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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第61話 借りた靴で踏み出す朝と、守りたい約束の重さ


 朝の厨房から聞こえてくる木鉢の音に、シアはゆっくりと目を覚ました。


 窓の外はまだ薄明るく、向かいの建物の屋根には夜露が残っている。昨日まで強く吹いていた風はすっかり落ち着いたようで、窓枠の隙間から入り込む冷たい空気も、今朝はそれほど気にならなかった。それでも寝台から足を下ろすと床板の冷たさが伝わり、冬が少しずつ近づいていることを実感させられた。


 シアはマルタから借りている厚い茶色の毛布を畳み、寝台の端へ整えて置いた。身支度を始める前に窓辺の秋灯草へ目を向けると、黄色い花は昨日と変わらず咲いており、鉢の土にもまだ湿り気が残っている。


(今日はお水を足さなくても大丈夫そうですね。窓から冷たい風が入るようになったら、もう少し置き場所を考えた方がよいかもしれません)


 図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』を開き、寒い時期の置き場所について書かれた箇所を確かめた。窓辺の明るさは必要でも、夜間に冷えすぎる場所は避けた方がよいという説明を読み、シアは鉢の位置をほんの少し内側へ動かした。


 机の上には、昨夜まとめた靴の修理に関する覚え書きがある。


 修理代の見積もりは四十八銅貨。作業期間は二日ほどで、靴屋から借りた一足を仕事で使えるか確かめてから、正式に修理をお願いする予定だった。


 貸し靴は、部屋の入口近くに置いた袋の中に収めてある。昨日、靴屋の主人が丁寧に手入れして渡してくれたもので、今まで自分が履いてきた靴よりも革が少し厚く、靴底の形も違っていた。


 シアは袋から靴を取り出し、傷や汚れがないことを確かめた。昨日の夕方、《麦穂亭》の店頭で短く歩いたときには問題がなかったが、実際に朝から働くとなれば、立ち続ける時間も歩く距離も大きく変わる。


(使わせていただく以上、きちんと確かめなければいけません。足に合わなかったら、そのときは別の方法を考えましょう)


 以前のシアなら、せっかく借りたものが使えないと分かっても、相手の厚意を無駄にしたくない一心で我慢していたかもしれない。


 けれど、靴屋の主人もマルタも、無理に履き続けないよう繰り返し言ってくれた。仕事のために必要なものだからこそ、安全に使えるかを確かめることが大切なのだと、今は理解できている。


 シアはいつもの革靴を履いて階下へ向かい、貸し靴の入った袋を手に持った。


 階段を下りるにつれて、焼きたてのパンの香りが濃くなっていく。厨房ではオットーが生地を扱う音が聞こえ、店頭の方からはマルタが棚を整える気配が伝わってきた。


 今日も、自分の帰る場所で新しい一日が始まっていた。


     ◇


「おはようございます。今日もよろしくお願いいたします」


 厨房の入口で挨拶すると、マルタが振り返った。手には焼き上がったパンを並べるための布があり、隣の作業台には丸パンを入れる籠が用意されている。


「おはよう、シア。よく眠れたかい? 今朝は少し冷えるから、朝ご飯を食べて身体を温めておこうね」


「はい。ありがとうございます。昨日よりも風が静かなので、よく眠れました」


 シアが貸し靴の袋を見せると、マルタは思い出したように頷いた。


「そうだったね。今日はその靴を確かめるんだった。朝の仕込みが落ち着いたら、まず店頭で履いてみようか。厨房の方は、オットーにも見てもらってからにしよう」


 奥で生地を扱っていたオットーが、二人の声を聞いて顔を上げた。


「店頭の床と厨房の床じゃ、条件が違うからな。特に洗い場の近くは水が落ちることもある。最初から普段どおり動かず、少しずつ確かめた方がいい」


「はい。靴屋のご主人からも、無理に使わないようにと言われました」


「それなら話が早い。朝のうちは俺たちも見ていられるから、急がずに試してみよう」


 オットーはそう言って作業へ戻ったが、その口調には普段の仕事を教えるときと同じ落ち着きがあった。


 シアは朝食をいただいたあと、手を洗って店頭の準備を始めた。


 丸パンを置く棚の布を整え、値札の位置を確かめる。黒麦パンの店頭販売を休止している知らせは、今朝も入口と棚の近くに掲示されており、風で外れたり文字が隠れたりしている様子はなかった。


 予約帳には、今日引き渡す予定の黒麦パンの数量が記されている。昨日ハンスから聞いた北方道路の情報も備考に書き加えられていたが、積み込み日や到着日については、依然として未定のままだった。


 シアは予約の数量と引き渡し先を確かめ、必要な札を用意した。


 新しい知らせがないことは残念だったが、分からないことを無理に埋める必要はない。今日できる準備を進め、確かな情報が届いたときに改めて考えればよいのだと、少しずつ受け止められるようになっていた。


