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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第57話 冬を歩くために、私が選んだ小さな準備



 朝の空気には、昨日よりもはっきりとした冷たさが混じっていた。


 窓の外がまだ薄青く霞んでいる頃、シアは寝台の上で目を覚まし、肩まで掛けていた厚い毛布をそっと持ち上げた。マルタから借りた茶色の毛布は、夜の間に冷え込む部屋でも身体を温かく包んでくれており、以前のように寒さで何度も目を覚ますことが少なくなっている。


 足を床へ下ろすと、板張りの冷たさが靴下越しに伝わってきた。シアは寝台を整えてから窓辺へ向かい、秋灯草の鉢が冷たい窓枠に触れていないことを確かめた。昨日、水を与えた土にはまだ適度な湿り気があり、黄色い花も変わらず小さな顔を上げている。


「おはようございます。今日も元気そうですね」


 声をかけてから、シアは少しだけ笑った。


 昨日はミレイユと図書館へ出かけ、昔の領都の地図を見たり、草花の本を選んだりした。温かなスープを食べながら話した時間も、帰り道で立ち寄った花屋のことも、思い出すと自然に頬が緩んでしまう。


(また一緒に出かけたいと、自分から伝えられたのですよね)


 そのことが、今朝になっても嬉しかった。


 次に会う日が決まったわけではない。それでも、予定が合えばまた一緒に出かけようと約束できたことは、シアにとって十分に大きな出来事だった。


 机の上には、昨日借りた『窓辺で育てる季節の草花』が置かれている。夜には最初の数頁だけを読んだが、寒い季節の水やりについて、思っていた以上に気をつけることがあると分かった。今日は仕事が終わってから続きを読むつもりだった。


 身支度を整え、母の形見である銀のペンダントを衣服の内側へ収める。髪を結び直したところで、シアは足元の靴へ目を向けた。


 長い旅を共にしてきた革靴だった。


 表面には手入れを重ねた跡があり、つま先にも細かな傷が残っている。歩くたびに痛むようなことはないものの、靴底の外側が以前より薄くなっている気がしていた。


 少し前、靴屋の息子であるニコから、冬になる前に父親へ靴底を見てもらうとよいと勧められたことを思い出す。


(図書館へ行く日は、ほかの予定を入れずに過ごせました。今度は、靴を見ていただく時間を作ってもよいかもしれません)


 靴のことは、気になりながらも後回しにしていた。


 まだ履けるから大丈夫だろうと思う気持ちもある。しかし、冬になって道が濡れたり凍ったりするようになれば、今の靴底で安全に歩けるかどうかは分からない。


 シアは靴を履き、紐を結び直した。


 今すぐ新しい靴を買うと決める必要はない。まずは状態を確かめてもらい、そのうえで考えればよいのだ。


 そう思うと、胸の内にあった小さな心配が、少しだけ扱いやすいものになった。


     ◇


 階下へ降りると、厨房には焼きたてのパンの香りが満ちていた。


 オットーは窯の前で焼き具合を確かめており、マルタは予約分のパンを並べるための籠を用意している。シアが挨拶をすると、二人はいつものように顔を上げた。


「おはようございます。昨日はお休みをいただき、ありがとうございました」


「おはよう、シア。昨日は楽しかったかい?」


 マルタの問いかけに、シアは自然と笑顔になった。


「はい。ミレイユさんと図書館へ行って、昔の街の地図を見ました。それから、草花の本を一冊借りてきたんです」


「それはよかったねえ。帰ってきたときも楽しそうだったから、いい一日になったんだろうと思っていたよ」


 マルタはそう言いながら、作業台の端に置いた布を畳んだ。


「今日はいつもの仕事に戻るけれど、休み明けだからって張り切りすぎなくていいからね。まずは朝の予約を確認して、それから店頭の準備をお願いしようか」


「はい。承知しました」


 シアは手を洗い、帳面の置かれた棚へ向かった。


 予約帳には、騎士団からの定期注文と、宿屋からの注文がそれぞれ記されている。騎士団の定期注文は丸パン二十五個と黒麦パン十五個を週四日という取り決めだが、今日はその引き渡し日ではない。宿屋への注文も、前日までに確認された数量がそのまま記載されていた。


