第35話:バカなんです
飲み会は、なし崩し的に終わった。
先輩が退場した後、当然ながら空気は微妙になったが、幹事役の同僚が上手く取り持ってくれて、事件から一時間ほどで解散となった。
店の前で、同僚たちが二次会の相談をしている。
俺はそこには加わらず、少し離れた自動販売機の前に立っていた。
「大塚、今日はカッコよかったぜ」
同僚の一人が肩を叩いて通り過ぎた。
カッコいいことをしたつもりはない。ただ、黙っていられなかっただけだ。
自販機の炭酸水を買って、一口飲んだ。
ビールとは違う爽快感が、モヤモヤを少しだけ洗い流してくれた。
「……大塚さん」
振り返ると、天草さんが立っていた。
会社帰りの服装のまま。白いブラウスにネイビーのカーディガン。
街灯の光を受けて、少し疲れた顔に見えた。
「あ、天草さん。……お疲れ様です」
「お疲れ様です」
ぎこちない。
二人して、正しい会話の始め方を忘れてしまった。
会社での三週間のブランクは、こんな簡単な挨拶すらぎこちなくする。
こんな有様では、営業部を名乗ることすら許されない気持ちだ。
同僚たちが二次会に向かって歩き出した。
俺たちは自然と、反対方向——駅の方へ歩き始めた。
しばらく、無言だった。
夏の夜風が生ぬるい。
「……また、助けてもらっちゃいましたね」
天草さんが、小さく言った。
「つい体が動いて。……余計なお世話だったかもしれないけど」
「……ううん。嬉しかったです」
その一言に、胸の奥がきゅっとなった。
嬉しかった。過去形ではなく、今の感情として。
あの人が素のまま言ってくれた一言だ。
「でも、早乙女さんに目をつけられちゃうんじゃ……。来週から大丈夫ですか?」
「まぁ……覚悟はしてます」
「……ごめんなさい。私が断れないから」
天草さんの声が、少し沈んだ。
「断れないのは天草さんのせいじゃありません。断りにくい誘い方をする方に問題があるんだし、それに……」
「……それでも。私がちゃんと断ってれば、大塚さんに迷惑は——」
「迷惑じゃないです」
言い切った。
自分の声の力強さに、自分で驚いた。
「天草さんのために動くのは、迷惑じゃない。一度もそう思ったことないです」
ホームに電車が滑り込んできたことで、会話が途切れた。
金曜の夜の下り電車はそこそこ混んでいたが、言葉が途切れたまま二人並んで揺られた。
吊り革を掴む天草さんの横顔が、窓に映っている。何か言いたそうで、でも言えないでいる顔だった。
◇
最寄り駅で降りた。
改札を出て、住宅街の道を歩く、無言で。
いつもの帰り道。でも、二人で歩くのは久しぶりだった。
天草さんが、足を止めた。
俺も止まった。
見上げると、エスポワールの灯りが見えた。あと数十メートルの距離だ。
「……大塚さん」
「はい」
「……私、バカなんです」
唐突に、彼女は言った。
うつむいたまま、両手はカーディガンの裾を握りしめている。
「大塚さんに、女性の知り合いがいるって、それが前の恋人だって人づてに聞いて。なんか上手にお話しできなくなっちゃって」
声が小さい。だが、夜の住宅街は静かで、はっきりと聞こえた。
「同盟仲間なんだから気にするなって、自分に言い聞かせてたけど……全然ダメで」
畳み掛けるように、天草さんは続けた。
「早乙女さんからのお誘いを承諾して。『大塚さんだけが相手じゃないんだ』って、自分に言い聞かせたくて。当てつけみたいになっちゃいましたけど……」
真実が明かされた瞬間だった。
やっぱり、そうだったのか。
「でも、全然楽しくなかった。ワインの味も分かんないし、早乙女さんの話も頭に入らないし。結局ずっと大塚さんのことを考えてて……本当バカみたい」
天草さんが、少し間を置いて、付け足した。
「……大塚さんの部屋で食べたスパゲッティの方が、ずっと美味しかった」
レトルトのミートソースと、湯切りに失敗した麺。
青山の名店と比べられるようなものじゃない。
でも、そういうことではないことぐらいわかる。
「大塚さんが誰と会おうが関係ない……はずなのに」
天草さんが、顔を上げた。
街灯に照らされた目が、赤く潤んでいた。
「……すごく、嫌だった」
その一言に、全てが詰まっていた。
「嫌だった」は、天草さんの精一杯の本音なんだと思う。
押しに弱くて、自分の感情を後回しにして、笑顔で蓋をしてしまうこの人が、ようやくこぼした本当の言葉。
「大塚さんのことが——」
天草さんが、小さく息を吸った。
「好きに、なってました」
心臓が、一回だけ大きく跳ねた。
その後、止まったように感じた。実際には動いているんだろうが、時間の感覚がおかしくなっていた。
天草さんが、俺のことを。
好き。
言葉を返さなければ。何か言わなければ。
頭の中で百通りの返事が渦を巻いている。どれも正解で、どれも不十分で、言葉が喉のところで大渋滞を起こしている。
「天草さん、俺——」
「返事は……今じゃなくていいです」
天草さんが、柔らかく遮った。
目はまだ赤いが、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
営業スマイルじゃない。泣いた後の、ちょっと不格好な、でも温かい笑み。
「聞いてほしかっただけですから。ずっと言えなかったこと」
「でも——」
「ちゃんと聞いてくれた。それだけで、もう十分です」
彼女は一歩下がった。
「じゃあ、また」
小走りで、エスポワールのエントランスに駆けていく。
ヒールの音が、静かなアスファルトの上で軽く弾む。
エントランスの前で、天草さんが振り返った。
小さく、手を振った。
三週間前、同じ場所で閉じた扉。あの時は振り返らなかった。
今夜は、笑っている。泣いた跡が残った笑顔で。
指先だけの、控えめな手振り。
でも、それは三週間分の距離を一気に縮めるには十分だった。
俺は、手を振り返した。
オートロックの扉が閉まった。
でも今夜は、扉の向こうの暗さが、前ほど冷たくなかった。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
天草さんが、好きだと言ってくれた。
あの人から。先に。
俺はまだ、何も言えていない。
「好きです」の四文字を、返せなかった。
チャンスだったのに。今夜、この場所で、言えたはずなのに。
——いや。
遮られた。「返事は今じゃなくていいです」と。
彼女は逃げたわけじゃない。俺に、考える時間をくれたのだ。
自分の答えを出させてくれた。一方的にならないように。
不器用なくせに、こういうところはちゃんとしている人だ。
——だから好きなんだ。
俺はポケットに手を突っ込んで、コーポ日向へと歩き出した。
夜風が、火照った頬にやけに心地よかった。




