
シアは本を閉じ、灯りを落とした。
寝台へ入り、マルタから借りた厚い毛布を肩まで掛ける。
窓の外では、遠くの鐘が夜の時刻を告げていた。
その音を聞きながら、シアは今日のミレイユの笑顔を思い出した。
自分から誘ったとき、彼女は嬉しいと言ってくれた。
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
(……次のお休みが、楽しみです)
シアは毛布の中で小さく微笑んだ。
以前なら、誰かと出かけることを楽しみにする余裕などなかった。
けれど、今は違う。
明日の仕事を考え、次の休日を楽しみにし、冬の街を歩くための準備をしている。
そして、誰かに優しくできたことを、静かに喜ぶことができる。
遠い街で始まった新しい暮らしは、今日も少しずつ続いている。
その暮らしの中で、シアはまた一つ、自分の気持ちを大切にすることができた。
小さな勇気が、誰かとのつながりを少しずつ深めていく。
そんなことを思いながら、彼女は穏やかな眠りへ落ちていった。




