表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マンデーパニック! 〜変なTシャツと犬、ちょっとだけ勇気。会社のアイドルと二人で月曜日が楽しくなるまでの物語〜  作者: ゆゆこりん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/46

第42話:嵐の夜


 八月に入って最初の金曜日。

 窓の外は猛烈な暴風雨だった。大型の台風が関東に接近している。

 予報では「十年に一度の勢力」とのことだったが、まさかここまでとは。


 電車が止まる前に帰宅命令が出たのが十八時。

 しかし、俺たちの部署では運悪くシステムトラブルが発生していた。

 クライアントのサーバがダウンし、緊急対応を迫られたのだ。

 担当者は俺と、総務でそのシステムの窓口をしている天草さんだ。


 他の社員は皆、足早に帰っていった。

 「悪いな大塚、あと頼むわ!」「戸締りよろしく!」

 そう言って去っていく同僚たちの背中を見送りながら、俺は覚悟を決めた。


 残されたのは俺たち二人だけ。

 広いオフィスに、キーボードを叩く音と、窓を叩く激しい雨音だけが響いている。

 時折、風が窓ガラスを揺らす音がして、そのたびに天草さんの肩がピクリと跳ねる。


「……ふぅ。これで復旧しましたね」


 二十一時過ぎ。ようやくモニターのエラー表示が消え、正常稼働の緑色のランプが点灯した。

 俺は大きく息を吐き出し、椅子に深くもたれかかった。

 強張っていた肩の力が抜けていく。


「お疲れ様でした、大塚さん」

「天草さんも、遅くまで付き合わせてすみません」

「いえ、私の担当でもありますから。……それに、一人じゃ心細かったですし」


 ひよりさんがコーヒーを淹れてきてくれた。

 温かい湯気が立ち上る。

 オフィスの照明は、少しでも電力を節約するためか、半分消されている。薄暗い空間に、二人きり。


 窓の外を見ると、雨はさらに激しさを増していた。横殴りの雨が、まるで世界の終わりみたいに降り注いでいる。

 スマホで運行状況を確認する。

 ……全線、運転見合わせ。


「……電車、完全に止まってますね」

「あっ……本当ですね」


 ひよりさんもスマホを見て、困ったように眉を下げた。

 タクシー配車アプリを開いてみるが、予想通り「空車なし」の表示が続いている。

 これだけの嵐だ。誰もがタクシーを求めているだろうし、そもそも危険で走っていないのかもしれない。


「参ったな……。こりゃ、帰れないかも」

「そう、ですね……」


 天草さんの声が少し震えているように聞こえた。

 不安なのだろうか。それとも——。


「勝利さん、お腹、空きませんか?」


 仕事が一段落したからか、呼び方が恋人モードに変わった。


 ひよりさんはバッグからコンビニの袋を取り出した。

 おにぎりとサンドイッチ、それにカップスープ。

 昼休みに「念のため」と買っておいたらしい。さすがの準備の良さだ。


「あ、それ俺も買おうと思ってたやつです」

「ふふ、じゃあ半分こしましょう。これ、勝利さんが好きなツナマヨですよ」

「よく覚えてますね」

「もちろんです。勝利さんのことなら」


 そこまで言って、天草さんはハッと口を押さえた。

 顔が赤い。

 俺もなんだか照れくさくなって、視線を逸らした。


 二人で一つの机を囲んで遅い夕食をとる。

 秘密の社内デートみたいだ、と不謹慎ながら思ってしまう。

 誰もいないオフィス。外は嵐。世界から切り離されたような時間。

 コンビニのおにぎりが、どんな高級ディナーよりも美味しく感じられた。


「……なんか、不思議ですね」


 スープを飲みながら、天草さんがポツリと言った。


「こうして二人でいると、外の嵐が嘘みたいに静かで。……会社なのに、家みたいに落ち着きます」

「俺もです。……ひよりさんがいるからかな」

「……もう、勝利さんったら」


 甘い空気が流れる。

 仕事モードの彼女も素敵だが、こうしてふと見せる素の表情が、俺はどうしようもなく好きだ。


 バチンッ!


