第28話:モノクローム
火曜日。
昨夜の出来事が、夢だったのではないかと思いたかった。
だが、革靴の踵に残った擦り傷と、シャツの汗じみが現実を証明している。
走ったのだ。会社帰りに、革靴で、天草さんのマンションまで。
そして——扉は閉じた。
『大塚さんには、関係ないじゃないですか』
『元カノさんとか』
『おやすみなさい』
三つの言葉が、まだ耳に貼りついている。
いちばん痛かったのは、最後の「おやすみなさい」だった。
拒絶ではない。怒りでもない。ただ静かに幕を下ろすような声。
あれは、「もうこの話はしない」という宣言だった。
◇
出社してデスクに座る。パソコンを起動する。メールを開く。
ルーティン通りの朝。だが、体の中身だけが別人になったみたいだ。
指がキーボードを叩く。目がモニターの文字を追う。でも頭の中では、昨夜の天草さんの声がリピートしている。
天草さんの席は、営業部のフロアからは見えない。
以前はそれが同盟を守る都合のいい構造だった。しかし今は、見えないことがただただもどかしい。
あの人が今、どんな顔をしているのか。昨夜のことで目が腫れていたりしないか。いつも通りの営業スマイルで、何事もなかったように仕事をしているのか。
確かめたい。でも確かめにいく勇気がない。
昼休み、給湯室に行った。
誰もいなかった。
以前はここで何度か鉢合わせた。目配せしたり、小さく手を振ったり。「今日のおこげ、寝てばっかです」と小声で報告してくれたこともあった。
あの頃が遠い昔のようだ。たったひと月前なのに。
マグカップにコーヒーを入れて、自分のデスクに戻る。
何も起きない。何も変わらない。
ただ、「何もない」ということ自体が、今はやけに重い。
◇
水曜日。
朝、出社してエレベーターに乗ったとき、天草さんと一緒になった。
一瞬、目が合った。
彼女は軽く会釈して、視線を前に戻した。
表情は穏やかな営業スマイル。他の同僚にするのと、寸分違わない笑顔。
かつて俺にだけ向けられていた「三つ目の笑顔」は、もうない。
エレベーターの中には、他に三人いた。
誰も、俺と天草さんの間に流れている空気には気づいていないだろう。
それは外から見れば、同じ会社で働く人間同士の、ごく普通の距離感だから。
でも、俺にとっては、ガラスケースに並んだ綺麗なマネキンのようなものだった。
声は届く。姿は見える。でも、触れられない。
七階に着いた。
天草さんが先に降りた。
俺も降りて、反対側——営業部の方へ歩き出した。
同じフロアなのに、総務部との間には見えない壁がある。
——昔は、こんなことに気づきもしなかった。
◇
木曜日。
帰り道、いつもの散歩コースを通った。
習慣で、というよりも未練で、と言った方が正しい。
おこげの姿はなかった。
もう一週間以上、帰り道であの犬に会っていない。
天草さんが散歩の時間をずらしたのだろう。
あの小さな犬は、俺のことを覚えているだろうか。膝に飛び乗って、尻尾を振って、顔を舐め回してくれたあの犬は。
犬の記憶がどのくらい続くのか知らないが、忘れられるのは怖い。おこげにも、天草さんにも。
コンビニでカップ麺とおにぎりを買って帰る。
冷蔵庫に食材はない。洗い物は出ない。鍋はピカピカのまま。
天草さんがおかゆを作ってくれた日以来、あの鍋は使っていない。
使う気になれないのではなく、使う理由がないのだ。
いや——使う理由を作りたくないのかもしれない。
あの味を上書きしたくない。
カップ麺のフタを開ける。
三分間、天井を見上げる。
換気扇の音だけが回っている。
静かだ。
以前は、この静けさを「楽」だと思っていた。一人暮らしの気楽さ。
今は、この静けさが「空」に聞こえる。
◇
金曜日。
藤田に声をかけられた。
「大塚、最近元気ないな。また元カノにフラれたのか?」
不意打ちだった。
確かに、今週はずっとぼんやりしていたと思う。仕事のミスこそなかったが、覇気がない自覚はあった。
「またフラれたってどういうことだよ」
「いやー、ちょっと前に超美人と会ってたろ? 元カノじゃねーの?」
「ああ、そうだけど、もう会わない、って話をしただけだし」
「あっれー? ほら、風邪のときにも声したじゃん? てっきりヨリを戻したとばっかり」
とんだ勘違いだったわ、と藤田が笑う。
俺は笑えない。
分からないが、胸の中に空いた穴は確かにある。
金曜の退勤後、駅までの道を歩く。
エスポワールの灯りが見えた。
七階の窓に、明かりがついている。
あそこで天草さんは、今夜も芋ジャージを着て、おこげを膝に乗せているのだろうか。
——いや、今夜は違う。
今夜は、先輩とのディナーだ。
足が止まった。
天草さんがエレベーターホールで「わかりました。楽しみにしてます」と言ったあの約束。
今夜がその日だ。
俺は何も言えなかった。声をかける権利すらないと思った。
同盟仲間ですらなくなった俺に、彼女の予定を止める資格はない。
頭の中で、天草さんが会社用の服を着て、髪をセットして、先輩の車に乗り込む場面が再生される。
青山のイタリアン。テレビに出たシェフの料理。ワインを注ぐ先輩。天草さんの笑顔。
あの営業スマイルで——いや、ひょっとしたら本物の笑顔で——
先輩の冗談に笑って、ワインのグラスを傾けて、楽しい夜を過ごしている天草さん。
想像が止まらない。止められない。
俺には止める権利がない。天草さんは自由だ。誰とディナーに行こうが、誰と笑おうが。
それは分かっている。頭では。
だが胸の奥が締め付けられるのは、理屈では止められない。
帰り道、月が出ていた。
六月の月は、どこか湿っぽく見える。
あの月は青山の空にも出ているのだろうか。天草さんもどこかで見上げているだろうか。
部屋に帰って、スマホを開いた。
天草さんのトーク画面。
最後のメッセージは十日前。おこげの写真と、犬の肉球スタンプ。
十日。
たった十日で、「日常」は「過去」になる。
俺はスマホを伏せて、暗い天井を見上げた。
この一週間で分かったことが一つある。
天草ひよりがいない日常は、機能している。
仕事はできる。飯は食える。電車にも乗れる。
何も壊れていない。何も不足していない。
——ただ、彩がない。
毎朝届いていたおこげの写真。帰り道のコンビニ前での会話。筆文字Tシャツへのツッコミ。公園のベンチで並んで座った時間。
あの全部がなくなって、日常はモノクロになった。
不思議なものだ。
たった一ヶ月ちょっとの付き合いで、あの人は俺の日常を塗り替えてしまった。
そして、いなくなった途端に色が抜けた。
……笑えない冗談だ。
失恋かどうかも分からないくせに、やっていることは完全に失恋だ。




