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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第55話 守りたい約束と、初めて伝えた私の考え


夜明け前の《麦穂亭》には、まだ客の声も荷車の賑わいも届いていなかった。厨房の奥で薪が爆ぜる音だけが静かに響き、窯の近くに置かれた木箱の影が、揺れる火の明かりに合わせて床の上を伸び縮みしている。外は前日よりも冷え込んでいるらしく、閉め切った窓の隙間から伝わる空気にも、冬が近づいていることを感じさせる冷たさがあった。


シアが階段を下りると、オットーはすでに作業台へ粉を広げ、マルタはその横で朝の仕込みに使う道具を揃えていた。二人の動きには長年一緒に働いてきた者同士の慣れがあり、声をかけなくても必要なものが自然に手渡されている。


「おはようございます。今日もよろしくお願いいたします」


「おはよう、シア。よく眠れたかい?」


マルタは布巾を畳む手を止め、いつもの穏やかな笑顔を向けた。シアが毛布のおかげで暖かく眠れたことを伝えると、彼女は満足そうに頷いた。


「それならよかったよ。今朝は随分冷えるからねえ。お湯を少し多めに沸かしてあるから、手を温めてから仕事を始めてもいいんだよ」


「ありがとうございます。先に手を洗って、それから準備をお手伝いいたしますね」


シアは水場へ向かい、冷たい水で手を洗ったあと、用意されていた温かな湯を少し使わせてもらった。指先の強張りが和らぐにつれて、朝の眠気もゆっくり消えていく。


作業台へ戻ると、オットーが黒麦粉の袋を確かめていた。


袋の口は丁寧に閉じられているものの、中身が以前より減っていることは、外から見ても分かった。昨日、ハンス・ロイヴェンが届けてくれた知らせによれば、北側街道の補修は進んでいるが、黒麦粉を積んだ荷がいつ到着するかはまだ決まっていない。


発注した数量に変更はない。荷が失われたという連絡もない。


しかし、材料が確実に届く日を約束できない以上、今ある粉をどう使うかは、店にとって重要な問題だった。


「シア、昨日まとめてくれた一覧を出してもらえるか」


「はい。こちらにございます」


シアは棚から予約帳と確認用の一覧を取り出し、作業台の端へ並べた。正式な記録である予約帳には、これまで受けた注文と変更の経緯が残されている。一方、確認用の一覧には、黒麦パンを含む予約だけを受け渡し日の順番に整理してあった。


オットーは一覧を見ながら、粉の残量と今日の仕込みに必要な分を確かめた。


「今日の予約分は問題ない。明日の分も、今の計算なら予定どおり焼ける。ただ、その先は荷の到着次第だな」


マルタは予約帳へ目を落とし、少し考え込んだ。


「《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》には、もし変更が必要になりそうなら早めに知らせたいね。向こうだって、お客さんの食事を用意する都合があるだろうし」


「そうだな。ただ、まだ変更が必要だと決まったわけじゃない。こちらから慌てて話を持ちかけるのも違うだろう」


二人の会話を聞きながら、シアは一覧の余白へ視線を向けた。


そこには、昨日自分が書き加えた確認事項が残っている。受け渡し日、必要数、材料の確認が必要になる時期。どれも、判断を助けるための記録であり、店主の代わりに結論を出すためのものではなかった。


(今の段階でできるのは、必要なことを見落とさないようにすることですね。まだ決まっていないことまで、決めたように扱ってはいけません)


シアはそう考え、二人が話し終えるのを待った。


やがてオットーが顔を上げた。


「今日は《銀鹿亭》の人が予約分を取りに来るはずだ。そのとき、こちらから事情を伝えるかどうか、マルタと相談しておこう」


「そうだね。何も言わずにいるより、今分かっている範囲を知らせておく方がいいかもしれない。ただし、今ある予約を勝手に変える話ではないことは、はっきりさせないとね」


マルタがそう答えると、シアは静かに頷いた。


「必要でしたら、これまでのご注文内容をすぐ確認できるようにしておきます」


「頼むよ。シアが整理してくれたおかげで、私たちも話がしやすくなったからね」


その言葉に、シアは少し照れくさくなった。


自分が書いたものを、誰かが必要としてくれる。


以前は当たり前のように任され、間違えれば責められるだけだった仕事が、ここでは少し違う意味を持っている。帳面を整えることも、数字を確かめることも、誰かに認めてもらうためではなく、店を支えるために行っているのだと感じられた。


