第54話 届いた知らせと、まだ決められないこと
朝の空気には、前日までとは違う湿り気が含まれていた。シアが目を覚まして窓の外を確かめると、通りの向こうにある建物の屋根が薄い霧に包まれ、石畳には夜の間に降ったらしい雨の跡が残っている。空は明るくなり始めていたものの、雲の切れ間は見えず、遠くを通る荷車の車輪が濡れた道を踏む音だけが、いつもよりはっきりと聞こえていた。
寝台の上には、マルタから借りた厚手の毛布が掛かっている。昨夜もそのおかげで暖かく眠ることができ、朝の冷え込みに身体を強張らせずに済んだ。シアは毛布を丁寧に畳み、寝台の端へ整えてから、机の上に置いた秋灯草へ目を向けた。
黄色い小さな花は、薄暗い部屋の中でも変わらず咲いている。鉢の土を指先で確かめると、表面は昨日より少し乾いていたが、まだ内側には湿り気が残っていた。シアは水差しを手に取る代わりに、鉢の向きを少し変え、窓から離した位置に置き直した。
(今朝は日差しが弱いですし、慌てて水を足さない方がよさそうですね。晴れた日に、また様子を見ましょう)
机には、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』と、昨日までの出来事を書き留めた帳面が並んでいる。次の休みにはミレイユと図書館へ行く約束があり、中央広場の噴水の近くで朝十時に待ち合わせることになっていた。
その予定を思い出すと、自然と口元が緩む。けれど、今日はまだ仕事の日だ。シアは衣服を整え、銀のペンダントを胸元へ収めると、髪を結び直して階段へ向かった。
階下からは、薪が燃える音と、作業台の上で生地を扱う乾いた音が聞こえている。厨房へ入ると、オットーはすでに窯の準備を始めており、マルタは予約帳を開いて今日の注文を確認していた。
「おはようございます。今日もよろしくお願いいたします」
「おはよう、シア。今朝は少し霧が出ているねえ。階段は冷えていなかったかい?」
「はい、大丈夫でした。昨夜も毛布のおかげで暖かく眠れました。ありがとうございます」
シアが礼を言うと、マルタは嬉しそうに微笑んだ。
「それならよかったよ。朝晩はもう、すっかり冬の手前みたいな寒さだからね。無理をしないようにおくれ」
その言葉に頷きながら、シアは手を洗い、清潔な布で水気を拭き取った。作業台の端には、昨日作った黒麦パンの予約確認用一覧が置かれている。
オットーはシアが近づくと、一覧へ目を向けた。
「シア、今日もこれを使わせてもらうぞ。昨日の夜にもう一度見たが、やっぱり分かりやすい」
「ありがとうございます。もし使いにくいところがありましたら、直しますので教えてください」
「ああ。ただ、今のところはこのままで十分だ。今日は昨日より少し仕込みが多いから、予約分を間違えないように頼む」
「はい。承知しました」
シアは予約帳を開き、今日の受け渡し先と数量を一つずつ確かめた。黒麦パンの店頭販売は昨日から休止しているため、今日も予約分だけを焼くことになっている。
丸パンや胡桃パン、蜂蜜パンなどは通常どおり用意できるものの、黒麦パンの棚には引き続きお知らせを置く予定だった。
マルタは入口の掲示を確かめながら、シアへ声をかけた。
「昨日のお知らせ、あのまま使えそうだね。雨で湿っていないか心配だったけれど、内側へ移しておいて正解だったよ」
「はい。文字も読みにくくなっていないようです」
「今日は少し天気が悪いから、外から入ってきたお客さんが滑らないように、入口の床も気をつけて見ておこうか」
「そうですね。濡れた靴で入られる方もいらっしゃると思いますので、布を用意しておきます」
シアはそう答え、入口の近くへ清潔な布を置いた。雨が降り続いているわけではないが、石畳はまだ濡れている。店内の床が滑りやすくならないよう、客の出入りに合わせて確かめる必要がありそうだった。
準備を進めていると、オットーが窯から最初の丸パンを取り出した。焼きたての香りが厨房へ広がり、冷えた朝の空気を少しずつ和らげていく。
シアは籠を用意し、パンを並べながら、今日も《麦穂亭》の一日が始まることを感じていた。
◇
開店して間もなく、店には朝食用のパンを求める客が続いた。
濡れた外套の裾を払う職人、仕事へ向かう前に丸パンを買う若い男性、家族の分をまとめて包んでほしいと頼む女性。入口の床には少しずつ水滴が落ちたが、シアは客足が途切れたところで布を使い、滑りやすくならないよう整えた。
黒麦パンのお知らせを読んで、残念そうに棚を眺める人もいた。
「まだ材料が届かないのかい?」
年配の男性が、入口の掲示へ目を向けながら尋ねた。シアは丁寧に頭を下げ、現在も到着日が確定していないことを説明した。
