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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第51話 届かない粉よりも、気にかけてくれる人のこと


 朝の冷たい空気が窓の隙間から入り込み、シアは寝台の中でゆっくりと目を覚ました。夜の間に風が強くなったらしく、外では通りを掃く箒の音に混じって、軒先に吊るされた看板が小さく揺れる音が聞こえている。薄い掛け布団の端を肩から下ろすと、温かな寝台から出ることを少し惜しく感じるほど、部屋の空気は冷えていた。


 それでも、階下ではそろそろオットーが窯の準備を始める頃だろう。シアは寝台を整え、昨日の夜に用意しておいた衣服へ着替えると、机の上に置いた秋灯草の鉢へ目を向けた。小さな黄色い花は今朝も変わらず咲いており、窓から少し離した場所で、差し込み始めた朝の光を受けている。


(昨日よりも、少しだけ寒くなった気がします。窓際に置く時間も、これからは気をつけた方がよさそうですね)


 指先で土の表面を確かめると、まだ湿り気が残っていた。水を足す必要はないと判断し、シアは鉢の向きを少し変えてから、机の端に置いた帳面を開いた。


 昨日、ハンス・ロイヴェンが知らせてくれた黒麦粉の納品遅延について、必要なことはすでに書き留めてある。発注した数量に変更はないものの、北側街道の通行制限によって到着日が確定していないこと。そして、店では既存の予約を優先し、新しい注文については必ずマルタかオットーへ確認することになっていた。


 その内容を読み返したシアは、帳面を閉じて小さく息を吐いた。昨日は予想していなかった知らせに緊張したものの、店主夫婦が落ち着いて対応してくれたおかげで、何をすればよいのかを整理できている。


(今日も、私にできることを一つずつ。分からないことがあったら、きちんと確認しましょう)


 そう心の中で決めてから、シアは母の形見である銀のペンダントを衣服の内側へ収めた。冷たい金属が胸元に触れる感覚にも、今では少しずつ慣れている。


 階段を下りると、厨房からは薪の燃える匂いと、粉を扱う乾いた音が漂ってきた。扉の向こうではオットーが作業台に向かい、マルタは大きな布を畳みながら、焼き上がったパンを並べる棚の準備をしている。


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


「おはよう、シア。今朝はずいぶん冷えるねえ。まずは手を温めておいで」


 マルタはいつものように穏やかな声で迎え、厨房の奥に用意していた温かい飲み物を示した。シアが礼を言ってカップを受け取ると、オットーも作業の手を止めずに顔を上げる。


「おはよう。今日は昨日決めた分を焼く。宿から変更のあった丸パンも、ちゃんと数に入れてあるから安心してくれ」


「ありがとうございます。受け渡しのときには、変更後の注文をもう一度確認しますね」


「ああ、それで頼む。黒麦パンの方は、今日も店頭へ出す数を絞るつもりだ」


 オットーはそう言って、作業台の端に置いた粉袋へ目を向けた。袋の口は丁寧に結ばれているが、その数がいつもより少ないことは、シアにも分かる。普段なら何気なく通り過ぎてしまう厨房の一角が、今は店の仕事を続けるために重要な場所になっていた。


 シアは飲み物を終えると、手を洗い、清潔な布で水気を拭き取った。予約帳を開き、宿へ渡す分と店頭へ並べる分を確認してから、それぞれの籠に札をつけていく。


 昨日の《銀鹿亭》からの変更注文は、すでに正式なものとして記録されていた。最初に希望された黒麦パンの追加は取り下げられ、代わりの丸パンについてマルタとオットーが受注を認めている。シアは記録の横に残された変更の印を見つめ、受け渡しの際に間違えないよう、もう一度内容を確かめた。


「シア、その札は少し右へ寄せておいてくれるかい。焼き上がったものを置くときに、布の下へ隠れないようにしたいんだ」


 オットーに声をかけられ、シアはすぐに札の位置を直した。作業台の上では、丸く分けられた生地が次々と並べられていく。まだ焼く前の柔らかな生地からも、かすかな小麦の香りが感じられた。


