第53話 黒麦パンのない棚と、変わらない約束
夜の間に吹いていた風は、明け方になってようやく弱まったらしい。シアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い灰色の空が広がっており、通りを行く荷車の音が、冷えた朝の空気を通して静かに聞こえていた。昨日、マルタから借りた厚手の毛布は思っていた以上に暖かく、寝台から身体を起こしても、肩や足先に夜の冷えが残っているような感覚はなかった。
シアは毛布の端を丁寧に整え、しばらくその柔らかな手触りを確かめていた。古いものだからとマルタは言っていたが、きちんと手入れされた布には嫌な匂いもなく、端の擦れた部分も使ううえでは気にならない。昨夜は久しぶりに途中で寒さを感じずに眠れたこともあり、目覚めた身体は軽かった。
(今夜も暖かく眠れそうです。お借りしてよかった……。マルタさんには、あとでもう一度お礼をお伝えしましょう)
そう考えながら衣服を整えたシアは、机の上に置いた秋灯草へ目を向けた。小さな黄色い花は今朝も咲いており、昨日よりわずかに傾いて見える茎を、指先で触れないようにしながら観察する。土の表面にはまだ湿り気が残っていたため、水を足すことはせず、窓から離した位置に置いたままにした。
机には、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』と、昨夜書いた覚え書きが並んでいる。次の休みには、ミレイユと中央広場の噴水近くで待ち合わせ、朝十時から一緒に図書館へ向かうことになっていた。日取りも場所も決まった約束を思い出すと、自然に口元が緩む。
ただ、今日の仕事が終わったわけではない。シアは覚え書きを閉じ、母の形見の銀のペンダントを衣服の内側へ収めると、髪を整えて階段へ向かった。
厨房からは、いつもの薪の匂いに混じって、オットーが粉袋を動かす音が聞こえている。階段を下りるにつれてその音がはっきりし、シアは扉の前で一度だけ呼吸を整えてから、中へ入った。
「おはようございます。今日もよろしくお願いいたします」
「おはよう、シア。よく眠れたかい?」
マルタは作業台の上で布を畳みながら、顔を上げた。シアが昨日借りた毛布のおかげで暖かく眠れたことを伝えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「それならよかったよ。寒くなると朝起きるのも大変になるからね。部屋の窓から風が入るようなら、遠慮なく言っておくれ」
「はい。今のところ、窓を閉めていれば大丈夫です。毛布も大切に使わせていただきます」
「大切にしてくれるのは嬉しいけれど、汚すのが怖くて使わない、なんてことにはしないでおくれよ。毛布は暖かく眠るためにあるんだから」
マルタの冗談めいた言葉に、シアは思わず笑った。自分が布の端まで気にしていることを見抜かれたようで少し照れくさかったが、その声には責める響きがまったくない。
作業台の向こうでは、オットーが黒麦粉の袋を前にしていた。口を開いた袋の中を確かめ、計量用の器を置いたあと、彼は二人へ向き直った。
「シア、朝の準備を始める前に、昨日作ってくれた一覧を一緒に確認したい。少し時間をもらえるか」
「はい。すぐにお持ちします」
シアは帳面を保管している棚から、予約帳と確認用の一覧を取り出した。昨日、オットーの提案で試すことになった一覧には、黒麦パンを含む予約だけを日付順にまとめてある。正式な記録はこれまでどおり予約帳へ残し、一覧は必要な粉の量を考えるための補助として使うものだった。
オットーは作業台を片づけて紙を広げると、今日の欄を指で押さえた。
「まず、今日受け渡す分は、この数字で間違いないな?」
「はい。昨夜、元の予約帳と照らし合わせております。ただ、今朝もう一度確認した方がよろしいと思いますので、こちらから順に読み上げますね」
