第30話:兄の想い
水がつく曜日だからといって、雨になる必要はないんだ。
なのに外では律儀に空が雨を落とし始めた。しとしとと、音もなく降る雨。
帰宅してシャワーを浴び、髪を拭きながらソファに座った。
テレビをつける気力もなく、暗い部屋でスマホをぼんやり眺めていた。
こういう夜は、以前なら天草さんから「雨ですね。おこげは雨が嫌いなので今日は散歩お休みです」とLINEが来たのに。
LINEの通知はない。
天草さんとのトーク画面を開く癖が抜けない。開いても何もないと分かっているのに、指が勝手に動く。
最後のメッセージ。おこげの寝顔。犬の肉球スタンプ。
もう二週間前だ。
たった二週間。トーク画面をスクロールしていくと、おこげの写真が山ほど並んでいる。朝のおこげ。夜のおこげ。寝てるおこげ。あくびするおこげ。
何か送るべきだろうか。
何度もメッセージを打っては消してきた。
「元気ですか」——軽すぎる。
「話したいことがある」——重すぎる。
「おこげの写真ください」——ふざけてる場合じゃない。
どれも選べず、入力欄は空白のままだ。
結局、何も送れないまま画面を閉じた。
そのとき、スマホが鳴った。
着信だ。
登録していない番号。市外局番は東京。
営業電話かと思ったが、時刻は夜の九時半。この時間にかけてくる営業はまずいない。
普段なら切れるまで待つのだが、数字の羅列が「いいから出ろ」と言っている気がした。
通話ボタンを押すと――。
「……大塚か?」
低い声。ぼそっとした喋り方。
聞き覚えがある。
「天草暁だけど」
心臓が跳ねた。
兄だ。あの無表情の、筆文字Tシャツ帝国の創始者。
「あ、暁さん。ご無沙汰してます」
「無沙汰もクソもないだろ。数回会った程度で」
暁さんは相変わらずだった。
無駄のない言葉。ぶっきらぼうな語調。電話越しでも伝わる無表情。
「単刀直入に聞く」
間髪入れず、彼は言った。
「お前、ひよりに何かしたか」
胃の底に冷たいものが落ちた。
「何も……いや、正確には何もできなかったんだと思います」
正直に答えた。嘘をついてもこの人には通じない。犬と同じで、嘘を嗅ぎ分ける嗅覚がある。
電話の向こうで、暁さんが小さく息を吐いた。
「……最近あいつ、家でも元気ないんだ」
声のトーンが、わずかに下がった。
「飯は食ってるが量が減ったし、おこげの散歩も短い」
一つ一つが、重い。
「あと——筆文字Tシャツを着なくなった」
「……それは」
「あいつが着なくなるのは相当だぞ。俺がせっかく書いてるのに」
筆文字Tシャツを着ない天草ひより。
あの人にとって、あのダサいTシャツは「素の自分」の象徴だった。
会社の鎧を脱いで、兄と犬と暮らす日常の制服だった。
それを着なくなったということは——素の自分でいることすら、辛くなっているということだ。
「暁さん、俺——」
「別に責めてるわけじゃない。お前の事情は知らん」
暁さんは淡々と続けた。
「俺はひよりのことしか考えてないから、お前の事情は正直どうでもいい」
容赦ない。だが、清々しいほどの正直さだった。
この人は嘘をつけない。妹と同じだ。
「ただな——あいつ、お前のこと話してるとき一番うるさかったんだよ」
「うるさかった?」
「帰ってくるたびに大塚さんがどうたらって。おこげの写真に返事来るたびニヤニヤして。こっちは興味ないっつーの」
電話越しに、暁さんの声が少しだけ柔らかくなった。
妹のことを話すときだけ、この人の声に温度が生まれる。
「会社でのことは知らんが、あいつのことだからどうせ猫被ってんだろ。でもお前の前だと、素のひよりで話していた」
——素のひより。
豆腐モードの、あの天草さん。
メガネに芋ジャージ。筆文字Tシャツでおこげの散歩をして、スーパーでそそっかしく買い物をする、あの姿。
会社の人間であの姿を知っているのは、俺だけだ。それがどれだけ貴重なことか、失って初めて分かる。
「最近は帰ってきても黙ってる。おこげだけが玄関まで迎えに行って、あいつはそのまま部屋に入る。兄としては……面白くない」
言葉の選び方が暁さんらしい。「面白くない」は「心配している」の暁語訳なのだろう。
「……なんか様子が変なのは確かだが、俺じゃよく分かんねえんだ」
暁さんの声が、少しだけ低くなった。
「助けになってやってくれないか。じゃあな」
電話が、切れた。
最後の一言だけを投げて、ぶつりと。余韻を残す気がないあたりが、この人らしい。
暗い部屋に静寂が戻った。
スマホを持つ手が、微かに震えている。
助けになってやってくれ。
兄が——あの無表情の、犬以外に興味がなさそうな暁さんが——妹のために、頭を下げたのだ。
電話をかけるという行為自体が、あの人にとってはどれだけのハードルだったか。
人と話すのが得意じゃないことは、明太子の夜に嫌というほど分かっている。
俺に一体、何ができるんだろう。
扉は閉じている。LINEは返ってこない。会社では営業スマイルの壁がある。
――でも。
天草さんが筆文字Tシャツすら着なくなったという事実が、胸に刺さって抜けない。
あの人が「素の自分」を封印してしまったのなら——それを解くことができるのは、「素の自分」を知っている人間だけじゃないのか。
「……ここで動かなければ」
声に出してみた。
暗い部屋に、自分の声だけが響いた。
スマホを握りしめる。
何をすればいいかは分からない。どんな言葉が正しいのかも分からない。
でも、何もしないという選択肢だけは——もう、ない。




