第56話 約束の朝、友達と選ぶ新しい一冊
朝の鐘が鳴るよりも早く目を覚ましたシアは、薄暗い天井を見つめながら、いつもと違う静けさに耳を澄ませていた。階下からは、すでにオットーが窯へ薪をくべる音がかすかに聞こえているものの、今日はその音に合わせて急いで身支度を整える必要がない。七日に一度の休みが巡ってきた今朝、彼女には自分で決めた予定があった。
窓の向こうでは、灰色がかった空がゆっくりと明るくなり始めていた。昨夜のうちに雨が降った様子はなく、向かいの屋根瓦も乾いているが、窓枠に指を近づけると冷たい空気が伝わってくる。シアは寝台の上で上半身を起こし、枕元に置いた小さな時計へ目を向けてから、思わず微笑んだ。
(まだこんなに早いのですね。待ち合わせは十時なのに、いつもの時間に目が覚めてしまいました)
今日はミレイユと一緒に図書館へ行く日だった。中央広場の噴水近くで待ち合わせ、互いに気になる本を探しながら、仕事とは関係のない時間を過ごす。誰かに命じられたわけでも、役に立つことを求められたわけでもない、自分自身が楽しみにしていた約束である。
シアは毛布を膝の上へ寄せ、しばらくその感覚を確かめていた。ベルフォード家にいた頃にも、決められた用事のない日はあったが、何も予定がないからといって自由に過ごせるわけではなかった。家の者から急に仕事を頼まれることもあれば、継母や異母妹の都合で予定を変えなければならないこともあり、誰かと会う約束を自分の希望だけで決めた記憶はほとんどない。
それだけに、今朝の静けさは不思議なものだった。早く起きたからといって仕事へ向かわなければならないわけではなく、少し長く寝台にいても誰かに叱られることはない。それでも身体に染みついた習慣は簡単には消えず、シアは結局、いつものように寝台を整えて立ち上がった。
机の上には、黄色い花を咲かせた秋灯草の鉢と、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』が置かれている。鉢の土へ指先を当ててみると、表面は以前より乾いており、少し下の部分にも湿り気がほとんど感じられなかった。シアは水差しから少量の水を注ぎ、受け皿へ水が溜まっていないことを確かめてから、鉢を朝の光が届く場所へ移した。
「今日は、少し明るくなるといいですね」
誰に聞かせるでもなく花へ声をかけると、黄色い花弁が小さく揺れた。窓を開けていないのだから風が当たったわけではないが、そのささやかな動きが返事のように思えて、シアはもう一度微笑んだ。
それから、借りている本を手に取り、最後に読んだ頁を確かめた。冬の衣服の手入れや、寒い時期に室内を暖かく保つ工夫など、日々の暮らしに役立つことがいくつも書かれており、読み終えてからも時折開いていた一冊である。今日は図書館へ行くのだから、返却して新しい本を選んでもよいだろう。
(もう一度読みたいところもありますけれど、必要なことは帳面に書き留めてあります。次の本を借りるのも楽しみです)
シアは本を傷めないよう布で包み、持ち歩き用の小さな袋へ収めた。図書館の貸出期間は十日間で、一度に借りられる本は二冊までと決まっている。期限を過ぎてしまわないよう、今日のうちに返すことを忘れないようにしたかった。
身支度を整える際には、先日購入した茶色の手袋と冬用の靴下を選んだ。上着はまだ冬用の厚いものではないが、重ね着をすれば日中の外出には耐えられそうで、長く歩くことを考えて動きやすい服装にする。髪を結び直し、胸元の銀のペンダントが衣服の内側に収まっていることを確かめると、シアは階下へ向かった。
◇
厨房へ入ると、焼きたての丸パンの香りが迎えてくれた。オットーは大きな木べらを使って窯の中のパンを確かめており、マルタは朝の予約を記した帳面を開いている。二人とも忙しそうだったが、シアの姿に気づくと、いつものように穏やかな挨拶を返してくれた。
「おはようございます。今日はお休みをいただき、ありがとうございます」
「おはよう、シア。そんなに改まって礼を言わなくてもいいんだよ。ちゃんと決めてある休みなんだから、今日は好きなことをしておいで」
マルタは笑いながら、食卓の端に置いた籠を指さした。中には焼き上がったばかりの丸パンが二つと、温めたスープの器が用意されている。シアが驚いて顔を上げると、マルタは当然のことのように椅子を引いてくれた。
「朝ご飯は食べていくんだろう? 待ち合わせまでまだ時間があるなら、慌てなくていいよ。外は冷えているから、温かいものをお腹に入れてから出かけた方がいい」
「ありがとうございます。いただきます」
シアは椅子へ腰を下ろし、湯気の立つスープを両手で包むように持った。野菜の甘い香りが鼻先へ届き、ひと口飲むと、身体の内側からゆっくり温まっていく。厨房ではオットーが次の仕込みを始めており、粉を量る音や木の道具が触れ合う音が、穏やかな朝の背景になっていた。
「ミレイユさんとは、中央広場で十時だったね」
マルタが予約帳を閉じながら尋ねると、シアはパンを飲み込んでから頷いた。
「はい。噴水の近くで待ち合わせることになっています。図書館で本を見て、それから時間があれば少しお話しできたらと思っています」
「いいねえ。ミレイユさんも、今日は勤務の都合がついたんだろう? せっかく二人の予定が合ったんだから、ゆっくり楽しんでおいで」
マルタはそう言いながら、店頭へ運ぶパンの籠を持ち上げた。シアは反射的に立ち上がりかけたが、彼女はすぐにその動きに気づき、柔らかく首を振った。
「今日は手伝わなくていいよ。気持ちはありがたいけれど、休みの日まで働いていたら、ミレイユさんに会う頃には疲れてしまうだろう?」