シアは予約帳を開き、受け取り先と数量を一件ずつ確かめた。オットーは必要な粉を頭の中で計算しながら、手元の紙へ印をつけていく。マルタも途中から加わり、変更や取り消しの記録がないかを確認した。
三人で数字を合わせ終えると、オットーは黒麦粉の袋を見た。
「今日の予約分は問題なく焼ける。だが、その先を考えると、もう店頭へ出す余裕はないな」
言葉は落ち着いていたが、シアの胸には小さな緊張が走った。昨日まで少しずつ減らしていた黒麦パンの店頭販売を、今日は完全に止めることになる。
それは以前から可能性として話し合っていたことであり、突然決まったわけではない。それでも、実際に棚へ並べられなくなると思うと、いつも黒麦パンを買いに来る人々の顔が浮かんだ。
「では、今日は黒麦パンの店頭販売をお休みする、ということでよろしいでしょうか」
「ああ。予約分は予定どおり用意するが、店頭での販売はしない。追加の注文も、粉の入荷が確定するまでは引き受けない方がいいだろう」
オットーがそう答えると、マルタは少し考えてから頷いた。
「お客さんには早めに分かるようにしておこうか。棚が空いているだけだと、売り切れたのか、まだ焼いていないのか分からないからね」
「それでしたら、入口の近くと棚の両方に、お知らせを置いてはいかがでしょうか。ご予約いただいている分は予定どおりお渡しすることと、店頭販売を一時的にお休みすることを分けて書けば、誤解も少ないと思います」
シアが提案すると、マルタはすぐに賛成した。
「いいね。あまり難しい言葉にしないで、誰が見ても分かるようにしておくれ」
「はい。書き終えましたら、掲示する前に確認をお願いいたします」
シアは紙と筆記具を用意し、伝えるべき内容を整理した。材料の到着日については、まだ確かな情報がない。いつから販売を再開できるかも分からないため、期待を持たせるような日付は書けなかった。
何度か言葉を選び直したあと、彼女は短いお知らせを書き上げた。
『黒麦パンの店頭販売は、材料の入荷が遅れているため、しばらくお休みいたします。すでにお受けしているご予約は、予定どおりご用意いたします。販売再開については、分かり次第お知らせいたします』
マルタは紙を受け取ると、ゆっくり目を通した。
「うん、これなら分かりやすいね。お客さんが知りたいことが、ちゃんと書いてある」
オットーも確認し、内容に問題がないことを確かめた。シアは二人の了承を得てから、入口近くの見やすい位置と、黒麦パンを並べていた棚の前へお知らせを置いた。
空いた棚には、まだ何も並べなかった。ほかのパンで埋めてしまえば見た目は整うかもしれないが、黒麦パンの販売を休んでいることが分かりにくくなると考えたからだ。
マルタもその判断を認め、今日は棚の配置を大きく変えずに営業することになった。
窯の中では、予約分の黒麦パンが静かに焼き上がろうとしている。香ばしい匂いはいつもと変わらず厨房に広がっていたが、今日そのパンを手にできるのは、すでに注文していた客だけだった。
シアは棚の前に立ち、掲示した文字をもう一度読み返した。
(残念に思う方もいらっしゃるでしょう。でも、できないことをできると言ってしまう方が、きっと困らせてしまいます)
そう心の中で確かめると、シアは入口の扉へ向かった。朝の通りには少しずつ人が増え、石畳を歩く靴音が店の前を通り過ぎている。
今日も《麦穂亭》の営業が始まろうとしていた。
◇
最初に黒麦パンのお知らせへ気づいたのは、開店して間もなく訪れた年配の女性だった。
女性は入口の近くで足を止め、掲示された紙をゆっくり読み終えると、棚の方へ視線を移した。そこに黒麦パンが並んでいないことを確かめ、少し残念そうに息を吐く。
「まあ、今日は黒麦パンがないのね。家の者が好きだから、買って帰ろうと思っていたのだけれど」
「申し訳ございません。材料の入荷が遅れておりまして、今日から店頭での販売を一時的にお休みしております」
