第36話:おこげの後押し
土曜日。
朝から、部屋の中をうろうろしている。
天井を見つめる。壁を見つめる。冷蔵庫を開けて閉める。スマホを見て伏せる。また見る。
一日中、同じことを繰り返している。
天草さんが、好きだと言ってくれた。
あの言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。
嬉しい。嬉しいに決まっている。
俺だって好きなのだ。コンビニ弁当の白米に向かって告白したくらいには好きなのだ。
なのに、動けない。
何が怖いのか。
答えは分かっている。元カノだ。
佐伯麻衣にフラれたときの痛みが、まだ体の奥底に沈んでいる。
あの一方的な「もう無理」「さようなら」。弁解すら聞いてもらえなかった。
恋人関係とは、こんなに簡単に壊れるものなのかと、あのとき知った。
天草さんとは違う。分かっている。
でも、「違う」と頭で分かっていることと、体が覚えている恐怖は別だ。
麻衣と付き合っていた頃のことを思い出す。
デートに五分遅れれば不機嫌。早く着いても自分よりも遅ければ説教。迷子の子供を助けて遅刻したら「もう無理」。
俺の優しさは、アイツにとっては欠点だった。いつも自分を後回しにする、面倒くさい性格。
天草さんは違った。
俺が同僚を助けて残業しているときも、「お疲れ様です」と笑ってくれた。
風邪を引いたら、食材を抱えて飛んできた。
秘密を守ると言ったら、信じてくれた。
同じ「優しさ」を、一方は欠点と見なし、もう一方は受け取ってくれた。
その違いが、全てだ。
——なのに、怖い。
踏み込んだら、壊れるかもしれない。
今の関係が、全部なくなるかもしれない。
同盟仲間にも、犬の散歩相手にも、おかゆを作ってくれる人にも、戻れなくなるかもしれない。
——いや。
「今のまま」は、もうない。
天草さんは告白してくれた。答えを待っている。
ここで何も返さなければ、それ自体が答えになる。
沈黙という返事は、「ごめんなさい」よりも残酷だ。
カップ麺にお湯を注ぐ。三分待つ。食べる。味がしない。
二杯目のコーヒーを淹れる。苦い。三杯目を淹れようとして、やめた。
窓の外は曇り空だ。じめっとした空気が部屋にも漂っている。
七月に入って、あの泥酔の金曜日から、もうすぐ二ヶ月になる。
夕方になっても、答えは出なかった。
窓の外に、エスポワールの灯りが見える。
あそこで天草さんも、俺と同じことを考えているだろうか。
まさかな。彼女の方は、もう答えを出している。言葉にして、俺に渡してくれた。
返していないのは、俺の方だ。
◇
土曜日の夜。
結局一晩ぐるぐる考えただけで答えは出なかった。
ベッドに寝転がって天井を見上げていると、スマホの画面が光った。
LINEの通知。
見知らぬ名前——ではない。『暁さん』。
先週の電話の後、連絡先を登録しておいたのだ。
メッセージを開く。
写真が一枚、送られてきていた。
薄暗い部屋の窓際。
おこげが、丸くなって座っている。
その目は、窓の外を見つめていた。
窓の外に映っているのは——俺のボロアパート、コーポ日向の方向だ。
写真の下に、暁さんのメッセージ。
『こいつ毎日お前の家の方見てるぞ。犬は素直だな』
一行だけ。暁さんらしい、素っ気ない言葉。
だが、その一行が胸を突いた。
おこげが、毎日こっちを見ている。
散歩を避けられていた間も、帰り道で会えなくなった間も、この小さな犬はずっと、俺のアパートの方を見ていたんだ、きっと。
犬は嘘をつかない。忖度もしない。好きな相手に会いたいとき、ただ真っ直ぐにその方に目を向ける。
おこげはいつだってそうだった。俺の膝に飛び乗り、尻尾を振り、嬉しいときは嬉しいとそのまま体で表現した。
……犬以下か、俺は。
おこげに会いたい。
それは——天草さんに会いたい、と同義だ。
もういい。
怖くても、壊れても、拒絶されても。
犬に背中を押されるとは思わなかった。
布団から起き上がった。
スマホを手に取り、暁さんに返信を打つ。
『おこげに会いに行っていいですか?——あと、ひよりさんにも』
送信。
十秒後、返事が来た。
『最初から素直にそう言え』
犬と同じ部屋にいる無愛想な兄は、相変わらずだった。
だが、暁さんのスタンプが一つだけ追加された。
犬の肉球。
天草さんがよく使っていた、あのスタンプだ。
兄妹で同じものを使っているらしい。
俺は笑った。
笑ったら、体の奥にあった重石が、すっと軽くなった。
シャワーを浴びて、着替えた。
明日は日曜日だ。
朝一で行こう。迷惑かもしれないが、もう関係ない。
もう、行ける。
犬に背中を押されるのは格好悪い。
だが、格好悪いくらいがちょうどいい。ずっと格好つけてきて、何一つ上手くいかなかったんだから。




