第40話:呼び出し
会社ではコソコソ、夜は散歩で逢瀬を繰り返した、平日最後の金曜日。
ひよりさんは、申し訳なさそうな、それでいて少し困ったような顔で言った。
「兄さんが、どうしても会いたいって。明日の夜、付き合っていただけますか」
場所は、駅から少し離れたところにある、隠れ家的な居酒屋。
暖簾をくぐり、個室の引き戸を開けると、そこに『彼』がいた。
天草暁さん。
ひよりさんの兄であり、俺たちの仲を取り持ってくれた恩人(?)。
そして、独特すぎるファッションセンスの持ち主。
今日のTシャツは、黒地に白の筆文字で——
『小姑』
……出落ちだ。
俺は一瞬で回れ右して帰りたくなった。
だが、ここで逃げたら一生後悔するし、背後から呪われそうだ。
「お久しぶりです、大塚です」
俺は深々と頭を下げた。最敬礼だ。
暁さんは腕を組んだまま、じろりと俺を見た。眼光が鋭い。
「……座れ」
低い声。地底から響いてくるようだ。
俺は恐縮しながら、ひよりさんの隣に座った。
乾杯のビールが運ばれてくるまでの数分間、重苦しい沈黙が続いた。
暁さんは無表情で俺を観察している。値踏みされている。
ひよりさんも気まずそうに枝豆をつまんでいる。
「……大塚」
「は、はい!」
「妹を泣かせたら、どうなるか分かってるな」
来た。テンプレ通りの脅し文句。
だが、この人が言うとシャレにならないリアリティがある。
「はい。わかってます。呪われないように、頑張ります」
「いいや、分かってないな」
暁さんがスマホを取り出した。画面にはLINEのトークルーム。相手は俺だ。
「これを見ろ」
画面には、おどろおどろしい筆文字で『呪』と書かれたスタンプが並んでいる。
一つじゃない。スクロールしてもスクロールしても、『呪』『怨』『滅』『殺』『苦』……。
ゲシュタルト崩壊しそうな文字の羅列だ。
「毎朝七時、こいつを百個送信する。通知が鳴り止まないぞ。ブロックしても無駄だ。俺はプログラマーでもあるからな、別のアカウントから自動送信スクリプトを組む。サーバーを経由してIPアドレスを偽装し、お前のスマホをパンクさせてやる」
……地味に、かつ精神的に一番くるやつだ。しかも技術力が無駄に高い。
俺は戦慄した。この人は本気だ。
「……絶対に、泣かせません。誓います」
「ふん」
暁さんは鼻を鳴らし、ようやくジョッキを口にした。
◇
酒が進むにつれて、暁さんの口数が少し増えてきた。
どうやら仕事のことでイライラしているらしい。
「クライアントが……また修正だ。『やっぱり赤にして』『青に戻して』『やっぱり紫で』……あいつら、デザイナーを魔法使いか何かだと思ってやがる」
暁さんはフリーランスのWebデザイナーだ。
センスは良い(Tシャツ以外)が、無口で職人気質なため、交渉ごとが苦手らしい。
ポートフォリオを見せてもらったことがあるが、実力は確かだ。ただ、押しが弱い。
「デザインはいいのに、交渉が下手で……いつも言いなりになっちゃうんです」とひよりさんが心配そうに言う。
「先方に、修正回数の規定は伝えてあるんですか?」
「伝えた。『常識の範囲内で』と」
俺は思わず口を挟んだ。
「だめですよ、それじゃ。『常識』なんて人によって違いますから。特に感覚で物を言うクライアント相手には、数字で縛るのが一番です」
暁さんがピクリと眉を上げた。
「……ほう?」
「修正は二回まで無料、三回目からは追加料金が発生します、と最初にメールで明記すべきです。あと、色の変更なら『カラーコード』で指定してもらうか、見本画像を送ってもらう。言葉だけの指示は絶対に受けないこと。証拠が残らないので。『言った言わない』の水掛け論になったら、フリーランスは不利です」
営業職の職業病が出てしまった。
しまった、説教臭かったか。
暁さんの顔色を伺う。
暁さんは、感心したように頷いていた。スマホにメモまで取っている。
「……なるほど。言われてみれば、そういう取り決めは曖昧だった。なあなあで済ませていたな」
「あと、相手をヨイショするのも大事です。『素晴らしいセンスですね、ただWebでの視認性を考えると、こちらの色が——』とか言って、実は自分の案を通すんです。相手に『自分が選んだ』と思わせれば、文句は出ません」
「……お前、意外と性格悪いな」
「営業の裏側ですよ。生き残るための知恵です」
暁さんが、微かにニヤリと笑った。初めて見る笑顔だ。
「悪くない。……ふむ、使えるな。今度の案件で試してみるか」
ひよりさんが、呆れたように、でも嬉しそうに笑っていた。
「兄さんが仕事の話で盛り上がるなんて、珍しいです。いつもは『犬の話しかしない』って決めてるのに」
「こいつ、意外と役に立つ。……おこげの散歩係だけじゃなかったか」
「散歩係も継続でお願いします。光栄です」
俺が言うと、暁さんは「ふん」と笑って、自分のグラスを俺のグラスに軽く当てた。
「……まあ、いいだろう。妹の相手も、クライアントの相手も、お前なら務まりそうだ。合格点をやる」
それが、不器用な兄なりの合格通知だった。
俺は胸を撫で下ろし、冷たいビールを一気に飲み干した。
帰り際。
暁さんがボソッと言った。
「……で、いつ結婚すんだ。式場は犬も参列できるところに限るぞ」
今度は俺とひよりさんが同時にビールを吹き出した。
さすがにまだ気が早い。でも、そんな未来も悪くないな、と俺は思った。