シアは予約帳を閉じ、朝の仕込みへ戻った。


窯の中では丸パンが焼き上がり始め、香ばしい匂いが厨房へ広がっている。


今日も《麦穂亭》の一日が始まろうとしていた。


◇


開店してからしばらくは、いつもと変わらない朝の忙しさが続いた。


仕事へ向かう職人が丸パンを買い、子どもを連れた女性が胡桃パンを選び、年配の夫婦が昼食用に小さな白パンをいくつか包んでほしいと頼んだ。シアは注文を確かめながら、焼きたてのパンを一つずつ包み、代金を受け取って売上帳へ記録していく。


黒麦パンの棚には、昨日までと同じお知らせが置かれていた。


入口の内側に固定した紙は、客が扉を開ける前から読める位置にある。そのため、店へ入ってすぐに事情を尋ねる人は少し減っていたが、黒麦パンを目当てに訪れる人がいなくなったわけではない。


朝の混雑が落ち着き始めた頃、一人の年配の男性が店へ入ってきた。


背筋は少し曲がっていたが、歩き方はしっかりしている。落ち着いた色の外套を羽織り、片手には使い込まれた買い物袋を提げていた。


「おはよう、シアさん」


「おはようございます、ハロルドさん」


シアは顔を上げ、自然に微笑んだ。


ハロルドは黒麦パンを好んで買いに来る常連客だった。材料の入荷が遅れ始めてからも店を気にかけてくれており、先日も《麦穂亭》には長く続いてほしいと話してくれた。


彼は入口のお知らせを一度眺め、空いた棚へ目を向けた。


「まだ黒麦パンはお休みなんだね」


「はい。昨日、仕入れ先の方から新しい知らせはいただいたのですが、材料の到着日はまだ決まっておりません」


「そうかい。道の補修が進んでいるなら、そのうち荷も動くだろうけれど、いつになるかは分からないものな」


ハロルドは残念そうにしながらも、不満を口にすることはなかった。


代わりに、棚に並ぶ丸パンへ視線を移す。


「今日は丸パンを二ついただこうかな。黒麦パンとは違うけれど、ここの丸パンも好きなんだ」


「ありがとうございます。ちょうど焼き上がったものがございますので、そちらをお包みいたしますね」


シアが包みを用意していると、ハロルドは店内をゆっくり見回した。


「黒麦パンの棚が空いていると、少し寂しいね。でも、こうしてほかのパンが並んでいるのを見ると、いつもの店だと思えるよ」


その言葉に、シアは手を止めかけた。


空いた棚ばかり気にしていた自分には、思いつかなかった見方だった。


「……ありがとうございます。私も、いつものようにお客様をお迎えできることが嬉しいです」


「そうだろうね。店は、何か一つがなくなっただけで全部なくなるわけじゃないから」


ハロルドは穏やかに笑い、代金を支払った。


シアは包みを渡しながら、その言葉を胸の中で繰り返した。


何か一つがなくなっても、すべてがなくなるわけではない。


その考え方は、パン屋のことだけではなく、自分自身の暮らしにも重なる気がした。


家族と婚約者を失ったとき、シアは自分の人生まで終わってしまったように感じていた。けれど、遠い街へ来て、働く場所を見つけ、少しずつ知り合いが増えた今は、失ったものだけが自分のすべてではなかったのだと思える。


(あの家を出たときには、こんなふうに誰かと笑って話せる日が来るなんて、考えられませんでした)