「こちらでよろしいでしょうか」


「ああ、見やすくなった。ありがとう」


 短いやり取りのあと、三人はそれぞれの仕事へ戻った。外では街が少しずつ目覚め、荷車の車輪が石畳を転がる音や、店の前を通り過ぎる人々の話し声が増えていく。


 シアはその音を聞きながら、今日も《麦穂亭》の一日が始まるのだと感じていた。


     ◇


 開店して間もなく、いつもの朝食用のパンを求める客が続いた。丸パンを二つ買っていく職人、胡桃パンを選ぶ年配の女性、家族の分をまとめて包んでほしいと頼む若い母親。シアはそれぞれの注文を確かめながら、棚の数が少しずつ減っていく様子を見守った。


 客が途切れたところで、マルタが店頭へ顔を出した。


「今のところ、順調そうだね。黒麦パンのことを聞かれたら、昨日話した通りにお願いするよ」


「はい。今日の店頭分がなくなった場合も、明日の分を勝手にお約束しないようにします」


「それでいいよ。お客さんには申し訳ないけれど、無理をして引き受けたら、あとで困らせることになるからね」


 マルタはそう言って、棚に残っている黒麦パンの数を確かめた。焼きたての香りが店内に広がっているため、入口から入ってきた客の多くが、自然とパンの並ぶ棚へ目を向ける。


 ほどなくして、杖をついた老人が姿を見せた。黒麦パンを好む常連のハロルドだった。


「おはよう、シアさん。今日は黒麦パンが残っているかな」


「おはようございます、ハロルドさん。はい、今でしたらございます。ただ、材料の入荷が遅れておりまして、いつもより少ない数で販売しております」


 シアが説明すると、ハロルドは棚を眺めながらゆっくり頷いた。いつもなら二つ買っていくことが多いが、今日は少し考えたあと、一本だけを指さす。


「それなら、一つにしておこうかね。ほかにも欲しい人がいるだろうし、わしは丸パンも好きだからな」


「ありがとうございます。でも、必要な分を遠慮なさらなくても大丈夫ですよ。今日の販売分は、店主が決めておりますので」


 シアは思わずそう答えていた。ハロルドの気遣いはありがたいが、店の事情を知ったからといって、客が必要以上に我慢することを当然と思いたくはなかった。


 老人はその言葉に目を細め、杖を持つ手を少し緩めた。


「そうかい。では、今日は黒麦パンを一つと、丸パンを二つもらおうかな。家で温め直して食べるのも楽しみなんだ」


「かしこまりました。丸パンも一緒にお包みしますね」


 シアは注文を受け、形が崩れないように紙を折りながら包みを整えた。ハロルドは支払いを済ませると、店内を見回して穏やかに笑う。


「こうして朝にパンを買いに来られるのは、ありがたいことだね。無理をしすぎず、長く続けておくれ」


「はい。マルタさんとオットーさんにも、お伝えします」


 老人が帰ったあと、シアはその言葉をマルタへ伝えた。マルタは少し照れたように笑い、奥の厨房にいるオットーへも聞こえるように声をかける。


「聞いたかい、あんた。長く続けておくれ、だってさ」


「ありがたい話だな。なら、今日も無理せず、きちんと焼くとしよう」


 オットーの返事に、マルタは満足そうに頷いた。シアもつられて笑いながら、棚のパンを並べ直す。


 店を長く続けることは、今日一日ですべてを売り切ることとは違う。材料を守り、客との約束を守り、明日もまた店を開けることが大切なのだと、シアは少しずつ理解し始めていた。


 その後、《銀鹿亭》の使いが注文したパンを受け取りに来た。昨日とは別の従業員だったが、注文控えを持参しており、シアはマルタと一緒に数量と内容を確認した。


「昨日、黒麦パンの追加を丸パンへ変更していただいた分も、こちらに入っております」


「ありがとうございます。宿の主人から聞いています。急な相談だったのに、対応していただいて助かりました」


 使いの男は籠の中を確認し、控えと照らし合わせてから礼を言った。シアはパンを渡す際、受け取りやすいよう籠の向きを変え、重いものが片側へ寄らないよう気をつける。


「こちらこそ、変更のご連絡をありがとうございました。どうぞお気をつけてお帰りください」


 男が店を出ると、シアは受け渡し済みの印をつけた。最初の希望から変更があった注文だっただけに、無事に渡せたことへ小さな安堵を覚える。


(昨日、きちんと確認しておいてよかったです。今日になって慌てずに済みました)