 黒麦粉の到着日については、相変わらず空欄のままだった。


 シアはその欄を見つめたあと、隣に置かれた黒麦パンの予約必要数をまとめた紙へ視線を移した。先日から試している記録で、どの日にどれだけの黒麦パンが必要なのかを、元の予約帳とは別に確認できるようにしてある。


 さらに、昨日からは店頭で黒麦パンを希望した客が、代わりにどのパンを選んだかを、分かる範囲で書き留めることになっていた。


 ただし、その記録は売上帳とは別の覚え書きにすぎない。客が別のパンを買わずに帰った場合もあれば、最初から別のパンを選ぶ客もいるため、数字だけで需要を決めつけることはできなかった。


「シア、昨日の覚え書きはここに置いてあるよ」


 マルタが小さな紙を差し出した。


 そこには、黒麦パンを尋ねた客が丸パンを選んだことや、別の日に来ると言って帰ったことなどが、簡単に書かれていた。数は多くないが、客の反応を後から思い出すには十分な内容だった。


「ありがとうございます。昨日も記録してくださったのですね」


「難しいことはしていないよ。分かるときに書いておくだけなら、そんなに手間もかからないからね」


 マルタは紙を作業台へ置き、シアへ向き直った。


「ただ、書くことに気を取られて接客がおろそかになったら本末転倒だから、そこは気をつけよう。忙しいときは無理に記録しなくていいし、分からなかったことを後から想像で埋める必要もないよ」


「はい。実際に分かったことだけを書きます」


 シアは頷き、紙を所定の場所へ戻した。


 以前なら、記録を始めた以上は欠けた部分があってはいけないと考えたかもしれない。しかし、店の仕事では正確さだけでなく、何を優先するべきかを判断することも大切なのだと、少しずつ理解できるようになっていた。


