第34話:飲み会、再び
金曜日の夜。
居酒屋の座敷に、営業部と総務部の面々が揃っていた。
部署交流会——名目上は。
実態は、早乙女先輩が企画した「天草さんを囲む会」に、他の社員が巻き込まれた形だ。
とはいえ、普段交流のない部署同士の飲み会は純粋に楽しみにしている人も多く、参加者は十五人ほど。それなりの規模だ。
席順は自由。のはずだが、先輩は開始三十分前に来て、天草さんの隣を確保していた。執念だ。場所取りに関しては営業部で一番の行動力を見せる。仕事でもそうであってほしい。
お通しの枝豆をつまみながら、店内を見渡した。
和風の座敷。掘りごたつ式。天井からぶら下がる提灯型の照明が、柔らかい光を落としている。
居酒屋としては悪くない雰囲気だが、この空間で俺は一ミリもリラックスできていない。
天草さんは、完璧な「会社の天草さん」だった。
同僚の話に笑い、上司の冗談に相槌を打ち、先輩の隣でも穏やかな表情を保っている。
誰が見ても、楽しんでいるように見えるだろう。
だが、俺には分かる。
あの笑顔は一つ目だ。営業スマイル。完璧な鎧。
唇が微妙に力んでいる。目尻の皺が浅い。本当に笑うとき、彼女はもっと目を細める。もっと顔全体がくしゃっとなる。
豆腐モードで「今日のTシャツは『ところてん』です!」と言ったときの、あの無防備な笑顔とは全く別物だ。
俺は斜め向かい——天草さんから三席ほど離れた位置に座っている。
近すぎず、遠すぎない。偶然に見せかけた計算だが、実際は空いていた席がここしかなかっただけだ。
ビールのジョッキを傾けながら、視線だけが天草さんを追っている。
同僚が話しかけてくるが、上の空だ。「うん」「ああ」「そうだな」——返事が雑すぎて、同僚に「お前大丈夫か?」と心配された。
「天草さん、もう一杯行く? ワインとか頼もうか」
先輩が、メニューを開いて彼女に見せた。距離が近い。肩が触れそうだ。
「あ、ありがとうございます。でもビールで大丈夫です」
「えー、ワイン似合うよ。この前もシャルドネ飲んでたじゃん」
この前。
ディナーの話を、飲み会の場でする先輩。
周囲の同僚が「お、マジか」「二人で行ったの?」とざわつく。
天草さんの笑顔が、一瞬だけ固まった。
すぐに元に戻ったが、俺は見逃さなかった。あれは「困っている」の顔だ。
◇
一時間が経った。
酒が回り始め、場はだいぶ賑やかになった。
先輩のテンションが上がっている。
天草さんとの距離がどんどん近くなり、話題も「今度また二人で」に傾いている。
「ねぇ天草さん、来週も空いてたらさ——」
「あ、えっと、来週はちょっと……」
「じゃあ再来週は? 鎌倉とかどう? ドライブ日和だよ」
畳みかける先輩。天草さんの断りの言葉が追いつかない。
彼女はちらりとこちらを見た。
目が合った。
あの目だ。
あの、電話作戦の夜と同じ目。
「助けて」とは言わない。言えない。でも、目が訴えている。
いや——違うかもしれない。
いつか言われた「大塚さんには関係ないじゃないですか」という言葉。
胸のどこかでずっと燻っている。
俺が勝手に読み取っているだけかもしれない。
でも。
天草さんの手が、膝の上で小さく握られている。
あの手は、おかゆを作ってくれた手だ。おこげのリードを持つ手だ。
秘密の合図で、そっと引っ張ってくれた手だ。
気づいたら、立ち上がっていた。
「早乙女さん」
自分の声が思ったより大きく響いた。
賑やかだった座敷が、ふっと静かになる。
「天草さん、困ってるんじゃないですか」
静寂。
先輩の手がジョッキの上で止まった。