 そう考えたところで、入口の鈴が再び鳴った。シアが顔を上げると、そこには見覚えのある背の高い青年が立っていた。


     ◇


「こんにちは、シアさん。今、お時間は大丈夫でしょうか」


 落ち着いた声とともに微笑んだのは、レオンハルト・アルヴェインだった。


 整った濃い色の上着を身につけ、手には薄手の革手袋を持っている。いつもと変わらない穏やかな表情だったが、肩口には外を歩いてきた冷気が残っているようで、シアは思わず入口の方へ目を向けた。


「レオンハルト様。こんにちは。はい、ただいまは少し落ち着いております」


 答えながら、シアは胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。彼と顔を合わせるのは久しぶりというほどではないものの、最近は店の仕事と街道の問題が重なり、ゆっくり話す機会がなかった。


 レオンハルトは棚へ視線を移し、並んでいるパンを一つずつ眺めた。


「今日は丸パンを二つと、胡桃パンを二ついただけますか。もし残っていれば、蜂蜜パンも一つお願いしたいのですが」


「はい、ございます。全部で二十九銅貨になります」


 シアは注文を確かめ、パンを包み始めた。レオンハルトはその手元を見守りながら、店内に漂う焼きたての香りを楽しむように、少しだけ目を細める。


「こちらへ来ると、いつもいい香りがしますね。外を歩いていると、つい立ち寄りたくなります」


「ありがとうございます。オットーさんが今朝も丁寧に焼いてくださったんです。胡桃パンも、ちょうどよい焼き色になっておりますよ」


「それは楽しみです。前にいただいたときも、とても美味しかったので」


 レオンハルトの言葉は自然で、何か特別なことを言おうとしている様子はなかった。それなのに、シアは自分が働く店を褒めてもらえることが嬉しく、包み紙を折る指先へ少しだけ力が入った。


 パンを渡し終えると、レオンハルトは代金を置き、ふと棚の一角へ視線を向けた。


「今日は黒麦パンが少ないのですね。何か事情があるのでしょうか」


 シアは一瞬だけ迷った。材料の入荷が遅れていることは客へも説明しているが、その原因についてどこまで話してよいかは、店主に確認した方が確実だ。


「北側街道の通行が制限されている影響で、材料の到着が遅れております。詳しい仕入れの状況については、店主に確認していただければと思います」


 その返答に、レオンハルトの表情がわずかに引き締まった。けれど、すぐに何かを尋ね返すことはせず、シアの言葉を受け止めるように頷いた。


「そうでしたか。街道の影響が、こちらにも出ているのですね」


「はい。ただ、すでにお受けしているご予約を優先して、できるだけ普段どおりに営業できるようにしております」


「なるほど。大変な中でも、きちんと対応されているのですね」


 シアはその言葉に小さく首を振りかけたが、途中で思い直した。自分だけの力ではないにしても、マルタとオットーが考え、店全体で対応していることは事実だった。


「ありがとうございます。マルタさんとオットーさんが、早めに準備を進めてくださったおかげです。私も、注文を間違えないように気をつけています」


 レオンハルトはその答えを聞き、穏やかに微笑んだ。


「シアさんらしいですね。以前から思っていましたが、あなたは一つひとつの仕事を、とても大切にされています」


 思いがけない言葉に、シアは少しだけ目を見開いた。自分の仕事ぶりをそこまで見られていたとは思わず、返事を探す間に頬が熱くなる。


「そ、そんな……まだ覚えることも多いですし、失敗しそうになることもありますから」


「それでも、分からないことを確認しながら進めているのでしょう。私は、それも大切な力だと思います」


 レオンハルトは無理に褒め言葉を重ねることなく、静かな声で続けた。シアは視線を落とし、包み紙の端を整えた自分の指先を見つめる。


(……レオンハルト様は、どうしてこんなふうに言ってくださるのでしょう)


 嬉しい気持ちと、少し落ち着かない気持ちが同時に胸へ広がった。褒められることに慣れていないせいだけではない。彼の言葉には、こちらが無理をして立派に見せようとしなくてもよいと思わせる、不思議な温かさがあった。