シアは事情を説明し、再開の日程はまだ決まっていないことも伝えた。女性はすぐに納得したわけではなかったが、棚に並ぶほかのパンを眺めながら、少し考え込んだ。
「そうなのね。じゃあ、今日は胡桃パンを二ついただこうかしら。あの子も胡桃は好きだから」
「ありがとうございます。胡桃パンでしたら、焼き上がったばかりのものがございます」
シアが包みを用意すると、女性はお知らせへもう一度目を向けた。
「こうして書いておいてもらえると助かるわ。何も知らずに来て、今日はないと言われるより、事情が分かるものね」
「そう言っていただけると嬉しいです。再開できるようになりましたら、こちらでもお知らせいたします」
女性は穏やかに頷き、包みを受け取って帰っていった。シアはその背中を見送りながら、お知らせを用意してよかったと感じた。
しかし、すべての客が同じように受け止めてくれるわけではなかった。
少し時間が経った頃、仕事着姿の男性が店へ入ってきた。入口のお知らせには目を向けず、まっすぐ黒麦パンの棚へ向かったものの、何も並んでいないことに気づくと、困惑したように眉を寄せる。
「黒麦パンは、もう売り切れたのか?」
「いえ、本日は店頭販売をお休みしております。材料の入荷が遅れておりまして……」
「昨日も少なかっただろう。今日なら買えると思って来たんだが」
男性の声には、はっきりと落胆が混じっていた。シアは相手の言葉を聞きながら、胸の奥が少し硬くなるのを感じた。
昨日、黒麦パンを買えなかった人がいたとしても不思議ではない。いつも店に並んでいるものが突然なくなれば、予定していた食事を変えなければならない人もいるだろう。
「ご不便をおかけして申し訳ございません。現在、すでにお受けしているご予約の分を優先してお作りしておりますので、店頭へ並べることができない状況なんです」
「予約分はあるのに、普通に買いに来た客には売れないってことか?」
男性は少し不満そうに尋ねた。シアは一瞬だけ言葉に詰まりかけたが、予約を守ることが店の方針である以上、曖昧に説明してはいけないと思い直した。
「はい。以前からお約束している分については、その数量を守る必要がございます。新しいご注文についても、今はお受けできない状況です」
男性は腕を組み、棚を眺めた。
「そう言われてもなあ。明日もないのか?」
「申し訳ございません。材料の到着日がまだ確定しておりませんので、明日以降の販売についても、お約束できないんです」
シアは慎重に答えた。相手を安心させたい気持ちはあったが、根拠のない見通しを伝えることはできない。
男性はしばらく黙っていたものの、やがて肩を落とした。
「仕方ないか。じゃあ、丸パンを四つ頼むよ。家で食べる分が必要だからな」
「ありがとうございます。すぐにお包みいたします」
シアが丸パンを包み始めると、男性は少し気まずそうに視線を逸らした。
「別に、あんたを責めたいわけじゃないんだ。朝飯の予定が変わると、家の連中に何を言われるかと思ってな」
「いえ、お困りになるのは当然だと思います。いつもお買い求めいただいているものをご用意できず、申し訳ございません」
シアは包みを差し出しながら、できるだけ穏やかな声で答えた。男性は代金を支払い、今度は入口のお知らせへ目を向ける。
「なるほど、ちゃんと書いてあったんだな。入るときに見ていなかったよ」
そう言って少し笑うと、男性は丸パンを受け取って店を出ていった。
扉が閉まったあと、シアは小さく息を吐いた。胸の奥に残っていた緊張が、ゆっくりほどけていく。
相手は怒鳴ったわけではなく、最後には事情も理解してくれた。それでも、強い不満を向けられると、身体が先に反応してしまうことがある。
(……大丈夫です。きちんと説明できましたし、お客様も納得してくださいました)
自分へそう言い聞かせていると、奥からマルタが出てきた。
「シア、今のお客さんへの説明、聞こえていたよ。落ち着いて対応できていたね」
