第60話 冬支度の一歩と、届かない荷の向こう側
朝の光が窓辺へ差し込む頃、シアは寝台の上でゆっくりと目を覚ました。
夜の間に風が弱まったらしく、昨日まで窓枠を鳴らしていた音は聞こえなくなっている。代わりに、通りの向こうから荷車の車輪が石畳を転がる音がかすかに届き、街が少しずつ動き始めていることを知らせていた。
シアは身体を起こし、肩まで掛けていた厚い茶色の毛布を丁寧に畳んだ。マルタから借りているその毛布は、夜の冷え込みが強くなってから、毎晩のように彼女を温めてくれている。
寝台の端へ腰を下ろし、足元に置いた革靴へ目を向けた。
昨日、靴屋で貸し靴を試したことが思い出される。
三足のうち、最初の一足は踵が浮き、二足目は足の幅が合わなかった。最後に試した一足だけは比較的自然に歩くことができたものの、実際に《麦穂亭》の厨房や店頭で使えるかどうかは、まだ確かめられていない。
靴屋の主人は、無理に借りる必要はないと言ってくれた。
マルタもオットーも、仕事で安全に履けるかどうかを確かめてから決めればよいと話していた。
(今日は、まずそのことを相談しましょう。修理をお願いする日は、それから決めればよいのです)
シアは机の上の帳面を開き、昨日書き留めた内容を確かめた。
踵の補強と靴底の調整で、見積もりは四十八銅貨。作業には二日ほど必要で、修理中に使える靴は一足見つかっている。ただし、貸し出しと修理の日程は、まだ正式に決まっていない。
数字も条件も、昨日から変わっていない。
それでも、以前のように何度も読み返して不安になることはなかった。
必要なことが分かっているなら、次に確かめるべきことも見えてくる。今のシアには、その順番を考えるだけの余裕が生まれていた。
帳面を閉じると、窓辺の秋灯草へ目を向けた。
昨日の朝に水を与えた土には、まだ適度な湿り気が残っている。黄色い花は冷たい季節の光を受けながら、静かに咲いていた。
シアは鉢を持ち上げ、窓枠との間に少し距離があることを確かめた。図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』には、寒い時期の植物は水だけでなく、置き場所にも気を配る必要があると書かれている。
「おはようございます。今日は、お水を足さなくても大丈夫そうですね」
花へ小さく声をかけてから、シアは微笑んだ。
以前なら、毎朝決まった量の水を与える方が正しいのではないかと考えていたかもしれない。けれど、植物にもその日の状態があり、必要な手入れはいつも同じとは限らない。
大切にするということは、ただ何かを与え続けることではなく、相手の状態をよく見ることなのだろう。
そんなことを考えながら、シアは身支度を整えた。
母の形見である銀のペンダントを衣服の内側へ収め、髪を結び直す。靴紐をしっかり結んで立ち上がると、いつものように階下からパンの香りが漂ってきた。
今日も《麦穂亭》の一日が始まろうとしていた。
◇
厨房へ降りると、オットーが窯の火加減を確かめていた。
作業台には丸パンの生地が並び、マルタは予約帳と別紙の必要数一覧を見比べている。シアが挨拶をすると、二人は顔を上げ、いつものように応じてくれた。
「おはようございます。今日もよろしくお願いいたします」
「おはよう、シア。今朝は風が落ち着いたねえ。昨日は帰り道、寒くなかったかい?」
「はい。少し冷えましたが、歩いている間は大丈夫でした。靴屋さんでも、いろいろ教えていただけましたので」
マルタは頷き、予約帳を閉じた。
「それはよかった。今日は店の仕事が落ち着いたところで、貸し靴のことをもう少し考えようか。仕事で履くものだから、慌てて決めない方がいいね」
「ありがとうございます。私も、まずは実際に使えるかどうかを確かめたいと思っています」
「うん。それなら、夕方の忙しさが終わったあとにでも相談しよう」
シアは礼を述べ、手を洗ってから朝の準備に取りかかった。
店頭へ運ぶパンの籠を用意し、棚に敷く布を整える。黒麦パンを置いていた場所には、今日も店頭販売休止のお知らせがあり、その隣には丸パンや胡桃パンを並べるための空間が確保されていた。
黒麦粉の入荷日については、まだ新しい知らせがない。
