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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第58話 まだ決められないことと、今なら選べること


 翌朝、シアが目を覚ましたとき、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。


 昨夜は雨が降らなかったらしく、窓枠に水滴は残っていない。それでも、朝の空気には冬が近づいていることを感じさせる冷たさがあり、寝台から出たシアは、マルタに借りた厚い毛布を丁寧に畳んでから、いつもより少し早く靴下を履いた。


 机の上には、昨日書き留めた帳面が置かれている。


 靴の修理には四十八銅貨ほどかかり、預ける期間は二日程度。踵の外側が減っているものの、補強すればまだ履き続けられるという靴屋の説明も、忘れないように記してあった。


 シアは帳面を開き、昨夜の自分が最後に書いた一文へ目を向けた。


『分からないことを聞いてから、自分で決めてもよい』


 その文字を見つめているうちに、昨日、靴屋で感じた緊張が思い出された。


 修理が必要だと言われたら、その場で頼まなければならないのではないか。値段が高くても断れず、仕事に履いていく靴がなくなってしまうのではないか。店へ入る前には、そんな心配が頭の片隅にあった。


 しかし、実際には違っていた。


 靴屋の主人は状態を丁寧に説明し、費用と日数を伝えたうえで、いつ預けるかは自分で考えてよいと言ってくれた。修理を先延ばしにしすぎない方がよいという助言も、急かすためではなく、冬の道を安全に歩くためのものだった。


(まだ修理をお願いできたわけではありません。でも、何を考えればよいのかは分かりました)


 シアは帳面を閉じ、窓辺へ向かった。


 秋灯草の黄色い花は、今日も小さく咲いている。昨日の朝には湿り気のあった土も、表面が少し乾き始めていたが、指先で確かめると内側にはまだ水分が残っていた。


 昨日借りた『窓辺で育てる季節の草花』には、寒い時期は土の表面だけで水やりを判断しない方がよいと書かれていた。


 シアは鉢を持ち上げ、窓から入る冷気が直接当たりすぎない位置へ少し移した。


「今日は、まだお水は大丈夫そうですね」


 花へ語りかけてから、思わず微笑む。


 水を与えることも、靴を修理することも、必要な時期を見極めることが大切なのだろう。もちろん花と靴ではまったく違うけれど、何かを大切に使い続けるために、状態を知ろうとするところは少し似ている気がした。


 身支度を終えると、シアは革靴を手に取った。


 昨日教えてもらった踵の外側を改めて見ると、片方の減り方がわずかに大きい。旅の間、石畳だけでなく土の道や小石の多い道も歩いたことを思い出し、これまでよく持ちこたえてくれたものだと思った。


 靴紐を結び、立ち上がる。


 今朝も歩くことに支障はない。ただ、これから雨や霜の季節を迎えることを考えれば、修理の日を決めるのは早い方がよさそうだった。


 シアは部屋の扉を開け、焼きたてのパンの香りが漂い始めた階下へ向かった。


     ◇


 厨房では、オットーが窯の火加減を確かめていた。


 作業台の上には丸パンの生地が並び、マルタは予約帳を開きながら、朝の引き渡し分を確認している。シアが挨拶すると、二人はいつものように顔を上げた。


「おはようございます。今日もよろしくお願いいたします」


「おはよう、シア。今朝は少し冷えるねえ。昨日、靴屋さんまで歩いて寒くなかったかい?」


「はい。歩いている間は大丈夫でした。帰ってから温かいお食事もいただきましたので、よく眠れました」


 シアが答えると、マルタは安心したように笑った。


「それならよかったよ。今日は午後から風が強くなるかもしれないから、入口のお知らせも後で確かめておこうか」


「はい。黒麦パンの販売休止のお知らせですね。昨日も外れないようにしてありましたが、もう一度確認します」


 店頭の黒麦パン販売を休止してから、何日かが過ぎていた。


 予約済みの黒麦パンについては、必要な材料を取り分けながら、これまで予定どおりに引き渡している。しかし、黒麦粉の次の入荷日は依然として決まっておらず、いつ店頭販売を再開できるのかは分からないままだった。


