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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第59話 預ける靴と、帰る場所を選ぶ一日


 朝の窓ガラスが、昨日よりも白く曇っていた。


 シアは寝台から起き上がると、マルタから借りている厚い茶色の毛布を畳み、冷えた指先をこすり合わせた。夜の間に風が強まったらしく、窓枠の隙間からかすかな音が聞こえる。窓辺の秋灯草は黄色い花を保っていたが、鉢の土は表面から少し下まで乾き始めているようだった。


 昨日読んだ本の説明を思い出しながら、シアは指先で土の状態を確かめた。内側まで乾いてきたことを確かめてから、用意しておいた水を少しずつ注ぎ、受け皿に余分な水が溜まらないようにした。鉢を冷たい窓枠から離して置き直すと、花の向きまで変わったように見えて、思わず口元が緩んだ。


「おはようございます。今日も、よろしくお願いしますね」


 花に向かって挨拶したあと、シアは机の帳面を開いた。そこには靴の修理について、四十八銅貨ほど、二日程度、踵の補強と靴底の調整、と書いてある。ニコが父親に貸し靴のことを聞いてくれるという話も、まだ決まっていないこととして別に記してあった。


(返事が分かってから、修理の日を決めましょう。もし借りられなくても、別の方法を考えればいいのです)


 以前なら、予定が定まらないことを気にして、何度も同じ数字を見返していたかもしれない。今は帳面を閉じることができた。今日は店の仕事があり、そこには自分がするべきことがきちんとある。


 衣服を整え、母の形見の銀のペンダントを襟元の内側に収めた。長い旅で履き続けた靴に足を入れると、踵の減りを知ったせいか、床を踏む感覚がいつもより気になった。けれど歩くのに痛みはなく、シアは紐をしっかり結び、階下へ向かった。


     ◇


 《麦穂亭》の厨房では、オットーが大きな木鉢の生地を確かめていた。粉のついた手で表面を軽く押し、戻り具合を見てから、布を掛け直している。マルタは棚の前で予約帳を開き、今日の引き渡し分に細い紙片を挟んでいた。


「おはようございます。今日もよろしくお願いいたします」


「おはよう、シア。風が強いねえ。店の入口の紙が外れていないか、開ける前に一緒に見ておこうか」


「はい。昨日も確かめましたが、今朝はさらに風があるようですから」


 シアは手を洗い、店頭へ出る準備をした。黒麦パンの店頭販売を休止している知らせは、厚い台紙に固定されている。扉を開けると冷たい風が頬を撫で、通りの落ち葉が石畳の上を滑っていった。紙の端は少し揺れたが、文字は隠れておらず、紐にも緩みはなかった。


 店内へ戻ると、マルタは予約帳の端を押さえながら、シアへ確認を頼んだ。今日の黒麦パンの予約分は、昨日の計算どおり用意できる。数日先の予約には、材料が届かない場合に備えて確認印がついているものもあったが、それは変更や取消しを示すものではない。


「ハンスからの知らせは、まだないよ。黒麦粉の注文数量も変わっていないし、いつ積み込まれるかも分からないままだね」


 マルタはそう言い、予約帳を閉じた。口調は穏やかだったが、帳面の角を押さえる指には、ほんの少し力が入っていた。


「はい。今日も、分かっていることだけをお客様にお伝えします」


「それで頼むよ。昨日は予約を新しく受けられるか聞かれたんだろう? 断るのは気が重いけれど、守れない約束をしないことも店の仕事だからね」


 シアは頷いた。新しい黒麦パンの予約を断った男性は、理由を聞いて丸パンを選んでくれた。残念な顔を見たときには胸が痛んだが、今はあの説明が必要だったと思える。


 オットーが焼き上がった丸パンを籠へ移し、シアに声をかけた。


「今日は胡桃パンの焼き上がりも少し後になる。棚へ出す前に声をかけるから、先に丸パンと干し葡萄パンを並べてくれ」


「承知しました。お客様にも、まだ焼き上がっていないものはそのようにご案内します」


 朝の仕込みは、いつもどおりに進んでいく。粉の香り、窯の熱、木の道具が触れ合う音が重なり、シアは胸の内に落ち着きを取り戻した。何もかも順調というわけではなくても、今日のパンを焼き、今日来る客を迎えるための仕事は確かに動いていた。