 オットーが窯から丸パンを取り出すと、厨房へ香ばしい匂いが広がった。


「シア、こっちの籠を店へ運んでくれ。まだ熱いから、布を使ってな」


「はい。ありがとうございます」


 シアは厚手の布を使って籠を持ち上げ、店頭へ運んだ。


 棚の上には、丸パン、胡桃パン、干し葡萄パンなどが順に並んでいく。黒麦パンを置いていた場所には、今日も店頭販売休止のお知らせがある。


 以前より棚の一角が寂しく見えるものの、ほかのパンが並ぶにつれて店内にはいつもの朝らしい賑わいが戻ってきた。


 シアは入口の扉を開け、通りの様子を確かめた。


 朝の空気は冷たかったが、空は晴れている。通りの向こうでは商人が荷車を押し、向かいの店では店主が看板を外へ出していた。


 今日も、この街の一日が始まろうとしていた。


     ◇


 開店して間もなく、丸パンを買い求める客が続けて訪れた。


 近くで働いているらしい男性は丸パンを四つ買い、年配の女性は胡桃パンを二つ選んだ。シアは会計を済ませながら、棚の残りを確かめ、必要に応じてマルタへ声をかけた。


 しばらくすると、入口の鈴が鳴り、見覚えのある男性が入ってきた。


 黒麦パンを好んで買っていくハロルドだった。


「おはよう。今日も黒麦はまだかい?」


 穏やかな声で尋ねられ、シアは申し訳なさそうに頭を下げかけた。しかし、以前ハロルドから店を責めているわけではないと伝えられたことを思い出し、顔を上げて答えた。


「おはようございます、ハロルドさん。申し訳ありませんが、黒麦粉の到着日はまだ決まっておりません。店頭での販売も、引き続きお休みしております」


「そうか。道の方も、まだ落ち着かないんだろうな」


 ハロルドはお知らせの紙へ目を向け、ゆっくり頷いた。


「それなら今日は、丸パンを二つと胡桃パンを一つもらおうかな。昨日、家で丸パンを温め直して食べたら、思った以上に美味しかったんだ」


「ありがとうございます。丸パンは五銅貨が二つで十銅貨、胡桃パンが六銅貨ですので、合わせて十六銅貨になります」


 シアはパンを袋へ収め、代金を受け取った。


 ハロルドは袋を持ち上げながら、少し考えるように棚を見渡した。


「黒麦パンは好きだけど、ほかのパンを食べる機会が増えるのも悪くないな。もちろん、黒麦が戻ってきたらまた買うつもりだが」


「はい。入荷の状況が分かりましたら、お店でもお知らせいたします」


「楽しみにしているよ。ただ、無理はしないでくれ。パン屋が続いてくれないと、こっちも困るからな」


 ハロルドは笑い、扉の方へ向かった。


 シアはその背中を見送りながら、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。


 黒麦パンを買えないことを残念に思いながらも、店を気遣ってくれる客がいる。そのことは、今の《麦穂亭》にとって大きな支えになっていた。


 シアは客足が途切れたところで、覚え書きへハロルドの購入内容を記した。黒麦パンを尋ねたうえで丸パン二つと胡桃パン一つを選んだこと、黒麦パンの販売再開を待っていることを、短く書き留める。


 そこまで記してから、彼女は筆を置いた。


 ハロルドが次も同じパンを選ぶとは限らない。今日の記録は今日の出来事として残しておけばよいのだ。


 その後も、客の出入りは続いた。


 昼前には、黒麦パンを探して来た女性が、店頭のお知らせを読んで足を止めた。


「黒麦パンは、まだ売っていないのね。前に買って美味しかったから、また来てみたんだけど」


「ありがとうございます。現在は材料の入荷が遅れておりまして、店頭販売を休止しております。再開の日はまだ決まっておりません」


 シアが説明すると、女性は少し残念そうに棚を眺めた。


「そうなの。じゃあ、今日は別のものにしようかしら。あまり甘くないパンが欲しいんだけど、どれがいい?」


 シアは棚の中から丸パンと胡桃パンを示した。


「こちらの丸パンは、食事にも合わせやすい味です。胡桃パンも甘さは控えめですが、胡桃の香ばしさがあります。どちらもお食事と一緒に召し上がっていただけると思います」


「なるほどね。じゃあ、胡桃パンを二つにするわ。今日は野菜の煮込みを作るつもりだから、合いそうだもの」


「ありがとうございます。胡桃パン二つで十二銅貨になります」


 女性は代金を払い、袋を受け取ると、少し嬉しそうに笑った。


「説明してもらえて助かったわ。黒麦が戻ったらまた来るけれど、今日のパンも楽しみにしているわね」


「はい。お気に召していただけたら嬉しいです」


 シアは女性を見送ったあと、店内の棚を整えた。


 黒麦パンの代わりになるものを一方的に決めるのではなく、客が何を求めているのかを聞いてから、選べるものを伝える。それだけのことでも、以前より落ち着いて対応できるようになった気がした。


 厨房から様子を見ていたマルタが、客足の途切れたところで声をかけた。


「今の説明、分かりやすかったよ。黒麦パンに似ていると無理に言わなかったのもよかったね」


「ありがとうございます。味はそれぞれ違いますので、同じもののようにお伝えするのは違うと思いました」


「そうだね。お客さんが自分で選べるようにするのが一番だよ。気に入るかどうかは、実際に食べてみないと分からないからね」


 マルタはそう言い、棚の残りを確認した。


 シアも頷き、次の客を迎える準備をした。


     ◇


 昼の忙しさが落ち着いた頃、シアは厨房で簡単な食事をいただいた。


 オットーは朝から続いた仕込みを終え、作業台の端で帳面を開いている。黒麦粉の残量と予約分の必要数を確認しているようだったが、眉間に深い皺を寄せることはなく、落ち着いた様子で数字を見比べていた。