 シアは手を洗ってから、予約帳と別紙の必要数一覧を確認した。


 今日引き渡す予定のパンは、すでに昨日のうちに確認されている。黒麦パンを含む予約についても、今日の分は用意できる見込みだった。


 一方で、数日先の欄には、確認のための小さな印が付けられている。


 それは予約が取り消された印ではない。黒麦粉が届かない状態が続いた場合に、どの注文から影響を受ける可能性があるかを、マルタとオットーが把握するためのものだった。


 シアはその印を確かめ、隣の欄へ視線を移した。


「マルタさん、こちらの確認印は、昨日のままでよろしいでしょうか」


「ああ、そのままでいいよ。まだ新しい知らせは来ていないからね。今日の引き渡しが終わったら、残りの粉と今後の予約をもう一度見比べようと思っているんだ」


「承知しました。では、今日の分を確認してから、必要数一覧の方も更新しておきます」


 マルタは頷き、予約帳の端を指で押さえた。


「ただし、数字を見て心配になっても、シアが一人でお客さんに変更をお願いする必要はないからね。まだ、どの予約をどうするか決まったわけじゃないんだ」


「はい。お客様にお伝えすることが決まった場合は、先に確認いたします」


 シアは落ち着いて答えた。


 以前なら、問題が起こりそうだと分かった時点で、自分が何とかしなければならないと考えたかもしれない。けれど今は、分かっていることを正確に記録する仕事と、店として判断する仕事を分けて考えられるようになっていた。


 オットーが窯からパンを取り出すと、香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がった。


「シア、丸パンの籠を頼む。今日は朝のうちに買いに来る客が多そうだから、先に棚を整えておこう」


「はい。すぐに運びます」


 厚手の布を使って籠を持ち上げ、シアは店頭へ向かった。


 まだ薄暗い店内に朝の光が差し込み、棚へ並べた丸パンの表面を柔らかく照らしている。黒麦パンを置いていた場所には、今日も販売休止のお知らせがあり、その隣には胡桃パンや干し葡萄パンが並んでいた。


 シアは入口の扉を開け、外へ取り付けたお知らせの状態を確かめた。


 紙は丈夫な台紙に固定されており、風で端が少し揺れているものの、文字は問題なく読める。紐の緩みがないことを確かめてから扉を閉めると、通りの向こうで荷車を引く音が聞こえた。


 街は今日も、変わらず動き始めていた。


     ◇


 開店して間もなく、朝食用のパンを買い求める客が続けて訪れた。


 近くで働いているらしい男性は丸パンを五つ買い、年配の女性は胡桃パンと小さな白パンを選んだ。シアは会計を済ませながら、棚の残りを確かめ、必要に応じて厨房へ声をかけた。


 しばらくすると、入口の鈴が鳴り、厚手の外套を着た男性が入ってきた。


 男性は棚を一通り眺めたあと、黒麦パンの販売休止を知らせる紙の前で足を止めた。


「黒麦パンは、まだ入らないのかい?」


「おはようございます。申し訳ありませんが、材料の入荷が遅れておりまして、現在は店頭販売をお休みしております。再開の日も、まだ決まっておりません」


 シアが説明すると、男性は少し残念そうに眉を下げた。


「そうか。前に食べて気に入ったから、また買おうと思っていたんだけどな。予約ならできるのかい?」


 シアは一度、厨房の方へ目を向けた。


 新しい黒麦パンの予約については、材料の到着が確認できるまで受け付けないという方針が続いている。説明する内容は決まっているものの、男性が残念そうにしている姿を見ると、何か別の方法を提案したくなる気持ちがわずかに湧いた。


 しかし、約束できないものを約束するわけにはいかない。


「申し訳ありません。現在は新しい黒麦パンのご予約もお受けしておりません。すでに承っているご予約分を優先しておりまして、材料の状況が分かるまでは、新しいお約束ができない状態なんです」


