第45話:マンデーパニックをもう一度
お盆明けの月曜日。
八月半ばとはいえ、まだ猛暑が続いている。
だが、俺の心の中には爽やかな風が吹いていた。
山梨から帰ってきて三日目。
ムギとおこげの追いかけっこ。線香花火。母さんの天ぷら。父さんの地酒。
全部が昨日のことのように鮮明だ。
そして、あの夜の——虫の声と、隣の温もりも。
出社して、エレベーターに乗る。
鏡に映った自分の顔が、心なしか日焼けしている。
「おー大塚、いい色してんな。どっか行ってたの?」
田所が声をかけてきた。
「実家に帰ってたよ。山梨」
「いいなぁ。俺はずっと家でゴロゴロしてたわ」
何事もなく、元の席に着く。
パソコンを起動し、休み中に溜まったメールを片付ける。
平穏な月曜日の朝。パニックとは無縁の、穏やかな時間だ。
——そう思っていた。
◇
午前十時。給湯室。
コーヒーを淹れようと入ると、先客がいた。
ひよりさんだ。マグカップにアイスコーヒーを入れるところだったようだ。
二人きりだ。
「おはようございます、ひよりさん」
小声で名前を呼ぶ。
「おはようございます、勝利さん」
ひよりさんも小声で返してくれた。
頬がほんのり赤い。
「ムギちゃん、元気にしてるでしょうか」
「昨日、母さんから写真来てましたよ。おこげのおもちゃ、まだ離さないって」
「ふふっ。やっぱり気に入ってくれたんですね。おこげも帰ってからずっとムギちゃんの匂い嗅いでるんですよ、あの子のベッドに——」
ガチャ。
ドアが開いた。
「おっ。二人とも早いな」
課長だった。
俺たちは反射的に一メートル離れた。
「課長、おはようございます」
「おはようございます!」
ひよりさんの声が裏返っている。
課長は給茶機に向かいながら、何気なく言った。
「天草くん、日焼けしたな。旅行でも行ったのか?」
「あ、は、はい。ちょっと……田舎の方に」
「そうか。大塚も焼けてるな。お前も田舎か?」
「はい、山梨の実家です」
「ふうん。二人とも田舎帰りか。同じだな。ハハハ」
課長は何も気づいていない。
俺とひよりさんは、課長の背中の後ろで目を合わせた。
危なかった、という顔を共有して、ひよりさんがマグカップを持って逃げるように出ていった。
……大丈夫だ。まだバレていない。
◇
昼休み。
社員食堂でカレーを食べていると、同じ営業部の中村が向かいに座った。
「大塚、お盆は実家帰ったんだって? 山梨だっけ?」
「そうそう。久しぶりの帰省で」
「いいなー、涼しかった?」
「いや、普通に暑かったよ。でもまあ、のんびりできた」
他愛もない会話だ。
だが、次の一言は不意打ちだった。
「そういえばさ、天草さんもお盆に山梨行ってたらしいぞ」
心臓が跳ねた。
「え、そうなの?」
「おう。さっき総務のやつが言ってた。偶然だな、山梨つながりじゃん」
中村は深い意味なく笑っている。
だが俺の背中には、冷たい汗が一筋流れた。
「偶然だな。でも山梨っても広いから」
「だよな。ま、いいけど」
中村はそれ以上気にする様子もなく、定食に箸をつけた。
俺はカレーを急いで平らげて、食堂を後にした。
◇
午後三時。
事態は、俺の知らないところで進行していた。
経理部のエリアに書類を届けに行った帰りのことだ。
経理部、営業部と総務部は同じフロアの並びで、背の低いキャビネットが境になっているだけだ。普段は電話の声やキーボードの音が入り混じって、隣の会話なんてほとんど聞こえない。
だが、今日に限って——やけに静かだった。
ひよりさんのデスク周辺に、女性社員が三人ほど集まっている。
休み明けの雑談タイム。よくある光景だ。
俺は、営業部エリアにある集約ポストの書類を取って戻ろうとしたのだが、キャビネット越しに聞こえてきた会話に足が止まった。
「天草さんは? お盆休みはどこか行ってたの?」
「え、あ……山梨に、ちょっと」
「山梨? 一人で?」
「えっと……いえ、その……」
ひよりさんの声が泳いでいる。
姿は見えない。キャビネットの向こう側だ。だが声だけで、顔が赤くなり始めているのが分かる。
猫かぶりは得意なのに、嘘をつくのは壊滅的に下手だ。
ふと気づいた。周囲が異常に静かだ。
普段はやかましいはずのフロアが、息を潜めている。キーボードを叩く音も、電話の着信音もしない。
みんな、アンテナ感度をMAXにして聞いている。
「ひょっとして、彼氏と?」
「あ、いや、えーと違……違わないですけど……いえ、その」
もう破綻している。
囲んでいるギャラリーたちの目がキラキラと輝き始めた。
「違わないって、つまり天草さん、彼氏いるの!? 」
「あ……はい。います……最近、でもないですけど」
総務部フロアに、小さな爆発が起きた。
「えーっ!」「マジで!?」「誰誰誰!?」
椅子のキャスターが一斉に動く音。周囲のデスクから顔がぬっと出てくる。
ひよりさんは真っ赤になって下を向いている。
だが、同僚たちの追撃はすでに始まっていた。
まるで芸能記者のようだ。
「で、で、山梨って何があるの? 旅行?」
「えっと……ご実家に、ご挨拶、を……」
「ご挨拶!?」
爆発の規模が一段階上がった。
「実家!?」「ガチのやつじゃん!」「親公認!?」
「あ、あの。ご両親がすごく優しくて、犬もいて——」