「今日の分は、予定どおりだな」


 オットーが呟くと、マルタは頷いた。


「そうだね。明日の分も、今のところ予約帳どおりに進められそうだよ。ただ、その先は材料の様子を見ながら考えないとね」


 シアは二人の会話を聞きながら、食事の手を止めなかった。


 黒麦粉のことは気になるが、今ここで自分が新しい案を出さなければならないわけではない。必要な数字は帳面にまとめられており、注文をどう扱うかはマルタとオットーが判断することになっている。


 食事を終えて食器を片づけたところで、シアは朝から考えていたことを思い出した。


「あの、マルタさん。少しご相談してもよろしいでしょうか」


「もちろん。どうしたんだい?」


 マルタは帳面を閉じ、シアへ向き直った。


「以前、ニコさんから、冬になる前に靴底を見てもらった方がよいと教えていただいたんです。今の靴はまだ履けるのですが、少し減っているように感じまして……」


 シアは足元へ目を向けた。


「今日の仕事が終わったあと、靴屋さんへ行って、状態を確かめてもらおうかと思っています。夕方の片づけが終わってからでも、間に合うでしょうか」


 マルタはシアの靴へ目を向け、それから窓の外を確かめた。


「そうだねえ。今日は夕方の予約も多くないし、いつもの片づけが終われば、少し早めに上がっても大丈夫だと思うよ。靴屋さんが閉まる前に行きたいんだろう?」


「はい。急いで修理をお願いするつもりではなく、まずは見ていただければと思っています」


「それなら、店のことは気にしなくていいよ。冬の靴は大事だからね。道が濡れて滑りやすくなる前に、確かめておいた方が安心だろう」


 マルタはそう言ってから、オットーへ視線を向けた。


「今日はシアに、夕方の片づけを少し早めに切り上げてもらおうと思うんだけど、どうだい?」


 オットーは帳面から顔を上げ、すぐに頷いた。


「ああ、構わん。夕方の分は俺たちで片づけられる。靴底は見た目より傷んでいることもあるからな。冬になる前に確かめておくのはいいことだ」


 シアは胸の前で手を重ね、二人へ頭を下げた。


「ありがとうございます。では、今日の仕事を終えたら行ってまいります」


「うん。もし修理が必要だと言われても、その場で慌てて決めなくていいからね。値段や日数を聞いて、考えてから頼めばいいんだよ」


 マルタの言葉に、シアは顔を上げた。


「……はい。そうします」


 その助言は、今のシアにとってありがたかった。


 以前なら、店の人に修理を勧められれば、断ることを申し訳なく感じて、そのまま頼んでしまったかもしれない。けれど、今は自分の財布からお金を払い、自分の暮らしに必要なものを選ぶ立場にある。


 相談してから決めてもよいし、今すぐ必要でなければ少し待つこともできる。


 そう考えると、靴屋へ行くことへの緊張も少し和らいだ。


     ◇


 午後の店内には、朝とは違う穏やかな時間が流れていた。


 昼食用のパンを買いに来る客が一段落し、夕方の買い物客が増えるまでの間、シアは棚の整理と布の交換を進めた。売上帳の数字を確かめ、必要なものを補充していると、入口の鈴が軽く鳴った。