シアは胸元のペンダントへ触れそうになり、仕事中であることを思い出して手を戻した。


ハロルドは包みを受け取り、入口へ向かう前に振り返った。


「黒麦パンが戻ったら、また買いに来るよ。それまでは、ほかのパンを楽しませてもらおうかな」


「はい。いつでもお待ちしております」


シアが頭を下げると、ハロルドは満足そうに頷いて店を出ていった。


扉の鈴が静かに鳴り、朝の冷たい空気が一瞬だけ店内へ入り込む。


シアはその音を聞きながら、空いた棚を見つめた。


そこに黒麦パンが戻る日を、まだ約束することはできない。


けれど、戻るまでの間も、店を訪れてくれる人がいる。


そのことが、今朝はいつも以上にありがたく感じられた。


◇


昼前になると、《銀鹿亭》から予約分のパンを受け取りに来た男性が店へ入ってきた。


男性は以前にも何度か顔を合わせたことのある宿の使いで、今日は厚手の上着を着て、肩から大きな布袋を提げている。店内へ入ると、いつものようにマルタへ挨拶をした。


「こんにちは。今日の予約分を受け取りに来ました」


「こんにちは。いつもありがとうございます。少々お待ちくださいね」


マルタはそう答え、シアへ目配せをした。


シアは予約帳を開き、受け渡し先と数量を確かめた。厨房ではオットーがすでに注文分を分けており、渡す準備は整っている。


「《銀鹿亭》様の本日のご予約分、帳面と照らし合わせて確認いたしました」


「ありがとう、シア。では、こちらへ持ってきてもらえるかい」


「はい」


シアは包みを運び、マルタと一緒に数量を確認した。


男性は受け取ったパンを袋へ収めながら、入口のお知らせへ目を向けた。


「黒麦パンの店頭販売、まだ休んでいるんですね」


「ええ。材料の入荷が遅れていましてね。昨日、仕入れ先から連絡はあったんですが、まだ到着日は決まっていないんです」


マルタが説明すると、男性は少し心配そうに眉を寄せた。


「宿でも話題になっていますよ。北の道を使って来るお客さんが、予定より遅れて到着することもありますから」


「そうなんですね。宿の方も大変でしょう」


「ええ。うちは食事の準備もありますから、材料がいつ届くか分からないのは困りますね」


男性はそう言いながら、受け取った袋の口を整えた。


シアは二人の会話を聞き、昨日整理した予約一覧のことを思い出した。


《銀鹿亭》にも、今後の黒麦パンの予約がある。今日の分は予定どおり渡せたが、材料の到着がさらに遅れれば、その先について相談が必要になるかもしれない。


ただし、まだ変更が必要と決まったわけではない。


シアは自分から話を進めることはせず、マルタの判断を待った。


マルタは少し考えたあと、男性へ穏やかに声をかけた。


「実は、今後の黒麦パンのご予約についても、材料の状況を見ながら確認しているところなんです。今すぐ変更をお願いする段階ではないんですが、もし入荷が遅れ続けるようなら、早めにご相談させていただくかもしれません」