「ちょちょちょ、ちょっと待って。泊まり?」
「え」
「山梨でしょ? 日帰りはできなくもないけど……泊まったの?」
「……は、はい」
フロアの空気が凍り、そして沸騰した。
「泊まった!!」「実家に!!」
「あ、あの……同じ部屋では……最初は別だったんですけど……」
最初は。
この二文字が、致命的だった。
「最初は!? じゃあ途中から同じ部屋に!?」
「ち、違うんです!! 犬なんです!!」
「犬!?」
「ムギちゃんっていう柴犬がいて、すっごく可愛くて……それで眠れなくなって、ムギちゃんに会いに行ったら、あの……隣の部屋で……」
弁明になっていない。
むしろ情報が増えている。
言えば言うほど墓穴を掘るタイプの人間だ。
「ていうか誰よ、相手! 社内? 社外?」
「ひ……秘密、です」
「ってことは、社内ね!!!」
もはや大事件だ。
会社のアイドルに社内の暗黙のルールがある——天草ひよりは高嶺の花――。
手を出した者は社会的に死ぬ。
その花を摘んだ男がいる。しかも彼氏の実家に泊まりで挨拶までしている。
誰だ。全員がその一点に集中した。
「ヒント! ヒントだけでも!」
「えっと、あの……」
ひよりさんは何も言わなかった。
言わなかったのだが——視線が、一瞬だけ泳いだ、のだろう。
キャビネットの先。営業部のある方角――こっち側を、ちらりと見てしまったのだ。
本人は無意識だったと思う。
だが、ひよりさんの正面に座っていた同僚の一人が、その視線の先を追った。
「——こっち?」
同僚がくるりと振り返り、キャビネット越しに営業部側を覗き込んだ。
その目が、書類を持ったまま立ち尽くしている俺を捉えた。
「……大塚さん?」
目が合った。
完全に、合ってしまった。
そして放たれた質問。
「……大塚さんからのお土産、信玄餅でしたよね?」
キャビネットの向こう側から、全員の顔がぬっと現れた。
銃口のような視線だった。
逃げ場はない。
「……お疲れ様です」
俺が言えたのは、それだけだった。
◇
午後三時十五分。
噂は、経理部から総務部へ、総務部から人事部へ。そこからさらに別の階へ……。
ものの十分で全フロアに伝播した。
「天草ひよりと大塚勝利が付き合っている」
「実家に泊まりで挨拶した」
「同じ布団で寝た(犬のせいで)」
情報は伝言ゲームで増幅され、最後の項目に至っては「犬を言い訳にして同じ部屋に」という解釈が定着しつつある。
弁明の余地がない。というか事実だ。犬が可愛すぎたのも事実だし、布団に潜り込んだのも事実だ。
俺のデスクには、入れ替わり立ち替わり同僚がやってきた。
「お前か!! マジかよ!!」
「地味に見えて、やることやってたんだな……」
「モブが主人公になる瞬間を見た」
俺はひたすら「すみません」と頭を下げた。
何に対する「すみません」なのか自分でもよく分からないが、とにかく頭を下げた。
早乙女先輩だけは、俺のデスクの前を無言で通り過ぎていった。
◇
定時のチャイムが鳴った。
今日一日が、人生で一番長い月曜日だった。
エレベーターホールで、ひよりさんが待っていた。
顔がまだ赤い。というか、朝からずっと赤いままだ。
「……ごめんなさい。全部、私のせいです」
ひよりさんが、俯いたまま言った。
肩が小さく震えている。泣きそうなのか、恥ずかしいのか。
「いや、いつかはバレてたと思いますよ。……隠し通せるタイプじゃないですし、お互いに」
「でも、まさかこんな形で……犬のせいにしたのに余計ひどくなるなんて……」
「犬は無実ですからね」
「むぅ……」
ひよりさんが唇を尖らせた。
もういいか、と俺は思った。
「ひよりさん」
「はい」
「一緒に帰りましょう」
ひよりさんが顔を上げた。
目が少し潤んでいる。
「……いいんですか? もう、隠さなくて」
「隠す理由がなくなりましたからね」
俺はエレベーターのボタンを押した。
下り。一階。
「それに——」
ドアが開いた。
「堂々と隣を歩けるの、ちょっと嬉しいです」
ひよりさんの目がさらに潤んだ。
それから、くしゃっと笑った。
泣きそうで、嬉しそうで、恥ずかしそうな、全部が混ざった顔。
「……私も」
エレベーターの扉が閉まった。
一階でドアが開くと、夕暮れのロビーが広がっていた。
正面玄関の自動ドアの向こうに、オレンジ色の空が見える。
初めて、並んで会社を出た。
誰の目も気にせず。
自然と、手が繋がった。
ひよりさんの手は、いつもより少し汗ばんでいた。
「……勝利さん」
「はい」
「明日から会社でどんな顔したらいいか、全然わかりません」
「俺もです」
「どうしましょう」
「……とりあえず、今日のところは、アイスでも食べましょうか」
「賛成です。バニラがいいです」
「了解」
駅からの帰り道、俺たちはコンビニに寄った。
バニラとチョコ。いつもの組み合わせ。
袋を提げて、住宅街を歩く。
夕日が長い影を二つ、アスファルトに伸ばしていた。
同盟の秘密はもうない。
代わりに、もっと甘くて、もっと恥ずかしい秘密が——今日、盛大にバレた。
エスポワールの前を通りかかったが、ひよりさんは足を止めなかった。
俺も何も言わなかった。
繋いだ手はそのまま、二人でエスポワールの前を通り過ぎた。
次回、最終話!!