北方の道が傷んだことで荷車の通行が制限され、修理は進んでいるものの、重い荷を運ぶ車の通過には順番があるらしい。注文した黒麦粉そのものが失われたという報告はなく、数量も変更されていないが、いつ積み込まれ、いつ領都へ届くのかは分からないままだった。
シアは予約帳の該当欄を確認し、今日引き渡す予定の数量を数えた。
今日の分は、現在の材料で用意できる見込みだった。
しかし、その先の予約については、入荷が遅れ続けた場合に備えて、確認用の印が付けられている。
印は予約変更を意味するものではない。どの注文から材料不足の影響を受ける可能性があるかを、マルタとオットーが判断するための目印だった。
「シア、今日の黒麦パンの必要数は確認できたか?」
オットーが窯の前から声をかけた。
「はい。本日の予約分は、帳面と必要数一覧が一致しております。引き渡し先と数量も確認いたしました」
「よし。なら、今日はそのとおりに焼こう。余計な分は作らず、残りの粉を大事に使う」
「承知しました」
シアは頷き、帳面を元の場所へ戻した。
店頭販売を休止しているため、以前のように黒麦パンを棚へ並べることはできない。それでも、予約した人へ約束どおり届けるために、厨房ではいつもと変わらず丁寧な仕事が続いていた。
オットーは黒麦パンの生地を確かめながら、焼き上がりの時間を計算している。マルタは予約先ごとに籠を分け、間違いがないよう札を付けていた。
シアはその様子を見ながら、自分も今できる仕事を一つずつ進めていこうと思った。
◇
開店してしばらくすると、朝食用のパンを求める客が続けて訪れた。
近くの仕立て屋で働いているという女性は丸パンを三つ買い、年配の男性は干し葡萄パンを一つ選んだ。シアは代金を受け取りながら、棚の残りを確かめ、必要に応じて厨房へ声をかけた。
客足が少し落ち着いた頃、入口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、以前にも黒麦パンを買いに来たことのある男性だった。
「おはよう。黒麦パンは、まだ店頭には戻っていないんだね」
「おはようございます。はい。現在も材料の入荷日が決まっておりませんので、店頭での販売はお休みしております」
シアが説明すると、男性はお知らせの紙を読み、少し残念そうに頷いた。
「そうか。家で食べる分を買おうと思ったんだけど、今日は別のものにするよ」
男性は棚を眺め、丸パンと胡桃パンを見比べた。
「黒麦パンは食事に合わせやすかったんだけど、胡桃パンも甘くないのかな?」
「はい。胡桃パンは胡桃の香ばしさがありますが、甘さは控えめです。丸パンも食事に合わせやすい味ですので、お好みでお選びいただけると思います」
「なるほど。じゃあ、今日は胡桃パンを二つにしようかな。夕食の煮込みに合わせてみるよ」
「ありがとうございます。胡桃パン二つで十二銅貨になります」
シアはパンを袋へ入れ、代金を受け取った。
男性は袋を手に取りながら、少し笑った。
「黒麦パンが戻ったら、また買いに来るよ。でも、こうして別のパンを試すのも悪くないね」
「はい。お気に召していただけたら嬉しいです」
シアは丁寧に頭を下げ、男性を見送った。
扉が閉まると、店内には焼きたてのパンの香りが戻ってきた。
シアは客足が途切れたところで、黒麦パンを希望した客が別のパンを選んだ記録へ、今日の内容を書き加えた。
黒麦パンを尋ねた客が、胡桃パンを二つ購入したこと。
それ以上のことは、書かなかった。
男性が今後も胡桃パンを買うかどうかは分からないし、黒麦パンが再開したあとも同じ選び方をするとは限らない。
記録は、客の気持ちを決めつけるためのものではない。
実際に起きたことを残し、店が今後のことを考えるときの助けにするためのものだった。
シアは筆を置き、次の客を迎える準備をした。
◇
昼前、店内が少し忙しくなり始めた頃、ハンス・ロイヴェンが《麦穂亭》を訪れた。
いつも粉の仕入れで世話になっている商人で、マルタとオットーも顔をよく知っている。ハンスは入口で帽子を取り、店内の様子を確かめてから、マルタへ声をかけた。
「こんにちは。少し時間をもらってもいいかな」
「ハンスさん、いらっしゃい。黒麦粉のことかい?」
「そうだ。まだ到着日を伝えられるわけじゃないんだが、今朝、北の道について新しい連絡があってね」
マルタは表情を引き締め、厨房の方へ声をかけた。
「オットー、ハンスさんが来てくださったよ。少し話を聞けるかい?」
