第27話:言えなかった言葉
俺は、自分でも信じられない行動に出ていた。
走っていた。
自宅へ? いや、天草さんのマンションがある方へ。
なぜ走っているのか、自分でも分からない。
ただ、あのまま家に帰ったら、何かが決定的に終わる気がした。
カップ麺を啜りながら、天草さんのマンションの灯りを窓から眺める金曜の夜。
あの虚しさを、もう一回味わいたくない。
革靴が、アスファルトを叩く。
息が切れる。普段ジョギングなんてしないくせに、こういう時だけ走れるのは何なんだ。
信号が赤になっても止まれない。横断歩道を小走りに渡って、住宅街の角を曲がる。
マンション『グランドレジデンス・エスポワール』の前に、天草さんの姿があった。
豆腐モードではない。会社帰りのまま、白いブラウスにベージュのカーディガン。
エントランスのカードキーをバッグの中で探しているところだった。
「天草さん!」
俺の声が、住宅街に響いた。
近所迷惑だと分かっている。だが、声量の調節ができなかった。
彼女が振り返った。
息が切れている。汗が首筋を伝っている。走りながら何を言うか考えていたはずなのに、何も浮かんでいなかった。
頭の中は真っ白で、心臓だけがバクバク言っている。走ったせいか、別の理由か、もう分からない。
「……大塚さん? なんで走って……」
彼女は少し驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの笑顔に切り替わった。
完璧な、温度のない営業スマイル。
この一週間で何度も見た、あの壁。
「さっきのは——本当に行くんですか? あの人と」
息を整えながら、そう問いかけた。
自分で聞いておきながら、聞く権利があるのかと自問する。
同盟仲間。同僚。秘密の共有者。
本来、どの肩書きにも、この質問を許す権限はない。
「行きますよ。せっかくお誘いいただいたんですから」
淡々とした答え。
笑顔のまま。目だけが、どこか遠くを見ている。
「でも、あの先輩のこと——嫌だったんじゃないですか? ずっと断ってたじゃないですか」
「大丈夫ですよ。食事くらい、別に」
「でも——」
「私のことは、私で決めますから」
同じ言葉。エレベーターホールでも聞いた。
だが二回目は、もっと静かで、もっと冷たかった。
練習したかのように淀みない。つまり、この答えを用意していたのだ。俺に同じことを問われたら、どう答えるのかを。
笑っているけれど、声が震えている。
目は笑っていない。
メガネをかけていない素顔の天草さんは、表情を隠すのが下手だ。
会社では完璧な仮面を被れるのに、今この瞬間、仮面の端がほんの少しずれている。
「大塚さんだって、ご自分のことで忙しいでしょう?」
一拍の間。
彼女の目が、かすかに揺れた。
「……美人の元カノさんとか」
息が止まった。
元カノ?
俺は「知り合い」としか言わなかった。ただの知り合いかと聞かれて黙っただけだ。
なぜ天草さんが「元カノ」だと知っている?
聞き返す暇はなかった。
天草さんは、あの火曜日の夜の会話から、ずっとこの言葉を抱えていたのだ。
どこでその情報を得たのかは分からない。だが、彼女の中では既に「事実」として組み上がっている。
「……あれはもう——」
伝えなければ。もう会わないと決めたことを。
元カノとは終わったのだと。天秤の結果を。
だが、天草さんは俺の言葉を遮った。
「おやすみなさい」
穏やかな、しかし有無を言わせない声。
それは「もう聞きたくない」という意味だった。
ピッ。
カードキーが読み取り機に触れる音。
ガシャン。
拒絶の音を残して、オートロックの扉が閉まった。
ガラスの向こうで、天草さんがエレベーターに向かって歩いていく。
背筋はまっすぐ。足取りは確か。
だが、エレベーターのボタンを押す手が、一瞬だけ躊躇したように見えた。
振り返らなかった。一度も。
俺は、閉ざされたガラスの扉の前に立っていた。
自動ドアは、内側からしか開かない。
俺がいくら外から頑張っても、この扉は動かない。
夜風が、汗ばんだ首筋を冷やしていく。
走ってきた熱が、急速に引いていく。残ったのは、呼吸と、胸の痛みだけだった。
先輩のディナーの誘い。
天草さんはずっと断り続けていた。俺に助けを求めるほど、嫌だったはずだ。
それを今さら承諾するなんて。
彼女は、感情を隠すのが下手で、押しに弱くて、兄のおかげで筆文字Tシャツを着ているような、不器用な人だ。
なら——なぜ?
答えは出なかった。
だが、理由がわからなくても、止める権利が自分にはないという事実だけが、ただただ重かった。
ガラスの扉に、自分の顔が映っている。
情けない顔だ。
誰かを追いかけてきたくせに、何も言えなかった男の顔。
「……俺は、あの人にとって何なんだ」
同盟仲間。秘密の共有者。犬の散歩仲間。おかゆを作ってもらった相手。
どれも嘘じゃない。だが、どれも本当じゃない気がする。
「いや——あの人は俺にとって、何なんだ」
本当の答えは分かっている。あの暗い部屋で口にした。
好きだ。
だが、この人の前では——まだ、言えない。
言えなかった。
だから、扉が閉まった。
天草さんは、もう部屋に着いただろう。
おこげが飛びつき、暁さんが「遅かったな」と呟いているだろう。
俺は踵を返し、ボロアパートへの道を歩き始めた。
さっきまで走っていた道の続きを、今度は重々しくゆっくりと。
月曜日の夜は、いつもより長い。




