第42話:嵐の夜
八月に入って最初の金曜日。
窓の外は猛烈な暴風雨だった。大型の台風が関東に接近している。
予報では「十年に一度の勢力」とのことだったが、まさかここまでとは。
電車が止まる前に帰宅命令が出たのが十八時。
しかし、俺たちの部署では運悪くシステムトラブルが発生していた。
クライアントのサーバがダウンし、緊急対応を迫られたのだ。
担当者は俺と、総務でそのシステムの窓口をしている天草さんだ。
他の社員は皆、足早に帰っていった。
「悪いな大塚、あと頼むわ!」「戸締りよろしく!」
そう言って去っていく同僚たちの背中を見送りながら、俺は覚悟を決めた。
残されたのは俺たち二人だけ。
広いオフィスに、キーボードを叩く音と、窓を叩く激しい雨音だけが響いている。
時折、風が窓ガラスを揺らす音がして、そのたびに天草さんの肩がピクリと跳ねる。
「……ふぅ。これで復旧しましたね」
二十一時過ぎ。ようやくモニターのエラー表示が消え、正常稼働の緑色のランプが点灯した。
俺は大きく息を吐き出し、椅子に深くもたれかかった。
強張っていた肩の力が抜けていく。
「お疲れ様でした、大塚さん」
「天草さんも、遅くまで付き合わせてすみません」
「いえ、私の担当でもありますから。……それに、一人じゃ心細かったですし」
ひよりさんがコーヒーを淹れてきてくれた。
温かい湯気が立ち上る。
オフィスの照明は、少しでも電力を節約するためか、半分消されている。薄暗い空間に、二人きり。
窓の外を見ると、雨はさらに激しさを増していた。横殴りの雨が、まるで世界の終わりみたいに降り注いでいる。
スマホで運行状況を確認する。
……全線、運転見合わせ。
「……電車、完全に止まってますね」
「あっ……本当ですね」
ひよりさんもスマホを見て、困ったように眉を下げた。
タクシー配車アプリを開いてみるが、予想通り「空車なし」の表示が続いている。
これだけの嵐だ。誰もがタクシーを求めているだろうし、そもそも危険で走っていないのかもしれない。
「参ったな……。こりゃ、帰れないかも」
「そう、ですね……」
天草さんの声が少し震えているように聞こえた。
不安なのだろうか。それとも——。
「勝利さん、お腹、空きませんか?」
仕事が一段落したからか、呼び方が恋人モードに変わった。
ひよりさんはバッグからコンビニの袋を取り出した。
おにぎりとサンドイッチ、それにカップスープ。
昼休みに「念のため」と買っておいたらしい。さすがの準備の良さだ。
「あ、それ俺も買おうと思ってたやつです」
「ふふ、じゃあ半分こしましょう。これ、勝利さんが好きなツナマヨですよ」
「よく覚えてますね」
「もちろんです。勝利さんのことなら」
そこまで言って、天草さんはハッと口を押さえた。
顔が赤い。
俺もなんだか照れくさくなって、視線を逸らした。
二人で一つの机を囲んで遅い夕食をとる。
秘密の社内デートみたいだ、と不謹慎ながら思ってしまう。
誰もいないオフィス。外は嵐。世界から切り離されたような時間。
コンビニのおにぎりが、どんな高級ディナーよりも美味しく感じられた。
「……なんか、不思議ですね」
スープを飲みながら、天草さんがポツリと言った。
「こうして二人でいると、外の嵐が嘘みたいに静かで。……会社なのに、家みたいに落ち着きます」
「俺もです。……ひよりさんがいるからかな」
「……もう、勝利さんったら」
甘い空気が流れる。
仕事モードの彼女も素敵だが、こうしてふと見せる素の表情が、俺はどうしようもなく好きだ。
バチンッ!