「ありがとうございます。そう言っていただけると、これからも頑張ろうと思えます」


 シアが顔を上げると、レオンハルトは満足そうに頷いた。二人の間に流れた短い沈黙は気まずいものではなく、店の奥から聞こえる作業の音が、その静けさを自然に満たしていた。


 やがてレオンハルトは、入口の外へ一度目を向けてから、少し話題を変えた。


「そういえば、以前お話しした川沿いの道ですが、最近は朝方に冷え込む日が増えています。もし散歩に出かけることがあれば、足元には気をつけてください」


「はい。実は、冬になる前に靴の底を見てもらおうと思っていたところなんです。靴屋さんの息子さんにも、石畳が滑りやすくなると教えていただきました」


「それはよい考えですね。橋の上や日陰になりやすい場所は、街中よりも冷えが残ることがありますから」


 レオンハルトはそう言いながら、以前シアと話した川の景色を思い浮かべているようだった。シアも、ミレイユと歩いた南の川沿いや、石橋の向こうに広がっていた景色を思い出す。


「川沿いは、とても綺麗でした。寒くなってからの景色も見てみたいと思うのですが、まずはきちんと準備をしてからですね」


「ええ。無理のない日に、暖かい服装で出かけるのがよいと思います」


 レオンハルトはそこで一度言葉を区切り、シアの表情を確かめるように視線を向けた。


「……また、川の話を聞かせていただけたら嬉しいです。シアさんが見つけた景色のことを、私は聞いてみたいので」


 その言葉に、シアの胸が小さく跳ねた。彼は一緒に出かけようと言ったわけではなく、次に会ったときの話題を楽しみにしているだけなのだろう。それでも、自分が見たものや感じたことに興味を持ってもらえるのは、シアにとって特別なことだった。


「はい。私も、レオンハルト様のお話を聞けたら嬉しいです」


 答えたあと、少しだけ照れくさくなり、シアは目を伏せた。レオンハルトもまた、いつもより柔らかな笑みを浮かべている。


 そのとき、奥からマルタが店頭へ顔を出した。


「あら、レオンハルト様。いらしていたんですね」


「こんにちは、マルタさん。お忙しいところ、お邪魔しています」


「とんでもありません。いつもありがとうございます」


 マルタはにこやかに挨拶を返したあと、シアが包み終えたパンへ目を向けた。すでに会計が済んでいることを確認すると、余計な口出しはせず、棚の残りを確かめ始める。


 レオンハルトはマルタへ軽く会釈し、黒麦粉の入荷について、店として何か困っていることがないかを尋ねた。マルタはハンスから連絡を受けていることと、現在は予約を優先して営業していることを説明する。


「道の方も大変だと聞いていますからね。うちだけ特別に早く運んでほしいとは言えません。今は届くまでの間、できることをしておこうと思っています」


「そうですね。通行の安全を確かめながら進めているため、どうしても時間がかかる部分があります。状況が変われば、商人の方々にも順に知らせが届くはずです」


 レオンハルトは慎重に答えた。自分が街道の仕事に関わっていることを隠しているわけではないが、店の仕入れについて、その場で特別な便宜を約束することもしない。


 マルタもその点を理解しているらしく、穏やかに頷いた。


「無事に運んでもらうのが一番ですからね。急がせて事故でも起きたら、それこそ大変です」


「ありがとうございます。そう言っていただけると、現場で働いている者たちも救われると思います」


 レオンハルトは礼を述べ、パンの包みを手に取った。シアはその様子を見ながら、彼がただ店へ買い物に来た客ではなく、街の暮らしを支える仕事に関わっている人物なのだと、改めて感じていた。


 以前から知っているはずのことなのに、今日は少し違って見える。遠くの道を直す仕事と、目の前のパンを焼く仕事が、一本の街道を通じてつながっていることを実感したからかもしれない。


「それでは、そろそろ失礼します。今日も美味しいパンをありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとうございました。どうぞお気をつけてお帰りください」