「はい。ご不便をおかけしております。すでにお受けしているご予約を優先してお作りしておりますので、店頭販売は引き続きお休みしております」
「そうか。北の道が傷んだって話は聞いていたが、なかなか大変なんだな」
男性は少し考えたあと、丸パンを三つ注文した。
「黒麦パンが戻ったら、また買いに来るよ。今日はこれで十分だ」
「ありがとうございます。販売を再開できるようになりましたら、お知らせいたします」
シアが包みを渡すと、男性は穏やかに頷いて店を出ていった。
そのあとも何人かの客が黒麦パンについて尋ねたが、昨日ほど強い不満を示す人はいなかった。入口のお知らせを読んでから入ってくる人が増えたため、事情を理解してもらいやすくなっているのかもしれない。
シアは売上帳を整理しながら、掲示を用意してよかったと感じていた。
(分からないことを、分からないままにしておかない。それだけでも、お客様に安心していただけることがあるんですね)
そう考えたところで、入口の鈴が鳴った。
顔を上げると、そこには見覚えのある男性が立っていた。
厚手の外套を羽織り、片手には書類を入れた革袋を持っている。北側街道の状況について知らせを届けてくれている、粉の仕入れ先のハンス・ロイヴェンだった。
「おはようございます、ハンスさん」
「おはよう、シアさん。マルタさんとオットーさんはいるかな。少し、仕入れのことで話があってね」
その言葉に、シアは胸の奥がわずかに緊張するのを感じた。
昨日まで、黒麦粉の到着日は分からないままだった。今日の知らせがよいものなのか、それともさらに遅れるという話なのか、まだ判断できない。
「はい。お二人とも厨房におります。少々お待ちください」
シアはそう答え、マルタへ声をかけた。
マルタはすぐに店頭へ出てきて、ハンスの姿を見ると表情を引き締めた。
「ハンスさん、おはようございます。何か新しい知らせがあったんですね」
「ああ。まだ確定したことばかりじゃないんだが、昨日の夕方に商会の方へ連絡が入ってね。まずは今分かっていることを伝えておこうと思ったんだ」
ハンスは革袋から折り畳んだ紙を取り出した。マルタはオットーを呼び、三人で話を聞くことにした。
シアは店頭を離れすぎない位置に立ち、必要があれば記録を取れるよう帳面を用意した。
ハンスは紙を広げ、落ち着いた声で説明を始めた。
「北側街道の傷んだ区間について、昨日、補修の進み具合を確かめたそうだ。荷車を通すための確認は続いているが、今のところ全面的に通行を止める予定はないらしい」
マルタは少し安堵したように頷いた。
「それなら、まったく荷が動かなくなるわけではないんですね」
「ああ。ただし、通れる荷車の数はまだ限られている。特に重い荷を積んだ車両は、順番を調整しながら通すことになるそうだ」
ハンスはそこで一度言葉を区切り、手元の紙へ目を落とした。
「黒麦粉については、発注した数量に変更はない。荷そのものが失われたという知らせもない。ただ、こちらへ向かう便にいつ載せられるかは、まだ決まっていないんだ」
その説明を聞き、シアは帳面へ視線を落とした。
発注量は変わらず、到着日も未確定。基本的な状況は昨日までと同じだが、街道の補修が進み、通行の確認が続いていることが新しく分かった。
しかし、それだけで入荷日を決められるわけではない。
「つまり、荷が届く見込みは残っているけれど、日付を約束できる段階ではない、ということですね」
オットーが確認すると、ハンスは頷いた。
「その通りだ。期待させるようなことを言って、あとで遅れる方が困るだろう。だから、今日はそこをはっきり伝えに来た」
マルタは静かに息を吐いた。
「分かりました。早めに知らせていただけるだけでも助かります。うちも、今ある粉でどこまでできるか考えているところですから」
「そう言ってもらえるとありがたい。小麦粉の方は別の便で運べる見込みがあるから、そちらについては今のところ大きな変更はない。ただ、黒麦粉と同じように、状況が変わればすぐ知らせるよ」
シアはハンスの言葉を聞きながら、記録を取った。
以前の知らせと混同しないよう、日付を記し、今回新しく分かったことを別の行へまとめる。
『北側街道の補修状況について連絡あり。通行制限は継続。黒麦粉の発注数量は変更なし。到着日未確定。小麦粉は別便での輸送見込みあり』
書き終えたところで、シアは顔を上げた。
「ハンスさん、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。何かな?」