     ◇


 開店後、最初に訪れたのは小さな白パンを買いに来た女性だった。家で待つ子どもの朝食にするのだという。シアは三銅貨の白パンを二つ袋に入れ、六銅貨を受け取ると、女性が寒そうに手を擦っているのに気づいた。


「今朝は風が冷たいですね。お帰りの道も、どうぞお気をつけください」


「ありがとう。うちの子が温かいパンを待っているから、急いで帰るわ」


 女性は笑って扉を開けた。冷たい空気が一瞬店内へ流れ込み、入口の鈴が小さく揺れる。シアは扉が閉まったのを確かめ、次の客のために袋を整えた。


 その後、丸パンを買いに来た男性が、黒麦パンの知らせを読んで足を止めた。


「まだ再開していないんだね。北の道は、ずいぶん時間がかかっているらしいな」


「はい。現在も材料の入荷日は分かっておりません。ご不便をおかけしております」


「いや、道が傷んでいるなら仕方ないさ。運ぶ人だって大変だろうしね。今日は丸パンを四つもらうよ」


 シアは四つの丸パンを袋へ入れ、二十銅貨を受け取った。男性は棚に並ぶパンを眺めながら、胡桃パンを一つ追加したいと言った。シアはまだ焼き上がっていないことを説明し、少し待てば用意できる見込みだと伝えた。


「それなら、今日は丸パンだけにしておこう。仕事へ戻る時間だからね」


「承知しました。胡桃パンは、またお時間のあるときにお立ち寄りください」


 男性は頷き、急ぎ足で店を出ていった。シアは売上帳に丸パン四つと記し、胡桃パンを売ったことにはしなかった。何を希望していたかと、実際に何を買ったかは、別のことだった。


 午前の客足が少し落ち着いたころ、ハロルドが店へ入ってきた。いつものように黒麦パンの棚を一瞥したが、今日は何も尋ねず、丸パンを二つと胡桃パンを一つ頼んだ。


「黒麦はまだだろうと思ってね。知らせを見てから、別のパンを選ぶのも楽しみになってきたよ」


「ありがとうございます。黒麦パンのことを気にかけてくださっているのに、申し訳ありません」


「好きなものを待つのは悪いことじゃないさ。前にも言ったけど、店が続いてくれる方が大事だからね」


 ハロルドは代金の十六銅貨を置き、少し笑った。


「ところで、今日は寒いね。あんたも朝から立ち仕事だろう。足元を冷やさないようにな」


 シアは一瞬、昨日の靴屋のことを思い出した。けれど、客に自分の事情を長々と話す必要はない。礼を述べると、ハロルドは温かな表情で頷き、パンの袋を持って帰っていった。


 店内に一人になったシアは、足元を見下ろした。革靴は今朝も問題なく役目を果たしているが、冬を越すためには手入れだけでは足りない部分がある。気遣ってくれる人の言葉を聞きながら、必要な準備を自分で決めていこうと思った。


     ◇


 昼の忙しさが始まる少し前、《銀鹿亭》の使いの女性が予約分を受け取りに来た。女性は受け取る籠の中身を確かめ、数量に間違いがないことを確認したあと、黒麦パンの販売休止の知らせへ目を向けた。


「宿の方でも、お客様に聞かれることがあるんです。黒麦パンが食べられないのかって。予約していた分は今までどおり届いているので、ありがたいんですけどね」


 シアは女性の言葉を聞き、すぐに返事をしなかった。店頭販売を休止していることと、宿屋の予約分を今後も必ず届けられることは、同じではない。いま確かに言えるのは、今日の分を予定どおり渡せたということだけだった。