 シアが頭を下げると、レオンハルトは一度だけ彼女へ微笑み、店を出ていった。入口の鈴が鳴り、外の冷たい空気がわずかに入り込む。


 シアは扉が閉まったあともしばらく、その方へ目を向けていた。


「シア、次のお客さんが来る前に、少し棚を整えておこうか」


 マルタの声に我に返り、シアは慌てて頷いた。


「は、はい。すぐにいたします」


 マルタは何かに気づいたような表情を浮かべたものの、それ以上は何も言わなかった。ただ、シアが棚へ向かうのを見守りながら、口元に小さな笑みを残している。


     ◇


 店を出たレオンハルトは、通りを歩きながら手にしたパンの包みへ目を向けた。焼きたての温かさは紙越しにもわずかに伝わり、冷えた指先に心地よい。


 北側街道の補修については、ここ数日、何度も報告を受けていた。通行できる荷車の数を制限しているのは、傷んだ区間で無理に車両をすれ違わせないためであり、現場の安全を守るうえで必要な措置だった。


 それでも、街道を使う商人たちにとって、予定が立たないことが負担になるのは分かっている。荷が遅れれば店の仕入れが変わり、仕入れが変われば客へ渡せる品も変わる。机の上に並ぶ報告書だけでは見えにくい影響が、街のあちこちで起きているのだ。


(《麦穂亭》にも、すでに影響が出ていたか。ハンスのように早めに知らせを届けている商人がいるのは救いだが、到着日が分からないままでは店側も判断が難しいだろう)


 レオンハルトは歩く速度を少し緩め、通りの先へ目を向けた。市場へ向かう荷車が角を曲がり、向かい側では布を扱う店の主人が軒先の商品を整えている。


 冬が近づくこの時期、街の商いは少しずつ変化する。薪や厚手の衣服を求める人が増え、食料を扱う店では保存の利く品への関心が高まる。道路の状態が暮らしに与える影響は、夏よりも大きくなることがある。


 だからこそ、焦って通行制限を緩めるわけにはいかなかった。荷を早く運ぶために事故を起こしてしまえば、かえって長い時間、街道を使えなくする恐れがある。


 レオンハルトはそのことを十分に理解している。それでも、先ほど店で見たシアの姿を思い出すと、報告書に記された「納品遅延」という言葉が、以前より具体的な重みを持って感じられた。


 彼女は困っている様子を隠そうとはしていなかったが、必要以上に不安を広げることもなかった。分からないことは店主へ確認すると伝え、店で決めた方針の範囲で説明している。


(以前より、少し落ち着いて話せるようになったのだろうか)


 初めて《麦穂亭》で会った頃のシアは、丁寧でありながら、どこか必要以上に緊張しているように見えた。客に失礼がないよう気を配る姿勢は今も変わらないが、最近は自分の言葉で考えを伝える場面が増えている。


 もちろん、レオンハルトは彼女の過去を知らない。なぜ遠慮がちなところがあるのか、何を経験してきたのかについて、確かなことは何も分からなかった。


 ただ、今の彼女が少しずつ笑顔を見せるようになっていることは、店を訪れるたびに感じていた。


 先ほど川の話をしたときも、彼女は自分の見た景色を思い出すように微笑んでいた。その表情が妙に心に残り、レオンハルトは思わず視線を下げる。


(また話を聞きたいと思ったのは、本当だ。仕事の話ばかりしていると、ああいう穏やかな時間が、ずいぶん貴重に感じられる)


 自分の気持ちをそれ以上詳しく考えることはせず、レオンハルトは歩みを進めた。公爵家の跡取りという立場にある以上、店の従業員である彼女へ軽々しく踏み込むべきではない。


 それでも、彼女が安心して働ける街であってほしいという思いは、以前より確かになっていた。


 そのために必要なのは、特定の店だけを優遇することではない。街道を利用する人々が、安全に荷を運べるようにすることだ。


 レオンハルトはパンの包みを持ち直し、午後に予定されている報告の確認へ向かった。


     ◇


 その頃、《麦穂亭》では昼の忙しさが少しずつ落ち着き始めていた。シアは売上を記録しながら、棚の残りと予約分の受け渡しが済んでいることを確認している。


 レオンハルトが帰ったあとも、彼の言葉が時折頭に浮かんできた。


『あなたは一つひとつの仕事を、とても大切にされています』


 何か特別な成果を上げたわけではない。店で決められたことを守り、分からないことを確かめながら働いているだけだ。それでも、その姿を見てくれている人がいることが、シアには嬉しかった。


(……あまり考えていると、仕事に集中できなくなってしまいますね)


