第52話 約束の日を決める、小さな勇気
朝の《麦穂亭》には、いつもより少しだけ強い風の音が届いていた。
厨房の窓はしっかり閉められているものの、外を吹き抜ける風が軒先の看板を揺らし、ときおり乾いた木の音を響かせている。窯のそばではオットーが焼き上がりを確かめており、作業台の上には、これから店頭へ並べる丸パンが布を掛けられた状態で置かれていた。
シアは手を洗い終えると、予約帳を開いて今日の注文を確認した。昨日、《銀鹿亭》へ渡した変更注文は問題なく受け取ってもらえたため、帳面には受け渡し済みの印が残っている。今日の分についても、前日までに確定している注文と、まだ相談の段階にある問い合わせを区別して書き留めてあった。
「おはよう、シア。今朝は寒かっただろう。部屋の方は大丈夫だったかい?」
マルタは棚を拭きながら声をかけた。シアが振り返ると、彼女は手元の布を畳み、少し心配そうにこちらを見ている。
「おはようございます。はい、昨夜は窓をしっかり閉めましたので、眠るときには大丈夫でした。ただ、朝は少し冷えていましたから、そろそろ寝具も冬用に替えた方がよいのかもしれません」
「そうだね。物置に厚手の毛布が一枚あったはずだから、あとで一緒に見てみようか。古いものだけど、洗ってきちんとしまってあるから、まだ十分使えると思うよ」
その申し出に、シアは思わず目を瞬かせた。
「よろしいのですか? 私、必要でしたら自分で用意しようと思っていたのですが……」
「もちろん、気に入ったものを自分で買うのもいいさ。でも、店にあるものを使ってもらうのに遠慮はいらないよ。住み込みで働いてもらっているんだから、寒くて眠れないなんてことになったら困るだろう?」
マルタはごく当たり前のことを話すように笑った。シアはその言葉を受け止めながら、胸の奥に生まれた小さな戸惑いを静かにほどいていく。
以前の自分なら、何かを借りることさえ申し訳なく感じ、必要なものがあっても口に出せなかったかもしれない。けれど、この家では困っていることを伝えても責められず、むしろ一緒に考えてもらえるのだと、これまでの暮らしの中で少しずつ知っていた。
「ありがとうございます。もしお借りできるのでしたら、とても助かります。お洗濯や手入れは、私にさせてください」
「そこは相談して決めよう。まずは毛布を見てからだね」
マルタが微笑むと、シアも自然に笑顔を返した。まだ仕事の始まったばかりの時間だったが、その短いやり取りだけで、冷えていた指先まで温かくなるような気がした。
厨房の奥から、オットーが二人へ声をかけた。
「そろそろ最初の分が焼き上がるぞ。シア、丸パンを置く籠を頼めるか?」
「はい、ただいまお持ちします」
シアは返事をして、清潔な布を敷いた籠を作業台へ運んだ。オットーが窯から取り出したパンは、表面に美しい焼き色がついており、湯気とともに小麦の香りを広げている。
この香りを嗅ぐと、自然と一日の仕事が始まったのだと感じるようになった。初めてこの店の厨房へ入ったときには、何をしてよいか分からず緊張していた場所が、今では自分の手で働ける場所になっている。
それでも、慣れたからといって油断はしない。シアは予約分の札を確かめ、店頭へ並べるものと取り違えないよう、籠を置く位置を調整した。
「今日は黒麦パンの店頭分を、昨日よりさらに少なくする」
オットーはパンを並べ終えると、粉袋の方へ目を向けた。
「ハンスから次の連絡が来るまでは、今ある粉を大事に使いたい。予約分は確保してあるが、追加の注文は引き続き相談してからだ」
「承知しました。お客様には、店頭分がなくなった時点でその旨をお伝えします。明日以降の数についても、確定していないことはお約束しないようにします」
「ああ、それで頼む。丸パンやほかの品を勧めるのは構わんが、客が何を選ぶかは客の判断だからな」
シアは頷き、帳面の端に今日の販売方針を短く書き加えた。昨日までに決めたことを守りながら、状況が変わった部分だけを更新する。そうしておけば、慌ただしい時間にも自分の記憶だけに頼らずに済む。
開店の準備が整う頃には、外の風も少し弱まっていた。
シアは入口の扉を開け、通りの様子を確かめてから看板を出した。石畳には朝の光が斜めに差し込み、向かいの建物の窓では、誰かが厚手の布を干そうとしている。
