第26話:承諾
月曜日。
もう月曜日が怖いという域を通り越して、むしろ覚悟すら決まりつつあった。
どうせ何かが起きるなら、さっさと起きてくれ。その方が心の準備ができる。
だが、覚悟と現実は別物だ。
一日中、天草さんとまともに話せなかった。
午前中、部署をまたいだ打ち合わせで同じ会議室にいたのに、彼女は一度もこちらを見なかった。
議事録を取る横顔は、完璧な「総務部の天草さん」だった。
発言も的確で、質疑応答も滞りない。惚れ惚れするような仕事ぶり。
でもそこに、俺の知っている「豆腐さん」の片鱗はなかった。
会議が終わって廊下に出たとき、すれ違いざまに目が合った。
一瞬遅れて彼女が視線を外す。まるで俺が風景の一部であるかのように。
午後の仕事は集中できなかった。
見積書を打っているのに、頭の中では別の計算をしている。
天草さんが俺を避け始めてから、何日経ったか。答えは約一週間。
LINEの最後のメッセージから何日か。答えは六日。
おこげの写真が来なくなってから何日か。同じく六日。
全部数えている自分が、滑稽だった。
◇
定時のチャイムが鳴った。
鞄を持ってエレベーターホールに向かうと、そこにはいつもの光景が広がっていた。
早乙女先輩が、天草さんの前に立っている。
「天草さん、今週こそディナー行こうよ。青山にイタリアンの予約取ったんだけどさ。シェフがテレビに出てたとこ」
先輩の声は自信に満ちている。
天草さんは困ったような笑顔を浮かべている。
いつもの構図だ。いつだか、電話作戦で撃退したはずの、あの場面。
以前なら、ここで同盟が発動していた。
俺がスマホで電話をかけ、天草さんが「すみません」と逃げる。
秘密のコンビネーション。息の合ったチームプレー。
だが、今の俺と天草さんの関係は——同盟どころか、同僚としての最低限のラインすら危うい。
(……動けない)
彼女は俺を避けている。「同盟仲間」としての信頼関係は、麻衣と一緒だったときの話をされた火曜日の夜に、壊れてしまったのかもしれない。
ここで出しゃばれば、また距離を広げるだけだ。
逡巡していると、天草さんがチラッとこちらを見た。
目が合った。
ほんの一瞬。まばたき一つ分。
彼女の瞳には、何か複雑な色が混ざっていた。
助けを求めているのか、突き放しているのか、判別できない。
天草さんと同盟関係にあった時期なら、あの目の中にある感情を読み取れたかもしれない。
だが今は、彼女が壁を作っている。営業スマイルの鎧の向こうにいる。
——そして。
「わかりました。楽しみにしてます」
天草さんが、笑顔で言った。
頭が真っ白になった。
嫌だったんじゃないのか。
あの先輩の誘いが、ずっと困っていたんじゃないのか。
電話で助けを求めてくるほど、嫌だったんじゃないのか。
それを、今、承諾した?
「おっ、マジか! やったー! じゃ金曜ね、迎えに来るから!」
先輩が上機嫌で去っていく。
エレベーターの扉が閉まる。上機嫌な鼻歌が、扉の向こうで遠ざかっていった。
廊下に残されたのは、俺と天草さんだけだった。
蛍光灯の白い光が、無機質に二人を照らしている。
気がつくと、声が出ていた。
「天草さん」
彼女が振り返る。
完璧な営業スマイル。口角の上げ方、目尻の柔らかさ、全てが計算されたように美しい。
だが、目は笑っていない。瞳の奥に、何か硬いものが光っている。
「……あの先輩の誘い、嫌だったんじゃ——」
「……大塚さんには、関係ないじゃないですか」
静かな声だった。
怒っているわけでもない。悲しんでいるわけでもない。
ただ、事実を述べただけの、平坦な声。
正論だ。
俺はただの同盟仲間だ。それも、今は休止状態の。
天草さんが誰とディナーに行こうが、俺に口を挟む権利はない。
同盟は秘密を守る契約であって、誰かの恋愛に介入する契約ではない。
「でも——」
「私のことは、私で決めますから」
彼女はそう言って、踵を返した。
ヒールの音が、リノリウムの床に硬く響く。
カツ、カツ、カツ。
その規則正しい足音が、少しずつ遠ざかっていく。
俺はただ、その背中を見ていた。
何も言えないまま。何もできないまま。
エレベーターホールのLED照明が、白く光っている。
先ほどまで先輩と天草さんが立っていた場所に、もう誰もいない。
廊下の先から、別のフロアの社員の笑い声が聞こえる。世界は平常運転だ。
俺の中だけが、嵐みたいにかき回されている。
◇
エレベーターを降り、ビルを出た。
夏が近づいてきた今の夕方は、まだ明るい。
空がオレンジ色に染まりかけている。
駅に向かって歩きながら、さっきの場面を何度も再生していた。
『わかりました。楽しみにしてます』
あの声のトーン。あの笑顔。
嫌ではないフリをしている笑顔と、本当に嫌ではない笑顔の違いを、俺は知っている。
同盟を結んだ夜から、何度も見てきたから。
天草さんの笑顔には、三種類ある。
一つ目は、会社で見せる完璧な営業スマイル。
二つ目は、豆腐モードの、ふにゃりとした素の笑顔。
三つ目は——俺にだけ見せてくれた、秘密の合図の笑み。
さっきのは、一つ目だった。
二つ目と三つ目は、もう一週間見ていない。
電車に乗る。窓の外を流れる住宅街の灯りを眺めながら、考える。
なぜ受けたのか。
先輩のことが好きだから? ——ない。あれだけ断り続けていた相手だ。
先輩に悪いと思ったから? ——天草さんの性格なら、あり得る。押しに弱い人だ。
俺への当てつけ? ——ない。彼女はそういう人じゃない。
なら、なぜ。
——「大塚さんには、関係ないじゃないですか」
あの一言が、剣のように刺さっている。
正論だ。正論だから抜けない。
俺に関係がないのは事実だ。
だが。
(関係なくなんか、ないだろ)
心の中で反論する。
反論できるということは、俺はもう——
最寄り駅で降りた。
改札を出て、住宅街の道を歩く。
先に、エスポワールの灯りが見えた。
俺は、立ち止まった。
(追いかけるか?)
足が止まったまま、数秒が過ぎた。
夕焼けが、紫に変わり始めている。
六度目のマンデー・パニックは、自分の無力さに殴られる種類のものだった。
だけど——無力なまま終わるつもりは、なかった。
俺は、エスポワールに向かって歩き出した。




