第37話:散歩
日曜日。
朝九時半。
俺はエスポワールの前に立っていた。
オートロックのパネルの前。部屋番号は分かっている。一度だけ、来たから。
深呼吸を一回。
心臓が肋骨を叩いている。手のひらに汗が滲む。
会社のプレゼンでもこんなに緊張したことはない。
震える指で、番号を押した。
呼び出し音が鳴る。
『……はい』
スピーカーから聞こえたのは、低い男の声。暁さんだ。
「あ、あの、大塚です」
『……開ける』
用件も聞かずに、解錠音が鳴った。
自動ドアが開く。
エレベーターで七階へ。
廊下を歩く足音が、やけに大きく響く。
チャイムを鳴らす前に、ドアが開いた。
Tシャツに短パン姿の暁さんが立っていた。
今日のTシャツは——『散歩』。
あまりにそのまますぎる。
「兄さん、誰か来たの——あ」
暁さんの背後から、天草さんが顔を出した。
Tシャツに、メガネ姿。髪は無造作に後ろで結んでいる。
俺を見て、目が点になった。
「え、大塚さん……? なんで」
暁さんが無言で俺の肩を叩き、すっと横に退いた。
足元には、すでにお出かけセットを装着されたおこげが控えている。
「行ってくる」
「え、兄さん? まだ散歩の時間じゃ——」
「気が変わった。行ってくる」
暁さんはそれだけ言うと、リードを引いて廊下に出て行った。
すれ違いざま、小声でボソッと言った。
「……長引かせるなよ」
俺は小さく頷いた。
暁さんの背中が扉の奥に消えていく。
天草さんが、小さく呟いた。
「……だから、着替えておけって言ったのか」
残されたのは、俺と天草さん。
玄関のドアが開いたまま、向き合っている。
「……その、上がっていいですか」
「あ、はい! どうぞ……散らかってますけど」
天草さんが慌ててスリッパを出してくれた。
◇
通されたリビングは、以前来た時と変わらない。
シンプルで、清潔で、少しだけ生活感がある。
ローテーブルを挟んで、床に座った。
沈黙。
壁掛け時計の秒針の音だけが聞こえる。
天草さんがお茶を出してくれた。
湯呑みを持つ指が、わずかに震えているのが見えた。
「……急に来て、すみません」
「いえ……私も、会いたかったです。あ、でもこんなすっぴんで……」
天草さんがうつむいたまま、小さな声で言った。
その一言で、用意していた台詞が全部飛んだ。
もう、言葉を飾る必要はない。
ただ、伝えるだけだ。
「天草さん」
「はい」
彼女が顔を上げた。メガネの奥の瞳が、真っ直ぐに俺を見ている。
「金曜日の返事、しに来ました」
天草さんが息を飲んだ。
「俺、前に元カノにフラれたとき、何を信じていいかわからなくなっちゃって。傷つくのも、傷つけるのも嫌で」
一息ついた。
自分の胸の奥にあるものを、一つずつ取り出して並べていく。
「でも、天草さんと話せない時間で、分かりました。当たり前の日常がなくなるのが、こんなに辛いなんて知らなかった」
「大塚さん……」
「おこげの写真が来ない朝も、誰とも喋らない帰り道も、味のしないカップ麺も、もう嫌です。俺の日常には、天草さんが必要なんです」
俺は天草さんの目を見て、はっきりと言った。
「天草ひよりさんが、好きです。俺と、付き合っていただけませんか」
天草さんの瞳が潤んだ。
唇をギュッと噛んで、何度も頷いた。
「……はい。私でよければ、お願いします」
涙が一粒、頬を伝った。
それを見て、俺の視界も滲んだ。
自分でも驚くほど、素直な気持ちだった。
格好つけず、見栄も張らず、ただ目の前の人を大切にしたいと思う。
こんな気持ちになれるなんて、思ってもみなかった。
天草さんが涙を拭って、笑った。
泣き笑いの、不格好で、世界一可愛い顔。
俺も笑った。
部屋の空気が、ふわりと緩んだ。
◇
それからは、ずっと話していた。
今まで話せなかった時間を埋めるように。
仕事のこと、おこげのこと、暁さんのこと。
話しにくいけど、元カノのことも。
天草さんが俺の隣に座り直した。
肩が触れ合う距離。
自然と手が重なった。天草さんの手は、少し冷たくて、柔らかかった。
「そういえば、兄さんの『散歩』Tシャツ、見ました?」
「見た見た。あれ、今日のために用意したんですかね?」
「たぶん。私なんて『留守番』ですよ、ほら」
「絶対家から出さない意思を感じますね」
暁さんの不器用な配慮が染み入る。
「そうそう、昨日も、おこげの写真を何枚も撮ってたんですよ。『どの角度が一番切なく見えるか』って。なんであんなに撮ってたのか不思議だったんですけど」
天草さんが、ふと俺の方を見た。
「……大塚さんに、送ってたんですか」
「はい。おこげに背中を押されました」
天草さんの目が潤んだ。
「兄さんとおこげのおかげですね」
二人で笑い合った。
ガチャリ。
突然、玄関のドアが開く音がした。
「……お邪魔虫が帰ってきたぞ」
可愛いと形容された暁さんの、不機嫌な声。
リードに引かれたおこげが、リビングに飛び込んできた。
俺たちの姿を見て、尻尾を全力で振りながら突進してくる。
「わふっ! くーん!」
俺と天草さんの間に割り込んで、顔を舐め回す。
「こら、おこげ。落ち着いて」
暁さんがリビングに入ってきた。
汗だくで、げっそりと疲れた顔をしている。
「……いつになったら終わるんだ。おこげがミイラになるぞ」
時計を見た。午後一時を回っていた。
朝の九時半に来て、もう三時間半。
暁さんは三時間半も散歩していたのか。真夏の日曜に。
「す、すみません! 話し込んじゃって」
「兄さん、どこまで行ってたの?」
「……大通り公園を三周」
暁さんが冷蔵庫から麦茶を取り出して、一気飲みした。
Tシャツの『散歩』の文字が、汗で滲んでいる。
「報告くらいしろ。LINEの一本も入れずにイチャイチャしやがって」
「す、すみません……」
完全に忘れていた。
暁さんは空になったコップを置いて、俺をじろりと見た。
「で?」
俺は天草さんと顔を見合わせた。
彼女が照れくさそうに笑って、小さく頷く。
俺は居住まいを正して、暁さんに向き直った。
「……お付き合いすることになりました」
暁さんは無表情のまま、ふんと鼻を鳴らした。
「見たまんまか」
それから、ぼそっと付け足した。
「……泣かせたら、筆文字で呪うぞ」
それが、不器用な兄なりの祝福だった。
俺は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
おこげが「わん!」と一声吠えた。
まるで承認印を押すように。