「……そうですね。つい、いつもの癖で」
シアが少し恥ずかしそうに笑うと、窯の前にいたオットーも低く笑った。
「それだけ仕事に慣れたってことなんだろうが、休むのも大事な仕事だと思っておけ。こっちの仕込みは俺たちで間に合うし、黒麦粉のことだって今日急に解決するとは限らん。気にしていても、荷車が早くなるわけじゃないからな」
その言葉には、少しばかりの冗談が混じっていた。シアは思わず笑い、残りのスープをゆっくり味わうことにした。
黒麦粉の入荷日は、今も分かっていない。昨日までの記録では発注数量に変更はなく、店頭販売を休止して予約分を優先する方針も変わっていなかった。シアが提案した、黒麦パンを希望した客が代わりに何を選ぶかという覚え書きも、店で無理なく続けられる範囲で使ってもらうことになっている。
ただ、そのすべてを今日の自分が見守る必要はないのだろう。シアはマルタとオットーが仕事を進める姿を眺めながら、自分がいない時間にも店はいつもどおり動いていくのだと、少しずつ受け入れていた。
朝食を終えたあと、シアは食器を片づけようとしたが、マルタから今日はそのままでよいと言われた。せめて自分の使ったものだけでも、と頼むと、マルタは少し考えてから、食器を水場まで運ぶことだけを許してくれた。
「そこまでにしておこうか。あとは私がやるから、出かける準備をしておいで」
「はい。ありがとうございます。帰りは、暗くなる前に戻るつもりです」
「急ぐ必要はないけれど、冷え込む前には帰っておいで。道が濡れているところもあるかもしれないから、足元には気をつけるんだよ」
シアは頷き、借りた本を入れた袋を持って店を出た。扉の鈴が背後で鳴り、朝の街の空気が頬に触れる。中央広場へ続く通りにはすでに人の姿があり、荷車を押す商人や店先を掃く人々が、それぞれの一日を始めていた。
いつもなら、シアはその時間を《麦穂亭》の店内で過ごしている。今日は通りを歩く側にいることが、ほんの少し新鮮だった。
◇
中央広場へ向かう道では、冬支度を始めた店がいくつも目に入った。布地を扱う店の軒先には厚手の外套が並び、雑貨屋の窓には毛糸の手袋や小さな湯たんぽのような金属製の容器が飾られている。通りを行き交う人々の服装も、以前より厚手のものが増えていた。
シアはその光景を眺めながら、まだ購入していない冬用の上着のことを思い出した。以前《針と糸の店》で見かけた青灰色の外套は、落ち着いた色合いで使いやすそうだったが、今すぐ買うことはせず、必要なものを考えてから決めようと思っていた。靴底についても、ニコの父親が営む靴屋で一度見てもらうつもりでいる。
(今日は図書館へ行く日ですから、買い物はまた別の機会にしましょう。必要なものを急いで決めなくても、少しずつ準備すればいいのですから)
そう考えながら歩いていると、中央広場の噴水が見えてきた。朝の光を受けた水面は鈍い銀色に輝き、石造りの縁には小さな水滴が残っている。噴水の周囲では、露店の準備をする商人たちが布を広げ、荷物を運ぶ声があちこちから聞こえていた。
待ち合わせの時刻までは、まだ少し余裕があった。シアは噴水から少し離れた場所に立ち、通行の邪魔にならないよう周囲を確かめてから、ミレイユの姿を探した。
騎士の制服を着た人々が広場の端を通り過ぎるたび、つい視線が向いてしまう。けれど今日は休みの約束だから、ミレイユも制服ではないかもしれないと思い直し、行き交う人々の顔をゆっくり見渡した。
「シア!」
聞き慣れた明るい声が、噴水の向こうから届いた。振り返ると、赤みがかった茶色の髪を高い位置で結んだミレイユが、人の間を縫うようにこちらへ歩いてくるところだった。
今日の彼女は騎士の制服ではなく、濃い緑色の上着に動きやすそうな長い裙を合わせ、肩から小さな鞄を提げていた。腰に剣を帯びていないこともあって、いつもより柔らかな雰囲気に見えるが、背筋の伸びた歩き方と周囲へ向ける注意深い視線は、普段と変わらなかった。
「ミレイユさん、おはようございます」
「おはよう。待たせちゃった? もう少し早く着くつもりだったんだけど、広場の手前で荷車が通るのを待っていたら、思ったより時間がかかっちゃって」
ミレイユは少し申し訳なさそうに笑いながら、噴水のそばで足を止めた。シアは首を振り、まだ約束の時刻より前であることを伝える。
「私も少し早く来ただけですから、どうぞお気になさらないでください。それより、今日はご一緒できて嬉しいです」
「私も。勤務の予定が決まるまで待ってもらったから、ちゃんと休みが合ってよかったわ。シアの方は、今朝もお店で働いてきたんじゃないでしょうね?」
冗談めかした問いかけに、シアは思わず目を瞬かせた。マルタにも同じようなことを言われたばかりだったので、その偶然がおかしくなって小さく笑ってしまう。
「少しお手伝いしようとしたのですが、今日は休むようにと言われました。朝食だけいただいて、こちらへ来たんです」
「それなら安心した。シアは気づくと誰かのために動いているから、たまには自分が楽しむことを一番にしてほしいのよ」
ミレイユはそう言ってから、シアの服装へ目を向けた。茶色の手袋に気づくと、以前会ったときに買い物の話をしたことを思い出したらしく、嬉しそうに頷いた。
「その手袋、使っているのね。色も服に合っているし、暖かそう」
「はい。買ってよかったと思っています。朝は指先が冷えますので、あると随分違います」
「そうでしょう。私も仕事で外にいることが多いから、手が冷えるつらさはよく分かるわ。今日はそこまで寒くないと思っていたけれど、やっぱり持ってきて正解だったみたい」