 男性は説明を聞き、しばらくお知らせの紙を眺めていた。


「なるほど。先に予約した人の分を守っているわけだね。それなら仕方ないか」


 そう言ってから、棚の方へ向き直る。


「じゃあ、今日は丸パンを三つもらおうかな。家で温めて食べることにするよ」


「ありがとうございます。丸パン三つで十五銅貨になります」


 シアがパンを袋へ収めると、男性は代金を渡しながら、少し笑った。


「黒麦が戻ったら、また買いに来るよ。今度は早めに来ないとな」


「はい。販売を再開できるようになりましたら、お店でもお知らせいたします」


 男性は頷き、パンの袋を手に店を出ていった。


 シアは扉が閉まるのを見届けてから、そっと息を吐いた。


 断ることは、今でも少し苦手だった。


 相手が望んでいるものを用意できないと分かると、胸の奥に申し訳なさが広がる。自分の判断でどうにかできるのなら、何とかしてあげたいと思う気持ちもある。


 けれど、無理な約束をしてしまえば、後になってもっと大きな迷惑をかけるかもしれない。


(お客様に残念な思いをさせないことだけが、大切なのではないのですね)


 シアはそう考えながら、店頭の棚を整えた。


 客が次に訪れたときにも、安心して買い物ができる店であること。そのためには、できることとできないことを正確に伝える必要がある。


 少し前の自分なら、そんなふうに考える余裕はなかっただろう。


 厨房から出てきたマルタが、棚の残りを確認しながら声をかけた。


「今のお客さん、黒麦の予約を聞いていたね」


「はい。新しいご予約はまだお受けできないことをお伝えしました。丸パンを三つ買ってくださいました」


「そうかい。ちゃんと説明できたなら、それでいいよ。黒麦が好きなお客さんには申し訳ないけれど、今は守れる約束を大事にしないとね」


 マルタはそう言い、黒麦パンのお知らせへ目を向けた。


「この紙を出したときは、どんな反応があるか少し心配だったんだ。でも、理由をきちんと伝えれば、分かってくれる人も多いものだね」


「はい。残念そうにされる方もいらっしゃいますが、説明を聞いてくださる方が多いです」


「もちろん、みんなが納得してくれるとは限らないけれどね。そういうときも、できないことを無理にできると言わなくていいんだよ」


 シアは静かに頷いた。


 店の仕事を覚えることは、パンの種類や値段を覚えるだけではない。相手の気持ちを受け止めながら、店として守るべきことを伝えるのも、大切な仕事なのだと思った。


     ◇


 昼前になると、店内は再び忙しくなった。


 昼食用のパンを買いに来る客が増え、丸パンと胡桃パンの棚が少しずつ空いていく。シアは会計を進めながら、売れた数を確認し、厨房へ必要な連絡を入れた。


 その途中、予約していたパンを受け取りに来た女性が、袋の中身を確かめながら尋ねた。


「今日は黒麦パンも入っているのね。店頭では売っていないから、予約した分も難しいのかと思っていたわ」


「はい。以前からお受けしているご予約については、現在のところ予定どおりご用意しております。ただ、今後の材料の到着日はまだ決まっておりませんので、新しい黒麦パンのご予約はお休みしております」


 シアが説明すると、女性は頷いた。


「そういうことだったのね。じゃあ、今日の分はありがたくいただくわ」


「ありがとうございます。ご予約の内容はこちらで間違いございませんでしょうか」


 女性は袋を確かめ、問題ないことを伝えてから店を出ていった。


 シアは引き渡し済みの印を帳面へ付けた。


 予約帳に記された数量が、実際に渡した数量と一致していることを確認する。何度も繰り返してきた作業だが、材料が不足している今は、以前にも増して重要に感じられた。


 その後、昼の忙しさが落ち着いたところで、マルタがシアを厨房へ呼んだ。


「少し時間ができたから、黒麦粉の残りを確認しようと思うんだ。シアも一緒に見てくれるかい?」


「はい。必要数一覧を持ってまいります」


 シアは帳面と別紙を持ち、作業台へ向かった。


 オットーはすでに材料の保管場所を確認しており、使える黒麦粉の量を改めて数えていた。今日の仕込みで使用した分も含め、残量と予約の必要数を見比べる。


 シアは数字を書き留めながら、同じ欄を二度確かめた。


 現在受けている予約のうち、近い日程のものは、今ある材料で対応できる見込みだった。しかし、その先の注文まで考えると、入荷がさらに遅れた場合には、余裕が少なくなってしまう。