オットーは作業の手を止め、布で手を拭いてから店頭へ出てきた。
シアは客が来たときにすぐ対応できるよう、少し離れた位置で棚を整えながら、三人の話を聞いていた。
ハンスは帽子を胸元へ持ち、落ち着いた声で説明を始めた。
「北の道の補修は進んでいるらしい。ただ、傷んだ場所を通れる荷車の数は、まだ制限されている。特に重い荷を積んだ車は、順番を待たなければならないそうだ」
「それなら、黒麦粉の荷もまだ通れていないのかい?」
マルタが尋ねると、ハンスは頷いた。
「少なくとも、こちらへ届いたという連絡はない。注文した分がなくなったという話も来ていないが、積み込みの順番が確定したという知らせもないんだ」
オットーは腕を組み、少し考えた。
「つまり、道の修理は進んでいるが、粉がいつ届くかはまだ分からんということだな」
「そういうことになる。はっきりしない話ばかりで申し訳ないが、分かったことは早めに伝えておこうと思ってね」
ハンスはそう言い、マルタへ視線を向けた。
「それと、前に話した別の粉の件なんだが、もし黒麦粉がさらに遅れるようなら、次の仕入れでほかの粉を少し増やすことも考えられる。ただし、今の時点で数量を増やせると約束できるわけじゃないし、そちらの注文を変えるなら、改めて相談が必要になる」
マルタはすぐには返事をしなかった。
黒麦パンの店頭販売を休止している間、丸パンや胡桃パンを選ぶ客が増えている。しかし、その傾向がどの程度続くのかは分からず、ほかの粉を増やせば必ず売れるとも限らない。
「ありがとう、ハンスさん。今は、まだ注文を変えずにおくよ。店頭の売れ方も見ているところだから、もう少し考えてから相談させてもらうね」
「ああ、それでいい。無理に決める必要はないさ。ただ、必要になったときに急に言われても、こちらで用意できないことがあるから、早めに話してもらえると助かる」
「分かったよ。黒麦粉の方も、何か新しいことが分かったら知らせてもらえるかい?」
「もちろん。そのつもりだ」
ハンスは頷き、帽子をかぶり直した。
そのとき、入口の鈴が鳴り、客が一人入ってきた。
シアはすぐに顔を上げ、挨拶をした。
「いらっしゃいませ。おはようございます」
客は丸パンを四つ買い求めた。シアが会計を進めている間、マルタとオットーはハンスへ礼を述べ、次に知らせがあれば連絡してもらうことを確認していた。
ハンスが店を出ると、マルタは少しだけ息を吐いた。
「新しい知らせではあるけれど、まだ安心できる話ではなかったね」
「そうだな。道が直っても、すぐに全部の荷が動けるわけじゃない」
オットーは低い声で答えた。
シアは客を見送ってから、二人の方へ向き直った。
「あの、今のお話について、必要数一覧の備考へ記しておいてもよろしいでしょうか」
マルタは頷いた。
「そうしておいてくれると助かるよ。ただ、到着日が決まったように見えない書き方にしておこう」
「はい。補修は進行中ですが、重い荷車の通行には制限があり、黒麦粉の積み込みと到着日は未定、と記しておきます」
「うん。それでいいと思う」
シアは帳面を開き、聞いた内容を丁寧に書き留めた。
その下には、別の粉の数量を増やす可能性についても、まだ相談段階であり、注文変更は行っていないことを記した。
書き終えると、筆を置いた。
新しい情報が届いても、すぐに問題が解決するわけではない。
それでも、何が分かっていて、何がまだ分からないのかを整理しておくことには意味がある。
シアはそのことを、今日も改めて感じていた。
◇
昼食の時間になると、マルタは簡単な食事を用意してくれた。
温かなスープとパンを前に、シアは椅子へ腰を下ろした。オットーは少し遅れて作業台の片づけを終え、向かい側へ座った。
窓の外では、午前中よりも雲が増えている。
通りを歩く人々の中には、厚手の外套を羽織っている人も多くなっていた。
「ハンスの話を聞く限り、黒麦粉はもう少し待つことになりそうだな」
オットーがスープを口へ運びながら言った。
マルタは頷いた。
「そうだね。今ある分を使いながら、予約の方も早めに確認しておかないといけないよ」
シアは二人の会話を聞きながら、静かに食事を進めた。
今後の予約については、必要数一覧に確認印が付けられている。どの注文が影響を受ける可能性があるかは、以前より見やすくなっていた。