「ありがとうございます。少し緊張してしまいましたが、決まっていることをお伝えできました」
「うん。相手が困っていることと、こちらが無理をして約束を変えることは別だからね。今日の対応でよかったと思うよ」
マルタはそう言いながら、シアの手元にある売上帳へ目を向けた。シアが会計を正しく記録していることを確かめると、安心したように頷く。
「少し水を飲んでおいで。今なら私が店を見ていられるから」
「はい。ありがとうございます」
シアは礼を言い、厨房の奥へ向かった。冷たい水を少しずつ飲むと、緊張していた喉が潤い、呼吸も落ち着いていく。
以前なら、こうした出来事のあとに休むことなど考えられなかっただろう。相手が不満を示したことを自分の失敗だと思い、もっと働いて埋め合わせなければと考えていたかもしれない。
けれど今は、店で決めた方針を守ったことを、マルタが認めてくれている。
その事実が、シアの背中を静かに支えていた。
◇
昼前になると、店内の客足が少し落ち着いた。
予約分の黒麦パンは、決められた相手へ順に渡されている。シアは受け渡しのたびに予約帳を確認し、店頭販売用のパンと混同しないよう気をつけた。
その途中、マルタが棚の前へやってきた。
「お知らせを出しておいてよかったね。何人かのお客さんが、入る前に読んでくれていたよ」
「はい。黒麦パンを買えないことは残念だと思いますが、事情を先に知っていただけるだけでも、少し違うのかもしれません」
「そうだね。ただ、明日以降も同じお知らせを出すなら、紙が汚れないようにしないといけないね。入口は風も当たるし」
シアは掲示した紙を見た。朝は綺麗だった端が、扉の開閉による風で少し浮き上がっている。
「それでしたら、厚手の台紙に貼りつけて、入口の内側へ置くのはいかがでしょうか。外からも読める位置でしたら、風で傷みにくいと思います」
「いいね。午後、手が空いたら一緒に直してみようか」
マルタはそう言って微笑んだ。
シアは頷きながら、こうした小さな工夫を考えられることが嬉しかった。材料の入荷を早めることはできないが、客へ分かりやすく知らせることなら、自分にも手伝える。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
「こんにちは、シアさん!」
明るい声とともに入ってきたのは、靴屋の息子であるニコだった。少し大きめの上着を着ており、手にはいつもの買い物袋を持っている。
「こんにちは、ニコ君。今日はお父様のお使いですか?」
「うん! 丸パンを三つお願い。父さんが、今日は仕事が忙しいから、すぐ食べられるものがいいって」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
シアが丸パンを包んでいると、ニコは黒麦パンの棚へ目を向けた。お知らせを読み、少し不思議そうに首を傾げる。
「黒麦パン、今日はないんだね」
「はい。材料の到着が遅れているので、しばらく店頭ではお休みすることになったんです」
「そっか。父さんも、北の道がまだ直ってないって話してたよ。靴の材料を運ぶ人も、少し遅れてるんだって」
シアはその言葉に目を瞬かせた。
「靴屋さんにも影響があるんですね」
「うん。でも、父さんは今ある革でできる仕事を先にやるって言ってた。あと、急いで直さなきゃいけない靴がある人を先にするんだって」
ニコは父親の言葉を思い出しながら、少し誇らしそうに話した。シアはその様子を見て、胸の奥が温かくなる。
パン屋だけではなく、靴屋も同じように材料の到着を待っている。それぞれの店で事情は違うが、今あるものを大切に使い、必要な人へ届けようとしているのだ。
「お父様も、いろいろ考えていらっしゃるんですね」
「うん! それでね、シアさん。前に靴の底を見てもらった方がいいって話したでしょ?」
「はい。冬になる前に、一度お願いしようと思っています」