「やっぱり、この先が気になるな」


 オットーが低い声で言った。


 作業台の上には、黒麦粉の残量を記した紙と、予約の必要数一覧が並んでいる。どちらも数字そのものは明確だったが、次の材料がいつ届くか分からない以上、先の見通しは立てにくかった。


「今日の時点では、近い予約分は問題なさそうだね」


 マルタは一覧を指でたどりながら言った。


「ただ、もう少し先の分については、材料が届かない場合に備えて、早めに相談できるようにしておいた方がよさそうだよ」


 シアは二人の言葉を聞きながら、帳面へ視線を落とした。


 相談する相手として、宿屋の《銀鹿亭》のことが頭に浮かぶ。


 以前、黒麦粉が不足した場合には、早めに相談する可能性があるとマルタが伝えていた。だが、その時点では予約内容の変更が決まったわけではなく、今も正式な変更は行われていない。


「マルタさん、以前《銀鹿亭》へ、材料が不足する場合には早めにご相談する可能性があるとお伝えしていましたよね」


「ああ、そうだね。向こうにも、まだ変更をお願いしたわけじゃないけれど、状況だけは話してあるよ」


「でしたら、今後ご相談が必要になったときに、どのご予約についてお話しするのか分かるよう、一覧に印を付けておくことはできますでしょうか」


 シアは慎重に言葉を選んだ。


「もちろん、変更するという意味ではなく、確認が必要になる可能性があるものを、見分けやすくするためです」


 マルタは少し考え、オットーへ目を向けた。


「どうだい? 元の予約帳には手を加えず、別紙の方に確認用の印を付けておくなら、役に立つと思うんだけど」


「そうだな。予約が変わったと勘違いしないようにしておけばいい。今のうちに、どこまで材料が足りるかを見ておくのは無駄じゃない」


 オットーはそう答え、残量を書いた紙をシアの方へ寄せた。


「ただし、粉の状態や仕込み方によっても多少の違いは出る。数字だけで、絶対に大丈夫だとか、絶対に足りないだとか決めつけるなよ」


「はい。あくまで確認のための目安として扱います」


 シアは頷き、別紙の端に小さく説明を書き加えた。


『確認印は予約変更を意味しない。材料の入荷状況に応じて、店主が判断するためのもの』


 その文字を見て、マルタが微笑んだ。


「こうして書いておけば、後から見ても分かりやすいね。私たちも忙しいと、何の印だったか忘れてしまうことがあるから」


「ありがとうございます。では、今日確認した分だけ記しておきます」


 シアは数字を見比べながら、必要な箇所へ印を付けた。


 作業を進めるうちに、胸の奥へ小さな緊張が広がった。


 まだ材料が足りなくなったわけではない。だが、今後の入荷が遅れれば、すでに約束したパンを用意するために、店として難しい判断をしなければならないかもしれない。


 それでも、今できることはある。


 分かっている数量を確かめ、必要な情報を整理しておくこと。相談が必要になったとき、慌てずに状況を説明できるようにしておくこと。


 シアは最後の数字を確認し、筆を置いた。


「こちらで、今日の確認分は終わりました」


「ありがとう、シア。助かったよ」


 マルタは一覧を受け取り、オットーと一緒に内容を確かめた。


 オットーは数字を見ながら、ゆっくり息を吐いた。


「次の黒麦粉が届けば、ずいぶん楽になるんだがな」


「そうだね。でも、届く日が分からない以上、今ある分を大事に使うしかないよ」


 マルタの声には、心配だけでなく、長く店を続けてきた人らしい落ち着きがあった。


 シアはその声を聞きながら、二人がすぐに結論を出そうとしないことに気づいた。


 困っているからといって、焦って約束を変えるわけではない。かといって、何も考えずに待っているわけでもない。


 今ある情報を確かめながら、必要になったときに動けるようにする。


 それもまた、店を守るための大切な仕事なのだろう。


     ◇


 午後、シアは店頭の棚を整えながら、午前中に確認した数字のことを考えていた。


 もちろん、仕事中に帳面のことばかり考えているわけにはいかない。客が来れば挨拶をし、注文を聞き、会計を済ませる。その一つ一つを丁寧に行うことも、今の自分に任された役割だった。