 開店前の準備が一段落したところで、マルタがシアへ声をかけた。


「それじゃあ、靴を履いてみようか。まずは店頭だけでいいから、いつもの仕事で通るところをゆっくり歩いてごらん」


「はい。よろしくお願いいたします」


 シアは椅子に腰を下ろし、いつもの革靴を脱いで貸し靴へ履き替えた。


 紐を結び、踵を床へ軽くつけてから立ち上がる。足の甲に触れる革の感触は少し違っていたが、昨日と同じように指先には適度な余裕があり、踵が大きく動くこともなかった。


 マルタは入口の近くに立ち、オットーは厨房との境目から様子を見守っている。


 シアは棚の前まで歩き、客が立つ場所へ向きを変えてから、会計台の後ろへ戻った。普段なら意識することもない短い距離だったが、今日は足裏に伝わる感覚を一つずつ確かめながら進んだ。


「今のところ、痛みはありません。靴底が少し硬く感じますが、歩きにくいほどではないと思います」


「そうかい。じゃあ、今度は棚の下から袋を取る動きをしてみようか。急がなくていいからね」


 マルタに言われ、シアは膝を曲げて棚の下へ手を伸ばした。立ち上がるときにも足元が滑ることはなく、体重を移しても靴の中で足が大きく動く感覚はなかった。


 続いて、会計台の横に置かれた籠を持ち上げ、棚の近くまで運んでみる。


 空の籠だったため負担は軽かったが、歩く途中で靴紐が緩むこともなく、足元は安定していた。


「店頭では問題なさそうだね」


 マルタはそう言いながらも、すぐに仕事へ戻るようには促さなかった。


「ただ、朝のうちは足が平気でも、長く立っているうちに痛くなることがあるからね。今日は気になることがあったら、その場で言うんだよ」


「はい。ありがとうございます」


 シアは頷き、少しだけ肩の力を抜いた。


 靴を借りられたことが嬉しくて、昨日から早く修理を頼みたいと思っていた。けれど、実際に確かめてみると、急がず判断することにも大切な意味があると分かる。


 オットーは厨房の入口へ視線を向けた。


「こっちは、まず乾いた床だけ歩いてみよう。洗い場の近くは俺が見てからにする」


 シアはオットーの後について厨房へ入った。


 朝の仕込みで使った道具は片づけられていたが、作業台の周囲には粉が落ちやすい場所がある。オットーは床の状態を確かめ、滑りやすい場所を避けながら、普段シアが通る経路を示してくれた。


「ここから作業台まで歩いて、それから入口へ戻ってみろ。途中で違和感があったら止まっていい」


「承知しました」


 シアは言われたとおり、ゆっくり歩いた。


 靴底は床をしっかり捉えており、急に滑るような感覚はなかった。向きを変えるときに少し重さを感じたものの、足首が不自然に動くこともなく、歩き終えるまで痛みは出なかった。


 オットーは腕を組み、シアの足元を見ながら頷いた。


「今のところは悪くないな。ただ、濡れた床でわざわざ滑るか試す必要はない。そこは普段から気をつける場所だし、靴が変わったからといって無理なことをするなよ」


「はい。濡れている場所は避け、必要なときには拭いてから通るようにします」


「それでいい。じゃあ、今日は店頭の仕事を中心にして、様子を見よう」


 シアは礼を述べ、店頭へ戻った。


 まだ正式に修理を頼めると決まったわけではない。それでも、貸し靴で安全に歩ける可能性が高まったことに、胸の奥で小さな安堵が広がっていた。


     ◇


 開店すると、朝食用のパンを求める客が続けて訪れた。


 シアはいつものように注文を聞き、パンを袋へ入れ、代金を受け取った。貸し靴を履いていることを意識しすぎないようにしながらも、棚の前で向きを変えるときや、会計台の下から袋を取るときには、足元の感覚を確かめていた。


 最初のうちは、普段と違う靴を履いているという緊張があった。


 しかし、何人かの客を迎えるうちに、その緊張は少しずつ薄れていった。靴の重さは確かに違うものの、立ち続けることが苦痛になるほどではなく、歩くたびに踵が擦れることもなかった。


 朝の客足が落ち着いたころ、年配の女性が店へ入ってきた。


 女性は丸パンを二つ買い求めたあと、棚の端に置かれた黒麦パンの販売休止のお知らせを読んだ。


「まだ黒麦パンは戻っていないのね。うちの主人が好きだから、再開したら買いに来ようと思っているのだけれど」


「ありがとうございます。現在も材料の入荷日が決まっておりませんので、販売再開の日程はご案内できない状況です」


 シアが説明すると、女性は残念そうにしながらも頷いた。


「そうなのね。北の道が傷んでいるって聞いたけれど、あちらを通る荷車は大変でしょうね。急がせてもどうにもならないこともあるものねえ」


 女性は袋を受け取りながら、少しだけ笑った。


「でも、主人には丸パンも食べてもらうわ。黒麦パンがないからって、朝ご飯までなくなるわけじゃないもの」


「はい。丸パンも、食事に合わせていただきやすいと思います。お気に召していただけたら嬉しいです」


 シアは十銅貨を受け取り、女性を見送った。


 扉が閉まったあと、会計台の上を整えながら、ふと女性の言葉を思い返した。


 黒麦パンが好きだから、再開を待っている。


 それでも、今日の食事には別のパンを選ぶ。


 その二つは、矛盾することではなかった。


(好きなものを待ちながら、今あるものを選ぶこともできるのですね)