ミレイユは自分の手袋を見せながら笑った。シアも自然に笑い返し、二人は噴水のそばを離れて図書館へ向かうことにした。
広場から図書館へ続く道は、店が多い通りより少し静かだった。石造りの建物が並ぶ間を、書類を抱えた人や学生らしい若者が行き交い、道端には落ち葉がいくつも積もっている。ミレイユは歩きながら、今日は図書館でどんな本を見たいかを話し始めた。
「前に話した旅の本も気になるんだけど、昔の街の地図が載っている本も見てみたいの。仕事で街のあちこちへ行くことがあるから、今の道が昔はどうなっていたのか、少し興味があってね」
「昔の地図ですか。私も見てみたいです。今の街と比べると、違うところがたくさんありそうですね」
「そうなのよ。今は普通に使っている橋も、昔は別の場所にあったかもしれないでしょう? それに、古い道が残っている理由を知ると、街を歩くのが少し面白くなると思うの」
ミレイユは楽しそうに話しながら、通りの角にある古い石柱を指さした。表面には長い年月で薄くなった模様が刻まれており、シアも以前から何のためのものなのか気になっていた。
「こういうものも、昔の地図や記録に載っているかもしれないわね。何となく見過ごしていたものに、理由があると分かるのは好きなの」
その言葉に、シアは静かに頷いた。彼女自身も、領都へ来たばかりの頃には道を覚えることだけで精いっぱいだったが、今では中央広場から《麦穂亭》へ戻る道だけでなく、図書館や川沿いの散歩道も少しずつ分かるようになっている。
けれど、街の歴史についてはほとんど知らない。今歩いている石畳がいつ敷かれたのか、古い橋がどれほど前から使われているのか、そうしたことを考えた経験も少なかった。
(同じ場所でも、知っていることが増えれば違って見えるのですね。ミレイユさんと一緒に歩くと、私だけでは気づかなかったことを教えていただけます)
シアは隣を歩く友人へ目を向け、今日の外出がますます楽しみになっていることを感じた。
◇
図書館の建物が見えてくると、ミレイユは少し歩く速度を緩めた。淡い灰色の石で造られた建物は、周囲の商店よりも落ち着いた佇まいをしており、入口の上には本を開いた形の飾りが刻まれている。大きな窓からは朝の光が差し込み、扉の前には本を抱えた人々が静かに出入りしていた。
「ここが図書館なのね。前を通ったことはあるけれど、ゆっくり入るのは久しぶりだわ」
「私は少し前に利用登録をして、何度か本を借りています。中はとても静かで、いろいろな本が並んでいるんですよ」
シアがそう説明すると、ミレイユは興味深そうに建物を見上げた。
「シアが気に入っている場所なら、きっと落ち着いて過ごせそうね。今日は案内をお願いしてもいい?」
「はい。私もまだ知らない場所が多いのですが、分かる範囲でしたらご案内いたします」
二人は入口の階段を上がり、重い木の扉を静かに押した。建物の中へ入ると、外の冷たい空気とは違う、紙と木材の乾いた匂いが漂っていた。高い天井の下には本棚が整然と並び、窓際には読書用の机が置かれている。
受付の近くでは、年配の男性が返却した本を係の人へ渡していた。奥の机では若い女性が何かを書き写しており、棚の間を歩く人々も、互いの邪魔にならないよう声を抑えている。ミレイユはその静けさを感じ取ったらしく、シアへ向けて小さく微笑んだ。
「本当に落ち着いた場所ね。外とは空気が違うみたい」
「はい。私も初めて来たとき、そう思いました」
シアは受付へ向かい、袋から『冬の暮らしと小さな工夫』を取り出した。係の人へ本と貸出記録を示すと、返却日を確認したうえで、問題なく受け取ってもらえた。
「ありがとうございました。今回の本も、とても勉強になりました」
シアが小声で礼を述べると、係の人は柔らかく頷いた。
「お役に立てたなら何よりです。また気になる本がありましたら、どうぞご利用ください」
そのやり取りを隣で見ていたミレイユは、受付から少し離れたところでシアへ声をかけた。
「もうすっかり慣れているのね。私が初めて来た人みたいで、何だかおかしいわ」
「そんなことはありません。私も最初は緊張しましたし、今でも本を探すときは迷ってしまいます」
「それなら今日は二人で迷いましょう。どちらかが見つけた面白そうな本を、もう一人に教えることにすればいいわ」
ミレイユの提案に、シアは笑顔で頷いた。
案内する側と案内される側ではなく、二人で一緒に探す。そう考えると、知らない棚へ向かうことも楽しみに変わっていく。
シアは以前借りた本が置かれていた生活関係の棚を示したあと、建物の奥にある地理や歴史の本が並ぶ区画へ向かった。ミレイユは棚の上に記された分類を読みながら歩き、時折立ち止まって背表紙へ目を向けている。
しばらく進むと、古い街道や橋についての本が並ぶ棚が見つかった。ミレイユはその前で足を止め、目当てのものに近い題名を見つけたらしく、少し身を乗り出した。
「見て、シア。『領都の古い道と橋』ですって。これなら、昔の地図が載っているかもしれないわ」
「本当ですね。こちらには『アルヴェイン領の街道の歩み』という本もあります」
二人は本を一冊ずつ手に取り、近くの閲覧机へ移動した。窓際の席には柔らかな光が落ちており、机の表面には長く使われてきたことを示す細かな傷が残っている。ミレイユは椅子を引く際にも音を立てないよう気をつけ、シアの向かいへ腰を下ろした。
最初に開いた本には、領都の古い道筋を描いた地図が載っていた。現在の中央広場に当たる場所は形が少し違い、今より狭い道がいくつも入り組んでいる。川沿いには古い渡し場を示す印があり、ミレイユはそこへ指を近づけながら、興味深そうに頁を眺めた。