「こんにちは!」


 元気な声とともに入ってきたのは、靴屋の息子のニコだった。


 少年は肩に小さな袋を掛け、少し冷えた頬を赤くしている。シアが挨拶を返すと、ニコは棚を眺めながら嬉しそうに笑った。


「今日は丸パンを三つください。父さんが、仕事の合間に食べるんだって」


「こんにちは、ニコさん。丸パン三つですね。十五銅貨になります」


 シアがパンを袋へ入れていると、ニコは彼女の足元へ目を向けた。


「あれ、シアさん。靴はまだ見てもらってないんですか?」


「はい。実は、今日の仕事が終わったあと、お店へ伺おうと思っていたところなんです」


 その返事に、ニコは目を輝かせた。


「本当ですか? 父さん、今日は店にいますよ。今はちょっと忙しいけど、夕方ならたぶん大丈夫だと思います」


「そうなのですね。教えていただいてありがとうございます」


「うちの父さん、靴底を見るのはすごく得意なんです。歩き方の癖も分かるって言ってました」


 ニコは誇らしそうに胸を張った。


 その様子が微笑ましく、シアも自然に笑顔になった。


「それは心強いですね。私の靴も、どのくらい傷んでいるのか教えていただけたら嬉しいです」


「きっと分かりますよ。じゃあ、父さんにシアさんが来るかもしれないって伝えておきますね」


「ありがとうございます。ただ、お仕事がお忙しいようでしたら、無理に時間を空けていただかなくても大丈夫ですので」


「分かりました!」


 ニコは元気よく頷き、代金を渡した。


 シアはお釣りがないことを確認してから、パンの袋を手渡した。


「お買い上げありがとうございます。お父様にもよろしくお伝えください」


「はい! じゃあ、またあとで!」


 少年は嬉しそうに手を振り、店を出ていった。


 扉の鈴が静かになると、マルタが奥から顔を出した。


「ちょうどよかったじゃないか。ニコがいるなら、靴屋さんも行きやすいだろう?」


「はい。お父様がお店にいらっしゃるそうです。少し安心しました」


 シアは袋を置いていた場所を整えながら答えた。


 知っている人がいる店へ行くことは、以前よりずっと気持ちが楽だった。もちろん、初めて訪れる場所が怖いわけではない。それでも、ニコが何度も《麦穂亭》へ来てくれたことで、靴屋も少し身近な場所に感じられるようになっていた。


 その後、夕方の客足が増え始めたため、シアは再び店頭の仕事へ戻った。


 丸パンを買う客、翌朝のために干し葡萄パンを選ぶ客、胡桃パンを一つだけ買っていく客。それぞれの注文を確かめながら、シアは落ち着いて会計を進めた。


 途中、黒麦パンについて尋ねる客もいたが、到着日が未定であることを説明すると、客は頷いて別のパンを選んだ。シアはその内容を、手が空いたときにだけ覚え書きへ残した。


 やがて、夕方の鐘が鳴り始めた。


 店頭の客足が落ち着いたところで、マルタがシアへ声をかけた。


「シア、今日はここまででいいよ。あとの片づけは私たちでやるから、靴屋さんへ行っておいで」


「ありがとうございます。では、使った道具だけ片づけてから……」


 言いかけたところで、シアはマルタの表情に気づいた。


 マルタは少しだけ眉を上げ、笑いをこらえている。


「……いえ、今日はここまでにします」


 シアが言い直すと、マルタは満足そうに頷いた。


「それでいいんだよ。行っておいで」


 シアは二人へ礼を述べ、上着を羽織って店を出た。


     ◇


 靴屋は、中央広場から少し離れた通りにあった。


 大きな店ではないが、入口の上には革靴の形をした木の看板が掛けられており、窓には修理を終えた靴が数足並んでいる。店先には革の匂いが漂い、奥からは何かを叩く規則正しい音が聞こえていた。


 シアは扉の前で一度立ち止まり、上着の裾を整えた。


 初めて訪れる店で、自分の靴について相談する。特別に難しいことではないはずなのに、胸の奥には小さな緊張があった。


(まずは、見ていただくだけです。分からないことがあれば、聞いてもよいのですから)


 そう考え、シアは扉を開けた。


 店内には革と木材、そして靴の手入れに使う油の匂いが混じっていた。壁際にはさまざまな形の靴が並び、作業台の上には革を切る道具や細かな釘が整然と置かれている。奥では、四十代ほどの男性が椅子に腰を下ろし、靴底へ何かを取り付けているところだった。


