第33話:おこげのせい(半分)
土曜日の昼過ぎ。
洗濯物を干し終えて、ベランダから部屋に戻ろうとしたとき、チャイムが鳴った。
コーポ日向のチャイムは壊れかけていて、「ピンポーン」ではなく「ビ……ボーン」という情けない音がする。
宅配か。いや、何も頼んでいない。
だが、ベランダに出てしまったことから、居留守もできまいと諦めた。
「はい?」
返事がない。ただのしかばね……ではないだろう。
ドアスコープを覗くと……
小さな背丈の……女性?
――ドアを開けた。
「……あ」
天草さんがいた。
黒縁メガネはいつも通り。だが、いつもの芋ジャージではなく丈の合ったデニム。
そして胸には、筆文字Tシャツ。
完全な豆腐モードとは違う。ほんの少しだけ、気を遣った格好だ。
足元には、おこげがブンブンと尻尾を振っている。
今日の一文字は、『鯛焼き』。
暁さんの趣味がますます迷走してきている。和菓子なのか洋菓子なのかジャンルすら定まっていない。
だいたい、天草家にはTシャツ一体何着あるんだ。
だが——天草さんが筆文字Tシャツを着ている。
暁さんが「あいつ、筆文字Tシャツを着なくなった」と言っていたのに。
今日は、着てきてくれた。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「あの……すみません、おこげが」
天草さんは気まずそうに目を逸らした。
「散歩してたら、こっちにずんずん歩いてきちゃって。引っ張っても全然ダメで。なんか、家知ってると言わんばかりで……」
言い訳がましい天草さんの横に佇むおこげを見下ろす。
犬は俺の足に前足を乗せて、キャンキャンと鳴いている。「早く上げろ」と言わんばかりだ。
ペット禁止のアパートに犬の鳴き声はマズい。
取り急ぎ。
「……入りますか?」
聞いてから、自分の部屋の状態を思い出した。
洗濯物は干したばかり。流しにはカップ麺の容器。テーブルの上には脱ぎっぱなしのTシャツ。
この際、ペット不可物件なんて話はどうでもいい。
男一人暮らしの六畳間を、好きな女の人に見せるのは——
「えっと、はい。お邪魔します」
遅かった。おこげは先行して玄関を突破している。
犬に導かれた突撃訪問。抵抗する余地がない。
◇
前に来てもらったのは、あの風邪の日だ。
あのとき、天草さんはこの台所でおかゆを作ってくれた。
六畳間に天草さんが座っている光景は、あの日以来だ。
ちゃぶ台の向こうで正座していた天草さんが、今度はソファの片隅に座っている。
おこげは俺の膝に飛び乗り、くるりと一回転してストンと定位置に収まった。まるで自分の家のようだ。
「散らかっててすみません……」
急いでカップ麺の容器をゴミ袋に突っ込んだ。
「前よりきれいですよ」
前より。
天草さんはあの日のことを覚えている。当たり前だが、覚えていてくれたことが嬉しい。
「あ、洗濯ネットのカーテンもまだ健在ですね」
「……替えようと思ってたんですけど」
「替えなくていいです。味があって好きです」
好き。
カーテンの話だ。カーテンの話なのに、その一語に心臓が跳ねた。
気持ちに名前をつけてしまった後では、何気ない単語すら爆弾になる。
「何か飲みます?」
「お構いなく——」
「コーヒーしかないですけど」
「じゃあ、お願いします」
台所に立った。
コーヒーを淹れようとして、棚からマグカップを取り出す。
二つ目のカップに湯を注ぎながら、考える。
昨日、天草さんは言った。「もう少し、心の整理をする時間をください」と。
あれは拒絶じゃない。「まだ聞けない」という保留だ。俺はそう受け取った。
なのに——翌日には、うちに来て座っている。
おこげが勝手に来た、と天草さんは言った。
嘘ではないだろう。
だが、リードを引けば止められる犬を、止めなかったのも事実だ。
心の整理は、まだ終わっていないのかもしれない。終わっていないからこそ、ここに来たのかもしれない。
どちらにしても、それを詮索するのは野暮だ。
来てくれた。今はそれだけでいい。
ふと、視線が流しの隅に向いた。
鍋だ。
天草さんがおかゆを作ってくれた、あの鍋。
あの空白の二週間で「あの味を上書きされたくない」と思って以来、ピカピカのまま放置していた。
——上書きしよう。
唐突にそう思った。
あの鍋は記念品じゃない。道具だ。使ってこそ意味がある。
「天草さん。昼、食べました?」
居間に向かって声をかける。
「え? あ、まだ……」
「よかったら、何か作りますけど」
「大塚さん、料理できるんですか?」
失礼な質問だが、当然の疑問だ。この部屋にはカップ麺と冷凍食品しかない印象だろう。
「スパゲッティ茹でるくらいなら。レトルトのミートソースがあるんで」
「……じゃあ、お願いしてもいいですか」
風邪の日と違って、今日はそれなりに食材がある。
スパゲッティの乾麺。レトルトのミートソース。冷蔵庫から出した粉チーズ。
昨日帰りに寄ったスーパーで、なぜか「ちゃんとしたものを食べよう」と思って買ったのだ。あの気まぐれが今、役に立っている。
あの鍋を棚から降ろした。
水を入れる。火をつける。
スパゲッティを茹でるだけだ。レトルトのソースを温めるだけだ。料理と呼べるかどうかすら怪しい。
でも、この鍋を動かすのに、これ以上の理由はいらない。
天草さんがおかゆを作ったときの手順を、逆再生で思い出す。
あのとき、天草さんは黙々と台所に立ってくれた。
今度は、俺が立つ番だ。