 シアは客が途切れたところで、観察用の紙へ今日の出来事を書き加えた。


 黒麦パンの再開を希望していた女性が、丸パンを二つ購入したこと。ただし、最初から丸パンを注文していたため、黒麦パンの代わりに選んだと断定できるものではない。


 その区別をつけて記録すると、以前よりも自分の書き方が慎重になっていることに気づいた。


 記録を残すことは、数字を増やすことではない。


 後から読んだ人が、何が実際に起きたのかを正しく理解できるようにすることなのだ。


 シアは紙を閉じ、次の客を迎えるために顔を上げた。


     ◇


 昼前になると、店頭には少しずつ客が増え始めた。


 近くの工房で働く男性たちが昼食用のパンを買いに来たり、子どもを連れた女性が小さな白パンを選んだりする。シアは注文の順番を間違えないようにしながら、焼き上がったパンを棚へ補充していった。


 そのとき、入口の鈴が鳴り、見覚えのある長身の男性が入ってきた。


 濃い色の外套を羽織り、手袋を片方だけ外している。落ち着いた表情で店内を見渡したその人を認めた瞬間、シアは自然と背筋を伸ばした。


「いらっしゃいませ。レオンハルト様」


 レオンハルト・アルヴェインは、シアの声に気づくと穏やかに微笑んだ。


「こんにちは、シア。今日はいつもより少し遅い時間になってしまったね。まだパンは残っているだろうか」


「はい。丸パンと胡桃パン、それから干し葡萄パンもございます。蜂蜜パンは少なくなっておりますが、まだご用意できます」


「それならよかった。今日は丸パンを二つと、胡桃パンを二つお願いしようかな」


「ありがとうございます。丸パン二つと胡桃パン二つで、二十二銅貨になります」


 シアは注文を繰り返し、パンを袋へ入れた。


 レオンハルトは会計台の前で財布を取り出しながら、店内の棚へ目を向けた。黒麦パンの販売休止を知らせる紙を見つけると、表情を少しだけ引き締めた。


「黒麦パンは、まだ店頭に戻っていないんだね」


「はい。材料の到着日が決まっておりませんので、現在も販売をお休みしております」


 シアはそこで言葉を止めた。


 レオンハルトが道路や橋の仕事に関わっていることは知っている。けれど、店が仕入れ先から聞いていることと、彼が仕事として把握していることが、必ずしも同じとは限らない。


 それに、店の予約や仕入れについて、自分の判断で詳しい事情を話してよいわけでもなかった。


 レオンハルトはシアの説明を聞き、ゆっくり頷いた。


「北方の道路については、補修が進んでいると聞いている。ただ、傷んだ場所を通る荷車の数にはまだ制限があるから、荷物がすぐに動ける状態ではないようだね」


「はい。昨日、仕入れ先の方からも、同じようなお話を伺いました」


「そうだったんだね。道路そのものを通れるようにすることと、待っている荷を順番に運ぶことは、別の問題になるからね」


 レオンハルトは静かに言い、袋の中のパンへ視線を落とした。


「店としても、なかなか予定を立てにくいだろう」


「はい。マルタさんとオットーさんが、予約の分を大切にしながら考えてくださっています。私も、必要な数を確認するお手伝いをしています」


 シアがそう答えると、レオンハルトの表情が少し和らいだ。


「シアも、店の仕事をいろいろ任されるようになったんだね」


「まだ教えていただくことばかりです。ただ、以前よりも、自分にできることが少し増えたように思います」


 言い終えてから、シアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 自分で自分の成長を口にすることには、まだ慣れていない。


 けれど、レオンハルトはからかうこともなく、穏やかな眼差しで頷いてくれた。


「それは、よいことだと思うよ。毎日の仕事の中でできることが増えるのは、きっと嬉しいことだろうから」


 シアは胸の前で手を重ね、微笑んだ。


「はい。とても嬉しいです」


 そのとき、レオンハルトの視線がふとシアの足元へ向いた。


「今日は、いつもと靴が違うようだね」


 思いがけない言葉に、シアは少し驚いた。


 靴のことを気にしていたため、相手にも目立ってしまったのだろうかと一瞬考えたが、レオンハルトの表情に不審そうな様子はない。


「はい。冬になる前に今の靴を修理したくて、靴屋さんから貸し靴をお借りしています。今日は、お仕事で使えるかどうか確かめているところなのです」


「そうだったんだね。歩きにくさはない?」


「今のところ、大きな問題はありません。ただ、まだ半日も履いておりませんので、もう少し様子を見ようと思っています」


 レオンハルトは頷き、少しだけ視線を下げた。


「冬の石畳は、朝になると滑りやすい場所もあるからね。靴底を整えておくのは大切だと思う。ただ、借りた靴が合わないようなら、無理はしない方がいい」


「はい。マルタさんたちにも、同じように言っていただきました」


 シアがそう答えると、レオンハルトは微笑んだ。


「それなら安心だね。周りの人と相談しながら準備できるのは、よいことだと思う」


 その言葉を聞き、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 伯爵家にいた頃、身につけるものは自分の都合だけで選べなかった。新しいものを欲しいと言うことも、古いものを直したいと頼むことも、相手の機嫌をうかがう必要があった。