街は今日も、少しずつ冬へ向かっていた。
◇
朝の客足は、いつもと大きく変わらなかった。
仕事へ向かう途中の職人が丸パンを買い、年配の女性が蜂蜜パンを一つ選んでいく。子どもの手を引いた母親は、家族の朝食用に胡桃パンを加え、焼きたての香りに目を輝かせる子どもをなだめながら店を出ていった。
シアは客の希望を聞き、必要な数を確かめ、丁寧に包みを渡していった。以前は一人の客を見送るたびに肩へ力が入っていたが、今は次に何をするべきかを落ち着いて考えられる時間が増えている。
もちろん、すべてが順調に進むわけではない。
午前の半ば、黒麦パンを求めて訪れた男性が、棚に並ぶ数を見て眉を寄せた。
「これだけしかないのかい? いつもなら、もう少し置いてあるだろう」
男性は仕事着の上から厚手の上着を羽織り、片手には買い物用の袋を持っていた。怒っているというほどではないものの、声にははっきりと不満が混じっている。
シアは一瞬だけ身体を強張らせたが、すぐに呼吸を整えた。相手が不便を感じていることと、自分が責められていることは、必ずしも同じではない。
「申し訳ございません。現在、黒麦粉の入荷が遅れておりまして、すでにお受けしているご予約を優先して製造しております。そのため、店頭へ並べられる数を少なくしているんです」
「そうなのか。いや、俺は今日、五つ欲しかったんだが……」
男性は困ったように棚を見つめた。シアが残数を確認すると、店頭には三つしか残っていない。
「ただいま店頭にあるのは三つでございます。もしよろしければ、丸パンなどもご覧いただけますが、黒麦パンの追加については店主へ確認が必要になります」
「五つ全部を黒麦パンにしたかったんだがな。家で待っている連中が、あれを気に入っているんだ」
男性はそう言いながらも、声を荒らげることはなかった。シアは相手が何を求めているのかを考え、すぐに別の商品を勧めるのではなく、少しだけ時間をもらってマルタへ相談した。
マルタは残りの粉と予約分を確認したうえで、今日の追加製造はできないと判断した。ただし、店頭の三つは販売して構わず、丸パンを組み合わせることもできると伝えてくれる。
シアがその内容を説明すると、男性は少し考え込んだあと、苦笑した。
「そういう事情なら仕方ないな。じゃあ、黒麦パンを三つと、丸パンを二つもらおうか。家で文句を言われたら、俺がちゃんと説明するさ」
「ありがとうございます。お好みのものを十分にご用意できず、申し訳ございません」
「いや、あんたが悪いわけじゃないんだろう。荷が遅れているなら、店だって困ってるはずだ」
男性は包みを受け取ると、先ほどより柔らかな表情になった。
「それに、丸パンも美味しいからな。たまには違うものを食べるのもいいだろう」
シアはその言葉にほっとしながら、礼を述べた。男性が店を出ていくと、奥で様子を見ていたマルタが近づいてくる。
「落ち着いて説明できていたね。よく頑張ったよ」
「ありがとうございます。でも、最初は少し緊張してしまいました。お客様がお困りなのは分かるのですが、どうしても……」
シアは言葉を探しながら、指先をそっと握った。マルタはその様子に気づいたものの、理由を無理に尋ねることはしなかった。
「困っている人の声を聞くと、こちらまで慌てそうになることはあるさ。でも、今日はちゃんと話を聞いて、必要なことを確認していたじゃないか」
「はい。マルタさんに確認してからお答えできたので、安心しました」
「それでいいんだよ。最初から全部を一人で決められる必要なんてない。店の仕事は、私たち三人でやっているんだからね」
シアはゆっくり頷いた。
以前なら、相手を待たせたことさえ失敗だと考えたかもしれない。けれど今は、確認するために少し時間をもらうことが、むしろ相手のためになると理解できる。
店頭の黒麦パンがなくなったため、シアはマルタの指示を受けて札を下げた。空いた場所には丸パンの籠を少し広げ、品物が少なく見えすぎないように整える。
そのとき、入口の外から聞き覚えのある明るい声がした。
「こんにちは! まだ忙しい時間かしら?」
シアが顔を上げると、そこにはミレイユ・クローデルが立っていた。
◇