 シアが挨拶をすると、男性は作業の手を止めて顔を上げた。


「いらっしゃい。靴の修理かい?」


「こんにちは。突然お伺いして申し訳ありません。こちらの靴の底を、一度見ていただきたくて参りました」


 シアがそう答えると、男性は彼女の足元へ目を向けた。


「ああ、ニコが話していた人だね。《麦穂亭》で働いているシアさんだったかな」


「はい。ニコさんには、いつもお世話になっています」


「こちらこそ、うちの息子がパンを買いに行くたびに、よくしてもらっているそうで。あいつ、店の話をするのが好きなんだ」


 男性は笑いながら立ち上がり、作業台の脇に置かれた椅子を示した。


「ちょうど今の仕事が一段落したところだから、見てみようか。靴を脱いでもらってもいいかな?」


「はい。お願いいたします」


 シアは椅子へ腰を下ろし、靴紐をほどいた。


 長く履いてきた革靴を人に見せることに、少しだけ恥ずかしさがあった。表面には手入れをしていても消えない傷があり、靴底も決して新しくはない。


 けれど男性は、靴を受け取ると慣れた手つきで裏返し、縫い目や踵の部分を丁寧に確かめ始めた。


「ふむ。ずいぶん歩いた靴だね。革そのものは、ちゃんと手入れされているよ」


「ありがとうございます。できるだけ長く使いたいと思って、汚れを落とすようにはしていました」


「それはいいことだ。靴は手入れ次第で持ちが変わるからね。ただ、底の減りは避けられない。特に踵の外側が少し薄くなっている」


 男性は靴底の一部を指で示した。


 シアは身を乗り出し、示された場所を確かめた。自分でも気になっていた部分だったが、改めて見ると左右で減り方が少し違っている。


「こちらの方が、よく減っているのですね」


「そうだね。歩き方の癖もあるだろうし、道の状態にもよる。今すぐ履けなくなるほどじゃないが、冬の濡れた石畳を歩くなら、少し心配な状態だな」


 その説明に、シアは静かに頷いた。


 男性はもう片方の靴も確かめ、革の柔らかさや縫い目の状態を見てから、作業台へ並べた。


「靴全体を買い替える必要は、今のところなさそうだよ。踵の傷んだ部分を補強して、底の滑りやすいところを整えれば、まだ使えると思う」


「そうなのですね。少し安心しました」


 シアは思わず息を吐いた。


 新しい靴を買うとなれば、今の手持ちから大きな出費になるかもしれない。もちろん必要なら考えなければならないが、修理で使い続けられるのなら、その方がありがたかった。


「修理をお願いする場合、どのくらいの費用と日数がかかりますか?」


 シアが尋ねると、男性は少し驚いたように顔を上げ、それから感心したように頷いた。


「先にそこを聞いておくのは大事だね。今回なら、踵の補強と底の調整で四十八銅貨くらいだろう。革の状態を見た限りでは、それ以上の大きな修理は必要なさそうだ」


「四十八銅貨ですね」


「日数は、今預かっている仕事との兼ね合いもあるけれど、二日ほど見てもらえればいい。急ぎの仕事が入らなければ、もう少し早く終わるかもしれないが、そこは約束できないな」


 シアはその言葉を聞き、少し考えた。


 修理代は決して小さな金額ではない。しかし、新しい靴を買うよりは負担が少なく、冬の安全を考えれば必要な出費とも思える。


 問題は、二日間ほど靴を預ける必要があることだった。


 シアには、部屋で使うための履き物はあるものの、仕事や外出に使える靴は今履いている一足が中心になっている。修理を頼めば、その間どうするかを考えなければならない。


「ありがとうございます。修理をお願いしたい気持ちはあるのですが、靴を預けている間、仕事で履くものをどうするか考える必要がありまして……」


 シアが正直に伝えると、男性はすぐに頷いた。


「そうだろうね。毎日働いているなら、靴がないと困るだろう。無理に今日預けなくてもいいよ。修理の内容は分かったから、都合のいい日を決めて持ってきてもらえばいい」


「よろしいのですか?」


「もちろん。修理をするかどうかは、持ち主が決めることだからね。ただ、あまり長く放っておくのは勧めないよ。寒くなると底が硬く感じられることもあるし、雨の日は滑りやすくなるから」


