第39話:新しい関係
三連休明けのオフィスは、いつもより少しだけ気だるい空気が漂っている。
俺はデスクでパソコンに向かいながら、必死に表情筋を制御していた。
油断すると、頬が勝手に緩もうとする。
この週末から、俺と天草ひよりさんは、付き合うことになった。
夢じゃなかった。
朝起きてスマホを見たら、昨日の最後に送った『おやすみなさい』の履歴が残っていたし、その下に『おはようございます』のスタンプが届いていた。
おこげが布団に包まって二度寝している可愛いスタンプだ。
……だめだ、思い出すだけでニヤけそうだ。
俺は咳払いをして、眉間にしわを寄せた。深刻な顔でメールチェックをするふりをする。
ここは会社だ。戦場だ。
同盟時代の鉄の掟——「会社では他人のふり」は、今も有効だ。
いや、むしろ重要度は増している。
もしバレたら、「あの高嶺の花・天草ひよりが、地味なモブ社員・大塚勝利と!?」というニュースで社内がパニックになる。
暁さんからも、「妹の評判を下げるなよ。バレたら呪う」と釘を刺されている。
何をやっても呪う、などと言われそうな勢いだが。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が近づいてくる。
心拍数が上がる。
この足音だけで誰だか分かるようになってしまった自分が怖い。
「大塚さん、おはようございます」
鈴のような声。
顔を上げると、そこに彼女がいた。
天草ひよりさん。
今日は薄いブルーのブラウスに、タイトスカート。髪はきっちりとハーフアップにまとめている。
完璧なオフィスカジュアル。どこからどう見ても、総務部の華だ。
昨日のちょっと地味な私服や、部屋でのTシャツ姿が幻のように思える。
「あ、おはようございます、天草さん」
俺は精一杯の「同僚」としての声を絞り出した。
目は合わせない。合わせたら耐えられない気がする。
天草さんは、小脇に抱えた書類を俺のデスクに置いた。
「これ、経理部からの回覧です。確認お願いします」
「ありがとうございます」
事務的なやり取り。
完璧だ。誰も怪しまないだろう。
だが。
書類を受け取るとき、ほんの一瞬、指先が触れた。
ビクリと電気が走る。
反射的に顔を上げると、天草さんと目が合った。
彼女は無表情だった。
完璧なポーカーフェイス。
……だが、耳の先が、ありえないくらい赤くなっていた。
そして、ふいっと目を逸らし、逃げるように去っていった。
その足取りが、心なしかいつもより速い。
俺は書類を握りしめたまま、デスクに突っ伏した。
……心臓に悪い。
こんなのが毎日続くのか。
◇
平和だ。
早乙女先輩がいないからだ。
「早乙女さん、体調不良で休みだって」
「マジ? あの鉄人が?」
「なんか昨日の夜、地元の奴と飲んでて悪酔いしたらしいよ。『俺は認めない』とか叫んでたって」
「何それ、どこ情報よ」
給湯室で同僚たちが噂している。
俺はコーヒーを淹れながら、内心で苦笑した。
昨日の今日でショックを受けたのか、あるいはただの二日酔いか。
どちらにせよ、今日一日平和に過ごせるのはありがたい。
給湯室から同僚たちが出て行き、俺一人になった。
コーヒーの香りに包まれて、ふぅと息をつく。
ガチャリ。
ドアが開いた。
天草さんが入ってきた。
手にはマイボトルを持っている。
「あ……」
「……お疲れ様です」
狭い給湯室に二人きり。
さっきの「指先接触事件」の余韻が、まだ残っている。
天草さんがウォーターサーバーの前に立つ。俺のすぐ隣だ。
沈黙。
コポコポという水の音だけが響く。
「……勝利さん」
ぼそっと、小さな声が聞こえた。
心臓が跳ねた。
名前。
昨日の帰り道で、「二人きりのときは名前で呼びましょう」と決めたのだった。
「……はい、ひよりさん」
俺も小声で返す。
ひよりさんが、ボトルを抱えたまま、ちらりとこちらを見た。
いたずらっぽく笑っている姿が、また可愛らしい。
「先輩、お休みですね」
「そうですね。……平和です」
「ふふ。……昨日のこと、思い出してました?」
「……仕事になりません」
「私もです」
ひよりさんが顔を赤くして、ふいっと横を向いた。
なんだこれ。
可愛すぎるだろう。
無意識に、手が伸びそうになった。
髪に触れたい。
ガチャッ!
ドアノブが回る音。
俺たちは弾かれたように離れた。
「おー、大塚。ここにいたのか」
入ってきたのは課長だった。
「おや、天草くんも一緒か」
「あ、はい! お水、汲みに来ました! それでは失礼します!」
天草さんはボトルをひっ掴んで、脱兎のごとく部屋を出て行った。
その背中からは、「動揺」という文字が湯気のように立ち上っていた。
課長が不思議そうな顔をする。
「なんだ、ずいぶん慌ててたな」
「……忙しいんじゃないですかね、総務も」
「そうか? 顔真っ赤だったけど、熱でもあるんじゃないか?」
俺はコーヒーを飲み干して、火照った顔を隠した。
「……空調、効きが悪いんですかね。最近特に暑いですし」
◇
定時。
俺は速攻でパソコンを閉じた。
今日は残業なしだ。
スマホを見る。LINEが入っている。
『おこげんき予報:のちほど公園で、降水確率0%』
ひよりさんからの隠語だ。
意味は「夜、いつもの公園で会いましょう」。
俺は小さくガッツポーズをした。
会社を出る。
夕暮れの空は、昨日と同じように紫色に染まっている。
でも、昨日までの憂鬱な色はもうない。
帰り道、コンビニに寄ってアイスを買った。二つ。
彼女が好きなバニラと、俺が好きなチョコ。
同盟は発展的解消になった。
でも、秘密の共有は終わらない。
これからは、もっと甘くて、もっと心臓に悪い秘密を守っていくことになる。
……悪くない。
いや、最高だ。
俺は軽い足取りで、公園へと向かった。