「本日のお約束分は、数量どおりご用意できております。今後のことにつきましては、材料の状況を確認しながら、必要な場合にはマルタさんからご相談することになっております」


「そうですね。宿の主人にも、何かあれば早めに知らせていただけると助かると伝えてあります。今日は、いつもどおり受け取れてよかったです」


 女性は笑みを浮かべ、籠を持ち直した。シアは受領の印を確認してから、丁寧に見送った。


 女性が帰ったあと、マルタが厨房から出てきた。


「今の説明、聞こえていたよ。まだ変更が決まっていないことを、ちゃんと分けて話せていたね」


「はい。今日の分はお渡しできましたが、その先については、私から確約できませんので」


「そうだね。向こうも宿のお客さんへ説明しなきゃいけないから、知らせるときは早い方がいい。けれど、今の時点で勝手に予約を変えるわけにはいかないよ」


 マルタは受領印のついた帳面を見ながら、少しだけ表情を引き締めた。


「今日の仕事が終わったら、オットーともう一度先の予定を見ておくよ。ハンスの返事を待ちながらでも、店として準備しておくことはあるからね」


 シアは頷いた。自分の書いた必要数一覧が、判断の助けになっているのなら嬉しい。けれど、数字が揃ったからといって、すぐに答えが出るわけではないことも理解していた。


 昼前の客が続けて入ってきたため、会話はそこで終わった。シアは新しい客へ向き直り、注文を聞く。外では風が強くなり、扉の鈴が時折いつもより長く鳴ったが、店内には焼きたてのパンの匂いが途切れず漂っていた。


     ◇


 昼食のあと、シアは厨房の片隅で使った布を畳んでいた。マルタは翌朝に必要な紙袋の数を確かめ、オットーは窯の手入れをしている。三人の間には忙しさが一段落した静けさがあり、作業の音だけがゆっくり響いていた。


 シアは今朝から考えていた靴のことを、改めてマルタへ相談しようと思った。昨日、修理中に使える靴があるかもしれないとニコから聞いたが、まだ確認は取れていない。もし借りられたとしても、店で履くのに適しているかどうかは分からなかった。


「あの、マルタさん。靴の修理について、もう少し考えてみたのですが」


「うん。どうしたんだい?」


「ニコさんがお父様へ貸し靴のことを聞いてくださるそうです。ただ、もし借りられなかった場合に、修理をいつお願いするのがよいか、まだ決められなくて……」


 マルタは布を畳む手を止め、シアの方へ向き直った。


「それは、仕事に履いてくる靴がなくなるからだね」


「はい。修理に二日ほどかかるそうです。お休みの日に預けても、翌日の仕事には間に合わないかもしれません。部屋で履くものはありますが、外を歩くには向いていないので」


 シアは事情を説明しながら、少しだけ肩をすぼめた。仕事に支障を出さずに修理したいという気持ちが強かったが、そのための方法はまだ見つかっていない。


「そうかい。じゃあ、貸し靴の返事を待ってから考えよう。もし合うものがなければ、修理の日を工夫する必要があるね」


「はい。お仕事の予定もありますので、勝手に決めるわけにはいかないと思っています」


 マルタは首を横に振った。


「相談するのは構わないよ。仕事を大切にしてくれるのはありがたいけれど、靴を直すのだって、ちゃんと働き続けるために必要なことだろう? 店の方でも、できる範囲で考えるからね」


 シアはその言葉に、胸の奥が少し温かくなった。


 以前は、自分の都合を仕事へ持ち込むことをためらっていた。けれど、マルタは靴の修理をわがままだとは言わない。むしろ、冬の道を安全に歩くために必要なことだと受け止めてくれている。