「この辺り、今は石橋がある場所に近いわね。でも、昔は渡し場だったみたい。川の流れも、少し違って描かれているわ」
「本当ですね。今の街を知っていると、同じ場所とは思えないところもあります」
「こういう記録を見ると、道が今の形になるまでに、たくさんの人が関わってきたんだろうなと思うの。橋が一つできるだけでも、行き来する人の暮らしは随分変わるでしょう?」
シアは以前ミレイユと歩いた川沿いの道を思い出した。あの日は景色を楽しみながら歩いていたが、今こうして古い地図を眺めると、同じ場所にも長い時間が積み重なっていることを感じる。
「以前ご一緒した古い橋も、きっといろいろな人が使ってきたのでしょうね。あの日は景色ばかり見ていましたけれど、次に歩くときは、少し違った気持ちになりそうです」
ミレイユは顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「私もそう思うわ。あの散歩、楽しかったものね。今度は暖かい季節に、川の向こうまで歩いてみるのもよさそう」
その言葉に、シアは胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。次の約束を今すぐ決めるわけではないが、また一緒に出かけることを自然に話してもらえる。そのことが、何より嬉しかった。
しばらく二人は本を読み進め、古い橋の構造や街道の変遷について、気になったところを小声で話し合った。ミレイユは仕事柄、道幅や見通しの悪い場所に目が向くらしく、古い地図の中にもそうした点を見つけては興味深そうに眺めている。シアは市場や住宅が集まっている場所に目を向け、そこで暮らしていた人々がどのような生活を送っていたのだろうと想像していた。
同じ本を読んでいても、気になるところは少しずつ違う。けれど、その違いが会話のきっかけになり、二人は思っていた以上に長い時間を机の前で過ごした。
◇
窓から差し込む光の角度が変わった頃、ミレイユは本を閉じ、静かに肩を回した。長く座っていたせいか、少し身体が固くなったらしい。シアも頁を閉じ、机の上に置かれた本の表紙へ目を向けた。
「面白かったわ。仕事で通る道にも、知らないことがたくさんあるのね」
「私も、とても勉強になりました。ミレイユさんが気づかれたことを聞いていると、同じ地図でも違う見方ができるのだと分かりました」
シアがそう伝えると、ミレイユは少し照れたように笑った。
「そんなに大したことは言っていないわよ。私の方こそ、シアが市場の場所や人の暮らしを気にしていたのが面白かったわ。普段からお店で働いているから、自然にそういうところへ目が向くのかもしれないわね」
シアは思わず手元の本へ視線を落とした。自分では特別なことを言ったつもりはなかったが、ミレイユはその小さな違いを覚えていてくれたらしい。
「そうかもしれません。以前は、街の中でどこに何があるかを考える機会もあまりありませんでした。でも今は、お客様がどこから来られるのか、どんな道を通ってお店へいらっしゃるのか、少し気になるようになりました」
「それって、街で暮らしている証拠みたいなものじゃないかしら。知らない場所だったところが、少しずつ自分の知っている場所になっていくのって、いいことだと思う」
ミレイユの声は静かだったが、その言葉はシアの胸へゆっくり染み込んでいった。遠い街へ来たばかりの頃は、道を間違えないことや、今日泊まる場所を見つけることばかり考えていた。今では、どの店にどんな人がいるのか、どの通りを歩けば図書館へ着くのか、少しずつ自分の知っていることが増えている。
(私は、ここで暮らしているのですね。ただ身を寄せているのではなく、毎日を重ねながら、この街のことを覚えているのです)
シアはその思いを胸の内で確かめ、窓の外へ目を向けた。見知らぬ人々が行き交う通りも、以前ほど遠い世界には感じられなかった。
その後、二人は別の棚も見て回ることにした。ミレイユは旅の記録が並ぶ区画へ向かい、シアは季節の暮らしや植物に関する本が置かれた棚へ目を向けた。離れた場所へ行く前に、互いに気になる本を見つけたら教え合おうと決め、二人はそれぞれの棚を眺め始めた。
シアが足を止めたのは、家庭で育てる草花についての本が並ぶ場所だった。秋灯草を買ってから、土の湿り気や置き場所を気にするようになったが、まだ知らないことも多い。冬の間に花を傷めないための方法が分かれば、これからの暮らしにも役立つだろう。
何冊か背表紙を確かめたあと、シアは『窓辺で育てる季節の草花』という本を手に取った。頁を開くと、小さな鉢植えの手入れや、日差しが弱くなる季節の水やりについて、分かりやすい説明が載っている。
読み進めていると、ミレイユが旅の記録を一冊抱えて戻ってきた。
「シア、何か見つかった?」
「はい。部屋で育てている花のことを、もう少し知りたいと思いまして。こちらの本を見ていました」
「そういえば、鉢植えを買ったって話していたわね。元気にしている?」
ミレイユは隣へ立ち、本の表紙を覗き込んだ。シアは秋灯草の小さな黄色い花のことや、朝に土を確かめながら水を与えていることを説明した。
「今朝も少し水をあげたところなんです。寒くなってきましたので、窓際に置いたままでよいのか、少し気になっていました」
「それなら、ちょうどよさそうな本ね。私は植物を育てるのが得意とは言えないけれど、冬は窓の近くが冷えやすいから、気をつけた方がいいのかもしれないわ」
「はい。夜は窓から少し離すようにしています。こちらの本にも、同じようなことが書かれていました」
シアが頁を示すと、ミレイユは感心したように頷いた。