 そう思って帳面へ視線を戻したところで、マルタが隣へやってきた。


「シア、少し休憩しておいで。朝からよく動いてくれたし、今なら店も落ち着いているから」


「ありがとうございます。では、先にこちらの記録だけ終わらせてから、休ませていただきます」


「急がなくてもいいよ。私が店を見ているからね」


 マルタはそう言って、シアが書いている帳面へ目を向けた。数字の並びを軽く確認すると、満足そうに頷く。


「今日も丁寧に書いてくれているね。こういう記録があると、あとでオットーと相談するときに助かるんだよ」


「そう言っていただけると嬉しいです。まだ、もっと分かりやすくできるところがあるかもしれませんけれど」


「工夫するのはいいことだけど、今のやり方でも十分役に立っているからね。何でも一度に良くしようとしなくていいんだよ」


 その言葉に、シアは小さく笑った。以前なら、もっと上手にしなければと考え、休む時間まで削ってしまったかもしれない。けれど今は、仕事を続けるためにも、無理をしないことが大切だと少しずつ分かってきている。


 記録を終えて厨房の奥へ向かうと、オットーが温かい飲み物を用意してくれていた。シアは礼を言って受け取り、椅子へ腰を下ろす。


 厨房には焼き上がったパンの香りがまだ残っており、窯の熱が冷えた身体をゆっくり温めてくれる。窓から差し込む午後の光は朝よりも柔らかく、作業台の上に置かれた木匙の影を長く伸ばしていた。


「さっき、レオンハルト様がいらしていたそうだな」


 オットーが何気なく尋ねると、シアはカップを持つ手を少し止めた。


「はい。丸パンと胡桃パン、それから蜂蜜パンをお買い上げくださいました」


「そうか。あの方は、いつも礼儀正しいな。忙しい立場だろうに、店のことも気にかけてくださる」


「……はい。黒麦粉のことも、心配してくださいました」


 シアが答えると、オットーは穏やかに頷いた。彼にとっては、公爵家の跡取りが店へ立ち寄ったというだけでも珍しいことだろう。それでも、必要以上に騒ぎ立てることはなく、いつもの客の一人として丁寧に接している。


「道の仕事は大変だろうな。俺たちは粉が届くのを待っているが、あちらでは安全を確かめながら進めなきゃならん。どちらも簡単な話じゃない」


「そうですね。私も、今日お話ししていて、改めてそう思いました」


 シアはカップの中へ目を落とした。レオンハルトが仕事について詳しく語ったわけではない。それでも、彼の慎重な言葉から、簡単に約束できないことを理解しているのが伝わってきた。


「それにしても、シアは最近、前よりよく笑うようになったな」


 オットーの言葉に、シアは思わず顔を上げた。


「え……そうでしょうか」


「ああ。最初の頃は、何かあるたびに申し訳なさそうな顔をしていたからな。今は、楽しそうに話していることも増えた」


 オットーはそう言いながら、特別なことではないように木匙を片づけた。シアは返事を探し、しばらく黙ってしまう。


 自分では、そこまで変わったつもりはなかった。今でも失敗を怖がることはあるし、大きな声を聞くと身体が強張ることもある。それでも、店で働き始めた頃の自分を思い返すと、確かに少し違っているのかもしれない。


(私、そんなふうに見えていたんですね。でも……今は、ここで笑っていてもいいと思えるようになりました)


