第32話:ぐるぐる巻き
金曜日の夕方。
買い物帰りに、住宅街の道を歩いていた。
仕事は定時で切り上げた。
昨日の夜、決意した。
だからといって、すぐに行動に移せるほど俺は器用じゃない。
まだ言葉が見つからない。
天草さんに何を言えばいいのか。どんな顔で向き合えばいいのか。
「好きです」と言えば済む話なのかもしれないが、それだけでは足りない気がする。
避けられていた二週間の溝を、たった一言で埋められるのか。
そんなことをぐるぐる考えながら、スーパーの袋を提げて歩いていた。
不意に——足に何かがぶつかった。
「わふっ!」
茶色い毛玉だ。
小さくて、丸くて、尻尾がブンブン回っている。
「おこげ!?」
間違いない。トイプードルのおこげだ。
リードがない。首輪はついているが、リードの金具が空っぽになっている。外れたのか、千切れたのか。
おこげは俺の膝に前足を乗せ、キャンキャンと嬉しそうに鳴いた。
二週間ぶりの再会。犬には「避ける」という概念がないらしい。全身で「会いたかった」を表現している。
「おい、一匹でどうした。天草さんは?」
おこげを抱き上げる。軽い。ふわふわの毛並みに顔を埋めると、かすかにシャンプーの匂いがした。天草さんの家の匂いだ。
遠くから、声が聞こえた。
「おこげーーー! 待ってーーー!」
聞き慣れた声。
だが、二週間ぶりに聞くその声は、やけに懐かしかった。
住宅街の角を曲がって、天草さんが走ってきた。
豆腐モードだ。ダサい黒縁メガネに芋ジャージ。
今日のTシャツは——『ところてん』。
夏を先取りしてきた。相変わらず食べ物系のラインナップだ。
しかし「ところてん」のチョイスは渋すぎないか。兄の趣味が加齢とともに枯れてきている。
息を切らした彼女が、俺の姿を認めた瞬間。
足が、止まった。
目が合った。
二週間ぶりの、正面からの視線。
彼女の表情が、目まぐるしく変わった。
驚き。動揺。気まずさ。そして——ほんの一瞬、安堵に似た何か。
だが、すぐにいつもの壁が上がりかけた。
営業スマイルの仮面を被ろうとする兆候。口角がわずかに上がり、目が細くなる。
それを見て、俺は咄嗟に言った。
「脱走犯、確保しました」
おこげを軽く持ち上げて、見せた。
余計なことは言わない。今の距離感では、それが精一杯だ。
天草さんは、仮面を被りかけた表情を少し崩して、おこげに手を伸ばした。
「すみません……公園の入口で、猫にびっくりしてリードの金具が……」
声は小さいが、二週間前のような冷たさはない。
おこげの首輪と金具をつなげた瞬間——
おこげが、猫を見つけた。
公園の植え込みの陰に、三毛猫がちょこんと座っている。
おこげの体が、ビクッと跳ねた。
「わんっ!」
俺の腕から飛び出す。
伸びたリードの残骸が、天草さんの両足と俺の右足に絡みついた。
天草さんがバランスを崩す。とっさに手を伸ばした。
次の瞬間。
天草さんの体が、俺の腕の中にすっぽり収まっていた。
時間が、止まった。
近い。
近すぎる。
メガネの奥の大きな目が、至近距離でこちらを見ている。
瞳の中に、俺の顔が映っている。
シャンプーの匂い。かすかに汗の匂い。走ってきたからだろう。
どちらも、天草さんの匂いだ。
彼女の顔が、みるみる赤くなった。耳まで。首筋まで。ところてんTシャツの襟元まで。
「す、すみませ——」
離れようとした。
だが、おこげは俺たちの足元をぐるぐる回っており――。
まるで木の枝をまとめるかのように、俺と天草さんの足にリードが巻きついている。
「動かないでください、余計絡まる」
「で、でも……」
「動くと転びます」
天草さんがうつむいたまま固まった。
俺の腕は彼女の肩を支えたまま。彼女の手が俺の胸元のシャツを掴んでいる。無意識だろうが、離す気配がない。
心臓の音が、うるさい。
自分のだけじゃない。彼女の心臓も、近すぎて聞こえてくる。
どちらのものか区別がつかない。
おこげが、ようやく満足したのか、ストンと座った。
リードが緩む。
弾かれたように、二人で離れた。
気まずい沈黙。
おこげだけが、キャンキャンと嬉しそうに二人を見上げている。
この犬は空気を読まない。いや——空気を読んだ上で、わざとやっている顔だ。
「……おこげが、本当にすみません」
天草さんが、顔を赤くしたまま俺に頭を下げた。
だが、以前のような氷の壁はなかった。
壁はあるけれど、薄い。向こう側の温度が、少しだけ透けて見えた。
「いや、全然。……元気そうで良かった。おこげも」
本心だった。
二週間ぶりに近くで見る天草さんは、少しだけ痩せた気がする。頬の線が前より細い。
だが、表情には血が通っている。営業スマイルではない、ぎこちないけれど生身の顔。
沈黙。
嫌な沈黙ではない。言葉を探している沈黙だ。
おこげがキャンキャン鳴くことで、かろうじて沈黙が沈黙にならずに済んでいた。
「天草さん」
俺は口を開いた。
「俺、話したいことがあるんですけど」
天草さんがハッとして、こちらを見た。
メガネの奥の瞳が揺れている。
何を言われるのか、怖がっているような。でも、聞きたいような。
数秒の間。
「……もう少し、心の整理をする時間をください」
小さな声だった。
だが、拒絶ではなかった。
「聞かない」ではなく、「まだ聞けない」。その違いは、大きい。
「……わかりました」
天草さんは小さく頷いて、おこげを抱き上げた。
そのまま、小走りにエスポワールの方へ去っていく。
だが——マンションの入口の手前で、一度だけ振り返った。
小さく、会釈した。
手は振らなかった。でも、あの会釈は、二週間前に閉じた扉の隙間から差し込んだ、一筋の光のように見えた。
おこげも、天草さんの腕の中からこちらを見ている。
尻尾が、振れていた。
俺は、その場に立ったまま、二つの影がオートロックの向こうに消えるのを見送った。
「時間をください」。
それは「待っていてほしい」という意味だと、受け取っていいのだろうか。
分からない。
でも、扉が少しだけ開いた。そんな気がした。
おこげ。
お前、さっきのぐるぐる、わざとだろう。
苦笑しながら、俺は帰り道を歩き始めた。
スーパーの袋の中のスパゲッティの乾麺とレトルトソースが、ちょっとだけ軽く感じた。




