第44話:対面
お盆休み初日。
早朝六時。駅前のレンタカー営業所の前に、俺たちは立っていた。
「……勝利さん、大丈夫ですか? 顔が白いです」
「大丈夫です。ちょっと緊張してるだけです」
大丈夫じゃなかった。
営業車で都内を回ることはあるが、プライベートで高速道路を走るのは久しぶりだ。まして、助手席に彼女、後部座席に犬という「大切な荷物」を載せてのドライブは初めてだ。
山梨の実家は駅からバスで四十分、そこからさらに歩いて十五分という立地だ。犬を連れて行くには車が一番だ。
レンタカーはコンパクトなSUV。後部座席に、おこげ用のキャリーケースを固定した。
おこげは車に乗るのが初めてらしく、目を丸くしてあちこち嗅ぎ回っている。
「おこげ、大人しくしててね」
ひよりさんがキャリーの扉越しにおこげの頭を撫でた。
今日の服装は白のワンピースに麦わら帽子。
俺の両親への挨拶ということで気合いが入っている。
いつものTシャツは封印しているらしい。清楚で、とても可愛らしい。
「じゃあ、出発しますか」
「はい。……安全運転で、お願いしますね?」
「もちろんです」
エンジンをかけた。ナビに実家の住所を入力する。
『目的地まで約二時間です』
中央自動車道経由。順調に行けば九時前には着く。
◇
住宅街を抜け、調布インターから中央道に入った。
時期的に混んでいるかと身構えたが、お盆休みの初日ということもあってか、思ったよりはスムーズに流れている。
「っ——」
「だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫です。ちょっと車線変更が怖かっただけです」
ひよりさんがナビを先読みして「次、右車線ですよ」「合流来ます、ゆっくりで大丈夫です」とサポートしてくれる。
意外と的確だ。
「ひよりさん、運転できるんですか?」
「免許は持ってますよ。でも兄さんが絶対に運転させてくれないので……完全なペーパーです」
「それ、サポートの説得力が下がるんですけど」
「気持ちのサポートです」
ひよりさんは、むん、と言わんばかりの仕草で握り拳を作っている。
八王子料金所を越えたあたりから、景色が一気に変わった。
ビルの壁が山の緑に切り替わる。トンネルを一つ抜けるたびに、空が広くなっていく。
「わー……すごい。緑がいっぱいですね」
ひよりさんが窓の外を見て目を輝かせた。
助手席の膝の上には、母さんへのフルーツゼリーと父さんへの地酒が紙袋に入って鎮座している。
談合坂サービスエリアで休憩を取った。
おこげをキャリーから出して、ドッグランスペースで少し走らせる。
真夏の朝日がアスファルトを焼き始めていたが、木陰は涼しかった。
「ソフトクリーム、食べます?」
「食べます! 信玄餅味って書いてありますよ!」
信玄餅ソフトを二つ買って、ベンチで並んで食べた。
黒蜜ときな粉のバランスが絶妙だ。ひよりさんが「おいしい」と目を細める。
ふと、彼女の鼻先にきな粉がついているのに気づいた。
「ひよりさん、ここ」
指で拭ってやると、ひよりさんの顔が真っ赤になった。
「な、なんですか今の……!」
「きな粉です」
「知ってます! そういうことじゃなくて……! 人前で……!」
周囲にいるすべての人がこちらを見てニヤニヤしているように感じる。
俺も照れくさくなって、残りのソフトクリームを一気に頬張った。
◇
中央道を降りて、県道を走る。
カーナビが示す道は、次第に細くなっていく。
コンビニが消え、信号が消え、すれ違う車もまばらになった。
代わりに、山と田んぼと、蝉の声が増えていく。
「本当に……田舎なんですね」
「言ったでしょう。車ないと不便なとこだって」
「でも素敵です。空が広くて……東京とは全然違いますね」
ひよりさんが窓を少し開けた。
風が吹き込んで、麦わら帽子のリボンが揺れる。
田んぼの匂い。草の匂い。子供の頃、毎日嗅いでいた匂いだ。
実家まであと十分というところで、ひよりさんが急に静かになった。
チラッと横を見ると、膝の上で手を組んで、指先をモジモジさせている。
「……緊張してきました」
「大丈夫ですよ。うちの親は犬と美味しいものがあれば上機嫌な人たちなので」
「でも、もし嫌われたら……」
「ない。断言します」
「どうして」
「ひよりさんは犬に好かれる人だから。うちの親は犬が好きな人が好きなんです」
ひよりさんが小さく笑った。
「なんですか、その三段論法」
「真理です」
曲がりくねった坂道を上り、見覚えのある石垣が見えてきた。
庭先に、洗濯物がはためいている。
帰ってきた。
庭に車を停めた。エンジンを切ると、蝉の大合唱が一気に押し寄せてきた。
東京の暑さとは違う、緑の匂いが混じった熱気が懐かしい。
「いらっしゃい! よく来たわねぇ」
玄関を開けると、母さんが千切れんばかりに手を振っている。父さんも後ろでニコニコしている。
そしてその足元には——
「ワン!」
柴犬のムギが尻尾をブンブン振って出迎えてくれた。