 胸の奥が温かくなり、シアはカップを両手で包み直した。


「マルタさんとオットーさんのおかげです。お二人が、いつも優しく教えてくださるので」


 オットーは少し困ったように笑い、首を振った。


「俺たちは仕事を教えているだけだよ。もちろん、シアが頑張っているのは知っているが、笑えるようになったのは、シア自身がここで暮らしてきたからだろう」


 その言葉に、シアはすぐには返事ができなかった。自分が頑張ったことを認められるのは、まだ少し照れくさい。けれど、否定したいとは思わなかった。


「……ありがとうございます。これからも、ここでいろいろ覚えていきたいです」


「ああ。焦らずやっていこう」


 オットーはそう答え、再び作業台へ向かった。シアは残った飲み物をゆっくり口にしながら、窓の外へ目を向ける。


 午後の街は穏やかで、通りを行く人々の姿が絶えない。少し前まで自分にとって見知らぬ場所だったこの街が、今では毎日の暮らしを重ねる場所になっている。


 その変化を、シアは静かに噛みしめていた。


     ◇


 夕方、店じまいの準備が始まる頃には、空の色が少しずつ薄い橙色へ変わっていた。シアは棚の残りを数え、売上帳と照らし合わせてから、マルタへ報告する。


 黒麦パンは予定していた店頭分がすべて売れ、丸パンも残りは少なかった。今日の予約はすべて無事に渡し終えており、変更注文についても問題は起きていない。


「今日は大きな行き違いもなく終われたね。ありがとう、シア」


「こちらこそ、ありがとうございました。黒麦粉のことはまだ心配ですが、今日の分はきちんとお渡しできてよかったです」


 マルタは頷き、帳面を閉じた。


「明日も、今ある材料を見ながら考えよう。ハンスから新しい知らせが来るかもしれないし、来なければ来ないで、そのときの分を決めればいいからね」


 シアはその言葉に頷いた。昨日も同じような話をしたが、今日は少し違う気持ちで受け止められる。分からないことが残っていても、今できる仕事を終えたという実感があった。


 片づけを終えたあと、マルタは残ったパンと温かいスープを用意してくれた。三人で食卓を囲むと、昼間の忙しさが嘘のように、厨房には穏やかな時間が流れる。


「そういえば、シア。冬の支度は進んでいるかい」


 マルタに尋ねられ、シアは先日買った靴下と手袋のことを話した。上着についてはまだ迷っていること、靴の底も一度見てもらおうと思っていることを伝えると、マルタは納得したように頷く。


「それなら、靴を先に見てもらうのはいい考えだね。上着も大事だけど、滑って転んだら大変だから」


「はい。ニコ君にも教えてもらいましたし、休みの日に靴屋さんへ行ってみようと思います」


「ニコは父親の仕事をよく見ているからね。あの子の言うことなら、きっと役に立つよ」


 マルタは笑いながら、スープを一口飲んだ。オットーも頷き、冬になると石畳の一部が滑りやすくなることや、朝の早い時間には特に気をつけた方がよいことを話してくれた。


 シアは二人の話を聞きながら、冬の街を想像した。今はまだ冷たい風が吹く程度だが、これからさらに気温が下がれば、通りの様子も変わるのだろう。


(冬になったら、どんな景色になるのでしょう。雪が降ることもあるのかしら)


 そんなことを考えていると、昼間のレオンハルトの言葉が思い出された。川沿いの道は朝方に冷え込み、橋の上や日陰では足元に注意が必要だという。


 彼はいつも、ただ綺麗な景色を話すだけでなく、そこを歩く人の安全についても考えている。そういうところが、シアには少し不思議で、同時に安心できるものだった。


「シア、どうかしたかい」


 オットーに声をかけられ、シアは慌てて顔を上げた。


「い、いえ。冬の川沿いは、どんな景色になるのかなと思っていました」


「川沿いか。寒くなると風が強い日もあるから、出かけるなら昼間がいいだろうな」


「そうですね。きちんと暖かくして、無理のない日に行ってみたいです」


 シアが答えると、マルタは優しく微笑んだ。


「いいねえ。せっかくこの街へ来たんだから、仕事だけじゃなくて、いろんな場所を見ておいで。休みの日は、自分の好きなことをしていいんだからね」


 その言葉に、シアは静かに頷いた。休みの日に何をするかを自分で決められることは、今でも嬉しい驚きの一つだった。


 ミレイユとの図書館の約束も、まだ日取りは決まっていない。けれど、次に会ったときに相談する楽しみがある。冬の上着を選ぶことも、靴を直してもらうことも、すべて自分の暮らしを整えるための小さな予定だった。


 食事を終えると、シアは食器を片づけ、二人へ礼を言ってから二階へ上がった。


     ◇


 自室へ戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。通りには家々の灯りがともり、遠くから荷車の音がかすかに聞こえてくる。シアは上着を脱いで丁寧に畳み、机の上に置いた秋灯草の鉢を確かめた。