 しばらくすると、入口の鈴が鳴った。


 入ってきたのは、見覚えのある少年だった。


「こんにちは、シアさん!」


「こんにちは、ニコさん。今日もお買い物ですか?」


 シアが微笑むと、ニコは元気よく頷いた。


「はい! 今日は胡桃パンを二つください。母さんが、昨日の丸パンも美味しかったって言ってました」


「ありがとうございます。胡桃パン二つで十二銅貨になります」


 シアはパンを袋へ入れ、代金を受け取った。


 ニコは袋を受け取ると、ふと思い出したように彼女の足元へ目を向けた。


「そういえば、昨日、父さんに靴を見てもらったんですよね?」


「はい。とても丁寧に見ていただきました。まだ履けるそうですが、冬になる前に踵を補強した方がよいと教えていただきました」


「よかったです。父さん、シアさんの靴はちゃんと手入れされているって言ってましたよ」


 ニコは少し誇らしそうに笑った。


 シアは思わず頬を緩めた。


「そう言っていただけたのなら嬉しいです。旅の間もずっと履いていた靴なので、できるだけ大切に使いたいと思っています」


「じゃあ、修理するんですか?」


「はい。そのつもりです。ただ、二日ほど預ける必要があるそうなので、仕事で履く靴をどうするか考えているところなんです」


 ニコは少し首を傾げた。


「そうなんですね。うちの店には、修理している間だけ貸す靴も少しあるんですけど、シアさんの足に合うかどうかは分からないなあ」


 その言葉に、シアは目を瞬かせた。


「貸していただける靴があるのですか?」


「はい。でも、誰にでも貸せるわけじゃないし、数も少ないから、父さんに聞かないと分からないです」


 ニコは慌てて付け加えた。


「それに、仕事でずっと履くなら、ちゃんと足に合ってないと困りますよね」


「そうですね。ありがとうございます。もしお借りできるものがあるようでしたら、一度相談してみたいです」


 シアはそう答えた。


 借りられると決まったわけではない。サイズが合わないかもしれないし、貸し出し自体が難しい場合もあるだろう。


 それでも、選べる方法が一つ増えたことはありがたかった。


「じゃあ、帰ったら父さんに聞いてみますね。でも、今日はまだ分からないから、次に来たときにお話しします!」


「はい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」


「大丈夫です! 父さん、靴の話をするのが好きですから!」


 ニコは笑い、パンの袋を大事そうに抱えた。


 シアは少年を見送りながら、昨日靴屋で聞いた説明を思い出した。


 足に合わない履き物を無理に使うのはよくないと、オットーも言っていた。もし貸し靴があるとしても、履き心地を確かめたうえで判断する必要がある。


(借りられたら助かります。でも、無理にお願いすることではありませんね)


 シアはそう考え、店頭の仕事へ戻った。


 午後の客足は穏やかで、丸パンを買う人や、夕食に合わせるために胡桃パンを選ぶ人が少しずつ訪れた。


 黒麦パンの販売休止について尋ねる客もいたが、シアはその都度、分かっていることだけを説明した。材料の到着日について新しい情報はなく、販売再開の見込みもまだ立っていない。