男性は真剣な表情で頷いた。


「なるほど。では、そのことは宿の主人にも伝えておきます。こちらも、急に変更になると準備が難しいので、早めに知らせてもらえると助かります」


「もちろんです。何か決まりましたら、こちらからご連絡いたします」


マルタはそう答えた。


男性は少し安心したように表情を和らげたが、そこでふと思い出したように尋ねた。


「もし黒麦パンが用意できなくなった場合、丸パンに変えてもらうことはできますか?」


その言葉に、シアは帳面へ目を向けた。


以前、《銀鹿亭》から追加の黒麦パンを求められた際、材料の都合で引き受けられず、宿側が確認したうえで丸パンへ注文を変更したことがあった。


けれど、今回の話はそれとは違う。


すでに受けている予約について、今後変更が必要になった場合の相談だった。


マルタもその違いを理解しているようで、すぐには返事をしなかった。


「丸パンへの変更ができるかどうかは、その日の仕込みやほかの予約にもよりますね。今ここで必ずできるとはお約束できないんです」


「そうですよね。分かりました。では、必要になったときに改めて相談させてください」


「ええ。そのときは、こちらもできる限り考えます」


男性は納得した様子で頷き、パンの袋を持ち上げた。


シアはその様子を見ながら、以前よりも落ち着いて話を聞けている自分に気づいた。


できるかどうか分からないことを、無理に引き受けなくてもいい。


相手の事情を理解しながら、店の事情もきちんと伝える。


それは、ここで働き始めてから何度も教わってきたことだった。


男性が帰ったあと、マルタはシアへ向き直った。


「今の話、帳面に残しておこうか。ただし、注文が変更されたわけじゃないから、その点は分かるようにしておいてね」


「はい。『今後、材料不足が生じた場合は相談の可能性あり。現時点で予約内容の変更なし』と記録しておきます」


「うん。それでいいと思うよ」


シアは帳面を開き、マルタの確認を受けながら記録を残した。


文字を書き終えると、胸の奥に小さな達成感が生まれた。


大きな問題を解決したわけではない。


それでも、後から誰かが困らないように、今分かっていることを正しく残せた。


その積み重ねが、店の仕事を支えているのだと感じられた。


◇


午後の客足が落ち着いた頃、シアは厨房の作業台で、今日の予約に関する記録を整理していた。


マルタは店頭に立ち、オットーは翌日の仕込みについて考えながら、粉の残量を確認している。


窓から差し込む光は弱く、外の通りには薄い雲の影が落ちていた。昼を過ぎても気温はあまり上がらず、厨房の窯から伝わる暖かさが心地よく感じられる。


シアは予約帳を閉じる前に、今日《銀鹿亭》の使いと交わした話をもう一度読み返した。


注文の変更はない。


材料の到着日は未確定。


必要になった場合は、店主から早めに相談する。


それぞれの内容が混同されていないことを確かめ、帳面を棚へ戻そうとしたとき、オットーが声をかけた。


「シア、少しいいか」


「はい。何でしょうか」


オットーは作業台の上へ小さな紙を置いた。


「今ある黒麦粉の量と、これから必要になる分をもう一度計算していたんだが、明日以降の仕込みについて、少し考えたいことがある」


シアは紙へ目を向けた。


そこには、オットーが自分で書いた数字が並んでいる。細かな計算の内容まではすぐに分からなかったが、予約分を守るために、どの程度の粉が必要になるかを整理していることは理解できた。


「今すぐ困るわけじゃない。ただ、荷が遅れ続けた場合に備えて、できることを考えておきたいんだ」


「はい」


「黒麦パンを店頭に出さない分、ほかのパンを少し増やすことも考えられる。ただ、単純に数を増やせばいいというものでもないからな」


オットーはそう言って、窯の方へ視線を向けた。


「焼ける量には限りがあるし、ほかの材料にも都合がある。客が何を求めているかも考えないといけない」


シアは静かに頷いた。


確かに、黒麦パンがないからといって、丸パンを大量に焼けばよいわけではない。売れ残ってしまえば材料が無駄になるし、ほかのパンの仕込みにも影響する。


しばらく考えたあと、シアは口を開いた。


「……オットーさん。ひとつ、私からも考えをお伝えしてよろしいでしょうか」


「ああ。聞かせてくれ」


シアは少し緊張しながら、言葉を選んだ。


「黒麦パンを買いに来られたお客様の中には、丸パンを選ばれる方もいらっしゃいますが、胡桃パンを選ばれる方もいらっしゃいます。ですので、黒麦パンの代わりに何を増やすかは、もう少し様子を見てから決めてもよいのではないでしょうか」


オットーは黙って聞いていた。


シアは続けた。


「もしよろしければ、黒麦パンをお求めになったお客様が、代わりに何を買われたかを、しばらく記録してみたいと思います。もちろん、すべてのお客様について分かるわけではありませんが、何か参考になるかもしれません」