「ありがとうございます。まずは、ニコさんからのお返事を待ってみます」


「そうだね。まだ答えが出ていないことを、今ここで無理に決めなくてもいいよ」


 マルタはそう言い、再び布を畳み始めた。シアも手元の仕事へ戻ったが、胸に残っていた緊張は、さっきよりもずっと小さくなっていた。


     ◇


 午後、通りの風はさらに冷たくなった。店の入口を開けるたびに外の空気が入り込み、棚の上に置いた紙袋の端がかすかに揺れる。シアは袋が飛ばされないよう重ね方を整え、店頭のお知らせをもう一度確かめた。


 しばらくすると、元気な足音が近づき、入口の鈴が鳴った。


「こんにちは、シアさん!」


 ニコだった。少年は肩に小さな袋を掛け、寒さで赤くなった頬を緩めている。


「こんにちは、ニコさん。今日はお買い物でしょうか」


「はい! 母さんに丸パンを三つ頼まれました。それと、昨日の靴のことで父さんに聞いてきたんです」


 シアは少し驚いて顔を上げた。ニコは約束を覚えていてくれたらしく、嬉しそうに言葉を続ける。


「貸せる靴はあるそうです。でも、数が少ないから、シアさんの足に合うかどうかは見ないと分からないって。あと、仕事で使うなら、滑らないかもちゃんと確かめた方がいいって言ってました」


「そうなのですね。わざわざ聞いてくださって、ありがとうございます」


「父さんが、よかったら一度来てみてくださいって。合うものがなかったら、別の方法を考えましょうって言ってました」


 シアは胸の前で手を重ねた。借りられると決まったわけではないが、靴屋の主人が相談に応じてくれることが分かり、安心した。


「ありがとうございます。今日はお仕事がありますので、終わってから伺えるか、マルタさんに確認してみますね」


「はい! 父さん、夕方も店にいると思います。でも、忙しかったら少し待ってもらうかもしれません」


「承知しました。無理のない時間に伺います」


 シアは丸パンを三つ袋に入れ、十五銅貨を受け取った。ニコは袋を抱え、帰ろうとしてからふと足を止めた。


「シアさん、父さんがね、靴を長く履く人は、直す時期を考えるのも上手にならなきゃって言ってました。ぼくも、自分の靴をちゃんと見ろって言われたんです」


 少し照れくさそうな少年の声に、シアは笑った。


「私も、教えていただくまで靴底の減り方をよく見ていませんでした。ニコさんのおかげで、冬になる前に気づけました」


「えへへ。じゃあ、父さんにもそう伝えます!」


 ニコは嬉しそうに手を振り、店を出ていった。シアはその背中を見送り、店内の棚を整えながら、靴屋へ行く時間を考えた。


 夕方の仕事が終わってからなら、昨日と同じように店へ寄れるかもしれない。ただ、今日も客足が続けば、片づけを早めに終えることは難しい。無理に予定を決めるのではなく、まずマルタへ相談してみようと思った。


 そのとき、厨房からマルタが顔を出した。


「ニコが来ていたね。靴のこと、何か分かったのかい?」


「はい。貸していただける靴があるそうですが、足に合うかどうかを確かめる必要があるとのことでした。できれば、今日の仕事が終わったあとに見せていただきたいと思っています」


 マルタは店内の棚と時計代わりの砂時計へ目を向け、少し考えた。


「今日は夕方の予約が一つ残っているけれど、引き渡しは私ができるよ。シアはいつもの片づけを終えたら、少し早めに上がっていいからね」


「ありがとうございます。では、できるところまで片づけてから伺います」


「うん。ただし、片づけを全部終わらせようとして遅くならないようにね。昨日も言ったけれど、残りは私たちでできるから」


 シアは思わず頬を緩めた。


「はい。今日は、時間を見て切り上げます」


 マルタも笑い、厨房へ戻っていった。


     ◇


 夕方の客足が落ち着くと、シアは棚の整理を進めた。最後の予約分はマルタが受け取ることになっており、シアは売上帳の確認と使った道具の片づけを終えたところで、上着を羽織った。