 けれど、今は違う。


 自分の靴をどうするか、自分で考えている。


 困ったときには相談できる人がいて、その人たちは、シアが安全に働き続けられることを大切にしてくれる。


 レオンハルトもまた、その選択を自然なこととして受け止めてくれた。


「ありがとうございます。大切に履いてきた靴ですので、できれば修理して、これからも使いたいと思っています」


「うん。長く使ってきたものには、簡単には手放せない理由があるものだからね」


 レオンハルトの声には、静かな理解があった。


 シアはその言葉に頷き、袋を会計台の上へ置いた。


「お待たせいたしました。こちら、丸パン二つと胡桃パン二つでございます」


「ありがとう。今日もよい香りだね」


 レオンハルトは代金を置き、袋を受け取った。


 ちょうど次の客が入口から入ってきたため、彼は一歩横へ移動し、シアの仕事を妨げない位置へ身を引いた。


「それじゃあ、また。仕事の途中だから、今日はこれで失礼するよ」


「はい。お立ち寄りいただき、ありがとうございました。どうぞお気をつけて」


 レオンハルトは穏やかに頷き、店を出ていった。


 シアはその背中を見送ってから、新しい客へ向き直った。


 胸の奥には、短い会話の余韻が残っていた。


 特別な約束を交わしたわけではないし、何か大きな出来事が起きたわけでもない。


 それでも、靴の修理という自分の小さな決断を、レオンハルトが当たり前のように尊重してくれたことが、シアには嬉しかった。


     ◇


 レオンハルトが店を出たあと、通りの角まで歩いたところで、彼は一度だけ《麦穂亭》の方を振り返った。


 店の窓には昼の光が差し込み、棚に並ぶパンの影が淡く伸びている。会計台の向こうではシアが次の客へ応対しており、先ほどまで自分と話していたときとは違う、仕事に集中した表情を見せていた。


 レオンハルトはその姿をしばらく眺めてから、手にしたパンの袋を持ち直した。


 最初にこの店を訪れた頃、シアは礼儀正しく、どこか緊張した様子の少女だった。言葉遣いは丁寧だったが、必要以上に謝ろうとすることがあり、相手の反応を確かめるように視線を動かすこともあった。


 今日の彼女は、以前よりも落ち着いて見えた。


 材料の入荷が遅れていることを説明するときも、分かっていることと分かっていないことを区別していた。靴の修理について話すときには、まだ迷いながらも、自分がどうしたいのかをはっきり口にしていた。


(少しずつ、この街での暮らしに慣れてきたのだろうか)


 レオンハルトはそう考え、穏やかな気持ちになった。


 シアがどこから来たのか、なぜこの街で働くことになったのか、彼は詳しく知らない。以前の彼女に何があったのかを尋ねたこともなかった。


 ただ、今日のように自分の希望を口にできるようになったことが、彼女にとってよい変化であるなら、その変化を大切にしてほしいと思った。


 通りの向こうから仕事仲間が声をかけてきたため、レオンハルトは振り返った。


 午後には確認しなければならない書類があり、北方道路に関する報告も届く予定になっている。道路の補修が進んでいるからといって、すべての荷がすぐに動くわけではないことを、彼自身も理解していた。