「黒麦粉の到着日については、次の連絡があるまでは未確定のまま、と記録してよろしいでしょうか。もし、こちらから確認した方がよい時期などが決まっていましたら、教えていただきたいのですが」
ハンスは少し感心したように目を細めた。
「ああ、その記録で間違いないよ。こちらから連絡するつもりだから、毎日問い合わせてもらわなくても大丈夫だ。ただ、店の事情で急ぎの判断が必要になったら、遠慮なく相談してくれ」
「ありがとうございます。では、そのように記録いたします」
シアが礼を述べると、ハンスはマルタとオットーへ向き直った。
「それと、これはまだ相談の段階なんだが……もし黒麦粉が予定より遅れる場合、次の便でほかの粉を増やすことはできるかもしれない。ただ、量や時期は商会へ確認しないと分からない」
オットーは腕を組み、少し考えた。
「今すぐ決める話ではなさそうだな。まずは、今ある材料でどこまで予約を守れるかを確認したい」
「そうだね。黒麦パンを頼んでいるお客さんに、勝手に別のパンを渡すわけにもいかないし」
マルタも同意した。
ハンスは二人の判断を聞き、無理に話を進めることはしなかった。
「分かった。必要になったら、また相談してくれ。こちらも、できる範囲で調べておくよ」
話が終わると、ハンスは書類を革袋へ戻した。シアは彼を見送りながら、今日の知らせが完全な解決ではなかったことを理解していた。
それでも、何も分からないまま待つよりは、少しだけ状況が見えた気がする。
マルタはハンスへ礼を述べ、店の外まで見送った。
扉が閉まると、厨房にはしばらく静かな空気が流れた。
「……さて、どうするかね」
オットーが作業台へ目を向けながら呟いた。
マルタはすぐには答えず、シアが持っている帳面へ視線を移した。
「まずは、昨日作った一覧をもう一度見てみようか。今日の知らせを踏まえて、今後の予約を確認しておきたいね」
「はい。すぐにお持ちします」
シアは頷き、帳面を開いた。
届いた知らせは、まだ答えではない。
けれど、次に何を考えるべきかを整理するための、大切な材料にはなりそうだった。
◇
昼の忙しさが落ち着いた頃、三人は厨房の作業台を囲み、予約帳と黒麦パンの確認用一覧を広げた。
オットーは残っている黒麦粉の量を確かめ、今後の仕込みに必要な分を計算している。マルタは予約先と受け渡し日を確認し、シアは二人の話を聞きながら、記録に抜けがないかを確かめた。
「今日の分は、もう予定どおり渡し終えた。問題は、これから先の予約だな」
オットーは一覧の一部を指さした。
「今ある粉だけでも、すぐに足りなくなるわけじゃない。ただ、荷がさらに遅れた場合、どこかで新しい判断が必要になる」
「そうだね。予約を受けた時点では、いつもどおり材料が届くと思っていたからねえ」
マルタは少し困ったように眉を寄せた。
シアは二人の会話を聞きながら、慎重に考えた。
すでに約束している注文を守ることは大切だ。けれど、材料が届かないままでは、いつか限界が来るかもしれない。
だからといって、まだ足りなくなると決まったわけでもない段階で、すべての予約先へ変更をお願いするのは早すぎる気がした。
「……あの、ひとつご相談してもよろしいでしょうか」
シアが声をかけると、マルタとオットーは顔を上げた。
「もちろんだよ。何か気づいたことがあるのかい?」
「はい。今すぐ変更をお願いするかどうかは、お二人が判断されることだと思うのですが……先に、どの予約がいつまでに確認を必要とするかを整理しておくのはいかがでしょうか」
シアは一覧の余白へ目を向けた。
「たとえば、受け渡しの日が近いものから順に、材料が足りるかどうかを確認しておけば、もし状況が変わったときにも、慌てずにご連絡できると思います」
オットーはしばらく考え、ゆっくり頷いた。
「なるほど。今すぐ注文を変えるんじゃなくて、判断が必要になる順番を整理しておくわけだな」
「はい。もちろん、私の方で勝手に変更を決めることはいたしません。お二人が確認されるときに、少しでも見やすくなればと思いまして」
マルタはその説明を聞き、穏やかに微笑んだ。
「いい考えだね。予約帳を見ながら毎回全部を確かめるより、どこから考えればいいか分かる方が助かるよ」
シアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分の提案が採用されたから嬉しいのではない。店の仕事を続けるために、何が必要なのかを一緒に考えられたことが嬉しかった。
オットーは紙を一枚取り出し、シアへ渡した。
「じゃあ、まずはその形でまとめてみてくれるか。できたら俺とマルタで確認する」
「はい。承知しました」