「それでは、靴屋さんへ行ってまいります」


「ああ、気をつけてね。足に合うかどうか、遠慮せず確かめておいで」


 マルタの言葉に頷き、シアは店を出た。通りは夕暮れの色に包まれ、建物の影が石畳へ長く伸びている。風は冷たいものの、空はまだ明るく、靴屋へ向かう道もよく見えた。


 昨日訪れた靴屋の前に着くと、窓から温かな灯りが漏れていた。シアは扉を開け、革と油の匂いが漂う店内へ足を踏み入れた。


「こんにちは。昨日はありがとうございました」


 作業台の奥にいた主人が顔を上げ、穏やかに笑った。


「いらっしゃい、シアさん。ニコから話は聞いているよ。貸し靴を見てみたいんだね」


「はい。もしお借りできるものがあれば、修理の間に使えるかどうか確かめたいと思いまして」


「分かった。まずは足の大きさを見て、それから何足か試してみよう。ただ、合わなければ無理に貸すことはできないからね」


「はい。よろしくお願いいたします」


 主人は棚の下から、手入れされた靴を数足取り出した。どれも新しいものではないが、革は柔らかく、靴底もきちんと整えられている。貸し出し用として保管しているものらしく、サイズごとに小さな札が付いていた。


 シアは椅子へ腰を下ろし、今履いている靴を脱いだ。主人は足の長さと幅を確かめ、まず一足を差し出した。


「これを履いてみて。立って、少し歩いてみるといい」


 シアは靴へ足を入れ、紐を結んだ。立ち上がって店内を数歩歩くと、踵の辺りに少し余裕があることに気づいた。


「少し、踵が動くような感じがします」


「そうか。じゃあ、これはやめておこう。仕事で長く立つなら、足が中で動く靴は疲れやすいからね」


 主人はすぐに別の一足を差し出した。今度の靴は足の幅が少し狭く、歩くと小指の辺りが押される感覚があった。


「こちらは、少し横がきついようです」


「無理に履かない方がいいね。もう一足、試してみようか」


 三足目は、足を入れたときの感触が比較的自然だった。シアは紐を結び、店内をゆっくり歩いた。踵が浮くこともなく、指先にも余裕がある。主人は歩き方を見ながら、靴底の状態を確かめた。


「これなら、今のところ悪くなさそうだね。ただ、短く歩いたときと、長く働いたときでは感じ方が違うこともある。少し長めに歩いて、気になるところがないか確かめてみて」


 シアは店内を何度か往復した。棚の間を歩き、作業台の前で向きを変え、少しだけ足を止めてから再び歩く。靴底が床に触れる感覚は、今の靴とは違っていたが、痛みや大きな違和感はなかった。


「今のところ、歩きにくさは感じません。少し重さが違うようには思いますが……」


「それは革の厚さが違うからだろうね。滑りにくさも大事だから、底を確かめておこう」


 主人は靴を裏返し、溝の状態を見せてくれた。貸し靴の底には、石畳を歩くときに滑りにくくするための加工が施されているという。


「この靴なら、修理の間だけ貸せると思う。ただし、仕事で使うなら、店の床でも問題ないか確かめてほしい。もし違和感があれば、無理に履き続けないことだよ」


「ありがとうございます。お借りする場合、費用はどのくらいかかりますか?」


 シアが尋ねると、主人は頷いた。


「修理を頼んでくれる人には、短い間なら貸し靴の代金は取っていないよ。ただ、傷めたり汚したりした場合は、状態を見て相談させてもらうことになる。だから、借りる前にその点だけは理解しておいてほしい」