「ちゃんと調べているのね。シアの花、きっと大切にしてもらっているんだろうな」
その言葉に、シアは少し頬を赤らめた。花を育てることはまだ始めたばかりで、上手にできているかどうかも分からない。それでも、毎朝様子を確かめる時間が好きになっていることは確かだった。
ミレイユは自分が選んだ旅の記録を見せてくれた。表紙には山あいの街道を描いた絵があり、遠い地域を旅した商人が見聞きした土地の暮らしや食事について書かれているという。
「こういう本を読むと、まだ行ったことのない場所を少し知った気分になれるのよ。もちろん、実際に行ってみたら違うこともあるんでしょうけれど」
「素敵ですね。私も、旅の途中で知らない土地の食べ物をいただいたことがあります。どこでも同じようなものが出てくるわけではなくて、少し驚きました」
シアは言ってから、ほんの少しだけ息を止めた。遠い街へ来るまでの旅のことは話せるが、その旅に出た理由まで説明するつもりはない。ミレイユが不思議に思うだろうかと心配したものの、彼女は自然に話を受け止め、食べ物の違いについて興味を示してくれた。
「そうでしょうね。私は任務でほかの土地へ行くこともあるけれど、同じ名前の料理でも味つけが違うことがあるの。シアは、旅先で食べて気に入ったものってある?」
シアは少し考え、以前立ち寄った宿で出された温かな煮込み料理を思い出した。長い旅の途中、疲れた身体に染み込むような味だったことを話すと、ミレイユは楽しそうに耳を傾けた。
その料理を食べた日の詳しい事情までは話さなかったが、シアは無理に言葉を飾ることなく、覚えている味や香りを伝えることができた。ミレイユも、自分が任務先で食べた少し変わった焼き菓子の話をしてくれたため、二人は本棚の前で笑いをこらえることになった。
「ごめんなさい、図書館なのに、つい話し込んでしまったわね」
ミレイユが声を抑えて笑うと、シアも口元へ手を添えた。
「私もです。でも、とても楽しいです」
その返事を聞いたミレイユは、少しだけ表情を柔らかくした。シアが以前より自然に笑うようになったことには気づいていたが、今日は仕事中ではないせいか、その変化がいっそうはっきりと感じられる。相手の様子を気にして言葉を選ぶところは変わらないものの、楽しんでいることを自分から伝えてくれるようになったのが、彼女には嬉しかった。
◇
昼が近づいた頃、二人は借りる本を決めるため、閲覧机へ戻った。シアは『窓辺で育てる季節の草花』を借りることにし、ミレイユは旅の記録をもう少し読んでから決めたいと言っている。図書館の窓から見える空は朝より明るくなり、薄い雲の間から差し込む光が、机の上へ淡い模様を作っていた。
「シアは、もう一冊借りる予定はあるの?」
「まだ決めていません。今日はこの本だけでも十分だと思っていますが、せっかくなので、もう少し見てから考えようかと」
「そうね。借りられるからって、無理に二冊選ぶ必要はないもの。私も今日は、気になったところを読むだけにしておこうかしら」
ミレイユは旅の記録を閉じ、表紙をそっと撫でた。シアはその様子を見ながら、彼女が本を大切に扱っていることに気づいた。騎士として働いている姿からは想像しにくかった、静かな時間を楽しむ一面を知ることができた気がする。
「ミレイユさんは、普段から本を読まれるのですか?」
「たまにね。仕事の記録や必要な資料を読むことは多いけれど、自分の好きな本をゆっくり読む時間は、いつもあるわけじゃないの。だから今日は、こうして気になる本を探せて嬉しいわ」
ミレイユはそう答え、少し考えてから続けた。
「それに、一人で来たら、きっと自分の興味がある棚しか見なかったと思う。シアと一緒だったから、植物の本も見られたし、昔の街の地図についてもいろいろ話せた。誰かと本を探すのって、思っていた以上に面白いのね」
シアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。自分もまったく同じことを考えていたからだ。
「私もそう思います。一人で来ると、どうしても暮らしに役立ちそうな本を選んでしまうのですが、今日は昔の地図を見ることができました。ミレイユさんが一緒にいてくださったおかげです」
「それなら、お互いによかったってことね」
ミレイユは嬉しそうに笑い、机の上の本を整えた。
その笑顔を見ているうちに、シアはふと、以前の自分ならこうした時間をどう感じただろうかと思った。誰かと一緒にいても、相手が退屈していないか、何か失礼なことを言っていないかと考え続けていたかもしれない。けれど今日は、ミレイユが楽しんでいるかどうかを気にするだけでなく、自分自身も楽しいと感じている。
(私は、ミレイユさんと一緒にいる時間が好きなのですね。何かをして差し上げなければならないからではなく、ただお話しして、一緒に本を見ていることが嬉しいのです)
その気持ちを言葉にしようとして、シアは少し迷った。あまり改まって伝えたら、ミレイユを困らせてしまうだろうか。それでも、今日の楽しさを胸の内にしまっておくだけでは、少しもったいないような気がした。
「……あの、ミレイユさん」
「なあに?」
ミレイユが顔を上げると、シアは手元の本へ一度視線を落とし、それからゆっくり相手を見た。
「今日、ご一緒できて本当に嬉しいです。私はまだ、この街で知らないことがたくさんありますけれど、ミレイユさんと一緒に歩いたり、本を読んだりすると、もっと知りたいと思えるんです」
言葉を重ねるうちに、少しだけ頬が熱くなった。けれど、途中で謝ることはせず、最後まで自分の気持ちを伝えた。