 同じ説明を繰り返すことになっても、相手にとっては初めて聞く話かもしれない。


 そう思うと、一人一人に落ち着いて向き合うことができた。


     ◇


 夕方になると、空の雲が少し厚くなった。


 通りを吹く風が強まり、入口の扉が開くたびに冷たい空気が店内へ入り込む。シアは客が出入りする合間に、お知らせの紙が外れていないことを確かめ、棚の残りを整理した。


 最後の予約客がパンを受け取ると、マルタは帳面へ引き渡し済みの印を付けた。


「今日の予約は、これで全部だね」


「はい。数量も、帳面と一致しております」


 シアが答えると、マルタは安心したように息を吐いた。


「よかった。今日も予定どおりに渡せたね」


 厨房では、オットーが翌朝の仕込みに使う道具を片づけている。


 シアは店頭の布を交換し、売上帳の数字を確認した。黒麦パンの店頭販売がない分、以前とは売れ方が変わっているものの、丸パンや胡桃パンを選んでくれる客も多かった。


 ただ、その数字だけで、黒麦パンを買えない客の気持ちまで分かるわけではない。


 シアは覚え書きの最後に、今日黒麦パンを尋ねた客の反応を簡単に記した。新しい予約を希望した人がいたこと、代わりに丸パンを買った人がいたことを、分かった範囲で書き留める。


 それから筆を置き、帳面を閉じた。


 片づけが終わる頃、マルタが温かい飲み物を用意してくれた。


「今日は少し冷えたからね。飲んでから上がりなさい」


「ありがとうございます」


 シアは両手で杯を受け取り、ゆっくり口をつけた。


 温かな飲み物が喉を通ると、仕事で冷えた指先まで少しずつ温まっていくように感じられた。


 マルタは向かい側の椅子へ腰を下ろし、シアの様子を眺めた。


「今日は、黒麦のことも靴のことも、いろいろ考えることがあったね」


「はい。でも、どちらも少しずつ整理できたように思います」


 シアは杯を置き、静かに答えた。


「黒麦パンについては、今の材料でどこまでご予約に対応できるのかを確認できました。靴の方も、修理の間に履くものをどうするか、ニコさんがご家族に聞いてくださるそうです」


「そうかい。靴屋さんに貸し靴があるかもしれないんだね」


「はい。ただ、まだお借りできると決まったわけではありませんし、足に合うかどうかも分かりません。もし難しければ、別の方法を考えようと思っています」


 マルタはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。


「うん。それでいいと思うよ。今すぐ答えが出なくても、困らないように準備しておけばいいんだから」


 シアは杯の縁へ視線を落とした。


 今すぐ答えが出なくてもよい。


 その言葉は、以前なら簡単に受け入れられなかったかもしれない。


 伯爵家にいた頃、与えられた仕事には期限があり、間違いがあれば責められた。自分で考えることを求められる一方で、誰かの望む答えと違えば、それもまた咎められることがあった。


 だから、分からないことがあると、早く答えを出さなければならないと焦ってしまう。


 しかし、この店では違う。


 黒麦粉が届かないことも、靴の修理に日数がかかることも、シア一人の力ではどうにもならない。けれど、だからといって何もできないわけではなかった。


(今できることを考えて、できないことは無理に決めない。それでも、ちゃんと前へ進めるのですね)


 シアは顔を上げた。


「マルタさん。私、以前は何かを決められないと、とても不安になっていました」


 言葉にしてから、少しだけ胸が緊張した。


 過去の詳しい事情を話すつもりはない。けれど、今感じていることを伝えるくらいなら、してもよいのではないかと思った。


「でも、こちらで働くようになってから、すぐに答えを出さなくてもよいことがあるのだと、少しずつ分かってきた気がします」


 マルタは急かさず、シアの言葉を聞いていた。


「そうだねえ。急いで決めなきゃいけないこともあるけれど、考える時間があるなら、使った方がいいことも多いよ」


 マルタは杯を持ち上げ、温かな飲み物を一口飲んだ。


「私だって、店のことで迷うことはあるんだ。オットーと意見が違うときもあるし、仕入れのことなんかは、考えてもすぐには答えが出ないことがある。でも、話しているうちに別の方法が見つかることもあるからね」


 その言葉に、シアは少し驚いた。


 マルタはいつも落ち着いていて、店のことをよく分かっているように見える。もちろん長年の経験があるのだろうが、それでも迷うことがあるのだと聞くと、胸の奥が不思議と軽くなった。


「マルタさんも、迷われることがあるのですね」


「そりゃあ、あるよ。店をやっていれば、毎日何かしら考えることはあるものさ」


 マルタは笑った。


「ただ、迷っていることを隠して、何でも分かっているふりをしても仕方ないからね。オットーにも相談するし、必要ならハンスにも聞く。シアが気づいてくれることだってあるんだから」