 店で待っている人々がいる。


 運ぶ側にも事情があり、道路を直す側にも安全を確かめる責任がある。


 その間をつなぐためには、焦って結論を出すのではなく、確かな情報を積み重ねなければならない。


 レオンハルトはパンの袋を持ち直し、仕事仲間の方へ歩き出した。


 先ほどシアが話していた、長く使ってきた靴を修理して履き続けたいという言葉が、なぜか心に残っていた。


     ◇


 昼の忙しさが落ち着いた頃、シアは厨房の片隅で椅子へ腰を下ろした。


 朝から貸し靴を履いて働いていたが、今のところ足に痛みは出ていない。靴底の硬さにはまだ慣れないものの、踵が擦れたり、指先が圧迫されたりする感覚もなかった。


 マルタはシアの向かいへ座り、温かなスープの器を差し出した。


「どうだい、靴の具合は。朝からずっと履いているけれど、足は疲れていないかい?」


「ありがとうございます。少し重さは違いますが、今のところ痛みはありません。店頭でも、厨房の乾いた床でも、歩きにくさは感じませんでした」


「それならよかった。ただ、午後も同じように確かめようね。夕方になってから痛くなることもあるから」


「はい。無理をしないようにいたします」


 シアは器を受け取り、温かなスープを一口いただいた。


 野菜の甘みが口の中へ広がり、朝から続いていた緊張が少しずつほどけていく。


 マルタはパンをちぎりながら、ふと店頭の方へ目を向けた。


「さっき、レオンハルト様がいらしていたね。今日は何を買っていかれたんだい?」


「丸パンを二つと胡桃パンを二つです。黒麦パンのことも少しお尋ねになりましたので、現在も入荷日が決まっていないとお伝えしました」


「そうかい。あの方も道路の仕事に関わっていらっしゃるから、気になっているのかもしれないね」


 マルタはそう言い、少し考えるように視線を落とした。


「でも、店の事情を全部お話しする必要はないからね。聞かれたことに、分かっている範囲で答えれば十分だよ」


「はい。私も、予約や仕入れのことは、マルタさんたちが決めることだと思っていますので」


「うん。それでいい。シアは本当に、そういうところをよく考えてくれるね」


 マルタの言葉に、シアは少しだけ照れくさくなった。


 以前は、自分が余計なことを言ってしまわないかと不安になることが多かった。今も慎重になる気持ちはあるが、それはただ叱られるのが怖いからではなく、店の約束を大切にしたいからだった。


 その違いを、マルタはどこまで気づいているのだろう。


 シアが静かにスープを飲んでいると、マルタは穏やかな声で続けた。


「それにしても、シアはこの頃、前より自分の考えを話してくれるようになったね」


 思いがけない言葉に、シアは顔を上げた。


「そうでしょうか……?」


「そうだよ。前は、何か頼むとすぐに『申し訳ありません』って言っていたけれど、今は分からないことを聞いたり、自分の希望を話したりしてくれる。私は、その方が嬉しいんだよ」


 マルタは笑いながら、パンをスープへ浸した。


「もちろん、仕事で困ったことがあれば相談してほしいし、間違いがあれば一緒に直せばいい。全部一人で抱え込まなくてもいいんだからね」


 シアは器を持つ手に、ほんの少し力が入るのを感じた。


 胸の奥に、懐かしい痛みがかすかに触れた。


 伯爵家では、間違いを認めることは、次の叱責を招くことだった。自分の希望を口にすれば、身の程を知らないと言われることもあった。


 その記憶が完全に消えたわけではない。


 今でも大きな声を聞くと、身体が強張ることがある。相手が不機嫌そうに見えれば、自分が何か失敗したのではないかと考えてしまうこともある。


 けれど、《麦穂亭》で過ごす時間の中で、少しずつ別の経験が積み重なっていた。


 分からないことを聞いても、怒られない。


 困っていることを伝えても、迷惑だと決めつけられない。


 自分の考えを話せば、相手も考えてくれる。


「……ありがとうございます」


 シアは静かに言った。


「私も、以前より少しだけ、お話しできることが増えたように思います。まだ、うまく言葉にできないこともありますけれど……」


 マルタは急かすことなく、シアの言葉を待ってくれた。


「ここでは、分からないことを分からないと言ってもよいのだと、少しずつ思えるようになりました」


 言い終えると、シアは視線を落とした。


 自分でも、こんな言葉を口にするとは思っていなかった。


 マルタはしばらく黙っていたが、やがて穏やかに微笑んだ。


「それなら、よかったよ。これからも、分からないことがあれば聞いておくれ。私たちだって、何でも知っているわけじゃないんだからね」


 その言葉に、シアは小さく笑った。


 胸の奥にあった緊張が、温かなスープと一緒にゆっくりほどけていくようだった。


     ◇


 午後になると、店内には落ち着いた時間が戻ってきた。


 シアは棚の残りを確かめ、夕方の客に備えて紙袋を整えた。貸し靴の具合も引き続き問題なく、長く立っている間に足が痛くなることはなかった。


 ただ、普段の靴よりも革が厚いため、足首を動かすときに少し硬さを感じる。


 そのことをマルタへ伝えると、彼女は頷いた。


「それなら、靴屋さんにも話しておくといいよ。痛みがなくても、気になることは伝えておいた方が安心だからね」


「はい。修理をお願いするときに、確認してみます」


 シアはそう答え、会計台の下へ袋をしまった。


 しばらくすると、入口の鈴が鳴り、若い女性が店へ入ってきた。


 女性は棚に並ぶパンを眺めながら、少し迷った様子で口を開いた。


「すみません。黒麦パンは、今は買えないんですよね?」


「はい。申し訳ありません。材料の入荷が遅れているため、店頭での販売をお休みしております」


「そうなんですね。実は、家で食べるパンを探していて……黒麦パンがあると聞いて来たんですけど」


 女性は少し困ったように笑った。


 シアはすぐに別の商品を勧めるのではなく、相手の言葉を待った。


 女性は棚の丸パンへ目を向け、続けた。


「黒麦パンみたいに、食事と一緒に食べやすいものはありますか?」


「はい。丸パンは甘さが控えめで、スープや煮込み料理にも合わせやすいと思います。胡桃パンも香ばしい味ですが、胡桃の食感がありますので、お好みが分かれるかもしれません」