「父さんに話したら、今度お店に来たときに見てあげるって言ってたよ。すぐ直さなきゃいけないかどうかも、ちゃんと教えてくれるって」
思いがけない知らせに、シアは嬉しくなった。
「本当ですか? ありがとうございます。お父様にも、お礼をお伝えください」
「うん! でも、父さんは仕事だから気にしなくていいって。靴を長く使うには、早めに見てもらうのが大事なんだってさ」
ニコはそう言って、少し胸を張った。父親の仕事を誇りに思っていることが、その表情から伝わってくる。
シアは丸パンの包みを渡しながら、次の休みについて考えた。ミレイユとの図書館の約束があるため、その日に靴屋へ行く予定を詰め込むつもりはない。けれど、別の日に時間を作って相談することはできそうだった。
「では、都合のよい日に伺いますね。お父様にも、よろしくお伝えください」
「分かった! あ、それと……蜂蜜林檎パン、まだ作らないの?」
ニコは少し期待を込めた声で尋ねた。以前食べた試作のパンが、よほど気に入っているらしい。
シアは微笑みながら首を振った。
「今のところ、次に作る日は決まっていないんです。オットーさんとマルタさんが決めることなので、また作ることになったらお知らせしますね」
「そっか。じゃあ、楽しみに待ってる!」
ニコは残念がりながらも、すぐに笑顔へ戻った。代金を支払うと、包みを大切そうに抱え、元気よく店を出ていく。
シアはその背中を見送りながら、靴屋の父親が自分の話を聞いてくれていたことを思い出した。
この街では、何気ない会話が少しずつつながっていく。
パンを買いに来る子どもが靴のことを教えてくれ、その父親が点検を申し出てくれる。店の外で知り合った人が、別の場所でまた声をかけてくれる。
そうしたつながりが増えていくことを、シアは嬉しく感じていた。
◇
午後、シアはマルタと一緒に、入口のお知らせを整え直した。
厚手の台紙を用意し、紙の四隅を丁寧に固定する。入口の内側に置いても通りから読めるよう、文字の向きと高さを確かめながら位置を調整した。
「これなら、扉を開け閉めしても大丈夫そうだね」
マルタは一歩下がって眺め、満足そうに頷いた。
「はい。外からも文字が見えますし、風で紙がめくれることも少ないと思います」
「うん。ありがとう、シア。こういう細かなところに気づいてくれるのは助かるよ」
シアは照れくさくなりながら、礼を言った。自分が考えたことを試してもらい、それが店の役に立つ。そんな経験を重ねるたびに、仕事への向き合い方が少しずつ変わっていく気がした。
掲示を終えて店内へ戻ると、オットーが厨房から出てきた。手には、午前中に確認した黒麦パンの予約一覧を持っている。
「シア、ちょうどよかった。さっきの一覧を使って、明日以降の仕込みをもう一度見ていたんだが、少し相談したいことがある」
「はい。どのようなことでしょうか」
オットーは作業台の上へ紙を広げ、日付の欄を指さした。
「今日の分を焼いたあと、残っている粉でどこまで予約を守れるかは見えてきた。ただ、荷が届かなかった場合、その次の注文については、早めに先方へ知らせた方がいいかもしれん」
シアは紙を見つめた。
これまで、すでに受けた予約は守れるという前提で対応してきた。しかし、到着日が分からない状態が続けば、やがて予約分にも影響が出る可能性がある。
それは、店頭販売を止めることよりも重い判断だった。
「……まだ、確定しているご予約をお渡しできないと決まったわけではないんですよね」
「ああ。今のところ、すぐに約束を破る状況ではない。ただ、粉が届くと思って何も知らせずにいるのも違うだろう」
オットーは落ち着いた声で答えた。マルタも紙を覗き込み、しばらく考える。
「そうだね。まずは、どの注文がいつ必要なのかをもう一度確認しておこう。先方へ連絡するかどうかは、それを見てから決めればいい」
シアは頷いた。
「では、私の方で、予約の受け渡し日と黒麦パンの必要数をもう一度整理いたします。変更があった場合も、元の帳面と照らし合わせられるようにしておきますね」
