第31話:棚卸し
意識が飛んだのは空が明るくなり始めてからだった。
昨日の暁さんの声が頭の中で回っている。
『助けになってやってくれないか』
あの低い声で、あの不器用な人が言った一言。
布団の中で、天井を見つめる。
早く支度しないと遅刻するぞと、朝の陽光がカーテンの隙間から訴えている。
あの灰色のカーテン。天草さんに「洗濯ネットかと思いました」と言われた、あのカーテン。
笑えない。あの時は笑ったのに。
◇
出社はした。
仕事はどうにかこなしているが、頭の半分は別のことを考えている。
天草さんが、筆文字Tシャツを着なくなった。
あの人にとって、芋ジャージと筆文字Tシャツは「素の自分」そのものだったはず。
会社では完璧な仮面を被り、家に帰れば全部脱いで、兄のダサいTシャツに袖を通す。
それが天草ひよりという人間のバランスだった。
そのバランスが崩れている。
素の自分を出せなくなっている。
——きっと、俺のせいだ。
昼休み、一人でおにぎりを食べながら、これまでのことを頭の中で並べ直した。
最初の出会い。スーパーの前で、「豆腐」Tシャツの女と目が合った。
あの時は何も思わなかった。変な人だな、くらいの感想だった。
次の日から、コンビニ前で何度もすれ違った。
おこげに懐かれ、会話が始まり、少しずつ距離が縮まった。
「定時退社」「冷やし中華」「焼きそば」——Tシャツのバリエーションを聞くたびに笑った。
正体がバレた夜。ゲリラ豪雨の中で。
「似合ってますよ、そっちの方が」
俺にだけ見せてくれた、あの泣きそうな笑顔を、今でも覚えている。
雨に濡れた『味噌田楽』Tシャツ。メガネの向こうの、潤んだ目。
その全部が、いまも鮮明に浮かぶ。
同盟を結んだ。秘密を共有した。
電話で助けた。おかゆを作ってもらった。公園で並んで座った。
おこげを間に挟んで、ぐだぐだな会話をした夜もあった。「柚子胡椒」のTシャツを見て「マニアックすぎるだろ」とツッコんだら、「マニアックじゃないです、広く浅くです!」と反論された。
いつの間にか、帰り道の楽しみが「天草さんに会えるかどうか」になっていた。
そして——元カノが現れた。
天草さんが距離を取った。俺は追いかけた。扉は閉じた。
全部、並べ終えた。
一つ一つは何気ない日常の断片だった。
棚卸しが終わった。
惚れた腫れたを仕事みたいに考えても仕方がないかもしれない。
でも全部並べてみたら、その総体は——どう見ても、恋慕の歴史だった。
◇
帰宅後、部屋の電気をつけて、テーブルの前に座った。
珍しく、カップ麺ではなくコンビニ弁当を買った。理由は特にない。少しだけ、ちゃんとしたものを食べたかった。
弁当のフタを開けながら、考える。
同盟仲間だから寂しい?
犬の散歩相手がいなくなったから空しい?
秘密を共有できる相手を失ったから辛い?
全部違う。
そんなものは理由の皮だ。核じゃない。
同盟仲間だから、で済むなら、こんなに苦しくない。
おこげに会えないだけなら、実家のムギの写真で癒やされるはずだ。
秘密の共有者がいなくなっただけなら、仕事で忘れられるはずだ。
でも、忘れられない。
天草さんの営業スマイルを見て胸が痛くなるのは、あの人の本当の笑顔を知っているからだ。
あの人の本当の笑顔を独り占めしたかった。
あの人の「素」を見られる唯一の人間でありたかった。
それは——
「……好きだ」
声に出た。
コンビニ弁当の白米に向かって、世紀の告白をしてしまった。
天草ひよりのことが、好きだ。
豆腐Tシャツの天草さんが好きだ。
営業スマイルで完璧に武装した会社の天草さんも、好きだ。
おこげを膝に乗せてニヤニヤする天草さんが、好きだ。
おかゆを作りながら鼻歌を歌う天草さんが、好きだ。
うっかり声を出して同僚にバレかける天草さんが、好きだ。
全部好きだ。
全部。一つ残らず。
認めたら、不思議と肩の力が抜けた。
ずっと蓋をしていたものを開けたら、中身は思ったよりシンプルだった。
好き。たったそれだけ。他に何もない。
ただし、それを認めたからといって、状況が好転するわけではない。
天草さんは俺を避けている。扉は閉じている。
先輩とのディナーにも行った。
「大塚さんには関係ないじゃないですか」と言われた事実は変わらない。
でも。
暁さんが言っていた。
天草さんは俺の前では「素」で話していた、と。
帰ってきてから、俺の話をずっとしていた、と。
おこげの写真の返事でニヤニヤしていた、と。
それが本当なら。
扉は閉じているけれど、鍵はかかっていないのかもしれない。
いや——鍵がかかっていたとしても。
「……こじ開けるしかない」
また声に出た。今度は漬物に向かって。
食べ物に告白と決意表明をする男、大塚勝利。我ながら情けないが、誰もいない部屋では声に出さないと決心が揺らぐ。
迷いは消えていない。
怖い。拒絶されるかもしれない。同盟仲間に戻ることすらできなくなるかもしれない。
元カノにフラれた時の痛みが、まだ体の奥底に刻まれている。
その元カノにはすでに別れを告げた。
立ち止まるという選択肢は、もう消えた。
スマホを開いた。
天草さんのトーク画面。
メッセージは打たない。まだ、LINEで伝える言葉じゃない。
次に会えたとき、ちゃんと目を見て話す。
何を言うかは、まだ決まっていない。
でも、逃げない。今度こそ。
コンビニ弁当を食べ終えて、ゴミを片付けた。
窓の外にエスポワールの灯りが見えた。