 シアは胸の前で手を重ねた。


 自分の気づいたことが、店の役に立つかもしれない。


 そう思えるようになったことも、この街へ来てからの大きな変化だった。


 以前は、何かを提案するとき、間違っていたらどうしようという気持ちが先に立っていた。今でもその不安が完全になくなったわけではないが、マルタとオットーは、提案を聞いたうえで店として判断してくれる。


 だからこそ、シアも少しずつ、自分の考えを伝えられるようになっていた。


「ありがとうございます。これからも、気づいたことがあればご相談させてください」


「もちろん。遠慮しなくていいよ」


 マルタはそう答え、優しく微笑んだ。


 厨房の奥から、オットーが道具を片づける音が聞こえてくる。


 シアは温かな飲み物をもう一口飲み、今日一日の仕事が終わったことを、ようやく実感した。


     ◇


 自室へ戻ると、窓の外はすっかり夕暮れの色に変わっていた。


 シアは上着を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。机の上には、昨日靴屋で聞いたことを書き留めた帳面と、図書館で借りた『窓辺で育てる季節の草花』が置かれている。


 まずは帳面を開き、今日分かったことを追記した。


『靴屋に、修理中だけ貸す靴が少しあるらしい。ニコさんが確認してくださる予定。借りられるかどうか、足に合うかどうかは未定』


 書き終えると、シアは筆を置いた。


 以前なら、貸し靴があると聞いた時点で、それを使うことに決めてしまったかもしれない。しかし、今はまだ分からないことがあると理解している。


 靴屋から返事が来て、実際に使えるかどうかを確かめてから決めればよい。


 その下へ、修理代の四十八銅貨という数字をもう一度書いた。


 週ごとの給金から少しずつ蓄えているお金を思い浮かべ、冬用の上着のことも考える。どちらも必要なものだが、靴の修理を先に進める方がよいかもしれない。


 とはいえ、上着の準備もあまり遅くなってはいけない。


 シアはしばらく考えたあと、帳面の端に小さく記した。


『冬の上着についても、次の買い物のときにもう一度確認する』


 それだけ書いて、帳面を閉じた。


 今夜のうちに、すべての買い物を決める必要はない。


 机の上の本を手に取り、昨日の続きから頁を開く。


 寒い季節の草花の育て方について書かれた章には、窓辺の温度や日当たり、土の乾き方を確かめることの大切さが説明されていた。シアは時折秋灯草へ目を向けながら、ゆっくりと読み進めた。


 窓の外では、風が少し強くなっている。


 古い窓枠がかすかに鳴り、遠くからは夕方の鐘の音が聞こえてきた。


 シアは本を閉じ、秋灯草の鉢をもう少し部屋の内側へ寄せた。


 黄色い花は、小さく揺れながらも変わらず咲いている。


「寒くなってきましたね。でも、少しずつ準備していきましょう」


 そう声をかけると、シアは自分でも可笑しくなって微笑んだ。


 花に向かって話しているはずなのに、まるで自分自身へ言い聞かせているようだった。


 靴の修理も、冬の上着も、店の黒麦粉も、まだ決まっていないことがある。


 けれど、そのすべてを今夜のうちに解決しなくてもよい。


 必要なことを一つずつ確かめ、できる準備を進めていけばよいのだ。


 シアは本を机へ戻し、階下から聞こえてきたマルタの声に応えて扉へ向かった。


 今日も《麦穂亭》で働き、客と話し、店のためにできることを考えた。


 そして、自分の暮らしについても、少しだけ前へ進めた。


 それだけで、十分に意味のある一日だった。


 階段を下りると、厨房から温かな食事の香りが漂ってくる。


 シアはその匂いに頬を緩め、明日もまた、この場所で自分にできる仕事を重ねていこうと思った。


 まだ決められないことがあっても、今なら選べることがある。


 その小さな確かさを胸に、シアは温かな厨房へ足を踏み入れた。


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