「頼む。ただし、先方へ何か約束するのは、俺たちが確認してからだ」
「はい。承知しております」
オットーはその返事を聞き、安心したように頷いた。
シアは帳面を開き、慎重に数字を確かめ始めた。黒麦パンを含む予約だけを抜き出した一覧は、昨日作ったばかりだったが、すでに役に立っている。
ただし、数字を並べるだけでは十分ではない。どの注文が変更できないものなのか、先方へ相談する必要がある場合に、いつまでに知らせるべきなのか。そうしたことは、マルタとオットーが判断するための材料として整理する必要があった。
(今できることを、きちんと。分からないことまで、私が決めようとしなくていいんです)
シアはそう考えながら、筆を進めた。
しばらくすると、店頭からマルタが客を呼ぶ声が聞こえた。シアは作業を一度止め、帳面を閉じてから店へ戻った。
仕事は一つだけではない。客を迎え、注文を確かめ、記録を残し、必要なときには店主へ相談する。その繰り返しの中で、シアは少しずつ自分の役割を覚えていった。
夕方が近づく頃には、予約一覧の確認もひとまず終わった。
オットーは数字を見直し、すぐに結論を出すのではなく、ハンスからの次の連絡を待ちながら判断することにした。もし状況が変わらなければ、予約先へ早めに相談する必要がある。その可能性を、三人は共有した。
シアは帳面の端に、確認が必要な事項だけを短く書き留めた。
そこには、まだ決まっていないことを、決まったことのように書かないよう気をつけた。
◇
店じまいの頃、空には薄い雲が広がり、夕方の光が石畳を淡く照らしていた。
シアは入口の看板を取り込み、扉を閉めてから、店内の棚を拭いた。黒麦パンを並べていた場所には、朝から最後までパンが置かれることはなかった。
それでも、今日一日の仕事が無駄だったわけではない。
予約分は予定どおり渡すことができ、店頭販売を休む事情も、多くの客へ伝えられた。残念がる人はいたが、説明を聞いて別のパンを選んでくれる人もいた。
マルタは売上帳を閉じると、シアへ微笑んだ。
「今日は少し気を遣う一日だったね。お疲れさま」
「ありがとうございます。黒麦パンを買いに来られた方には申し訳なかったですが、事情を説明できてよかったです」
「そうだね。いつもどおりにできない日でも、できることはあるものさ」
マルタはそう言って、空いた棚へ目を向けた。
「それに、黒麦パンがないからって、うちの店が何もできなくなるわけじゃない。丸パンも胡桃パンもあるし、オットーが焼くパンを楽しみにしてくれている人は、ほかにもいるからね」
その言葉に、シアは静かに頷いた。
材料が届かないことは、確かに困った問題だ。しかし、それだけで店のすべてが決まるわけではない。今ある材料を使い、客との約束を守り、できることを続けていく。
今日、三人で決めた方針は、そのためのものだった。
片づけを終えると、オットーが温かなスープを用意してくれた。厨房には煮込んだ野菜の香りが広がり、冷えた身体を包むような湯気が立ち上っている。
三人で食卓を囲みながら、シアは今日来た客のことを話した。黒麦パンを買えずに残念がった人や、代わりに胡桃パンを選んでくれた人、ニコが靴の点検について教えてくれたこと。
マルタはニコの話を聞くと、嬉しそうに笑った。
「あの子は、本当に父親の仕事が好きなんだね。靴のことになると、いつも目を輝かせて話すもの」
「はい。今日も、お父様が今ある革でできる仕事を先に進めていると教えてくれました」
「なるほど。あちらも材料が遅れているのか」
オットーは少し考え込み、スープの器を置いた。
「街道の影響は、うちだけじゃないんだな。そう考えると、ハンスも大変だろう」
「そうですね。昨日までにお聞きした限りでは、ほかのお店の荷もあるようですし……」