シアは元の予約帳を開き、受け渡し日と注文内容を確かめながら、必要な情報を書き出していった。
新しい一覧には、日付と予約先、黒麦パンの必要数に加え、材料の残量を確認する目安となる欄を設けた。ただし、まだ決まっていない変更や代替品については書かず、必要になったときに店主が判断できるよう、余白を残した。
書き終えたあと、シアは数字をもう一度確かめた。
昨日の一覧と照らし合わせ、受け渡し済みの注文が混ざっていないか、変更された注文が古い内容のまま残っていないかを確認する。
その作業を終えてから、マルタとオットーへ紙を渡した。
「こちらでいかがでしょうか。まだ試しにまとめただけですので、使いにくいところがあれば直します」
オットーは紙を受け取り、ゆっくり目を通した。
「うん。これなら、いつ判断しなきゃいけないかが分かりやすいな」
マルタも隣から覗き込み、頷いた。
「そうだね。今のところは、これで十分だと思うよ。ありがとう、シア」
「ありがとうございます。お役に立てるのでしたら嬉しいです」
シアは小さく頭を下げた。
以前の自分なら、こうして意見を求められても、間違っていたらどうしようと考えて何も言えなかったかもしれない。
けれど今は、考えたことを伝え、相手に確認してもらうことができる。
それは、彼女にとって確かな変化だった。
◇
午後になると、霧はほとんど晴れ、雲の切れ間から弱い日差しが差し込むようになった。
シアは店頭へ戻り、棚の残りを数えながら、客の注文を受けていた。黒麦パンの棚には引き続きお知らせが置かれているが、丸パンや胡桃パンを買い求める人は多く、店内には焼きたての香りが絶えず漂っていた。
そんな中、一人の女性が入口のお知らせを読んでから店へ入ってきた。
「こんにちは。黒麦パンは、まだお休みなのね」
「こんにちは。はい。材料の入荷が遅れておりまして、現在は店頭販売を一時的にお休みしております」
シアが説明すると、女性は少し残念そうに頷いた。
「そうなのね。実は、家の者が黒麦パンを気に入っていて、いつも買っているの。今日は別のものを選ぼうかしら」
「ありがとうございます。丸パンや胡桃パンでしたら、ただいまご用意がございます」
女性は棚を眺め、しばらく考えたあと、胡桃パンを二つと丸パンを三つ注文した。
シアが包みを用意していると、女性はふと店内を見回した。
「こうしてお知らせを出してくれていると、事情が分かって助かるわ。材料が届かないのは、お店の方も大変でしょう?」
「はい。ですが、マルタさんとオットーさんが、今ある材料でできることを考えてくださっていますので、私もお手伝いしております」
「そう。無理をしすぎないでね。いつものパンが買えないのは残念だけれど、お店が続いてくれる方が嬉しいもの」
その言葉に、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます。お二人にも、お伝えいたします」
女性は微笑み、包みを受け取って帰っていった。
シアはその背中を見送りながら、昨日ハロルドが言ってくれた言葉を思い出した。
長く続けてほしい。
今日の女性も、同じような気持ちで店を見てくれているのかもしれない。
店の仕事は、パンを焼いて売ることだけではない。毎日訪れる人々との信頼を積み重ね、その信頼を守りながら続けていくことも、大切な仕事なのだろう。
シアはそう考えながら、次の客を迎える準備をした。
◇
夕方、店じまいの時間が近づく頃には、空の雲が少し薄くなっていた。
シアは入口の看板を取り込み、棚の残りを数え、売上帳を整理した。黒麦パンの店頭販売は今日も行わなかったが、予約分はすべて予定どおり渡し終えている。
ハンスから届いた知らせについても、帳面へ記録を残した。
マルタはその内容を確認し、静かに頷いた。
「今日もありがとう、シア。新しい知らせがあったから少し慌ただしかったけれど、必要なことは整理できたね」
「はい。まだ到着日が分からないのは心配ですが、今できることは確認できたと思います」
「そうだね。明日になって状況が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。どちらにしても、そのときに考えればいいんだよ」
マルタの言葉に、シアは頷いた。
以前なら、先のことが分からないだけで不安になり、何かをしなければと焦っていたかもしれない。
けれど今は、分からないことを無理に決めず、必要な準備だけをして待つことも、大切な判断なのだと分かり始めている。
片づけを終えると、オットーが温かなスープを用意してくれた。三人で食卓を囲みながら、今日の客のことや、明日以降の仕込みについて話す。