ミレイユは騎士としての制服を身につけていたが、今日は以前より少し軽い装いだった。腰には必要な装備を備えているものの、表情は穏やかで、急ぎの用事を抱えている様子はない。
栗色の髪を後ろでまとめた彼女は、入口の近くで一度店内を見回し、客がいないことを確かめてからシアへ微笑んだ。
「ミレイユさん! こんにちは。今は少し落ち着いております」
「よかった。巡回の区切りで少し時間ができたから、パンを買いに寄ったの。それと、シアに伝えたいことがあって」
最後の言葉に、シアの胸が小さく弾んだ。
ミレイユとは、以前から図書館へ一緒に行く約束をしている。しかし、彼女の勤務予定がまだ確定していなかったため、具体的な日取りは決められずにいた。
(もしかして、お休みの日が分かったのでしょうか)
期待を感じながらも、シアはまず店員として注文を尋ねた。
「ありがとうございます。今日は何をお求めでしょうか?」
「そうね。丸パンを二つと、胡桃パンを一つお願いしようかしら。あとで食べるつもりだから、包んでもらえると助かるわ」
「かしこまりました。全部で十六銅貨になります」
シアがパンを包む間、ミレイユは店内を見渡していた。黒麦パンの棚が空いていることに気づいたようだったが、すぐに質問することはなく、シアの手元へ視線を戻す。
「相変わらず、包むのが上手ね。前に来たときより、ずいぶん手際がよくなったんじゃない?」
「そうでしょうか。毎日やっているので、少しずつ慣れてきたのかもしれません」
「うん。最初に会った頃は、何をするにも少し緊張しているように見えたけれど、今は自然に動けているもの」
ミレイユはそう言って、嬉しそうに笑った。
シアは照れくさくなりながら、包み紙の端を丁寧に折った。最近、マルタやオットーからも似たようなことを言われている。自分では小さな変化だと思っていたことが、周囲の人には思った以上にはっきり伝わっているらしい。
「ありがとうございます。まだ分からないことも多いですけれど、ここで働くのは楽しいです」
「それならよかった。シアが楽しそうにしていると、私も嬉しいわ」
ミレイユは自然にそう答えたあと、代金を差し出した。シアが受け取って包みを渡すと、彼女は一度周囲を見回し、少し声を落とす。
「それでね、さっき言った伝えたいことなんだけど……ようやく次の勤務予定が決まったの」
シアは思わず顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。少し先だけど、今度の休みの日が分かったのよ。前に話していた図書館、もしシアの都合が合うなら一緒に行けないかと思って」
その言葉に、シアの胸が温かくなった。
約束そのものは以前からあった。けれど、具体的な日を決められないまま時間が過ぎるうちに、ミレイユが忙しくなってしまうのではないかと、ほんの少し心配していたのだ。
もちろん、彼女が約束を忘れていると思っていたわけではない。それでも、こうして自分から知らせに来てくれたことが嬉しかった。
「ぜひ、ご一緒したいです。私も、ミレイユさんと図書館へ行くのを楽しみにしていました」
シアが答えると、ミレイユの表情がぱっと明るくなった。
「よかった! ただ、シアのお休みと合うかどうかが分からないでしょう? だから、今日はまず相談だけでもできればと思って」
「そうですね。私のお休みは、マルタさんとオットーさんに確認してから決めることになりますので……」
シアは少し考え、奥にいるマルタへ目を向けた。店の仕事に支障がないかを確かめずに、勝手に休みを決めるわけにはいかない。
その様子に気づいたマルタが、厨房から顔を出した。
「どうしたんだい、シア。何か相談かい?」
「あの、マルタさん。ミレイユさんと図書館へ行くお約束をしているのですが、お休みの日についてご相談してもよろしいでしょうか?」
シアは少し緊張しながら尋ねた。仕事のためではなく、自分の楽しみのために休みを相談することには、まだどこか遠慮が残っている。
しかし、マルタはすぐに明るい笑顔を浮かべた。
「もちろんだよ。そういえば、前にもそんな話をしていたね。ミレイユさん、お休みが決まったのかい?」
「はい。次の休務日が決まりましたので、もしシアの都合が合えばと思いまして」