シアはそこで言葉を止めた。ハンスがどの店へどの順番で荷を運ぶのか、詳しい事情までは知らない。分からないことを想像だけで語るのは避けたかった。
マルタはその様子に気づいたのか、穏やかに話題を変えた。
「そういえば、シア。ミレイユさんとの図書館の約束、もう少しだね」
その言葉に、シアの表情が自然と明るくなった。
「はい。今からとても楽しみです。どんな本を一緒に見ようか、少し考えているところなんです」
「いいねえ。ミレイユさんも、きっと楽しみにしているだろうね」
「そうだと嬉しいです」
シアは微笑みながら、温かなスープを口に運んだ。
仕事の問題はまだ残っている。黒麦粉の到着日も分からず、明日以降の仕込みについて考えなければならないこともある。
けれど、休みの日には友人と出かける約束がある。
仕事と、自分の楽しみ。その両方が暮らしの中にあることを、シアは少しずつ当たり前のものとして受け止められるようになっていた。
◇
自室へ戻ると、窓の外には夜の街の灯りが広がっていた。
シアは上着を脱いで畳み、机の上に置いた秋灯草の鉢を確かめた。土の表面にはまだわずかな湿り気があり、今日も水を足す必要はなさそうだった。
寝台には、昨夜から使い始めた厚手の毛布が整えられている。シアはその様子を見て、マルタが気にかけてくれたことを思い出した。
それから机へ座り、今日の出来事を帳面へ書き留めた。
黒麦パンの店頭販売を一時的に休むことになったこと。入口と棚へお知らせを置き、客へ事情を説明したこと。予約分については予定どおり渡せたものの、今後の仕込みについては引き続き確認が必要であること。
そして、ニコが靴の点検について父親へ話してくれたことも書き加えた。
筆を置いたあと、シアはしばらく帳面を見つめた。
今日の出来事を振り返ると、楽しいことばかりではなかった。黒麦パンを買えずに残念がる人の顔を見るのは、やはり心苦しい。材料が届かないことを、自分の力ではどうにもできないもどかしさもある。
それでも、以前のように、自分がすべて悪いのだとは思わなかった。
(私ができることは、きちんと説明することと、決められた約束を守ること。届かない荷を、私一人で運んでくることはできません)
そう考えると、胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていった。
シアは帳面を閉じ、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』を手に取った。頁を開くと、寒い季節の衣服の手入れについて書かれた部分が目に入る。
先日買った手袋や靴下を長く使うためにも、こうした知識は役に立ちそうだった。
読み進めながら、シアはふとミレイユとの約束を思い出した。
中央広場の噴水の近くで、朝十時に待ち合わせる。図書館へ向かう道を一緒に歩き、互いに気になる本を探す。
それだけの予定なのに、考えるたびに胸が温かくなる。
(ミレイユさんと一緒なら、普段は手に取らない本にも出会えるかもしれませんね)
シアは小さく微笑み、栞を挟んで本を閉じた。
窓の外では、冷たい風が静かに吹いている。明日も黒麦粉が届くかどうかは分からないし、店の仕事も続いていく。
けれど、今夜のシアは、不安だけを抱えて眠るわけではなかった。
今日できたことを思い返し、明日へ持ち越すことを整理し、少し先の楽しみを胸に置いておく。
それだけで、夜の静けさは以前よりずっと穏やかなものに感じられた。
シアは銀のペンダントへそっと触れ、机の灯りを消した。
寝台へ入ると、厚手の毛布が身体を柔らかく包み込む。窓の外の風の音を聞きながら、シアはゆっくりと目を閉じた。
明日もまた、店の扉を開ける。
黒麦パンのない棚を見て残念がる人がいるかもしれない。それでも、今できることを続けていけばいい。
そして、約束の日が来たら、ミレイユと一緒に図書館へ行こう。
そんな穏やかな思いを胸に抱きながら、シアは静かに眠りへ落ちていった。