 シアは少し考えた。無料で借りられるのはありがたいが、借り物である以上、丁寧に扱う責任もある。仕事で使う靴だから、汚れないと約束することはできない。


「お仕事で使うため、多少の汚れは付いてしまうかもしれません。それでもお借りしてよろしいのでしょうか」


「普通に履いて付く汚れなら、手入れすればいいだけさ。問題になるのは、無理な使い方をして大きく傷めた場合だよ。そこは心配しすぎなくていい」


 主人はそう言い、穏やかに笑った。


「ただ、今すぐ預ける必要はない。店の人にも相談して、仕事で使っていいか確かめてから決めるといいよ」


「はい。ありがとうございます。では、今日はいったん持ち帰って、マルタさんたちに相談してみます」


 シアは貸し靴を脱ぎ、元の靴を履き直した。主人は試した靴を棚へ戻しながら、修理の内容をもう一度説明してくれた。


「踵の補強と底の調整で、見積もりは四十八銅貨。作業は二日ほど見てほしい。預かる日が決まったら、そのときに改めて状態を確かめるよ」


「承知しました。丁寧に教えていただき、ありがとうございました」


 シアは礼を述べ、店を出た。扉の外には夕方の冷たい風が吹いていたが、胸の内には小さな安心感が広がっていた。


 貸し靴があることは分かった。足に合うものも、ひとまず見つかった。まだ修理の日は決まっていないが、昨日よりも一歩進んだことは確かだった。


     ◇


 《麦穂亭》へ戻る頃には、通りの灯りが少しずつ増えていた。シアが店の扉を開けると、マルタが最後の片づけを終えているところだった。


「おかえり、シア。どうだった?」


「ただいま戻りました。貸し靴を何足か試させていただきました。足に合いそうなものが一足あり、修理の間だけお借りできるそうです」


「それはよかったね。歩いてみて、痛いところはなかったかい?」


「はい。店内を何度か歩いて確かめましたが、大きな違和感はありませんでした。ただ、お仕事で使う場合は、こちらの床でも問題ないか確かめてほしいと言われました」


 マルタは頷き、厨房の方へ目を向けた。


「オットー、ちょっといいかい。シアの靴のことで、相談があるんだ」


 オットーが手を拭きながら出てくると、シアは靴屋で聞いたことを順に説明した。修理代は四十八銅貨ほど、日数は二日程度。貸し靴は短期間なら無料で借りられるが、仕事で使う以上、足に合うことと床で滑らないことを確かめる必要がある。


「なるほどな。店の床は粉が落ちることもあるし、厨房は水を使うから、靴底が滑りやすいと危ない」


 オットーは足元を見ながら言った。


「ただ、修理を先延ばしにして冬の道で滑るのも困る。貸し靴が合うなら、使えるか確かめる価値はあるだろう」


「そうだね。シア、明日、靴屋さんへ修理を頼む日を相談してみるかい? その前に、貸し靴を実際に履いてみて、店で使えるか確かめる必要はあるけれど」


 マルタの言葉に、シアは少し考えた。修理を頼むこと自体は、もう決めてよいと思っている。問題は、貸し靴が仕事に使えるかどうかだった。


「はい。まずは、貸し靴をお借りして、店の床で問題なく歩けるか確かめたいです。もし難しければ、別の日程を考えます」


「それでいいよ。無理に今日決めなくても、もう必要なことはだいぶ分かってきたんだから」


 マルタは微笑み、シアの肩へ軽く視線を向けた。


「それに、冬の準備は靴だけじゃないからね。上着のことも気になっているんだろう?」


 シアは少し驚いて顔を上げた。


「はい。以前見かけた青灰色の外套が気になっています。ただ、靴の修理もありますので、どちらを先にするか考えているところです」


「そうかい。外套は、寒くなってから慌てて探すより、今のうちに見ておいた方がいいかもしれないね。買うかどうかは、値段や着心地を確かめてから決めればいいよ」


「はい。ありがとうございます」


 シアは頷いた。靴の修理も外套の購入も、すぐに結論を出す必要はない。けれど、何も考えずに冬を迎えるわけにはいかない。


 必要なことを一つずつ確かめ、自分の暮らしに合う方法を選んでいく。その積み重ねが、今の自分にはできるようになってきたのだと思った。


     ◇


 夕食のあと、シアは自室へ戻り、机の上の帳面を開いた。窓の外では風が少し弱まり、遠くの通りから人の声が聞こえてくる。秋灯草の鉢は、朝に水を与えたおかげで土が適度に湿り、黄色い花も変わらず咲いていた。