その途中、マルタがふと思い出したように声をかけた。
「そういえば、シア。ミレイユさんとの図書館の約束、もうすぐだったね」
「はい。とても楽しみにしています」
シアは自然に笑顔になった。
「どんな本を一緒に見ようか、少し考えているところなんです。ミレイユさんは旅の話や、昔の街の様子が分かる本に興味があるとおっしゃっていました」
「それなら、図書館にはいろいろありそうだね。シアも、普段は手に取らない本を見つけられるかもしれないよ」
「そうですね。私も、それが楽しみです」
オットーは二人の会話を聞きながら、穏やかに笑った。
「休みの日は、仕事のことを忘れて楽しんでおいで。黒麦粉のことは、俺たちが考えるからな」
その言葉に、シアは少しだけ目を見開いた。
「でも、もしその日に何かあったら……」
「そのときは、そのときだ。休みの日まで店の心配をしていたら、休んだことにならんだろう」
オットーはそう言って、スープの器を置いた。
「シアが普段きちんと働いてくれているのは分かっている。だから、休みの日くらいは自分の好きなことをしてくれ」
シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます。では、その日はミレイユさんと、ゆっくり図書館を楽しんできます」
「ああ。それがいい」
オットーは満足そうに頷き、マルタも嬉しそうに微笑んだ。
仕事のことを考えなくてもいい日がある。
そのことを、シアは少しずつ自然に受け入れられるようになっていた。
◇
自室へ戻ると、窓の外には夜の街の灯りが広がっていた。
シアは上着を脱いで丁寧に畳み、机の上に置いた秋灯草の鉢を確かめた。土の表面は少し乾いていたが、まだ内側には湿り気が残っている。
水を足すのは明日以降にしようと決め、鉢を窓から離した位置へ移した。
寝台には、マルタから借りた厚手の毛布が整えられている。シアはその柔らかな布へ一度だけ触れ、机の椅子へ腰を下ろした。
帳面を開き、今日の出来事を書き留める。
ハンスから新しい知らせが届いたこと。北側街道の補修は進んでいるものの、通行制限は続いており、黒麦粉の到着日はまだ決まっていないこと。
そして、予約を守るために、今後の判断が必要になる順番を整理したこと。
シアは筆を置き、しばらく文字を見つめた。
今日の知らせは、期待していたようなものではなかった。黒麦粉が明日届くと分かれば、店の人々も安心できただろう。
けれど、分からないことを正直に伝えてくれたハンスの姿を思い出すと、それも大切なことなのだと感じる。
(ハンスさんも、きっと大変なのでしょう。私たちだけではなく、ほかのお店のことも考えなければならないのですから)
シアはそう考えながら、帳面の端へ小さく書き加えた。
『到着日が分からないことは、悪い知らせとは限らない。分からないままにせず、確認できたことを大切にする』
書き終えると、胸の奥が少し軽くなった。
それから、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』を手に取った。
頁を開くと、冬の衣服の手入れについて書かれた部分が目に入る。先日買った手袋や靴下を長く使うためにも、こうした知識は役に立ちそうだった。
読み進めながら、シアはふとミレイユとの約束を思い出した。
中央広場の噴水の近くで、朝十時に待ち合わせる。
図書館へ向かう道を一緒に歩き、互いに気になる本を探す。
それだけの予定なのに、考えるたびに胸が温かくなる。
(ミレイユさんと一緒なら、普段は手に取らない本にも出会えるかもしれませんね)
シアは小さく微笑み、栞を挟んで本を閉じた。
窓の外では、冷たい風が静かに吹いている。
明日も黒麦粉が届くかどうかは分からない。店の仕事も、まだ考えなければならないことがある。
それでも、今夜のシアは、不安だけを抱えて眠るわけではなかった。
今日できたことを思い返し、明日へ持ち越すことを整理し、少し先の楽しみを胸に置いておく。
それだけで、夜の静けさは以前よりずっと穏やかなものに感じられた。
シアは銀のペンダントへそっと触れ、机の灯りを消した。
寝台へ入ると、厚手の毛布が身体を柔らかく包み込む。窓の外の風の音を聞きながら、シアはゆっくりと目を閉じた。
明日もまた、店の扉を開ける。
届かない荷を待ちながら、それでも今日できることを続けていけばいい。
そして、約束の日が来たら、ミレイユと一緒に図書館へ行こう。
そんな穏やかな思いを胸に抱きながら、シアは静かに眠りへ落ちていった。