湯が沸いた。乾麺を入れる。
鍋が小さくて麺がはみ出す。押し込むと折れた。
七分後。
ざるがないことに気づいた。
鍋ごと傾けて湯切りをする。——勢いをつけすぎた。麺が三本、流しに落ちた。
「……あっ」
どうして俺はこうも不器用なのか。
ただスパゲッティを茹でて、湯切りすることすらおぼつかないなんて。
思わず天を仰いだ時、後ろから声がかかった。
「大塚さん? 大丈夫ですか?」
天草さんが台所を覗き込んでいた。おこげを抱いたまま。
落ちた麺と、鍋を傾けたまま固まっている俺を見て——
ぷっ、と吹き出した。
営業スマイルじゃない。おこげの顔に鼻を押しつけて、肩を震わせている。
あの笑顔が戻ってきている。ここにいる天草さんは、「会社の天草さん」じゃない。
「笑わないでください。これでも真剣なんです」
「すみません……でも、三本だけ救出失敗って……」
鍋の中で、残った麺がくたっとしている。
おかゆの匂いではなく、茹で汁の発する湯気が六畳間に広がっていく。
上書きだ。
おかゆの記憶が消えるわけじゃない。
その上に、新しい記憶が重なっていく。それでいい。
◇
皿に盛って、湯煎したレトルトのミートソースをかけた。仕上げに粉チーズを振る。
ちゃぶ台の上に並べると、天草さんが両手を合わせた。
「いただきます」
一口食べる。
天草さんの目が少し大きくなった。
「……普通に美味しいです」
「普通って」
「いえ、すごく。さっきの湯切りを見た後だと、余計に」
「擦らないでください」
天草さんが、くすっと笑った。
それから、小さく付け足した。
「粉チーズ、多めで嬉しいです」
粉チーズ。いつだったか、天草さんが「多めが好き」と言っていた気がする。
いつ言ったかは覚えていないが、多めに振ったのは覚えていた。
いつどこで言ったか分からない何気ない一言を、お互いに覚えている。
それが、同盟仲間の一ヶ月半の蓄積だ。
おこげが足元でじっとスパゲッティを見上げている。鼻をひくひくさせて、尻尾を振っている。
「おこげ、ダメだよ」
天草さんが言うと、おこげは諦めたように俺の膝に飛び乗り、丸くなった。膝の上で犬が寝るのは久しぶりだ。温かい。
食べ終わって、二人でコーヒーを飲んだ。
会話は——驚くほど、自然だった。
二週間の空白が嘘のように、言葉が出てくる。
おこげの近況。会社の愚痴。
特別なことは何も話していない。でも、この「特別じゃない会話」が、一番欲しかったものだ。
「そういえば、今日のTシャツ、鯛焼きですね」
何気なく言った。でも、本当は聞きたかった。
「……兄が、また作ったんです。『着ないなら捨てる』って脅されて」
「暁さんらしい」
「最近ちょっと……着る気になれなくて。でも、今日は」
天草さんが、マグカップの縁を指でなぞった。
「——着てみようかなって、思えたので」
俺は何も言わなかった。言わなくていい。
ただ、『鯛焼き』の筆文字が、今日いちばん眩しいものに見えた。
天草さんがソファに寄りかかった。
おこげは俺の膝でぐっすり寝ている。
「……ここ、落ち着きますね」
天草さんが、小さな声で言った。
「六畳間ですけど」
「広さじゃなくて……なんだろう。空気が」
目を少し細めて、洗濯ネットのカーテン越しの日差しを見ている。
「前に来たとき、風邪で寝てる大塚さんにおかゆ作ったの、覚えてますか」
「忘れるわけないです」
「あのとき、ここの空気が好きだなって思ったんです」
好き、がまた出た。今度は空気の話だ。
でも、天草さんの声のトーンが変わっている。
柔らかくて、少し恥ずかしそうで——素の天草ひよりの声だ。
「狭いし、カーテンはダサいし、カップ麺の匂いしかしないのに。でも、なんか……安心する」
「……褒められてるんですかね?」
何に対する感謝か自分でもよく分からないが、それしか言えなかった。
二人でくすくすと笑い合う。
おこげは、天草さんが持ってきたロープのおもちゃにじゃれて遊んでいる。
もうすっかりここが家であるかのような振る舞いだ。
窓の外は、午後の日差しが傾き始めている。
もう少しだけ、この時間が続けばいい。
でも、告白はしない。「もう少し時間をください」と言った天草さんの言葉を、信じて待つ。
待つことは、嫌じゃない。
こうやって隣にいてくれるなら——待てる。いくらでも。
◇
夕方四時。
天草さんがおこげを起こして、帰り支度を始めた。
「今日は、すみませんでした。突然押しかけて」
「おこげのせいじゃないですか」
「……半分は、おこげのせいです。でも、おこげのおかげです」
半分。
残りの半分は、聞かなかった。
玄関で靴を履く天草さんの背中を見ながら、思った。
この人がこの狭い部屋にいるだけで、六畳間の空気が全部変わる。
窓から入る風の匂いも、洗濯ネットのカーテン越しの光も、流しの水の音も。
何もかもが、ほんの少しだけ、柔らかくなる。
「また、おこげが来たがったら……待ってます」
「……はい」
天草さんがドアを開けて、振り返った。
おこげが最後にもう一度、くぅと鳴いた。
ドアが閉まった。
階段を降りていく小さな足音と、おこげの爪がコンクリートを引っ掻く音が遠ざかっていく。
六畳間に、ミートソースの匂いが残っていた。
おかゆの記憶の上に、スパゲッティの記憶が重なった。
上書きじゃない。積層だ。
鍋を洗った。
今度は、棚にしまわなかった。流しの横に、立てかけておいた。
またすぐ使うかもしれないから。




