第25話:空白
木曜日。
会社の空気が、おかしい。
正確には、天草さんの空気がおかしい。
朝、給湯室ですれ違った。
いつものように目配せしようとしたが、彼女はにっこり微笑んだだけで通り過ぎた。
それだけなら、いつも通りだ。
だが、あの微笑みには温度がなかった。
先輩に向ける営業スマイルと、同じ種類の笑顔。
俺に見せてくれていた、あの柔らかい笑みとは別物だ。
廊下で二度すれ違っても同じだった。
「おはようございます」「お疲れ様です」。
言葉は完璧だが、ただ通り過ぎるだけ。
目の奥の柔らかさが消えている。
まるで、最初からそこに何もなかったかのように。
もはや友達ですらないみたいだ。
昼休み、LINEを開いた。
最後のメッセージは、月曜日の俺の返信で止まっている。
火曜日から、おこげの写真すら来ない。
駅前のカフェに入るのを見たと言われた。
綺麗な女性は「ただの知り合いか」と聞かれ、俺は沈黙で答えた。
そして、その時から、天草さんの態度が変わった。
営業スマイルで壁を作るようになった。
それは、俺が月曜日に同盟を守るために距離を取ったときとは、質が違う。
あのとき天草さんは寂しそうだった。
でも今は、寂しいという感情もどこかに置いてきたかのような表情。
◇
金曜日。
状況は変わらなかった。
というより、悪化していた。
朝の給湯室で鉢合わせそうになったが、天草さんはドアの前で一瞬立ち止まり、踵を返して去っていった。
あからさまだ。露骨に避けられている。
午前中、総務部に書類を届けに行く用事があった。
天草さんのデスクの前を通らなければならない。
彼女はモニターに向かって打鍵していた。指の動きが速い。集中――しているふりをしている、と分かるのは、画面がメールの下書きウィンドウではなく、デスクトップの壁紙だったからだ。
何も打っていない。俺が通り過ぎるまでキーボードを叩くふりをしていた。
書類を渡して戻る途中、彼女の机にチラッと目が行った。
おこげの写真を貼ったフォトフレーム。その隣に、小さなサボテンの鉢植え。
以前と変わらない景色。変わったのは、彼女の俺に対する態度だけだ。
帰り道、いつもの散歩コースを意識的に通ってみた。
遠くに、豆腐モードの天草さんの姿が見えた。
今日のTシャツは——遠くてよく見えないが、白い筆文字が見える。
おこげが先導して、彼女がとことこついていく。いつもの光景だ。
声をかけようとした瞬間、彼女の方が先に気づいた。
一瞬、目が合ったように見えた。
そして——天草さんは、くるりと別の道に入っていった。
おこげが「え?」という顔でこちらを振り返ったが、リードに引っ張られて消えていった。
「……避けられてる、よな。完全に」
呟いて、立ち止まった。
間違いない。
わざわざ散歩のルートを変えてまで、俺を避けているんだ。
理由は分かっている。綺麗な女性と会っているところを見られてしまったからだ。
でも、なぜそれだけで避けられる?
同盟仲間だから、俺のプライベートには立ち入らないように気遣っているのか?
それとも——
分からない。
分からないことが、解けない数学の問題を前にしたときのような、じりじりとした焦りを生む。
◇
帰宅後。
がらんとした部屋で、カップ麺にお湯を注いだ。
三分間、天井を見つめる。
静かだ。
この部屋は、いつだって静かだった。
一人暮らしなのだから当たり前だ。
だが、ほんの数週間前までは違った。
帰り道には天草さんとの会話があった。
夜にはLINEでおこげの写真が届いた。
日曜日には、あのおかゆの温もりがあった。
いつの間にか、それが「日常」になっていた。
知らないうちに、あの人の存在が自分の日常に組み込まれていた。
まるで呼吸するように当たり前になっていて、失くしてからじゃないと気づけなかった。
それが、たった数日で消えた。
たったそれだけのことなのに、部屋がやけに広く感じる。
六畳ワンルームのどこに、こんな空白があったんだろう。
カップ麺の蓋を開ける。
化学調味料の匂いが立ち上る。
おかゆの優しい香りとは、比べるまでもない。あのとき洗い終えた鍋は、また新品同様の輝きを取り戻している。使っていないからだ。
答えは出ている。出ているからこそ、失ったものの大きさが身に沁みる。
スマホを見る。
天草さんのトーク画面。最後のメッセージは月曜日の夜。おこげの写真と、犬の肉球のスタンプ。
新しいメッセージを打とうとして、やめた。
何を書けばいいのか分からない。
『一緒にいたのは元カノで、もう会わないと決めた』
それは嘘じゃない。水曜日にはっきりと断った。
だが、今の天草さんにいきなりそんな言い訳を送れるほど、俺たちの関係は明確なものではない。
「同盟仲間」や「犬友達」という隠れ蓑を取り払ってしまえば、そこにあるのは俺からのただの「好意」だ。それを今のタイミングで押し付けるのは、ただの自己満足でしかない。
その言葉で蓋をしてきた感情が、もう溢れそうだ。
友達で片付けられるなら、こんなに胸が痛くなるはずがない。
三分が過ぎた。
カップ麺をすすりながら、窓の外を見る。
天草さんのマンション『グランドレジデンス・エスポワール』の灯りが、遠くに見えた。
あそこにいるのだろう。
芋ジャージで、おこげを膝に乗せて。
そう想像しただけで、胸の奥が痛んだ。
会いたい、と思った。
友達としてではなく。
金曜の夜は長い。
だが、月曜日はすぐに来る。
何かが変わる予感が、俺の背中を追いかけていた。




