表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マンデーパニック! 〜変なTシャツと犬、ちょっとだけ勇気。会社のアイドルと二人で月曜日が楽しくなるまでの物語〜  作者: ゆゆこりん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/46

第28話:モノクローム


 火曜日。

 昨夜の出来事が、夢だったのではないかと思いたかった。


 だが、革靴の踵に残った擦り傷と、シャツの汗じみが現実を証明している。

 走ったのだ。会社帰りに、革靴で、天草さんのマンションまで。

 そして——扉は閉じた。


『大塚さんには、関係ないじゃないですか』

『元カノさんとか』

『おやすみなさい』


 三つの言葉が、まだ耳に貼りついている。

 いちばん痛かったのは、最後の「おやすみなさい」だった。

 拒絶ではない。怒りでもない。ただ静かに幕を下ろすような声。

 あれは、「もうこの話はしない」という宣言だった。


 ◇


 出社してデスクに座る。パソコンを起動する。メールを開く。

 ルーティン通りの朝。だが、体の中身だけが別人になったみたいだ。

 指がキーボードを叩く。目がモニターの文字を追う。でも頭の中では、昨夜の天草さんの声がリピートしている。


 天草さんの席は、営業部のフロアからは見えない。

 以前はそれが同盟を守る都合のいい構造だった。しかし今は、見えないことがただただもどかしい。

 あの人が今、どんな顔をしているのか。昨夜のことで目が腫れていたりしないか。いつも通りの営業スマイルで、何事もなかったように仕事をしているのか。

 確かめたい。でも確かめにいく勇気がない。


 昼休み、給湯室に行った。

 誰もいなかった。

 以前はここで何度か鉢合わせた。目配せしたり、小さく手を振ったり。「今日のおこげ、寝てばっかです」と小声で報告してくれたこともあった。

 あの頃が遠い昔のようだ。たったひと月前なのに。


 マグカップにコーヒーを入れて、自分のデスクに戻る。

 何も起きない。何も変わらない。

 ただ、「何もない」ということ自体が、今はやけに重い。


 ◇


 水曜日。

 朝、出社してエレベーターに乗ったとき、天草さんと一緒になった。


 一瞬、目が合った。

 彼女は軽く会釈して、視線を前に戻した。

 表情は穏やかな営業スマイル。他の同僚にするのと、寸分違わない笑顔。

 かつて俺にだけ向けられていた「三つ目の笑顔」は、もうない。


 エレベーターの中には、他に三人いた。

 誰も、俺と天草さんの間に流れている空気には気づいていないだろう。

 それは外から見れば、同じ会社で働く人間同士の、ごく普通の距離感だから。


 でも、俺にとっては、ガラスケースに並んだ綺麗なマネキンのようなものだった。

 声は届く。姿は見える。でも、触れられない。


 七階に着いた。

 天草さんが先に降りた。


 俺も降りて、反対側——営業部の方へ歩き出した。

 同じフロアなのに、総務部との間には見えない壁がある。

 ——昔は、こんなことに気づきもしなかった。


 ◇


 木曜日。

 帰り道、いつもの散歩コースを通った。

 習慣で、というよりも未練で、と言った方が正しい。


 おこげの姿はなかった。

 もう一週間以上、帰り道であの犬に会っていない。

 天草さんが散歩の時間をずらしたのだろう。

 あの小さな犬は、俺のことを覚えているだろうか。膝に飛び乗って、尻尾を振って、顔を舐め回してくれたあの犬は。

 犬の記憶がどのくらい続くのか知らないが、忘れられるのは怖い。おこげにも、天草さんにも。


 コンビニでカップ麺とおにぎりを買って帰る。

 冷蔵庫に食材はない。洗い物は出ない。鍋はピカピカのまま。


 天草さんがおかゆを作ってくれた日以来、あの鍋は使っていない。

 使う気になれないのではなく、使う理由がないのだ。

 いや——使う理由を作りたくないのかもしれない。

 あの味を上書きしたくない。


 カップ麺のフタを開ける。

 三分間、天井を見上げる。

 換気扇の音だけが回っている。


 静かだ。

 以前は、この静けさを「楽」だと思っていた。一人暮らしの気楽さ。

 今は、この静けさが「空」に聞こえる。


 ◇


 金曜日。

 藤田に声をかけられた。


「大塚、最近元気ないな。また元カノにフラれたのか?」


 不意打ちだった。

 確かに、今週はずっとぼんやりしていたと思う。仕事のミスこそなかったが、覇気がない自覚はあった。


また(・・)フラれたってどういうことだよ」

「いやー、ちょっと前に超美人と会ってたろ? 元カノじゃねーの?」

「ああ、そうだけど、もう会わない、って話をしただけだし」

「あっれー? ほら、風邪のときにも声したじゃん? てっきりヨリを戻したとばっかり」


 とんだ勘違いだったわ、と藤田が笑う。

 俺は笑えない。



 

 分からないが、胸の中に空いた穴は確かにある。


 金曜の退勤後、駅までの道を歩く。

 エスポワールの灯りが見えた。

 七階の窓に、明かりがついている。

 あそこで天草さんは、今夜も芋ジャージを着て、おこげを膝に乗せているのだろうか。


 ——いや、今夜は違う。

 今夜は、先輩とのディナーだ。


 足が止まった。


 天草さんがエレベーターホールで「わかりました。楽しみにしてます」と言ったあの約束。

 今夜がその日だ。

 俺は何も言えなかった。声をかける権利すらないと思った。

 同盟仲間ですらなくなった俺に、彼女の予定を止める資格はない。


 頭の中で、天草さんが会社用の服を着て、髪をセットして、先輩の車に乗り込む場面が再生される。

 青山のイタリアン。テレビに出たシェフの料理。ワインを注ぐ先輩。天草さんの笑顔。

 あの営業スマイルで——いや、ひょっとしたら本物の笑顔で——

 先輩の冗談に笑って、ワインのグラスを傾けて、楽しい夜を過ごしている天草さん。

 想像が止まらない。止められない。


 俺には止める権利がない。天草さんは自由だ。誰とディナーに行こうが、誰と笑おうが。

 それは分かっている。頭では。

 だが胸の奥が締め付けられるのは、理屈では止められない。


 帰り道、月が出ていた。

 六月の月は、どこか湿っぽく見える。

 あの月は青山の空にも出ているのだろうか。天草さんもどこかで見上げているだろうか。


 部屋に帰って、スマホを開いた。

 天草さんのトーク画面。

 最後のメッセージは十日前。おこげの写真と、犬の肉球スタンプ。


 十日。

 たった十日で、「日常」は「過去」になる。


 俺はスマホを伏せて、暗い天井を見上げた。

 この一週間で分かったことが一つある。


 天草ひよりがいない日常は、機能している。

 仕事はできる。飯は食える。電車にも乗れる。

 何も壊れていない。何も不足していない。


 ——ただ、彩がない。


 毎朝届いていたおこげの写真。帰り道のコンビニ前での会話。筆文字Tシャツへのツッコミ。公園のベンチで並んで座った時間。

 あの全部がなくなって、日常はモノクロになった。


 不思議なものだ。

 たった一ヶ月ちょっとの付き合いで、あの人は俺の日常を塗り替えてしまった。

 そして、いなくなった途端に色が抜けた。


 ……笑えない冗談だ。

 失恋かどうかも分からないくせに、やっていることは完全に失恋だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 ああ、“別の”元カノにフラれたのね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