 男性はそう言い、靴をシアの前へ戻した。


 その態度は、修理を急がせるものではなかった。必要なことを説明し、判断する時間を与えてくれる。


 シアは靴へ目を向けながら、胸の奥にあった緊張が少しずつほどけていくのを感じた。


「ありがとうございます。では、仕事の予定を確認してから、改めてお願いに参ります」


「ああ、それがいい。来る前にニコへ伝えてくれてもいいし、直接寄ってくれても構わないよ。修理をする日が決まれば、そのときに改めて預かろう」


「はい。よろしくお願いいたします」


 シアは靴を履き直し、紐を結んだ。


 立ち上がって数歩歩いてみると、いつもと変わらない感触が足元に戻ってくる。しかし、靴底の状態を知った今では、以前より注意して歩こうという気持ちになっていた。


 そのとき、店の奥からニコが顔を出した。


「あっ、シアさん! 来てくれたんですね!」


「こんにちは、ニコさん。先ほどは教えていただき、ありがとうございました」


 シアが笑顔で答えると、ニコは父親の方へ目を向けた。


「父さん、どうだった? シアさんの靴、直せそう?」


「ああ。まだ十分使える靴だよ。踵を補強すれば、冬も歩きやすくなるだろう。ただ、仕事で使っている靴だから、預ける日を考えてから修理することになった」


 父親の説明を聞き、ニコは安心したように笑った。


「よかった! シアさん、あの靴でずっと歩いているみたいだったから、ちょっと気になってたんです」


「お気遣いありがとうございます。見ていただいて、私も安心しました」


 シアは少年へ微笑みかけた。


 自分の靴のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。ニコにとっては何気ない一言だったのかもしれないが、その気遣いがなければ、靴底の確認をさらに後回しにしていた可能性もある。


「修理をお願いするときは、また伺いますね」


「はい! 父さん、ちゃんと直してくれますから!」


「おいおい、まだ預かってもいない靴のことを、勝手に約束するんじゃない」


 父親が苦笑すると、ニコは少し照れたように笑った。


 そのやり取りを見て、シアも思わず笑みをこぼした。


 店を出る前に、シアはもう一度丁寧に礼を述べた。男性は「足元に気をつけて帰るんだよ」と声をかけ、ニコは入口まで見送ってくれた。


 扉を閉めると、夕方の冷たい空気が頬に触れた。


 シアは通りへ足を踏み出し、靴底が石畳に触れる感覚を確かめながら歩き始めた。


     ◇


 帰り道、シアは中央広場の端で少し足を止めた。


 夕方の光が建物の壁を淡く染め、噴水の水面には細かな波が広がっている。昨日ミレイユと待ち合わせた場所には、今日は別の人々が行き交っていた。


 シアはその光景を眺めながら、昨日と今日の出来事を思い返した。


 昨日は友達と図書館へ行き、好きな本を選んだ。今日は自分の靴を見てもらい、冬に向けて必要なことを考えた。


 どちらも、誰かに命じられてしたことではない。


 自分の暮らしを少しずつ整えるために、自分で選んだことだった。


(修理代は四十八銅貨。二日ほど靴を預ける必要があるのですね)


 シアは頭の中で数字を確かめた。


 《麦穂亭》での試用期間中、給金は週ごとに支払われている。住み込みの部屋と朝昼の食事があるため、生活のすべてを自分で賄う必要はないものの、冬用の上着や靴の修理など、これから必要になる出費もある。


 だからこそ、何を先に用意するかを考えることが大切だった。


 シアは少し歩いてから、以前青灰色の外套を見かけた店の方へ目を向けた。


 今日は買い物をする予定ではない。けれど、外套のことも忘れずに考えておきたいと思った。


 冬は少しずつ近づいている。


 その準備を、焦らず進めていけばよいのだ。


 シアは再び歩き始めた。


 靴底の状態が分かったことで、かえって足元を気にしすぎる必要がなくなったように感じられた。修理が必要だということも、まだ使えるということも、専門の人に確かめてもらえたからだ。