 シアは二種類のパンを示しながら説明した。


 女性は少し考え、丸パンを二つ手に取った。


「じゃあ、今日はこれにしてみます。黒麦パンが再開したら、また来たいです」


「ありがとうございます。再開については、分かり次第お知らせいたします」


 シアは代金を受け取り、女性を見送った。


 その後、観察用の紙へ内容を書き加えようとしたが、筆を持ったところで少し考えた。


 女性は黒麦パンを求めて来店し、店頭販売が休止していることを知ったうえで、丸パンを二つ購入した。


 その事実は記録できる。


 けれど、女性が丸パンを気に入ったかどうかは、まだ分からない。


 シアはその区別をつけ、簡潔に書き留めた。


 記録を閉じたところで、マルタが厨房から出てきた。


「今のお客さん、黒麦パンを探していたんだね」


「はい。食事に合わせるパンをお探しでしたので、丸パンと胡桃パンの特徴をお伝えしました。今日は丸パンを二つお買い上げくださいました」


「そうかい。無理に勧めず、お客さんが選べるように話してくれたんだね」


 マルタは棚を眺めながら頷いた。


「こういうとき、売りたいものを勧めるだけじゃなくて、お客さんが何を求めているかを聞くのも大事なんだよ」


「はい。今日は、黒麦パンに近いものを探していらっしゃるのかと思いましたが、食事に合わせやすいものがよいとお聞きできましたので」


「うん。そういう違いに気づけるのは、いいことだね」


 シアはその言葉に、静かな嬉しさを感じた。


 自分の仕事は、ただパンを渡すことだけではない。


 客が何を求めているのかを聞き、店で用意できるものを正しく伝え、相手が納得して選べるようにすることも、大切な役割なのだ。


 それは、今までシアが帳簿や在庫の仕事で学んできたこととも、どこかつながっているように思えた。


     ◇


 夕方が近づくと、窓から差し込む光が少しずつ赤みを帯びてきた。


 店頭の客足も落ち着き、最後の予約分を受け取りに来た客が帰ると、《麦穂亭》には一日の仕事を終える静けさが戻ってきた。


 シアは棚の布を整え、会計台の上を拭きながら、足元の感覚を改めて確かめた。


 朝から貸し靴を履いていたが、痛みは出ていない。足首の辺りに少し硬さを感じるものの、歩き方が不自然になるほどではなく、靴紐も途中で緩まなかった。


 マルタは売上帳を閉じ、シアへ声をかけた。


「さて、靴の具合はどうだった? 一日履いてみて、気になるところはあったかい?」


「はい。足に痛みはありませんでした。店頭でも厨房でも、滑ったり歩きにくくなったりすることはなかったと思います。ただ、足首の辺りが少し硬く感じます」


 マルタは頷き、オットーへ視線を向けた。


「どうだい、オットー。今日のシアの歩き方、気になるところはあった?」


 オットーは片づけていた道具を置き、少し考えた。


「普段より慎重に歩いていたが、危なっかしい様子はなかったな。急いで動く場面を避けていたのもよかったと思う。ただ、借り物だから、使い方には気をつけた方がいい」


「はい。靴屋さんにも、足首の硬さについてお伝えしてみます」


 シアはそう答え、胸の前で手を重ねた。


 今日一日、貸し靴で仕事をすることができた。


 それは、今の革靴を修理するための大切な確認だった。


 けれど、まだ最後の判断が残っている。


 修理を正式にお願いし、今の靴を預けること。


 その間は借りた靴を大切に使い、仕事を続けること。


 シアは二人の顔を見て、ゆっくり口を開いた。


「あの、マルタさん、オットーさん。今日一日履いてみて、大きな問題はありませんでしたので、明日、靴屋さんへ修理をお願いしたいと思っています」


 マルタは穏やかに微笑んだ。


「うん。シアがそう決めたなら、いいと思うよ。明日の仕事が終わってから預けに行くのかい?」


「はい。靴屋さんのご都合もありますので、まずは修理をお願いできる日を確認したいです。もし明日から預かっていただけるようでしたら、そのときにお渡ししたいと思っています」