ミレイユは丁寧に答えた。勤務中の短い立ち寄りであることを意識しているのか、長話にならないよう気を配っている様子だった。
マルタは少し考え、厨房の奥へ声をかけた。
「オットー、シアの次の休みについて相談したいんだけど、少しいいかい?」
オットーが手を拭きながら出てくると、マルタは事情を簡単に説明した。彼は予約帳と仕事の予定を確かめ、シアへ向き直る。
「次の休みを少し調整すること自体は構わんよ。ただ、仕込みの都合もあるから、具体的な日を教えてもらえるか?」
ミレイユが休務日を伝えると、オットーは帳面を確認しながら考え込んだ。シアはその横顔を見守り、無理なお願いになっていないか少し気になった。
「その日なら、今のところ大きな予約は入っていないな。シアの休みをそこへ合わせても、店は回せそうだ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、まだ数日あるから、急な注文が入った場合の段取りは俺たちで考えておく。シアはその日を休みにしていいよ」
オットーはそう言って、マルタへ確認するように目を向けた。マルタも笑顔で頷く。
「そうだね。せっかく友達と出かける約束なんだから、楽しんでおいで」
シアは胸の奥がいっぱいになり、すぐには言葉が出なかった。
休みをもらうことは、雇われて働くうえで決められた条件の一つだ。それでも、自分が出かけたいという理由を伝え、快く受け入れてもらえることには、まだ慣れていない。
「ありがとうございます。お仕事に支障が出ないよう、前日までにできることはきちんと済ませておきます」
「もちろん、いつもの仕事は頼むけれど、休みの日の分まで働こうとしなくていいからね」
マルタが笑いながら言うと、ミレイユも隣で頷いた。
「そうよ、シア。休みの日は休むためにあるんだから。私もその日は、仕事のことを少し忘れて楽しみたいもの」
二人の言葉に、シアは照れくさそうに微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
こうして、ミレイユと図書館へ行く日が、ようやく決まった。
◇
休みの日を合わせられると分かると、ミレイユは嬉しそうに両手を合わせた。
「それじゃあ、当日は中央広場で待ち合わせにしましょうか。図書館の前でもいいけれど、せっかくだから一緒に歩いて行きたいわ」
「はい。私も、中央広場の方が分かりやすいです」
「時間はどうしましょう。あまり朝早いと、せっかくの休みなのに大変でしょう?」
シアは少し考えた。普段はパン屋の仕事があるため、朝早く起きることに慣れている。しかし、ミレイユも休みの日なのだから、無理に早い時間を選ぶ必要はない。
「午前の遅い時間はいかがでしょうか。図書館へ行って、ゆっくり本を見られたら嬉しいです」
「いいわね。じゃあ、朝の十時頃に中央広場でどうかしら?」
「はい。その時間でしたら大丈夫です」
ミレイユは満足そうに頷いた。二人は待ち合わせ場所を中央広場の噴水の近くと決め、もし雨が降った場合も、ひとまず同じ場所で会うことにした。
シアはその内容を忘れないよう、手元の小さな覚え書きへ記した。ミレイユはその様子を見て、少し可笑しそうに笑う。
「シアって、本当に几帳面ね。約束したことをすぐ書き留めるなんて、私も見習わなくちゃ」
「忘れてしまったら申し訳ないですから。それに、こうして書いておくと、当日まで楽しみにできる気がするんです」
シアがそう答えると、ミレイユは一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかな表情になった。
「……それ、なんだか素敵ね」
「え?」
「約束を忘れないためだけじゃなくて、楽しみにするために書いておくっていうのが。私も帰ったら、予定表に大きく印をつけておこうかしら」
ミレイユは冗談めかして言ったが、その声には本当に嬉しそうな響きがあった。
シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。自分が楽しみにしている約束を、相手も同じように楽しみにしてくれている。そのことが、何より嬉しかった。
