最終話:月曜日の幸せ
数年後。
月曜日の朝。
目覚ましのアラームが鳴る。
俺は呻き声を上げて手を伸ばし、それを止めた。
「……んん……朝?」
隣でひよりがムニャムニャと言っている。
同じベッドだ。
あれから俺たちは結婚し、小田急線沿いの新しいマンションで暮らしている。
実家のムギと同じブリーダーさんからお迎えしたコムギと一緒に。
「おはよう、ひより。月曜日だよ」
「……うぅ、月曜日……」
彼女は布団を頭まで被ってしまった。
相変わらず月曜日は苦手らしい。
でも、以前のような悲壮感はない。
足元でモゾモゾと何かが動いた。
コムギだ。ベッドの端で丸くなっていたのが、俺たちの声で起きたらしい。
先代ムギそっくりの柴犬顔で、のんびり尻尾を振っている。
「コムギ、おはよう。散歩はあとでな」
コムギが尻尾をパタパタ振った。まだ一歳だが、先代譲りののんびり屋だ。
おこげは今も、暁さんのところで元気にしている。
カーテンを開ける。
今日も良い天気だ。
窓の外には住宅街が広がっている。遠くに見える駅前のスーパーの看板が、朝日に光っていた。
◇
キッチンに立つ。
コーヒーを淹れながら、トーストを焼く。
冷蔵庫には、ひよりが昨夜仕込んでおいたサラダと卵焼きが並んでいる。
結婚してから分かったことだが、ひよりの料理は本当に美味しい。あの鍋の夜から、腕はさらに上がっていた。
ひよりがパジャマ姿のまま、目を擦りながらキッチンに現れた。
髪はボサボサで、メガネは曲がっている。
「……コーヒー」
「はい、どうぞ。ミルク多め」
「ありがとう……」
マグカップを両手で包んで、ひよりがふぅと息をつく。
この起き抜けのポンコツぶりが、何年経っても可愛い。
会社に行けばバリバリの総務部チーフなのに、朝はこのザマだ。そのギャップを知っているのは俺だけだ。
テーブルに朝食を並べる。
トーストにバター。サラダ。卵焼き。コーヒー。
「いただきます」
「いただきます」
二人で黙々と食べる。テレビのニュースが流れている。
特別なことは何もない。だけど、この「特別じゃない朝」がずっと欲しかったんだ。
ひよりがトーストを齧りながら、スマホを覗いている。
「あ、兄さんからLINE来てる」
「何て?」
「『コムギの誕生日プレゼント、新作Tシャツ作ったから送る。サイズは犬用M』……って」
「犬用Tシャツまで作り始めたのか、あの人」
「去年のクリスマスから本格的に……ブランド名は『AKATSUKI FUDE WEAR』だって」
「フリーランスのデザイナーが筆文字犬服ブランドを立ち上げるとは……さすが暁さんだ」
ひよりがくすりと笑った。
暁さんは相変わらず無口で不器用だが、あの日から少しだけ変わった。
俺のアドバイスが効いたのか、クライアントとの交渉もうまくいくようになり、仕事は軌道に乗っている。
そして副業として始めた筆文字グッズのネット販売が、犬好き界隈でバズり、本業を遥かに超える売り上げを叩き出しているんだそうだ。
ちなみに、本名のSATORUではなく、AKATSUKIはコラボしたプランナーさんのアイデアだ、とのこと。
◇
着替えを済ませる。
俺はスーツにネクタイ。昇進して、少し責任ある立場になった。後輩の面倒も見るようになった。
ひよりもオフィスカジュアルに着替えて、髪をきっちりとまとめた。さっきまでのポンコツが嘘のように、隙のない「総務部の華」に変身する。
ふと、リビングのソファに脱ぎ捨てられた部屋着が目に入った。
ひよりがさっきまで着ていたTシャツだ。
暁さんからの結婚祝いで送られてきた新作。
背中には、力強い筆文字でこう書かれていた。
『大勝利』
俺は思わず吹き出した。
俺の名前と掛けているのか、それとも人生の勝者という意味か。
どちらにせよ、今の俺たちにぴったりな言葉だ。
◇
玄関で二人並んで靴を履く。
コムギが玄関まで見送りに来た。尻尾をパタパタ振っている。
「コムギ、お留守番よろしくね」
ひよりがしゃがんで、コムギの頭を撫でた。
コムギが小さく「くぅん」と一声。まだ鳴き方が下手くそだ。
「じゃあ……行ってきます!」
ひよりが俺のネクタイをちょいと直してくれた。
これが俺たちの、毎朝の儀式だ。
ドアを開けた。
月曜日の朝日が眩しい。
マンションを出ると、通りにはスーツ姿の人たちが駅に向かって歩いている。
以前の俺なら、この光景にため息をついていたはずだ。
月曜日。一週間の始まり。終わらない労働。逃げられない現実。
でも今は違う。
隣に、この人がいる。
住宅街を並んで歩く。
コンビニの前を通り過ぎ、スーパーの角を曲がり、駅への道を行く。
あの日——交際がバレた日に、初めて二人で会社を出た。あの時は手を繋ぐだけで心臓が破裂しそうだった。
今は、こうして隣を歩くのが当たり前になっている。
「勝利さん」
「ん?」
「今日のおこげんき予報……晴れです」
ひよりが空を見上げて言った。
おこげはもう一緒に暮らしていないけれど、この合言葉だけは残った。
あの頃と同じ言葉。でも意味は変わった。
「会いましょう」じゃなくて——もう、隣にいるから。
「了解。今日も良い一日になりそうだ」
駅のホームに並んで立つ。
電車が来る。月曜日の満員電車。
仕事は大変だし、トラブルもあるだろう。早乙女先輩は相変わらずうるさい。クライアントはわがままだ。
だけど、この人と一緒に出勤して、一緒に帰って、コムギの散歩をして、ご飯を食べて、くだらない話をして笑い合って、おやすみなさいを言う。
それが毎日ある——ただそれだけで、マンデー・パニックはもう怖くない。
電車のドアが開いた。
ひよりと一緒に乗り込む。
俺は大きく息を吸い込んで、新しい一週間へと歩き出した。
最高のパートナーと、最高にふざけたTシャツと、コムギと一緒に。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
社会人ラブコメ、世の中には少ないですけど、楽しみながら書いてました。
次は、「仕事」の方に着目して書いてみたいなぁ。