突然、大きな音と共に照明が消えた。
停電だ。ビル全体の電気が落ちたらしい。
「きゃっ!」
ひよりさんの短い悲鳴。
真っ暗闇の中、俺は反射的に手を伸ばした。
何かにぶつかりそうになりながら、彼女の腕を掴み、引き寄せる。
「大丈夫ですか!?」
「っ……はい、びっくりしました……」
非常灯の緑色の光だけが頼りだ。
目が慣れてくると、すぐ目の前にひよりさんの顔があった。
俺は彼女の華奢な体を、抱きしめるような形で守っていた。
近い。
いつものシャンプーの香りが、雨の匂いに混じって漂ってくる。
トクトクと速い鼓動が伝わってくる。俺のか、彼女のか。
いや、両方だ。
「……勝利さん」
「……はい」
ひよりさんが、潤んだ瞳で俺を見上げている。
非常灯の緑色の光に照らされた彼女の顔は、幻想的で、今まで見たどんな彼女よりも美しかった。
吐息がかかる距離。
誰もいない。誰も見ていない。
監視カメラだって、停電で止まっているはずだ。
俺はゆっくりと顔を近づけた。
彼女が抵抗することなく、そっと目を閉じる。
唇が触れるか触れないか——その一瞬の静寂が、永遠のように感じられた。
——ブォン。
低い機械音が響き渡った。
空調の音が復活したのだ。
直後、パパパッ! と室内灯が点灯する。
眩しい光が、暴力的に世界を引き戻した。
「あ……」
「っ!」
俺たちは弾かれたように離れた。
顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
心臓が早鐘を打っている。
「……つ、点きましたね! 非常用電源から復旧したみたいです!」
「は、はい! びっくりしました! まさか停電なんて、やっぱり嵐すごいですもんね!」
二人して早口で喋り、挙動不審になる。
今の、絶対キスする流れだった。
あと一秒、いや0.5秒、電気が遅れていたら。
そのとき、俺のスマホがピコンと鳴った。
タクシー配車アプリの通知だ。
『配車が確定しました。あと五分で到着します』
……間の悪いことに、奇跡的に一台捕まってしまったらしい。
あんなに「空車なし」だったのに。
「……タクシー、呼べちゃいました」
「あ……そうですか……」
「帰り支度、しましょうか」
「そう……ですね」
ひよりさんが、ほんの少しだけ残念そうな顔をした。
いや、かなり残念そうだ。
俺も同じ気持ちだ。
このまま、「電車もタクシーもないですね」と言って、朝までここにいたかった。
ソファで仮眠を取るふりをして、ずっと手を握っていたかった。
不純な動機だが、今はそれが本音だ。
「……送ります。途中まで一緒ですし」
「はい……お願いします」
消灯してから施錠。最終退出の記録を終える。
「これで、よし、と」
振り返ると、ひよりさんがエレベーターの呼び出しボタンを押すところだった。
――が、その手が、途中で止まった。
ひよりさんは、くるりとこちらを向いて、無言のまま、目を閉じた。
さっきの停電とは違う。
あのときは暗闇が背中を押した。でも今は——明るい廊下で、自分の意志で。
俺は彼女の頬にそっと手を添えた。
触れた指先から、トクトクと脈が伝わってくる。
ああ、この人も同じくらい緊張しているんだ。
唇が重なる。
ほんの数秒。
だけど、さっき停電で止まった時間が、やっと動き出したような感覚だった。
顔が少し離れた瞬間、彼女はうっすらと目を開けた。
潤んだ瞳が、エレベーターホールの窓から差し込む街の光に照らされていた。
そしてひと呼吸ののち、彼女はくるりと背を向けて、耳を真っ赤にして言った。
「……今日のところは、これで勘弁してあげます」
意味がわからなかったが、なんとなくわかった。
タクシーの後部座席で、繋いだ手のひらが熱かった。
雨音にかき消されるように、彼女が小さく「……帰れないままでも、よかったのにな」と呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。