「図書館では、どんな本を見たいですか?」
シアが尋ねると、ミレイユは少し考えるように首を傾げた。
「そうね。私は普段、仕事に関係する記録や地図を見ることが多いから、休みの日くらいは違うものを読みたいかもしれないわ。旅の話とか、昔の街の様子が分かる本とか」
「それでしたら、きっといろいろ見つかると思います。私も以前、川沿いの町について書かれた本を借りたことがあるんです」
「あら、面白そう! そういう本なら私も好きだと思うわ」
ミレイユは目を輝かせたが、すぐに入口の外へ視線を向けた。通りの向こうでは、巡回を続ける騎士たちの姿が見えている。
「ごめんなさい、そろそろ戻らなくちゃ。もっと話していたいけれど、今日は勤務中だから」
「いえ、お忙しい中、わざわざ知らせに来てくださってありがとうございました」
「こちらこそ。休みを合わせてもらえて嬉しいわ。当日、楽しみにしているから」
ミレイユはパンの包みを持ち直し、マルタとオットーにも礼を述べた。二人が温かく送り出すと、彼女はシアへもう一度笑顔を向ける。
「それじゃあ、またね。シア」
「はい。またお会いしましょう、ミレイユさん」
入口の鈴が鳴り、ミレイユは通りへ出ていった。
シアはその背中を見送りながら、胸の奥に広がる嬉しさを静かに噛みしめた。
これまで、誰かと出かける予定を自分の希望で決めた経験は、決して多くない。まして、相手が自分のために時間を作り、楽しみにしてくれていることを、こんなにはっきり感じたのは初めてかもしれなかった。
(……本当に、約束の日が決まったんですね)
小さな覚え書きには、待ち合わせの場所と時間が書かれている。何度も確かめる必要はないと分かっていても、シアはその文字をもう一度見つめた。
中央広場の噴水の近く。朝の十時。
その場所へ向かう自分を想像すると、自然と頬が緩んだ。
◇
店の奥では、マルタがシアの様子を静かに見守っていた。
ミレイユが帰ったあとも、シアは仕事へ戻る前に、覚え書きを大切そうに帳面へ挟んでいる。何か高価なものを手に入れたわけでも、特別な贈り物をもらったわけでもない。ただ、友人と出かける日が決まっただけだ。
それなのに、彼女の表情は驚くほど明るかった。
(あの子にとっては、こういう約束一つでも大切なことなんだろうね)
マルタは胸の内でそう思いながら、厨房へ戻った。
シアがこの店へ来たばかりの頃、彼女は何をするにも遠慮がちだった。住み込みの部屋を案内したときも、鍵のある個室を与えられることに驚き、食事のことや休みのことを説明すると、何度も礼を言っていた。
働く意欲があることは、最初から分かっていた。掃除も帳簿も丁寧で、知らないことを覚えようとする姿勢も真面目だった。
ただ、その真面目さの奥には、どこか失敗を恐れるような緊張があった。
何かを頼むと、必要以上に急いで応えようとする。少し手を止めただけで申し訳なさそうな顔をする。褒められても、自分にはまだ足りないところがあると言って、なかなか受け取ろうとしない。
マルタは、シアが以前どのような暮らしをしていたのかを知らない。彼女が話したくないことを、無理に尋ねるつもりもなかった。
けれど、今のシアが少しずつ自分の希望を口にできるようになっていることは、嬉しかった。
「どうした、マルタ。何か考え事か?」
オットーが作業台の向こうから声をかけた。マルタは振り返り、軽く首を振る。
「いやね、シアが楽しそうでよかったなと思っていたんだよ」
「ああ、図書館の約束か。いいじゃないか。休みの日に友達と出かけるくらい、気兼ねなく楽しんでほしいもんだ」
オットーはそう言って、粉袋の口を確かめた。仕事の手を止めないままの返事だったが、声には穏やかな温かさがある。
「そうだね。あの子は、休みの日でも何か仕事をしようとするところがあるからねえ」
「働いてくれるのはありがたいが、休むのも大事だ。今度の休みは、ちゃんと送り出してやろう」
マルタは頷き、店頭の方へ目を向けた。
そこではシアが、次に来た客へいつものように丁寧な挨拶をしている。先ほどまでの嬉しそうな表情を少し落ち着かせ、仕事へ集中している様子だった。
その姿を見ながら、マルタは改めて思った。