「ですから、また機会がありましたら、こうして一緒に出かけられたら嬉しいです」
ミレイユは一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。すぐに軽い冗談を返すこともできたが、シアが少し緊張しながら話してくれたことが分かったので、彼女もきちんと言葉を選んだ。
「もちろんよ、シア。私も、また一緒に出かけたいと思っていたの。仕事の都合ですぐに予定を決められないこともあるけれど、時間が合うときには、遠慮なく誘ってくれたら嬉しいわ」
その返事に、シアの肩から少しずつ力が抜けた。
「ありがとうございます。私からも、お声をかけてよいのですね」
「当たり前でしょう。私ばかり誘うのも変だもの。シアが行きたい場所を見つけたら、教えてほしいわ」
ミレイユは穏やかに言いながら、机の上に置かれたシアの本へ目を向けた。
「それに、今度はその花の様子も聞かせてね。冬を越したら、どんなふうに育つのか気になるもの」
「はい。大切に育てて、またお話しできるようにしたいです」
シアは笑顔で答えた。今すぐ次の予定を決めなくても、また会いたいと思ってもらえている。その事実が、心の中に小さな灯りをともしたようだった。
◇
図書館を出る前に、シアは選んだ本を受付へ持っていった。貸出記録には登録時の名前である「シア」が記されており、係の人は本の題名と返却期限を確認してから、いつものように丁寧に手続きを進めてくれた。シアは十日間の期限をもう一度確かめ、借りた本を布で包んで袋へ収めた。
ミレイユは今日は本を借りず、気になった旅の記録の題名を小さな紙へ書き留めていた。次に時間ができたとき、続きを読みに来るつもりらしい。
「本を借りなくても、こうして読めるのはありがたいわね。次に来たときは、あの旅の記録をもう少し読んでみようと思う」
「私も、まだ見ていない棚がたくさんあります。また来る楽しみが増えました」
二人は受付の係へ静かに礼を述べ、建物の外へ出た。扉が閉まると、図書館の中では遠くに聞こえていた街の音が、急にはっきりと耳へ届くようになった。通りでは荷車がゆっくり進み、向かいの店からは昼食を用意する香りが漂っている。
ミレイユは空を見上げ、少し眩しそうに目を細めた。
「思ったより長くいたわね。もうお昼だし、よかったら何か食べていかない? シアは午後に用事がある?」
「特に急いで戻る予定はありません。夕方までには帰ろうと思っていますので、少しでしたらご一緒できます」
「それなら、近くに温かいスープを出す店があるの。大きなお店じゃないけれど、落ち着いて話せると思うわ」
シアは少し考え、頷いた。朝食は《麦穂亭》でいただいたが、昼食は自分で用意するつもりだったので、外で食べることにも問題はない。財布の中身を思い浮かべながら、無理のない範囲で楽しもうと決めた。
ミレイユが案内してくれたのは、図書館から少し歩いた通りにある小さな食事処だった。入口の脇には今日の料理を書いた木札が掛かっており、店内からは煮込んだ野菜と焼いた肉の香りが流れてくる。昼の時間帯らしく何組かの客がいたが、奥の窓際には二人で座れる席が空いていた。
店の人に案内され、二人は向かい合って腰を下ろした。木の机には使い込まれた跡が残っているものの、丁寧に拭かれており、窓辺には小さな布飾りが掛けられている。シアは店内を見回し、初めて入る場所でありながら、不思議と落ち着ける雰囲気だと感じた。
「ここは、ときどき同僚と来るの。スープが美味しいし、昼の時間でも急かされないから気に入っているのよ」
「素敵なお店ですね。香りだけでも、とても美味しそうです」
二人は今日の野菜スープとパンを注文した。料理が運ばれてくるまでの間、ミレイユは図書館で見た古い地図の話を続け、シアも気になったことをいくつか伝えた。
やがて深い器に入ったスープが運ばれてくると、白い湯気が二人の間へ立ち上った。人参や根菜が柔らかく煮込まれ、香草の香りがほどよく混じっている。添えられたパンは表面が香ばしく、中はふんわりとしていた。
シアはひと口食べ、思わず表情を和らげた。
「美味しいです。野菜の甘みがしっかり出ていて、身体が温まりますね」
「でしょう? 寒くなると、ここのスープが恋しくなるのよ。任務のあとに食べると、特に美味しく感じるの」
ミレイユは嬉しそうに笑い、自分もスプーンを口へ運んだ。二人は食事を楽しみながら、仕事の話や最近の街の様子について、ゆっくり言葉を交わした。
シアは《麦穂亭》で黒麦パンの店頭販売を休止していることを話した。ミレイユも店のお知らせについては知っていたが、材料の到着日がまだ決まっていないことを聞くと、少し心配そうな表情になった。
「北の道の影響が、まだ続いているのね。街道のことは私たちも気にしているけれど、荷が動くまでにはいろいろな調整が必要だから、簡単にはいかないみたい」
「はい。ですが、ハンスさんが状況を知らせてくださっていますし、マルタさんとオットーさんも、今ある材料でできることを考えていらっしゃいます。私も、少しでもお役に立てればと思っています」
シアはそう答えたあと、昨日オットーへ提案した覚え書きのことを思い出した。黒麦パンを買いに来た客が代わりに選んだパンを記録することになったと話すと、ミレイユは興味深そうに耳を傾けた。
「それはいい考えね。お客さんが何を選ぶか分かれば、次の仕込みを考えるときの参考になるでしょうし」
「ありがとうございます。まだ始めたばかりですので、役に立つかどうかは分かりませんが……」
シアはそこで少し言葉を止め、以前のように自分の考えをすぐ否定しそうになったことに気づいた。ミレイユは急かすことなく待ってくれている。