 シアは今日分かったことを、丁寧に書き留めた。


『貸し靴を三足試した。二足は合わなかったが、一足は歩きやすかった。修理の間だけ借りられる可能性がある。ただし、仕事で使えるかどうかは、店の床で確かめる必要がある』


 その下に、修理代の四十八銅貨と、二日程度という日数を改めて記した。数字は昨日と変わらないが、今はその意味が少し違って見える。


 修理を頼むために何が必要か、以前より具体的に分かってきたからだ。


(まだ預ける日は決まっていません。でも、もう何も分からないわけではありませんね)


 シアは筆を置き、胸元の銀のペンダントへそっと触れた。


 この街へ来たばかりの頃、自分の暮らしについて考える余裕はほとんどなかった。まずは働く場所を見つけ、眠る場所を確保し、明日の食事を心配せずに済むようになることが精一杯だった。


 今は違う。


 《麦穂亭》には自分の仕事があり、マルタとオットーがいる。ミレイユとは図書館へ出かけ、また一緒に過ごしたいと伝えることができた。ニコや靴屋の主人も、必要なことを丁寧に教えてくれる。


 その一つ一つが、シアにとって新しい暮らしの支えになっていた。


 机の上には、図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』が置かれている。シアは本を開き、寒い時期の草花の手入れについて書かれた頁を読み進めた。土の状態を確かめ、置き場所を工夫し、必要なときに水を与えること。どれも小さなことだが、続けていくには気づく力が必要なのだと感じた。


 ふと、今日の《麦穂亭》での仕事を思い出した。


 黒麦粉の入荷日は、まだ決まっていない。予約分を守るために、マルタとオットーは慎重に材料を使い、シアは必要数を記録している。すぐに解決できない問題があっても、店は今日もパンを焼き、客を迎え、約束した分を渡していた。


 それは、ただ待っているだけではない。


 分かっていることを確かめ、今できる仕事を重ねているのだ。


(私も、そうしていきたいです。焦って決めるのではなく、必要なことを知ってから、自分で選んでいきたい)


 シアは本を閉じ、窓辺の秋灯草へ目を向けた。黄色い花は、夕方の淡い光の中で静かに咲いている。


 明日になれば、また店の仕事がある。黒麦粉について新しい知らせが届くかもしれないし、届かないかもしれない。靴の修理についても、貸し靴が使えるかどうかを確かめる必要がある。


 けれど、そのどちらも、今夜のうちに答えを出さなければならないことではなかった。


 シアは帳面を閉じ、寝台の上に畳んでいた毛布を広げた。厚い布の温かさに触れると、マルタが貸してくれた日のことを思い出し、自然に頬が緩む。


 この部屋は、まだ借りている場所だ。働き始めてからの試用期間も続いている。それでも、朝に目を覚まし、仕事を終えて帰ってくるたびに、少しずつ自分の暮らす場所として感じられるようになっていた。


 窓の外では、遠くの鐘が夜の訪れを告げていた。


 シアは灯りを落とし、毛布の中へ身体を滑り込ませた。明日の予定を思い浮かべながら目を閉じると、胸の奥には不安よりも、静かな期待が残っていた。


 まだ決まっていないことはある。それでも、自分で選べることは、昨日よりも少し増えている。


 その確かさを抱きながら、シアは穏やかな眠りへ落ちていった。


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