言い終えたあと、シアは少しだけ息を詰めた。


自分の考えを伝えることには、まだ慣れていない。


相手の判断を否定したいわけではないし、余計なことを言ったと思われたくもなかった。


けれど、オットーはすぐに否定することなく、しばらく考え込んだ。


「なるほど。確かに、俺は丸パンを増やすことばかり考えていたな」


その言葉に、シアは顔を上げた。


「いえ、丸パンを選ばれる方も多いので、間違っているということでは……」


「分かってる。お前さんは、ほかの可能性も見ておいた方がいいと言ってくれたんだろう?」


オットーは穏やかに笑った。


「それなら、試してみる価値はある。どうせ今は黒麦パンを店頭に出せないんだ。客がどんなパンを選んでいるか、少し見てみよう」


シアの胸が、じんわりと温かくなった。


「ありがとうございます。では、売上帳とは別に、簡単な覚え書きを作ってみますね」


「ああ。ただし、客に無理に聞く必要はないぞ。自然に分かる範囲で十分だ」


「はい。承知しました」


オットーは満足そうに頷き、再び粉の袋へ目を向けた。


シアは作業台の端に置いた紙を取り、記録の形を考え始めた。


そのとき、胸の奥に小さな喜びが広がっていることに気づいた。


(私の考えを、聞いていただけた……)