「……でも、試してみることには意味があると思っています。オットーさんも、そう言ってくださいました」
その言葉を聞いたミレイユは、ゆっくり頷いた。
「うん。私は、そうやって考えているシアの話を聞くのが好きよ。お店のことを大切に思っているのが伝わってくるし、自分で工夫しようとしているのも分かるもの」
シアはスプーンを持つ手を少し止めた。褒められることにはまだ慣れていないが、以前ほど慌てて否定する気持ちは湧かなかった。
「……ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」
ミレイユは満足そうに微笑み、話題を変えるように窓の外へ目を向けた。
「それにしても、今日は天気が持ってよかったわね。朝は少し曇っていたから心配したけれど、帰る頃まで雨は降らなさそう」
「そうですね。図書館へ行く道も歩きやすかったですし、帰りもゆっくり歩けそうです」
二人は食事を終えるまで、仕事の話だけに偏ることなく、図書館で見た本や街の店について話し続けた。シアは初めて訪れた食事処の味を覚えておこうと思い、スープに使われていた香草の香りをもう一度確かめた。
いつか《麦穂亭》の仕事で役立つかもしれないという考えも浮かんだが、すぐにそれだけが理由ではないと思い直した。美味しいものを食べて、誰かと感想を分け合うこと自体が、今の自分にとって大切な楽しみになっている。
◇
食事処を出ると、午後の日差しが通りの石畳を明るく照らしていた。朝よりも人通りが増え、店先では買い物袋を抱えた人々が行き交っている。シアは借りた本の入った袋を持ち直し、ミレイユと並んで中央広場へ向かった。
途中、道の端にある小さな花屋の前を通りかかると、ミレイユが足を止めた。店先には秋の終わりに咲く花や、冬に向けて育てられる小さな鉢植えが並んでいる。シアも思わず目を向け、色とりどりの花を眺めた。
「シアの花も、こんなふうに並んでいたの?」
「はい。私が買ったお店とは違いますけれど、同じように小さな鉢がいくつもありました。どれにしようか迷って、黄色い花を選んだんです」
「黄色、いいわね。部屋の中が明るくなりそう」
ミレイユはそう言って、花の並ぶ棚をゆっくり眺めた。シアは買い物をするつもりはなかったが、花の名前が書かれた札を読みながら、秋灯草以外にもいろいろな種類があることを知った。
そのとき、店の奥から年配の女性が出てきて、二人へ声をかけた。
「よかったら、ゆっくり見ていってくださいね。今日は買わなくても、花を見るだけなら遠慮はいりませんよ」
女性の穏やかな言葉に、シアは少し驚いた。買う予定がないのに店先へ立ち止まってよいのだろうかと考えていたところだったので、その気遣いがありがたかった。
「ありがとうございます。とても綺麗ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいですよ。寒くなると花の種類は少し変わりますけれど、その季節にしか楽しめないものもありますからね」
女性はそう話しながら、鉢の位置を整えた。シアは花を傷めないよう距離を保ち、ミレイユと一緒にしばらく眺めてから、礼を述べて店を離れた。
通りへ戻ると、ミレイユが楽しそうに笑った。
「シアと歩いていると、普段は通り過ぎるお店にも目が向くわね。花屋の前でこんなに長く立ち止まったのは、久しぶりかもしれない」
「私も、以前なら気づかなかったと思います。部屋に花を置くようになってから、街で見かける花も気になるようになりました」
「好きなものが増えると、街の見え方まで変わるのね」
ミレイユの言葉に、シアは頷いた。図書館で見た古い地図も、花屋の店先も、以前なら何気なく通り過ぎていたものだった。今は、そこに立ち止まって何かを知りたいと思える。
その変化を、誰かと分け合えることが嬉しかった。
中央広場へ戻る頃には、午後の鐘が鳴っていた。噴水の周囲には朝より多くの人が集まり、子どもたちが水面を覗き込んでいる。シアはその様子を眺めながら、そろそろ《麦穂亭》へ戻る時間だと考えた。
「今日は、本当にありがとうございました」
シアが足を止めて頭を下げると、ミレイユは少し困ったように笑った。
「こちらこそ、ありがとう。そんなに改まらなくてもいいのよ。私だって、とても楽しかったんだから」
「はい。私もです。図書館で本を見たり、お昼をご一緒したり……今日は、たくさん楽しいことがありました」
シアはそう答え、手に持った袋へ目を向けた。中には新しく借りた本が一冊入っているが、今日持ち帰るものはそれだけではないような気がした。
ミレイユはシアの表情を見つめ、少し考えてから口を開いた。
「シア、また図書館へ行きましょうね。今度は別の棚を見てもいいし、今日読んだ本の続きを探してもいいわ。もちろん、ほかに行きたい場所があったら、そちらでも」
「はい。ぜひ、ご一緒したいです」
シアは迷わず答えた。次の予定はまだ決まっていないが、それでも構わなかった。互いに都合のよい日を見つけて、また会うことができればよいのだ。
「それじゃあ、今日はここで。またね、シア」
「はい。ミレイユさんも、お気をつけてお帰りください」
ミレイユは片手を軽く上げ、人の流れに沿って歩き出した。シアはその背中を見送り、姿が見えなくなってから、ゆっくり《麦穂亭》へ向かう道へ足を進めた。
歩きながら、今日の会話を思い返す。古い地図を見て驚いたこと、旅の記録について話したこと、温かなスープを食べたこと、花屋の前で立ち止まったこと。どれも大きな事件ではなかったが、ひとつひとつが心に残っている。