しかし、実際に相談が必要になるかどうかは、黒麦粉の入荷状況によって変わる。
マルタはスープの器を置き、シアへ目を向けた。
「シア、午後の仕事が落ち着いたら、昨日までの覚え書きも一緒に見せてもらえるかい?」
「はい。黒麦パンを希望されたお客様が、代わりに何を選ばれたかの記録ですね」
「そうだよ。まだ数が少ないから、それだけで何かを決めるつもりはないけれど、店頭の様子を確かめておきたいんだ」
「承知しました。実際に分かったことだけをまとめておきます」
シアは頷いた。
自分が提案した記録が、店の仕事の中で使われている。
そのことが嬉しかった。
ただ、嬉しさと同時に、責任も感じていた。
数字を書き留めることはできても、その数字が何を意味するかを決めつけてはいけない。客が選んだパンには、その日の気分や家での食事、手持ちのお金など、さまざまな事情があるはずだからだ。
(私が分かるのは、実際にお聞きしたことと、お買い上げいただいたものだけです。それ以上は、勝手に決めないようにしましょう)
シアはそう考えながら、残りのスープをいただいた。
◇
午後の店内は、午前中よりも落ち着いていた。
シアは棚の整理を終えると、黒麦パンの代わりに選ばれたパンの記録を取り出した。そこには、丸パンを選んだ客、胡桃パンを買った客、別の日に来ると言って帰った客など、分かる範囲の出来事が書かれている。
マルタは隣へ椅子を寄せ、記録を一緒に眺めた。
「こうして見ると、丸パンを選ぶ人もいれば、胡桃パンを選ぶ人もいるんだね」
「はい。ただ、黒麦パンを希望された方全員の記録ではありません。忙しい時間帯には書けなかったこともありますし、何も買わずに帰られた方の中には、理由をお聞きしていない方もいらっしゃいます」
「そうだね。だから、この数字だけで丸パンを増やそうとか、胡桃パンを増やそうとか決めるのは早いだろうね」
マルタは紙を見つめながら、ゆっくり頷いた。
「でも、何も分からないよりはいいよ。お客さんが何を求めているのか、少しずつ見えてくるからね」
「ありがとうございます。今後も、無理のない範囲で続けていきたいと思います」
「うん。ただし、店頭が忙しいときは接客を優先しておくれ。記録は、そのために仕事が増えすぎないようにしないとね」
「はい。気をつけます」
シアは紙を元の場所へ戻した。
自分の提案が受け入れられたからといって、それを完璧に続けなければならないわけではない。
必要なときに使い、負担が大きければ方法を変えることもできる。
その柔らかさを、シアは少しずつ学んでいた。
しばらくすると、入口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、靴屋の息子のニコだった。
「こんにちは、シアさん!」
「こんにちは、ニコさん。今日もお買い物ですか?」
「はい! 今日は父さんに頼まれて、丸パンを三つ買いに来ました。それと、昨日の靴のことなんですけど」
ニコは少し声を弾ませた。
「父さんが、貸し靴を使うなら、修理を頼む前に一度ちゃんと確かめた方がいいって言ってました。仕事で履くなら、店の人にも見てもらった方がいいって」
「はい。マルタさんたちにも相談しております。お仕事で使えるかどうか、確かめてからお願いするつもりです」
シアが答えると、ニコは安心したように笑った。
「よかった! 父さんも、靴は足に合っていないと困るからって、何度も言うんです」
「大切なことですものね。私も、教えていただいて助かりました」
シアは丸パンを三つ袋へ入れ、十五銅貨を受け取った。
ニコは袋を抱えながら、ふとシアの足元へ目を向けた。
「シアさんの靴、まだちゃんと履けてますか?」
「はい。今のところ歩くのに困ることはありません。ただ、冬になる前には修理をお願いしたいと思っています」
「それなら、早めに決まるといいですね!」
少年はそう言い、元気よく手を振った。
シアは笑顔で見送り、扉が閉まるのを確かめた。
ニコが帰ったあと、マルタが店頭へ出てきた。
「靴屋さんの方も、気にかけてくれているんだね」
「はい。とてもありがたいです」
シアはそう答え、少し迷ってから言葉を続けた。
「あの、マルタさん。今日の仕事が終わったあと、もう一度靴屋さんへ伺って、貸し靴をお借りできるか相談してもよろしいでしょうか。もしお借りできれば、明日の仕事で使えるかどうか、こちらで確かめたいと思っています」