 オットーも頷いた。


「それなら、今日のうちに靴の状態をもう一度見ておくといい。預ける前に、傷んでいるところを自分でも確かめておけば、修理が終わったときに分かりやすいからな」


「はい。ありがとうございます」


 シアは丁寧に頭を下げた。


 マルタは少し笑い、手を振った。


「そんなにかしこまらなくてもいいよ。靴を直すのは、シアが冬を安全に過ごすために必要なことなんだから」


 その言葉に、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分のためにお金を使うこと。


 自分の身体を守るために準備すること。


 以前は、そうしたことを後回しにするのが当たり前だった。


 けれど、今は違う。


 働き続けるためにも、安心して暮らすためにも、自分の足元を整えることは大切なのだ。


 シアはそのことを、今日一日を通して確かめることができた。


     ◇


 仕事を終えたあと、シアは自室へ戻る前に、店の裏口近くで貸し靴を脱いだ。


 柔らかな布で表面の汚れを拭き、靴底に付いた粉を落とす。靴屋の主人から借りたときと同じ状態に戻すことはできないかもしれないが、できるだけ丁寧に扱いたかった。


 マルタが通りかかり、その様子を見て微笑んだ。


「ずいぶん丁寧に手入れしているね」


「はい。お借りしているものですので、できるだけきれいに使いたいと思っています」


「それはいいことだけれど、普通に仕事で使った分の汚れまで気にしすぎなくていいんだよ。靴屋さんも、仕事で履くことを承知で貸してくださったんだろう?」


「はい。そう言っていただきました」


 シアは布を持つ手を止め、少しだけ笑った。


「それでも、大切にしたいと思うのです。今の靴を修理できるのは、こうして貸していただけるものがあるからですので」


 マルタは頷き、穏やかな声で答えた。


「そうだね。大切にする気持ちは、きっと伝わると思うよ」


 シアは靴を袋へ収め、いつもの革靴に履き替えた。


 足を入れると、慣れた革の感触が戻ってくる。


 踵の減りも、靴底の傷みも、今ははっきり分かっている。それでも、長い旅を共にしてきた靴には、借りた靴とは違う安心感があった。


 この靴で、ベルフォード家を出た。


 知らない道を歩き、初めての宿へ泊まり、遠い街まで辿り着いた。


 そして、《麦穂亭》の扉を開けた日も、この靴を履いていた。


 シアは足元を見つめながら、静かに息を吐いた。


(あのときは、ここまで来られるとは思っていませんでした)


 旅の途中では、何度も不安になった。


 自分がどこへ向かっているのか、本当に働く場所を見つけられるのか、誰かに追い返されるのではないかと考えたこともあった。


 それでも歩き続けたからこそ、今の暮らしがある。


 靴を修理することは、過去を捨てることではない。


 これまで歩いてきた道を大切にしながら、これからも歩き続けるための準備なのだと思えた。


     ◇


 夕食の時間になると、マルタが温かな煮込み料理を用意してくれた。


 オットーは厨房の片づけを終えてから席につき、三人は今日の仕事について話しながら食事を進めた。


 黒麦粉については、新しい知らせが届いていない。


 ハンスが昨日伝えてくれた情報から状況は変わっておらず、北方道路の補修は進んでいるものの、重量荷車の通行制限は続いている。積み込み日も到着日も分からないため、店としては今ある材料を確かめながら、予約分を守るための準備を続けるしかなかった。


 マルタは食事の途中で、予約帳のことを話した。


「明日は、先の予約についてもう一度確認しておこうと思うんだ。まだ変更するわけじゃないけれど、材料が足りなくなる可能性があるなら、早めに相談できるようにしておきたいからね」


 オットーは頷き、少し考えた。


「そうだな。粉の残りと必要数を見れば、どこまでなら確実に焼けるかは分かる。足りなくなる可能性があるところは、店として判断しないといけない」


 シアは二人の話を聞きながら、静かに頷いた。


 必要数一覧には、今後の予約について確認が必要な箇所が記されている。しかし、それはまだ予約の変更や取消しを決めたものではない。


 もし材料が足りなくなるなら、店の側から相手へ相談する必要がある。


 《銀鹿亭》の使いの女性にも、今後の状況によっては相談する可能性があると伝えていたが、具体的な変更については何も決まっていなかった。


「シア、明日の朝、必要数一覧をもう一度見せてもらえるかい?」


 マルタが尋ねた。


「はい。今日の引き渡し分を反映して、残りの数量を確認しておきます。ただ、仕入れの状況については、昨日のお知らせから変わっておりません」


「それでいいよ。分かっていることを整理してくれれば、あとは私たちで考えるからね」


 シアは頷いた。


 店の仕事を任せてもらえることは嬉しい。


 けれど、任された仕事と、自分が決めてよいことの境目を理解することも大切だった。


 その境目を守ることで、マルタとオットーの判断を助けられるのだと思った。


 食事が終わる頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。


 マルタは空になった器を重ねながら、シアへ声をかけた。


「今日は靴のことで気を張っただろう。今夜は早めに休んでおいで」


「ありがとうございます。明日もよろしくお願いいたします」


「うん。おやすみ、シア」


 シアは二人へ礼を述べ、階段を上がった。


     ◇


 自室へ戻ると、窓辺の秋灯草が小さな黄色い花を咲かせていた。


 部屋の中には、朝に整えたままの静けさが残っている。机の上には図書館で借りた本と帳面が置かれ、寝台にはマルタから借りた茶色の毛布が畳まれていた。


 シアは貸し靴の袋を入口の近くへ置き、いつもの革靴を手に取った。


 明日、修理をお願いできるかもしれない。


 そう考えると、少しだけ名残惜しさを感じた。


 この靴には、長い旅の間についた小さな傷がいくつも残っている。踵の減りは自分では気づきにくかったが、靴屋の主人に教えてもらってからは、歩くたびにその存在を意識するようになった。