今年で十二歳。毛並みは少し白くなり、動きもゆっくりになったが、それでも俺のことは忘れていなかった。
「ムギ、ただいま! 元気だったか?」
「わふっ!」
俺がしゃがみ込むと、顔中を舐め回された。
「あらあら、おこげちゃんもいらっしゃい」
ひよりさんがキャリーバッグからおこげを下ろすと、さっそくムギと鼻を突き合わせて挨拶をしている。
最初は「なんだお前」と警戒していたムギだったが、おこげが「遊びましょ!」と尻尾を振って誘うと、すぐに打ち解けたようだ。
二匹でお互いの匂いを嗅ぎ合い、庭へと駆け出していく。
「……よかった。ムギちゃんとおこげも仲良しですね」
ひよりさんが、ほっとしたように胸を撫で下ろして笑った。
◇
玄関先でひよりさんが紙袋を差し出した。
「あの、これ……つまらないものですが」
母さんがフルーツゼリーの箱を開けて、目を丸くした。
「あらぁ! こんな立派なの! 悪いわねぇ」
「こっちは、お父様に。地酒の飲み比べセットです」
父さんの目が光った。酒には弱いくせに、新しい銘柄には目がない人だ。
「おぉ……これは嬉しいなぁ。今夜、一緒に飲もうか」
「あ、はい! ぜひ! ……あ、でも私、お酒はあまり強くなくて」
「弱い方が安上がりでいいじゃないか。ガハハハ」
父さんが豪快に笑った。
ひよりさんが少しホッとした顔をしている。関門突破。
「あらまぁ、こんな可愛らしいお嬢さんが……勝利にはもったいないわねぇ」
母さんがひよりさんの手を取って言った。
「本当にねぇ。勝利がこんな素敵な人を連れてくるなんて、夢かと思ったよ」
父さんも満足そうに頷いている。
どうやら、第一印象は百点満点だったようだ。
◇
午後は、ムギとおこげを連れて近所を散歩した。
実家の裏手にある小川沿いの道を、二人と二匹で歩く。
ムギはマイペースにのんびり歩く。おこげはそんなムギの周りをぴょんぴょん跳ね回っている。
まるで、おばあちゃん犬と孫犬みたいだ。
「ムギちゃん、おこげのこと好きみたいですよ。ほら、尻尾振ってます」
「ムギは基本的にどの犬とも仲良くやれるんですよ。人見知りなのは最初だけで」
「あ、誰かに似てますね」
「……俺のことですか」
「ふふ」
小川のせせらぎと蝉の声。木漏れ日がキラキラと水面に反射している。
子供の頃、毎日この道を走り回っていた。
今、隣にこの人がいる。あのときは想像もしなかった未来だ。
「勝利さん」
「はい」
「ここで育ったんですね」
「はい。何もないとこですけど」
「何もなくないです。……すごく、いいところです」
ひよりさんが俺の手を握った。
汗ばんだ手のひらが、少しだけ震えていた。
◇
夕食は母さんの手料理が並んだ。
「地元の野菜を使った天ぷらよ」「こっちはこんにゃくの煮物」「ほうとうもあるわよ」
ひよりさんは「わぁ、美味しいです!」と目を輝かせて食べてくれた。
「天草さん、お代わりどうぞ。遠慮しないでね」
「ありがとうございます。……あの、ひよりって呼んでいただけると嬉しいです」
母さんの顔がパァッと明るくなった。
「あらぁ! じゃあ、ひよりちゃんね。うちの勝利のこと、よろしくね」
「っ……はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
ひよりさんの目がうるっと光った。
父さんが酒を注ぎながら、俺にだけ聞こえる声で呟いた。
「……いい子じゃないか。大事にしろよ」
「当たり前だろ」
それだけで十分だった。
俺の昔話(中学生時代の黒歴史など)を母さんが暴露し、ひよりさんが笑い転げる。
なんだろう、この光景。
まるでずっと昔から家族だったみたいに、彼女がこの場所に馴染んでいる。
◇
夜。
庭の縁側で線香花火をした。
チリチリと燃える小さな火花を見つめながら、ひよりさんがポツリと言った。
「……私、こういうの初めてです」
「え?」
「夏休みに実家に帰って、みんなでご飯食べて、花火して……なんか、すごく『家族』って感じで」
ひよりさんの横顔が、花火の儚い光に照らされて美しかった。
彼女にとってこういう時間は貴重なんだと、なんとなく分かった。
「来年も、再来年も……勝利さんと一緒に見たいです」
彼女の言葉に、俺は胸が熱くなった。
最後の一本が落ちるまで、その横顔を見ていたいと思った。
「見ましょう。来年も、再来年もずっと。……俺はずっと、ひよりさんの隣にいますから」
俺たちは指切りをした。
最後の線香花火がポトリと落ちて、ジュッと音を立てて消えた。
でも、俺たちの夏は終わらない。これから始まるのだ。
その夜、俺たちは別々の部屋で寝る……はずだったのだが。
夜中にふすまが少し開いて、おこげを抱いたひよりさんが姿を見せた。
「……あの、勝利さん」
「ひよりさん? どうしたの?」
「……ムギちゃんが可愛すぎて、興奮して眠れなくて」
そんな可愛い言い訳あるか、と思いながら、俺は布団を少し開けた。
ひよりさんが潜り込んでくる。
狭い布団の中で、手を繋いで眠った。
虫の声が子守唄のように聞こえた。