周囲の同僚が、ぎょっとした顔でこちらを見ている。
「あぁん?」
先輩の目が据わった。酒の赤と不快感が混じった表情。
「またお前かよ、大塚」
また。
そうだ。これは二回目だ。
一回目は、最初の飲み会。泥酔して暴言を吐いた夜。
あのとき俺は、先輩に絡まれる天草さんを見て、酔った勢いで割り込んだ。
記憶はないが。
だが、今回は違う。
「前はひどく酔ってて失礼なことを言いました。すみませんでした」
まず、謝った。
酔って暴言を吐いたことは、事実だ。それは先輩がどうであれ、俺が悪い。
「でも、今日はそんなに酔ってませんから」
座敷の空気が張り詰める。
十五人の視線が俺に集まっている。
「嫌がってる人を無理に誘うのは、よくないと思います」
声は震えなかった。
自分でも驚くほど、落ち着いていた。
怖くないのか、と自分に問う。怖い。先輩は上座だ。明日からの職場のことを考えると胃が痛い。
でも、怖いよりもずっと大きな感情がある。
あの手が膝の上で握られているのを、見て見ぬふりはできなかった。
先輩が座布団を蹴るようにして立ち上がった。
「お前に天草さんの何が分かんだよ」
座敷の空気が凍った。
十五人の同僚が、箸を止め、ジョッキを宙に浮かせたまま固まっている。
「俺はな、ちゃんと天草さんを食事に誘って、OKもらったんだ。青山のイタリアンだぞ。お前、天草さんの好みすら知らないだろうが」
先輩の声は、正しさを確信している人間の声だった。
俺は食事に連れて行った。お前には何がある。そう言っている。
——好みなら、知っている。
粉チーズは多めが好き。おかゆは薄味。コンビニのコーヒーはブラック。筆文字Tシャツは食べ物シリーズが多い。
でも、そういうことじゃない。
「先輩」
声が出た。
静かな声だったと思う。
「天草さんが本当に望んでいること、分かってますか」
先輩の表情が変わった。
「……あぁ?」
「嫌がってるのに断れないのは、天草さんが先輩に気を遣っているわけでも、弱いからでもありません。断りにくい誘い方をされてるからです」
座敷がしんとなった。
誰かのジョッキがテーブルに置かれる音が、やけに大きく響いた。
「食事に行ったことが、相手を知ってることにはならないと思います。相手の『嫌です』が言えない顔を見て、それでも続けるのは——」
言葉を選んだ。選んだ上で、言い切った。
「——好意じゃないと思います」
先輩の顔が赤くなった。怒りか、恥か、あるいは両方。
拳が震えているのが見えた。
その後、先輩は天草さんの方を見た。
困った、という表情が隠せなくなった天草さんの顔を一目見て——先輩の口が、一瞬だけ開いて、閉じた。
「……何だコレ。俺は帰る」
低い声でそう言い残して、先輩はカバンを乱暴に担いで座敷を出ていった。
引き戸がバンと音を立てて閉まった。
残された空間に、重い沈黙が落ちた。
五秒。十秒。誰も口を開かない。
同僚の一人が気まずそうに「な、なんか頼む?」と声を上げ、ぎこちなく場が動き始めた。
パラパラと会話が戻ってくる。
「大塚ってあんなこと言えるやつだっけ」「先輩もやりすぎだったよな」「天草さん大丈夫?」
ひそひそ声が座敷のあちこちで交わされている。
腰が抜けたように座った俺は、震え始めた手をテーブルの下で握りしめた。
やってしまった。月曜日からの職場の空気を考えると、胃に穴が開きそうだ。
でも、後悔はしていない。後悔だけは、していない。
天草さんの方を見る余裕はなかった。
でも、視界の端に映った彼女の顔は——
目を、見開いていた。
その目の端に、光るものが見えた気がした。