この店で働くことが、シアにとって安心できる日常になってくれたらいい。そして、店の外にも、彼女が笑顔で過ごせる場所が増えていけばいい。
それは雇い主としての願いであると同時に、一人の年長者としての、ささやかな願いでもあった。
◇
午後になると、客足は少し落ち着いた。
シアは売上帳を整理し、残っているパンの数を確かめながら、今日の予約がすべて問題なく処理されていることを確認した。黒麦パンの店頭分は午前中に売り切れたが、ほかのパンを選んでいく客も多く、店全体の仕事は大きく滞ることなく進んでいた。
その途中、オットーが厨房から声をかけた。
「シア、少し手が空いたら、明日の予約帳を一緒に見てもらえるか?」
「はい。今の記録を終えましたら、すぐに参ります」
シアは帳面を閉じ、店頭をマルタへ任せて厨房へ向かった。
作業台の上には、明日以降の予約をまとめた紙が並べられている。オットーは黒麦粉の残量と予約数を照らし合わせながら、今後の仕込みについて考えていた。
「今のところ、確定している分は守れる。ただ、ハンスからの連絡がないままなら、その次の仕込みはもう一度考えなきゃならん」
「そうですね。新しく黒麦パンを希望される方には、引き続きお二人へ確認してからお返事するようにします」
「ああ。それと、今日のうちに、どの予約がいつ必要なのかをもう少し見やすくしておきたい。シアなら、どう整理する?」
思いがけない質問に、シアは少し驚いた。
これまでも帳面を任されることはあったが、整理の仕方について自分の考えを尋ねられる機会は、まだそれほど多くない。
「私の考えで、よろしいのでしょうか?」
「もちろん。実際に帳面を見ているのはシアだからな。何か気づいたことがあれば聞かせてほしい」
オットーはそう言って、紙を少しシアの方へ寄せた。
シアは内容を確かめながら、しばらく考えた。予約の日付、商品名、数量、受け取り時間はすでに記録されている。ただ、材料の入荷が不確かな今は、黒麦パンを使う注文だけをすぐ確認できるようにしておくと便利かもしれない。
「……でしたら、黒麦パンを含むご予約に、小さな印をつけてはいかがでしょうか。注文そのものは今までどおり日付順に並べて、別の紙に黒麦パンだけの必要数をまとめておけば、残量を確認するときに見やすいと思います」
オットーは腕を組み、帳面へ目を落とした。
「なるほど。注文帳を二つに分けるんじゃなくて、確認用の一覧を別に作るわけか」
「はい。元の帳面はそのまま残しておけば、ほかのパンとの組み合わせも確認できます。別の一覧は、あくまで材料の計算をしやすくするためのものにして……」
シアは説明しながら、紙の端に簡単な見本を書いた。日付ごとに黒麦パンの必要数を並べ、合計を下へ記す。変更があった場合は、元の予約帳と照らし合わせて修正するようにすれば、数字の食い違いも見つけやすい。
オットーはその見本をしばらく眺め、やがて頷いた。
「いいな。これなら、俺が仕込みを考えるときにも使いやすい。マルタにも見てもらおう」
呼ばれて厨房へ来たマルタも、シアの書いた紙を見て感心したように目を細めた。
「なるほどねえ。確かに、今みたいなときには助かりそうだよ。元の予約帳を変えなくていいのも安心だね」
「ありがとうございます。ただ、もし使いにくいところがありましたら、直した方がいいと思います」
「そうだね。まずは試してみようか。実際に使ってみないと分からないこともあるからね」
マルタの言葉に、シアはほっとした。
自分の提案が必ず採用されなければならないわけではない。使ってみて不便なら直せばいいし、もっとよい方法が見つかれば変えてもいい。
そう考えられることが、以前よりずっと自然になっていた。
シアは二人の了承を得て、確認用の一覧を作り始めた。必要な数字を元の帳面から写し、合計を計算したあと、もう一度照らし合わせる。
作業の途中でオットーが別の注文について尋ねると、シアは元の予約帳を開いて確認した。新しい一覧だけに頼らず、正式な記録を残しておくことの大切さも忘れない。
しばらくして一覧が完成すると、オットーはそれを作業台の端へ置き、何度か目を通した。
「うん、見やすい。明日の仕込みを考えるときに使わせてもらうよ」
「ありがとうございます。お役に立てるのでしたら嬉しいです」