(今日は、誰かのために何かをしなければと考えずに過ごせました。それなのに、こんなに満たされた気持ちになるのですね)
シアは少しだけ歩く速度を緩め、街の景色を眺めた。通りの向こうには、夕方へ向けて準備を始める店々が並んでいる。遠い街へ来たばかりの頃には知らなかった場所が、今では帰る道の目印になっていた。
◇
《麦穂亭》へ戻ると、店頭ではマルタが残りのパンを整理していた。夕方の客足が落ち着き始めたところらしく、棚には丸パンと胡桃パンが少し残っている。黒麦パンの棚には、今朝と変わらず店頭販売休止のお知らせが置かれていた。
「ただいま戻りました」
シアが扉を開けて声をかけると、マルタは顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「おかえり、シア。どうだった? ミレイユさんと、楽しく過ごせたかい?」
「はい。とても楽しかったです。図書館で昔の街の地図を見たり、草花の本を探したりしました。それから、ミレイユさんに教えていただいたお店で、お昼もご一緒したんです」
シアは話し始めてから、自分が思った以上に弾んだ声を出していることに気づいた。けれどマルタは笑うこともなく、楽しそうに耳を傾けてくれている。
「それはよかったねえ。いい本は見つかったかい?」
「はい。部屋の秋灯草を育てる参考になりそうな本を借りてきました。冬の間の置き場所や水やりについても書かれているようなので、これから読むのが楽しみです」
「なるほどね。あの花も、シアに大切にしてもらえて幸せだろうね」
マルタはそう言いながら、店の奥へ目を向けた。厨房からはオットーが片づけを進める音が聞こえている。
「今日は店のことを気にせず楽しめたみたいで、安心したよ。夕食まで少し時間があるから、部屋で休んでおいで」
シアは一瞬、棚の残りを数えようかと考えた。しかし、マルタが穏やかな表情でこちらを見ていることに気づき、今日は休みなのだと思い直した。
「ありがとうございます。それでは、少し部屋で本を読ませていただきます」
「ああ、そうしておいで。夕食の準備ができたら声をかけるからね」
シアは礼を述べ、階段を上がった。
自室へ戻ると、窓から差し込む午後の光が机の上を明るく照らしていた。朝に水を与えた秋灯草は、黄色い花を変わらず咲かせている。シアは袋から新しい本を取り出し、机の上へ置いた。
表紙には、小さな窓辺に並んだ鉢植えの絵が描かれていた。頁を開くと、季節ごとの手入れについて丁寧な説明があり、秋灯草に似た花の育て方も載っている。シアは椅子へ腰を下ろし、ゆっくり読み始めた。
読み進めるうちに、図書館でミレイユと交わした会話が思い出された。古い地図を見ていたときの真剣な表情や、食事処で笑いながら話してくれた仕事のこと。普段は騎士として働いている彼女にも、自分と同じように本を楽しみ、温かな食事を味わい、街を歩く時間があるのだと知れたことが嬉しかった。
シアは本を閉じ、机の引き出しから小さな帳面を取り出した。今日の出来事を書き留めようと思ったのだが、いざ筆を持つと、何から書けばよいのか少し迷ってしまう。楽しかったことが多すぎて、ひとつだけ選ぶのが難しかった。
しばらく考えたあと、シアはゆっくり文字を書き始めた。
『今日はミレイユさんと図書館へ行った。昔の街の地図を見て、知らないことをたくさん教えていただいた。私も自分が気づいたことを話すことができて、とても楽しかった』
そこで一度筆を止め、窓の外へ目を向けた。遠くから鐘の音が聞こえ、通りを歩く人々の声が薄く届いている。
シアはもう一度帳面へ視線を戻し、続きを書いた。
『また一緒に出かけたいと伝えたら、ミレイユさんも同じように思ってくださっていた。次の約束はまだ決まっていないけれど、それが嬉しい』
書き終えた文字を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
以前の自分なら、誰かにまた会いたいと思っても、その気持ちを口にすることは難しかっただろう。相手の都合を考え、迷惑になるかもしれないと思い、自分から誘うことをためらっていたはずだ。
けれど今日は、ミレイユへ自分の希望を伝えることができた。彼女も嬉しそうに応えてくれたからこそ、その言葉が無理に言わせたものではないと感じられる。
(友達というのは、こういうものなのでしょうか。何かをしてもらうためでも、役に立つためでもなく、一緒に過ごす時間が嬉しいと思えること……)
シアはそっと胸元のペンダントへ触れた。母が生きていた頃、自分にもこうした穏やかな時間があったのだろうかと考えかけたが、すぐに答えを探すことはしなかった。今は、今日の楽しさをそのまま大切にしておきたかった。
階下から、マルタが夕食の準備を始める音が聞こえてきた。シアは帳面を閉じ、借りた本を机の端へ丁寧に置いた。
明日になれば、また《麦穂亭》の仕事が始まる。黒麦粉の入荷日はまだ分からず、店頭販売を再開できるかどうかも決まっていない。けれど、そのことを今夜まで抱え込む必要はないのだと、今日は自然に思えた。
シアは窓の外へ目を向け、ゆっくりと息を吐いた。
遠い街へ来てから、自分の暮らしには少しずつ新しいものが増えている。働く場所、安心して帰れる部屋、育てている花、読みたい本、そしてまた会いたいと思える友達。
そのひとつひとつを、誰かに与えられた役割としてではなく、自分で選びながら大切にしていきたい。
シアはそう思いながら椅子を立ち、夕食のために階下へ向かった。廊下には温かな料理の香りが漂っており、下から聞こえるマルタとオットーの話し声が、今日も変わらず彼女を迎えてくれていた。