マルタは少し考え、頷いた。
「そうだね。ただ、明日の朝にいきなり厨房で履くのは心配だから、まずは店の床で少し歩いてみようか。滑らないか、足に違和感がないかを確かめてからにしよう」
「はい。ありがとうございます」
「それと、貸し靴を借りるなら、靴屋さんに仕事で使うことをもう一度伝えておくんだよ。向こうにも、どんな使い方をするのか分かっていた方がいいからね」
「承知しました」
シアは頷いた。
修理の日程は、まだ決まっていない。
それでも、次に何をするべきかは、少しずつ明確になっていた。
◇
夕方の客足が落ち着いた頃、マルタはシアへ声をかけた。
「今日はここまででいいよ。靴屋さんへ行っておいで」
「ありがとうございます。では、行ってまいります」
シアは上着を羽織り、店を出た。
通りには夕方の冷たい空気が流れていたが、風は朝よりも穏やかだった。石畳の上には落ち葉が散り、店先の灯りが少しずつともり始めている。
靴屋へ着くと、主人は作業台の前で革を整えていた。
「こんにちは。昨日はありがとうございました」
「いらっしゃい、シアさん。貸し靴のことかな?」
「はい。マルタさんたちにも相談しました。もしよろしければ、昨日試した靴を短い間お借りして、仕事で使えるかどうか確かめたいと思っています」
主人は頷き、棚から昨日の靴を取り出した。
「もちろん。ただ、仕事で使うなら、まずは安全に歩けるかを確かめてほしい。無理に履き続ける必要はないからね」
「はい。ありがとうございます」
シアは椅子へ腰を下ろし、貸し靴をもう一度履いてみた。
昨日と同じように、足の幅にも踵にも大きな違和感はない。店内をゆっくり歩くと、靴底が床に触れる感覚が少し違うものの、歩きにくさは感じられなかった。
主人はその様子を見ながら、靴紐の締め方を少し調整してくれた。
「これなら、短い間なら使えそうだね。ただし、実際に働いてみて足が痛くなるようなら、すぐにやめることだよ」
「はい。気をつけます」
「それから、修理を頼む日が決まったら、そのときに今の靴を預かる。貸し靴は、それまで試してみてもいいが、長く借りたままにはしないでほしい」
「承知しました。できるだけ早く、修理の日を決めてご連絡いたします」
主人は頷き、貸し靴を入れるための袋を用意した。
「じゃあ、今日はこれを持っていきなさい。仕事で使えるかどうか確かめて、問題がなければ修理の日を相談しよう」
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
シアは丁寧に礼を述べ、袋を受け取った。
貸し靴は、まだ自分のものではない。
それでも、今の靴を修理するための大切な助けになるかもしれない。
シアは袋を抱え、店を出た。
◇
《麦穂亭》へ戻ると、マルタとオットーは夕方の片づけを終えていた。
シアが貸し靴の袋を見せると、二人は興味深そうに目を向けた。
「借りられたんだね」
「はい。まずは仕事で使えるかどうか、確かめてから修理をお願いすることになりました」
シアは袋から靴を取り出し、床の上へ並べた。
マルタは靴底を確かめ、オットーもしゃがんで状態を見た。
「悪くなさそうだな。ただ、厨房は粉が落ちることもあるから、滑らないかは実際に確かめた方がいい」
「そうだね。今日はもう仕込みも終わっているし、まずは店頭の床で少し歩いてみようか」
シアは頷き、貸し靴へ履き替えた。
店頭の床をゆっくり歩き、棚の前で向きを変える。足元に大きな違和感はなく、靴底が滑る様子もなかった。
マルタは少し離れた位置から見守り、オットーは床の状態を確かめながら、無理に速く歩かないよう声をかけた。
「今のところ、歩きにくさはありません」
シアが答えると、マルタは頷いた。
「それなら、明日の朝も少し確かめてみよう。仕事の途中で足が痛くなったら、すぐに言うんだよ」
「はい。ありがとうございます」
オットーは靴底をもう一度見てから、静かに言った。
「修理を頼むなら、早い方がいいだろう。冬になって道が滑りやすくなる前に、直しておいた方が安心だ」
「はい。私も、そう思っています」
シアは自分の革靴へ目を向けた。
長い旅を共にしてきた靴だった。
この街へ来るまで、何度も道を歩き、雨の日も晴れの日も足元を支えてくれた。傷は増えたが、まだ使い続けられると分かったことが嬉しかった。