シアは小さく頭を下げた。
自分が持っている知識や経験を、誰かの役に立つ形で使えることが嬉しかった。以前の暮らしで覚えたことのすべてが、つらい記憶と結びついているわけではない。こうして新しい場所で使い直すことで、その意味も少しずつ変わっていくのかもしれなかった。
◇
夕方、店じまいの準備が始まる頃には、外の風が再び強くなっていた。
シアは入口の看板を取り込み、扉を閉めてから、棚の残りを数えた。マルタは売上帳を確認し、オットーは翌朝の仕込みに必要な道具を整えている。
今日も黒麦粉の新しい荷は届かなかった。
しかし、ハンスから伝えられた通り、発注した数量そのものが失われたわけではない。到着日が分からないという不安は残っているものの、今ある材料をどう使うかについては、店の中で少しずつ準備が進んでいた。
「今日は、シアの一覧が役に立ちそうだね」
マルタが帳面を閉じながら言った。
「ありがとうございます。でも、まだ試してみただけですから。明日、実際に使ってみて、直した方がいいところがあれば教えてください」
「もちろん。そうやって少しずつ良くしていけばいいんだよ」
マルタは微笑み、シアの肩へ視線を向けた。
「それより、今日は嬉しいこともあったじゃないか。ミレイユさんとの約束、楽しみだね」
その言葉に、シアは思わず笑顔になった。
「はい。とても楽しみです。図書館へ行くのも嬉しいのですが、ミレイユさんと一緒に本を選べることが、何より楽しみで……」
言いながら、少し照れくさくなった。けれど、マルタはそんなシアを優しく見守っている。
「いいねえ。友達と同じ場所へ行っても、一人で行くのとは違う楽しみがあるものさ」
「そうですね。以前、川沿いを一緒に歩いたときも、私一人では気づかなかったことを教えていただきました」
シアは南の川沿いを歩いた日のことを思い出した。石橋の向こうに広がる景色や、川面に映る光、道端に咲いていた花。ミレイユと話しながら歩いた時間は、今でも大切な記憶として残っている。
「図書館でも、きっと新しい発見があるだろうね。何か面白い本を見つけたら、私にも教えておくれ」
「はい。マルタさんがお好きそうな本がありましたら、覚えておきます」
二人が笑い合っていると、オットーが奥から声をかけた。
「片づけが終わったら、夕食にしよう。今日は冷えるから、スープを温め直しておいたぞ」
「ありがとうございます。では、こちらを終わらせてから参ります」
シアは最後の棚を拭き、布を片づけた。
仕事を終える頃には、厨房に温かなスープの香りが広がっていた。三人で食卓を囲み、今日の客のことや明日の仕込みについて話す時間は、シアにとってすっかり日常の一部になっている。
食事の途中、マルタは朝に話していた厚手の毛布のことを思い出した。
「そうだ、シア。あとで物置を見てみようか。毛布がまだ使える状態なら、今夜から持っていっていいよ」
「ありがとうございます。お手伝いします」
「食事を終えてからでいいからね。慌てなくて大丈夫だよ」
マルタはそう言って笑い、スープを口に運んだ。
シアも温かな食事を味わいながら、今日一日を振り返った。
黒麦粉の問題はまだ解決していない。それでも、店の仕事で新しい工夫を試すことができた。そして何より、ミレイユとの約束の日が決まった。
明日以降にも楽しみがあると思えることが、こんなに嬉しいとは知らなかった。
◇
夕食のあと、シアはマルタと一緒に物置へ向かった。
棚には季節ごとに使う布や道具が整頓されており、厚手の毛布は上の段に畳まれていた。マルタが取り出した毛布は落ち着いた茶色で、端に少し擦れた跡があるものの、生地はしっかりしている。
「これなら、まだ十分使えると思うよ。少し前に洗ってあるけれど、気になるならもう一度干してから使ってもいいからね」
シアは毛布を受け取り、その重みを確かめた。思っていたよりも柔らかく、冬の夜には心強そうだった。
「ありがとうございます。とても暖かそうです。大切に使わせていただきます」
「うん。もし寒さが厳しくなって足りないようなら、また相談しておくれ」
マルタはそう言って、シアが毛布を抱えやすいように端を整えた。