 土の表面にはまだ少し湿り気があり、水を足す必要はなさそうだった。シアは鉢を夜の冷気が直接当たらない場所へ移し、机の灯りをつける。


 その隣には、図書館で借りた『冬の暮らしと小さな工夫』が置かれていた。昨日読んだ頁を開くと、衣服の手入れや、冷たい風を防ぐための工夫が紹介されている。


 シアは先日買った手袋を取り出し、縫い目を確かめた。まだ新しいため傷みはないが、長く使うためには、濡れたまま放置しないことや、使ったあとに形を整えることが大切らしい。


「大切に使わなくてはいけませんね」


 小さく呟きながら、シアは手袋を畳み直した。自分で選び、自分のお金で買ったものだからこそ、できるだけ長く使いたい。


 続いて帳面を開き、今日の出来事を書き留める。黒麦粉の到着日はまだ未確定だが、今日の予約はすべて無事に渡し終えたこと。ハロルドが店を長く続けてほしいと言ってくれたこと。ニコから教わった靴のことを、次の休みに確かめようと思っていること。


 そして、レオンハルトが店へ来てくれたことも、少し迷ったあとで書き加えた。


 ただ、何を書けばよいのか分からず、シアはしばらく筆を止めた。彼が買ったパンの種類なら、店の帳面にも残っている。川沿いの道について教えてくれたことも、覚えておけばよい話だ。


 けれど、本当に書き留めておきたいのは、それだけではなかった。


(……仕事を大切にしていると言ってくださったことが、嬉しかったんです)


 そう思った瞬間、シアは自分の頬が少し熱くなるのを感じた。誰かに褒められることが嬉しいのは、決して不思議なことではない。それなのに、レオンハルトの言葉を思い返すと、胸の奥が落ち着かなくなる。


 彼は公爵家の跡取りで、自分とは立場が大きく違う人物だ。親切にしてくれるのも、礼儀正しく接してくれるのも、きっと彼自身の人柄なのだろう。


 それでも、彼が自分の仕事ぶりを見ていてくれたことや、また話を聞きたいと言ってくれたことは、シアにとって特別な喜びだった。


(私も、またお話しできたら嬉しいです。川のことでも、街のことでも……何でもないお話でも)


 そこまで考えて、シアは慌てて筆を置いた。自分が何を期待しているのか、まだうまく言葉にできない。ただ、彼と話している時間が心地よいことだけは、確かだった。


 しばらくしてから、シアは帳面へ短く書き加えた。


『レオンハルト様が、私の仕事を褒めてくださった。とても嬉しかった』


 それだけ書くと、なぜか胸の奥が少し軽くなった。無理に理由を探さなくても、嬉しかったという気持ちを、そのまま残しておけばいいのかもしれない。


 シアは帳面を閉じ、銀のペンダントへそっと触れた。母の形見を手にすると、遠い過去の記憶が胸をよぎることがある。けれど今夜は、懐かしさと寂しさのほかに、今日一日を穏やかに終えられた安心感があった。


 この街へ来たばかりの頃、シアは自分がどこまで暮らしていけるのか分からなかった。パン屋で働くことも、誰かと親しくなることも、休みの日に街を歩くことも、すべて初めての経験だった。


 今では、朝になれば迎えてくれる人がいる。仕事を教えてくれる人がいて、店へ来る客の顔も少しずつ覚えてきた。友人と出かける約束があり、また話したいと思える人もいる。


 その一つひとつが、シアの暮らしを静かに支えていた。


 窓の外で風が鳴り、シアは灯りを少し弱めた。秋灯草は机の端で小さな黄色い花を咲かせ、借りた本は栞を挟んだまま、次に開かれるのを待っている。


 明日も黒麦粉が届くかどうかは分からない。店の仕事にも、まだ覚えることがたくさんある。それでも、今日の自分ができたことを思い返すと、少しだけ胸を張れる気がした。


「……明日も、頑張りましょう」


 シアはそう呟き、寝台へ向かった。掛け布団の中へ身体を収めると、冷えていた指先がゆっくり温まっていく。


 眠りに落ちる前、ふとレオンハルトの穏やかな笑顔が浮かんだ。シアは少し照れくさくなりながらも、その記憶を無理に追い払おうとはしなかった。


 誰かとまた会いたいと思うことも、その日を楽しみにすることも、今の自分には許されている。


 そんな当たり前の幸せを胸に抱きながら、シアは静かに目を閉じた。

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