新しい靴を買うのではなく、今ある靴を修理して使う。
それは、今の自分の暮らしに合った選択だと思えた。
「マルタさん、オットーさん。もし明日の朝も問題なく履けるようでしたら、靴屋さんへ修理をお願いしたいと思います」
シアがそう伝えると、二人は頷いた。
「うん。シアがそう決めたなら、それでいいと思うよ」
「修理の間は、貸し靴を大事に使えばいい。無理はするなよ」
「はい。ありがとうございます」
シアは胸の前で手を重ね、丁寧に頭を下げた。
自分で考え、相談し、必要なことを確かめてから決める。
その一つ一つが、今のシアには大切な経験だった。
◇
夜、自室へ戻ったシアは、机の上に帳面を開いた。
窓の外には薄い雲が広がり、街の灯りが淡く滲んでいる。秋灯草の黄色い花は、静かな部屋の中で変わらず咲いていた。
シアは今日分かったことを、順に書き留めた。
『黒麦粉について、北の道の補修は進んでいるものの、重い荷車の通行には制限が続いている。積み込みと到着日は未定。注文数量の変更もない』
その下へ、別の粉の仕入れについては、まだ相談段階であり、注文変更は決まっていないことを記した。
続いて、靴のことを書き加える。
『貸し靴を一足借りた。店頭の床では問題なく歩けた。明日の朝も確かめ、問題がなければ修理をお願いする予定』
書き終えると、シアは筆を置いた。
黒麦粉のことも、靴のことも、まだすべてが解決したわけではない。
けれど、今できることは進んでいる。
店では、マルタとオットーが予約を守るために材料を確かめ、ハンスが新しい知らせを届けてくれた。シアも、客の反応を記録し、必要な数字を整理している。
靴の修理については、ニコと父親が相談に乗ってくれ、貸し靴を試すことができた。
誰か一人がすべてを解決しているわけではない。
それぞれが、自分にできることを少しずつ進めている。
(私は、こういう暮らしを知らなかったのかもしれません)
シアはそっと胸元の銀のペンダントへ触れた。
伯爵家にいた頃、何か問題が起これば、自分が責められるのではないかと怯えていた。誰かに相談することは、弱さを見せることのように感じられ、分からないことがあっても、できるだけ一人で答えを探そうとしていた。
けれど、この街では違う。
分からないことを聞いても、怒られない。
困っていることを伝えても、迷惑だと決めつけられない。
自分で考えたことを話せば、相手も一緒に考えてくれる。
それが、今のシアには何よりもありがたかった。
シアは帳面を閉じ、机の上に置いた『窓辺で育てる季節の草花』を手に取った。
頁を開くと、寒い季節に花を育てるための工夫が丁寧に書かれている。水やりの時期、日当たり、冷たい風を避ける置き場所。どれも大きなことではないが、毎日少しずつ気にかけることで、花を長く楽しめるのだという。
シアは窓辺の秋灯草へ目を向けた。
この花を買ったとき、自分の部屋に何かを飾ることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
今は、朝に花の様子を確かめることが、自然な習慣になっている。
靴の修理も、冬の上着も、店の仕事も、同じように少しずつ整えていけばよいのだろう。
シアは本を閉じ、寝台の上に畳んでいた茶色の毛布を広げた。
明日もまた、《麦穂亭》で働く。
黒麦粉が届く日はまだ分からないし、予約のことも考えなければならない。靴の修理も、明日の確認を終えてから正式に頼むことになる。
それでも、今日の自分は、昨日よりも少しだけ前へ進んでいる。
シアは灯りを落とし、毛布の中へ身体を滑り込ませた。
窓の外では、夜の鐘が静かに鳴っていた。
遠い街へ来たばかりの頃、明日がどうなるのか分からず、不安なまま眠った夜があった。
今は、明日にすることがある。
朝になれば、マルタとオットーへ挨拶をし、パンを並べ、客を迎える。靴の状態を確かめ、必要なら修理をお願いする。
その一つ一つが、自分で選んだ暮らしの中にある。
(明日も、私にできることを大切にしましょう)
シアは静かに目を閉じた。
窓辺の秋灯草は、淡い月明かりの中で小さな花を咲かせている。
冬は少しずつ近づいていた。
けれど、その季節を迎えるための準備もまた、シアの手で少しずつ進んでいた。




