第29話:ただの月曜日
月曜日。
またしても、月曜日が来た。
この曜日だけは意識せずにいられない。
月曜日には何かが起きる。それだけは確かだ。
出社すると、フロアの空気がいつもと違った。
ざわついている。小声で何かを話している同僚が多い。
「聞いた? 金曜に早乙女さんが天草さんとディナー行ったらしいぜ」
「マジかよ。あの天草さんとか?」
「もうそういう関係なんじゃね?」
背中から刺さる噂話。
聞きたくないのに、耳が勝手に拾ってしまう。
あの夜——俺がエスポワールの灯りを見上げていた金曜日、天草さんは青山のイタリアンにいたらしい。
先輩はどうだったか。
答えは、すぐに分かった。
早乙女先輩が、上機嫌で部署を闊歩している。
歩き方からして違う。肩を大きく揺らし、鼻歌まで歌っている。
普段から自信家だが、今日はそれに拍車がかかっている。勝鬨を上げた男の顔だ。
「よう大塚」
俺のデスクの横を通りかかった先輩が、にやりと笑った。
「いい週末だった。青山のイタリアンってさ、ワインの品揃えが半端ないんだわ」
誰も聞いていないのに報告してくる。
俺に対する当てつけか、それとも純粋な自慢か。たぶん後者だ。この人は計算で嫌味を言うタイプじゃない。天然で無神経なだけだ。
「天草さん、シャルドネ好きって言うからさ、三種類くらい頼んで」
聞いていない。聞きたくない。
だが先輩は、デスクの角に腰をかけて話し続ける。
「料理もさ、パスタ二種類にリゾットに前菜の盛り合わせ。シェフがサービスでデザートもくれてさ。天草さん、ティラミスすっげぇ嬉しそうに食べてたよ」
天草さんがティラミスを食べている場面が浮かんだ。
あの人は甘いものが好きだ。おこげの散歩中にコンビニでシュークリームを買って、マンションに帰ってから食べると嬉しそうに言っていた。
——そういう情報を持っているのは、同盟仲間だった俺だけだと思っていた。
先輩にも、少しずつ見せ始めているのだろうか。素の天草さんを。
「そうですか」
平静を装った。顔には出していないはずだ。
先輩は満足そうに去っていった。
残されたデスクで、見積書の数字を見つめる。
だが数字の向こうに映るのは、青山のイタリアンで先輩と向き合っている天草さんの姿だった。
あの完璧な笑顔で。あの営業スマイルで。
——本当に営業スマイルだったのか? 本物の笑顔だった可能性は、ゼロなのか?
分からない。
分からないということ自体が、胃の底に重石を置く。
◇
昼前、先輩が動いた。
「来週の金曜、部署交流会やろうぜ! 営業と総務の親睦を深めるってことで」
上司に許可を取り付け、勝手に話を進めていく。
部署交流会。聞こえはいいが、実質は天草さんを囲む飲み会だ。
先輩のディナー成功に気を良くした勢いで、今度は職場の飲み会に巻き込もうとしている。
先輩の行動力は、こういう方向にだけ異常に発揮される。
仕事の企画書は締め切りギリギリまで出さないくせに、飲み会の店選びは当日中に三軒比較して予約を完了させた。優先順位が独特すぎる。
天草さんの様子が気になった。
総務部の方に目をやると、彼女は同僚に飲み会の話を振られていた。
「天草さん、来週の交流会、参加できる?」
「あ……えっと、はい。大丈夫です」
断れていない。
だが、以前のような完璧な「会社の笑顔」ではなかった。
口角は上がっているが、目の奥に困惑がある。
営業スマイルの鎧に、小さな亀裂が入っているように見えた。
あの天草さんが、鎧を維持できなくなっている。
鎧に、たった今、亀裂が入った。あの完璧な人にも、限界があるのかもしれない。
そのとき、天草さんがチラッとこちらを見た。
ほんの一瞬。まばたき二つ分。
だが、あの表情は知っている。
困っている顔だ。押しに弱くて、断り切れなくて、でも本当は嫌で——
助けを求めている?
いや、そう思いたいだけかもしれない。
「大塚さんには関係ないじゃないですか」。あの言葉がまだ耳に残っている。ここで俺が動けば、また距離が開くかもしれない。
だけど——
来週の飲み会で、先輩が天草さんの隣に座る。酒を勧める。二次会に誘う。
あの構図が、また繰り返される。
前回は電話で助けた。その前は、酔って暴言で結果的に助けたことになった。
だが今の俺と天草さんの間には、同盟のホットラインはない。
胸がざわついた。
先輩が天草さんの隣にいるのが、たまらなく嫌だ。
午後の仕事は手につかなかった。
見積書の数字が、何度読んでも頭に入らない。
天草さんの困った顔が、視界にこびりついて離れなかった。
何かが起こって欲しい時に限って、何も起こってくれない月曜日だった。