 突然、大きな音と共に照明が消えた。

 停電だ。ビル全体の電気が落ちたらしい。


「きゃっ!」


 ひよりさんの短い悲鳴。

 真っ暗闇の中、俺は反射的に手を伸ばした。

 何かにぶつかりそうになりながら、彼女の腕を掴み、引き寄せる。


「大丈夫ですか!?」

「っ……はい、びっくりしました……」


 非常灯の緑色の光だけが頼りだ。

 目が慣れてくると、すぐ目の前にひよりさんの顔があった。

 俺は彼女の華奢な体を、抱きしめるような形で守っていた。


 近い。

 いつものシャンプーの香りが、雨の匂いに混じって漂ってくる。

 トクトクと速い鼓動が伝わってくる。俺のか、彼女のか。

 いや、両方だ。


「……勝利さん」

「……はい」


 ひよりさんが、潤んだ瞳で俺を見上げている。

 非常灯の緑色の光に照らされた彼女の顔は、幻想的で、今まで見たどんな彼女よりも美しかった。


 吐息がかかる距離。

 誰もいない。誰も見ていない。

 監視カメラだって、停電で止まっているはずだ。


 俺はゆっくりと顔を近づけた。

 彼女が抵抗することなく、そっと目を閉じる。

 唇が触れるか触れないか——その一瞬の静寂が、永遠のように感じられた。


 ——ブォン。


 低い機械音が響き渡った。

 空調の音が復活したのだ。

 直後、パパパッ! と室内灯が点灯する。

 眩しい光が、暴力的に世界を引き戻した。


「あ……」

「っ!」


 俺たちは弾かれたように離れた。

 顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。

 心臓が早鐘を打っている。


「……つ、点きましたね! 非常用電源から復旧したみたいです!」

「は、はい! びっくりしました! まさか停電なんて、やっぱり嵐すごいですもんね!」


 二人して早口で喋り、挙動不審になる。

 今の、絶対キスする流れだった。

 あと一秒、いや0.5秒、電気が遅れていたら。


 そのとき、俺のスマホがピコンと鳴った。

 タクシー配車アプリの通知だ。

 『配車が確定しました。あと五分で到着します』


 ……間の悪いことに、奇跡的に一台捕まってしまったらしい。

 あんなに「空車なし」だったのに。


「……タクシー、呼べちゃいました」

「あ……そうですか……」

「帰り支度、しましょうか」

「そう……ですね」


 ひよりさんが、ほんの少しだけ残念そうな顔をした。

 いや、かなり残念そうだ。

 俺も同じ気持ちだ。


 このまま、「電車もタクシーもないですね」と言って、朝までここにいたかった。

 ソファで仮眠を取るふりをして、ずっと手を握っていたかった。

 不純な動機だが、今はそれが本音だ。


「……送ります。途中まで一緒ですし」

「はい……お願いします」


 消灯してから施錠。最終退出の記録を終える。


「これで、よし、と」


 振り返ると、ひよりさんがエレベーターの呼び出しボタンを押すところだった。


 ――が、その手が、途中で止まった。

 ひよりさんは、くるりとこちらを向いて、無言のまま、目を閉じた。


 さっきの停電とは違う。

 あのときは暗闇が背中を押した。でも今は——明るい廊下で、自分の意志で。


 俺は彼女の頬にそっと手を添えた。

 触れた指先から、トクトクと脈が伝わってくる。

 ああ、この人も同じくらい緊張しているんだ。


 唇が重なる。

 ほんの数秒。

 だけど、さっき停電で止まった時間が、やっと動き出したような感覚だった。


 顔が少し離れた瞬間、彼女はうっすらと目を開けた。

 潤んだ瞳が、エレベーターホールの窓から差し込む街の光に照らされていた。


 そしてひと呼吸ののち、彼女はくるりと背を向けて、耳を真っ赤にして言った。


「……今日のところは、これで勘弁してあげます」


 意味がわからなかったが、なんとなくわかった。


 タクシーの後部座席で、繋いだ手のひらが熱かった。

 雨音にかき消されるように、彼女が小さく「……帰れないままでも、よかったのにな」と呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