自分の部屋へ戻る途中、シアは胸の奥が温かくなるのを感じていた。誰かが自分の寒さを心配し、必要なものを用意してくれる。そんなことを、以前は当たり前だと思えなかった。
部屋へ入ると、シアは毛布を寝台の上へ置き、窓の閉まり具合を確かめた。秋灯草の鉢は、夜の冷気が直接当たらない位置へ移してある。
机の上には、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』が置かれていた。
シアはその本へ目を向け、少し可笑しくなった。冬の暮らしについて本で学んでいるところへ、実際に毛布を借りることになったのだから。
(本に書かれていることを試すのも大切ですが、こうして誰かに教えていただくことも、同じくらい大切なんですね)
シアは毛布を広げ、寝台へ丁寧に重ねた。厚みが増した寝具は見た目にも暖かそうで、今夜は朝まで冷えずに眠れそうだった。
それから机へ座り、今日の出来事を帳面へ書き留める。
黒麦パンの店頭分は午前中に売り切れたこと。明日以降の予約確認用に、黒麦パンの必要数をまとめた一覧を試しに作ったこと。マルタとオットーが、その方法を使ってみようと言ってくれたこと。
そして、ミレイユとの図書館の約束。
シアはその部分を書くとき、自然と筆の動きを緩めた。
『次の休みの日、朝十時に中央広場の噴水の近くでミレイユさんと待ち合わせ。図書館へ一緒に行く』
書き終えてから、シアはその文字をしばらく見つめた。
以前は、誰かと約束することが少し怖かった。相手の都合を優先しなければならないと思い、自分の希望を伝えることにためらいがあったからだ。
けれど、ミレイユはシアの都合を尋ねてくれた。休みの日が合うかどうかを一緒に考え、待ち合わせの場所や時間も、二人で相談して決めた。
どちらか一方が我慢するのではなく、お互いの希望を確かめながら約束を作ること。
それが、こんなに心地よいものだとは知らなかった。
(ミレイユさんと、どんな本を見つけられるでしょう。旅の本も面白そうですし、街の昔の様子が分かる本も読んでみたいですね)
シアは借りている本の表紙へ目を向けた。図書館にはまだ知らない本がたくさんあり、何度訪れても新しい発見がある。
今度は、その楽しさを友人と分け合えるのだ。
胸の奥に広がる期待を感じながら、シアは本を開いた。
頁には、冬の衣服を長持ちさせる工夫や、冷たい風が入り込みやすい場所を確かめる方法が書かれている。シアはその内容を読みながら、今の外套の縫い目や靴の底について、次の休みまでに確認しておきたいことを整理した。
ただし、図書館へ行く日には、買い物や用事を詰め込みすぎない方がよさそうだった。せっかくミレイユと過ごす時間なのだから、急いで別の店を回る必要はない。
靴の点検は、また別の機会に相談してもいい。
そう考えると、予定を決めることが少し楽しくなった。
以前のシアは、誰かに言われた予定を守ることばかり考えていた。今は、自分が何をしたいのかを考え、そのために時間を使うことができる。
その変化は小さなものかもしれないが、彼女にとっては確かな一歩だった。
しばらく本を読んだあと、シアは栞を挟み、机の灯りを少し弱めた。
窓の外では風が吹き続けているが、寝台にはマルタから借りた厚手の毛布が重ねられている。秋灯草は小さな黄色い花を咲かせ、机の上には今日決まった約束を書いた帳面が置かれていた。
シアは母の形見の銀のペンダントへそっと触れ、静かに息を吐いた。
遠い街へ来たとき、自分が誰かとこんなふうに笑い合い、次の休みを楽しみにできるようになるとは思っていなかった。
けれど今は、明日も働きたいと思える場所があり、休みの日に会いたいと思える友人がいる。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
「……楽しみですね」
シアは小さく呟き、寝台へ入った。
新しい毛布は思っていた以上に暖かく、身体を包む柔らかな重みが心地よかった。窓の外の風の音を聞きながら、シアは目を閉じる。
明日も店の仕事は続く。黒麦粉の到着日も、まだ分からない。
それでも、少し先には友人との約束が待っている。
そのことを思うだけで、シアは穏やかな気持ちになれた。
やがて、冷たい夜の静けさの中で、彼女はゆっくりと眠りへ落ちていった。