 シアは靴底を確かめ、修理してもらう予定の箇所をもう一度見た。


 革の表面には旅の途中でついた細かな擦れがあるものの、大きく破れているところはない。靴屋の主人も、踵を補強し、底を整えれば、まだ使い続けられると話していた。


(よかったです。これからも、この靴で歩いていけるのですね)


 シアは靴を床へ置き、机の前に腰を下ろした。


 帳面を開くと、今日の仕事で確かめたことを書き留めた。


 貸し靴は、店頭と厨房の乾いた床で問題なく歩けたこと。朝から夕方まで履いても痛みは出なかったこと。ただし、足首の辺りに少し硬さを感じるため、靴屋の主人へ相談する必要があること。


 その下には、明日、修理の日程を確認する予定だと記した。


 書き終えると、シアは筆を置いた。


 今日の一日は、靴のことだけで終わったわけではない。


 朝から店で働き、客の注文を受け、黒麦パンを探している人へ説明をした。レオンハルトとも言葉を交わし、マルタからは、以前より自分の考えを話せるようになったと言ってもらえた。


 その一つ一つが、シアの胸に残っている。


 特に、マルタの言葉は、思い出すたびに温かさを感じさせた。


 分からないことを聞いてもよい。


 困っていることを伝えてもよい。


 自分の希望を口にしてもよい。


 それらは、本来なら特別なことではないのかもしれない。


 けれど、シアにとっては、長い時間をかけてようやく手に入れつつある大切な感覚だった。


 胸元の銀のペンダントへそっと触れる。


 母の形見であるその小さな銀の飾りは、今も変わらずシアの胸元にある。


 旅に出たとき、持っていけるものは多くなかった。


 それでも、このペンダントだけは手放したくなかった。


 母がどんな思いで残してくれたものなのか、シアにはまだ分からないことがある。けれど、触れるたびに、自分が歩いてきた道を思い出すことができた。


(私は、もうあの家へ戻るために生きているのではありません)


 シアは静かに目を閉じた。


 家族に認めてもらうためでも、婚約者に選んでもらうためでもない。


 今は、自分の暮らしを自分で整えるために働いている。


 《麦穂亭》で過ごす毎日は、決して楽なことばかりではない。朝は早く、仕事を覚えるには努力が必要で、材料の入荷が遅れれば店全体で考えなければならない問題も生まれる。


 それでも、ここには自分の居場所がある。


 マルタとオットーがいて、ミレイユという友人がいる。ニコや靴屋の主人のように、困ったときに相談できる人もいる。


 そして、レオンハルトのように、自分の小さな変化を穏やかに受け止めてくれる人もいる。


 シアは目を開き、机の上の本へ視線を向けた。


 図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』には、寒い時期の植物の手入れについて、まだ読んでいない頁が残っている。


 今夜は少しだけ続きを読もうと思い、本を開いた。


 頁には、冬の間も花を楽しむためには、無理に成長を促すのではなく、植物の状態に合わせて手入れを続けることが大切だと書かれていた。


 シアはその説明を読み、窓辺の秋灯草へ目を向けた。


 花は、昨日より大きくなったようには見えない。


 それでも、今日も変わらず咲いている。


 毎日目に見える変化がなくても、根は土の中で生きているのだろう。


 自分の暮らしも、きっと同じなのかもしれない。


 何か大きな出来事が起きなくても、毎日の仕事や会話の中で、少しずつ変わっていることがある。


 シアは本を閉じ、静かに微笑んだ。


 明日は、靴の修理を正式にお願いできるかもしれない。


 黒麦粉については、まだ新しい知らせが届いていない。予約のことも、店として慎重に考え続ける必要がある。


 けれど、すべてを今夜のうちに解決する必要はない。


 明日になれば、またできることがある。


 シアは机の上を整え、灯りを落とした。


 寝台へ入り、茶色い毛布を肩まで掛けると、身体がゆっくり温まっていく。


 窓の外では、遠くの鐘が夜の訪れを告げていた。


 その音を聞きながら、シアは今日のことを思い返した。


 借りた靴で働いたこと。


 自分の考えを伝えられたこと。


 レオンハルトと交わした穏やかな会話。


 そして、マルタが言ってくれた、以前より自分の考えを話せるようになったという言葉。


 どれも、今のシアにとって大切な出来事だった。


(明日も、私にできることを一つずつ進めていきましょう)


 シアは静かに目を閉じた。


 冬は、少しずつ近づいている。


 けれど、その季節を迎えるための準備もまた、彼女の手で少しずつ進んでいた。


 長い旅を共にした靴を修理し、これからも歩き続けるために。


 シアは、穏やかな眠りへ落ちていった。


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