以前の自分なら、相手が考えていることに意見を添えるなど、恐ろしくてできなかっただろう。


間違っていたら責められる。


余計なことを言えば、立場をわきまえていないと思われる。


そんな不安が、いつも先に立っていた。


けれど、ここでは違う。


オットーはシアの言葉を聞き、その内容を考え、必要だと思えば取り入れてくれる。


それは、彼女にとってまだ新鮮な経験だった。


シアは紙の上へ、丁寧に文字を書き始めた。


黒麦パンを希望した客が、別のパンを選んだ場合の記録。


ただし、客の名前や細かな事情までは必要ない。何を選んだか、どの程度の数だったか、分かる範囲で残せば十分だろう。


書き終えると、シアはオットーへ見せた。


「このような形でいかがでしょうか」


オットーは紙を受け取り、ゆっくり目を通した。


「うん。これなら簡単に書けそうだな。マルタにも見せておこう」


「はい。お願いいたします」


シアは頷き、少しだけ肩の力を抜いた。


大きな決断をしたわけではない。


それでも、自分から考えを伝えられたことが、今日は何より嬉しかった。


◇


夕方、店じまいの時間が近づく頃には、空の雲が少し薄くなっていた。


シアは入口の看板を取り込み、棚の残りを数え、売上帳を整理した。黒麦パンの店頭販売は今日も行わなかったが、予約分は予定どおり渡し終えている。


マルタは帳面を確認し、静かに頷いた。


「今日もありがとう、シア。宿の方とも話ができたし、今後のことを考える材料も少し増えたね」


「はい。まだ分からないことは多いですが、今できることは整理できたと思います」


「そうだね。焦って決めなくてもいいことは、焦らずに考えればいいんだよ」


マルタはそう言って、シアが作った新しい覚え書きへ目を向けた。


「それにしても、これを考えたのはシアなんだってね。オットーが感心していたよ」


シアは思わず頬を赤らめた。


「いえ、そんな……。お客様が何を選ばれるか、少し気になっただけなんです」


「その『気になった』ことを、ちゃんと言葉にしてくれるのが嬉しいんだよ」


マルタは穏やかに微笑んだ。


「私たちだって、いつも正しいことばかり思いつくわけじゃない。だから、気づいたことがあったら、これからも遠慮なく話しておくれ」


その言葉に、シアは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……はい。ありがとうございます」


声が少し震えたことに気づき、シアは小さく息を整えた。


マルタはそれ以上何も言わず、いつものように片づけを続けた。


その自然な態度が、シアにはありがたかった。


自分の感情を無理に説明しなくてもいい。


嬉しいときに、嬉しいと感じていていい。


ここでは、そんな当たり前のことを少しずつ覚えていける。


片づけを終えると、オットーが温かなスープを用意してくれた。三人で食卓を囲みながら、今日の客のことや、明日以降の仕込みについて話す。


その途中、マルタがふと思い出したように声をかけた。


「そういえば、シア。ミレイユさんとの図書館の約束、もうすぐだったね」


「はい。とても楽しみにしています」


シアは自然に笑顔になった。


「どんな本を一緒に見ようか、少し考えているところなんです。ミレイユさんは旅の話や、昔の街の様子が分かる本に興味があるとおっしゃっていました」


「それなら、図書館にはいろいろありそうだね。シアも、普段は手に取らない本を見つけられるかもしれないよ」


「そうですね。私も、それが楽しみです」


オットーは二人の会話を聞きながら、穏やかに笑った。


「休みの日は、仕事のことを忘れて楽しんでおいで。黒麦粉のことは、俺たちが考えるからな」


その言葉に、シアは少しだけ目を見開いた。


「でも、もしその日に何かあったら……」


「そのときは、そのときだ。休みの日まで店の心配をしていたら、休んだことにならんだろう」


オットーはそう言って、スープの器を置いた。


「シアが普段きちんと働いてくれているのは分かっている。だから、休みの日くらいは自分の好きなことをしてくれ」


シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……ありがとうございます。では、その日はミレイユさんと、ゆっくり図書館を楽しんできます」


「ああ。それがいい」


オットーは満足そうに頷き、マルタも嬉しそうに微笑んだ。


仕事のことを考えなくてもいい日がある。


そのことを、シアは少しずつ自然に受け入れられるようになっていた。


◇


自室へ戻ると、窓の外には夜の街の灯りが広がっていた。


シアは上着を脱いで丁寧に畳み、机の上に置いた秋灯草の鉢を確かめた。土の表面は少し乾いていたが、まだ内側には湿り気が残っている。


水を足すのは明日以降にしようと決め、鉢を窓から離した位置へ移した。


寝台には、マルタから借りた厚手の毛布が整えられている。シアはその柔らかな布へ一度だけ触れ、机の椅子へ腰を下ろした。


帳面を開き、今日の出来事を書き留める。


《銀鹿亭》の使いへ、今後の予約について必要になれば相談する可能性を伝えたこと。


現時点で注文の変更はないこと。


そして、黒麦パンを買いに来た客が、代わりにどのパンを選んだかを記録してみることになったこと。


シアは筆を置き、しばらく文字を見つめた。


今日の出来事を振り返ると、嬉しかったことがいくつも思い浮かんだ。


ハロルドが、黒麦パンがなくても《麦穂亭》を訪れてくれたこと。


マルタが、客との約束を守るために慎重に話を進めてくれたこと。


オットーが、自分の提案を聞いてくれたこと。


どれも、以前の自分には当たり前ではなかった。


(私は、少しずつ変われているのでしょうか)


そう考えたあと、シアは小さく首を振った。


変われているかどうかを、今すぐ答えにする必要はない。


ただ、今日の自分が昨日までとは少し違うことを、確かに感じている。


シアは帳面の端へ、短い言葉を書き加えた。


『気づいたことを、自分の言葉で伝えられた』


書き終えると、胸の奥がじんわりと温かくなった。


それから、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』を手に取った。


頁を開くと、冬の衣服の手入れについて書かれた部分が目に入る。先日買った手袋や靴下を長く使うためにも、こうした知識は役に立ちそうだった。


読み進めながら、シアはふとミレイユとの約束を思い出した。


中央広場の噴水の近くで、朝十時に待ち合わせる。


図書館へ向かう道を一緒に歩き、互いに気になる本を探す。


それだけの予定なのに、考えるたびに胸が温かくなる。


(ミレイユさんと一緒なら、普段は手に取らない本にも出会えるかもしれませんね)


シアは小さく微笑み、栞を挟んで本を閉じた。


窓の外では、冷たい風が静かに吹いている。


明日も黒麦粉が届くかどうかは分からない。店の仕事も、まだ考えなければならないことがある。


それでも、今夜のシアは、不安だけを抱えて眠るわけではなかった。


今日できたことを思い返し、明日へ持ち越すことを整理し、少し先の楽しみを胸に置いておく。


それだけで、夜の静けさは以前よりずっと穏やかなものに感じられた。


シアは銀のペンダントへそっと触れ、机の灯りを消した。


寝台へ入ると、厚手の毛布が身体を柔らかく包み込む。窓の外の風の音を聞きながら、シアはゆっくりと目を閉じた。


明日もまた、店の扉を開ける。


届かない荷を待ちながら、それでも今日できることを続けていけばいい。


そして、約束の日が来たら、ミレイユと一緒に図書館へ行こう。


そんな穏やかな思いを胸に抱きながら、シアは静かに眠りへ落ちていった。


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