 分からないまま心配し続けるより、聞いてみる。


 その小さな行動が、今のシアには以前より自然にできるようになっていた。


     ◇


 《麦穂亭》へ戻ると、店頭の片づけはほとんど終わっていた。


 マルタは棚を拭き、オットーは厨房で翌朝の仕込みに使う道具を整えている。シアが扉を開けると、マルタは顔を上げた。


「おかえり、シア。靴屋さんはどうだった?」


「ただいま戻りました。見ていただいたところ、踵の外側が少し減っているそうです。修理すればまだ使えるとのことでした」


「それはよかったね。新しい靴を買わなくても済みそうかい?」


「はい。踵の補強と底の調整で四十八銅貨ほど、日数は二日くらいとのことでした。ただ、その間に履く靴をどうするか考える必要がありますので、今日は預けずに帰ってきました」


 マルタは説明を聞き、ゆっくり頷いた。


「なるほどね。毎日使うものだから、預ける日を考えないといけないわけだ」


「はい。次のお休みと合わせられればよいのですが、二日ほどかかるそうなので、もう少し考えてみようと思います」


 シアはそう答えた。


 すると、厨房から出てきたオットーが、少し考えるように顎へ手を当てた。


「靴の修理か。そういえば、うちにも古い履き物が何足かあったはずだが……いや、足に合わないものを無理に履かせるのはよくないな」


 オットーは自分の言葉を途中で改め、首を振った。


「まずは、シアが今持っている履き物で仕事ができるかどうかだな。無理なら、修理を頼む日を工夫した方がいい」


「そうですね。ありがとうございます」


 シアは二人の言葉を聞きながら、少し安心した。


 相談したからといって、すぐに解決しなければならないわけではない。自分の考えを伝え、ほかの人の意見を聞きながら、無理のない方法を探せばよいのだ。


 マルタは作業台の上へ布を置き、穏やかに笑った。


「今日はもう仕事が終わっているんだから、靴のことも夕食のあとにゆっくり考えればいいよ。まずは上着を脱いで、温まっておいで」


「はい。ありがとうございます」


 シアは頷き、階段を上がった。


 自室へ戻ると、窓の外は夕暮れの色に変わり始めていた。秋灯草の黄色い花が薄い光の中で静かに揺れ、机の上には昨日借りた本が置かれている。


 シアは上着を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。


 今日の出来事を忘れないうちに書き留めようと、小さな帳面を開く。


 靴屋で聞いた修理代と日数、靴底の状態、預ける日を考える必要があることを、順に記していった。


 その下へ、少し迷ってから一文を書き加えた。


『分からないことを聞いてから、自分で決めてもよい』


 書き終えた文字を見つめると、胸の奥に静かな満足感が広がった。


 以前の自分は、何かを決めることが怖かった。


 間違えれば叱られるかもしれない。誰かの期待に応えられなければ、責められるかもしれない。そう考えて、自分の希望を後回しにすることが当たり前になっていた。


 けれど、今は違う。


 マルタもオットーも、シアが相談したことを迷惑だとは言わない。ミレイユも、また一緒に出かけたいという気持ちを喜んでくれた。靴屋の男性も、修理を急がせることなく、考える時間を与えてくれた。


(私は、少しずつ選べるようになっているのですね)


 シアはそっと胸元のペンダントへ触れた。


 自分の人生をやり直すと決めて、この街へ来た。


 そのときは、ただ遠くへ行きたいという気持ちが強かった。けれど今は、ここでどのように暮らしていきたいのかを、少しずつ考えられるようになっている。


 明日はまた《麦穂亭》で働く。


 黒麦粉の到着日はまだ分からず、店の仕事にも考えなければならないことがある。それでも、今夜のうちにすべてを解決する必要はない。


 シアは帳面を閉じ、机の上に置いた。


 窓の外では、夕方の鐘が静かに鳴り始めていた。


 階下からは、マルタが夕食の準備をする音が聞こえてくる。シアは椅子を立ち、窓辺の秋灯草を一度眺めてから、部屋の扉へ向かった。


 今日も、自分で選んだ小さな一日が終わろうとしている。


 そして明日もまた、この街で自分の足で歩いていくのだと思うと、シアの胸には穏やかな温かさが残っていた。


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