第24話:訣別
水曜日の夜。
駅の反対側にあるカフェで、改めて佐伯麻衣と向き合っていた。
二度目だ。
「少し考えさせてくれ」と言ったきり返事をしなかった俺に、彼女から連絡が来た。
『もう一回だけ、話をしたい』
断れなかった。
断る理由がないわけじゃない。ただ、断る理由を自分の中で整理できていなかった。
元カノに「もう一回だけ」と言われて断れる男が、この世にどれだけいるのか。
少なくとも、優柔不断という自覚がある俺には、無理だった。
「ありがとう、来てくれて」
麻衣はアイスラテを両手で包みながら、少し申し訳なさそうに言った。
前回とは違う店を選んだのは、彼女なりの配慮だろう。落ち着いた照明と、ジャズのBGM。
「勝利のこと、ずっと考えてたの。私、あなたの優しさに甘えてた。それは反省してる」
その言葉は、付き合っていた頃の彼女からは想像できないものだった。
あの頃の麻衣は、デートの遅刻一つ許してくれなかった。
五分遅れれば不機嫌になり、十分遅れれば「私の時間を何だと思ってるの」と言われた。
俺の事情を聞く前に結論を出す人だった。
「……ちょっと、変わったな」
「変わったよ。変わったつもり。……自分で変わったって言うのは、ちょっとダサいけど」
小さく苦笑する麻衣。
こういう自嘲的な笑い方は、以前はしなかった。確かに少し変わったのかもしれない。
麻衣がストローを回しながら、言葉を選ぶように続けた。
「正直に言うね。別れてから、何人かとご飯に行ったりしたんだけどさ」
「うん」
「しっくりこないんだ。勝利みたいに優しい人、なかなかいなくて」
優しい。
いい言葉には聞こえるけど。
「……それって」
「え?」
「俺である必要はなくて、ただ自分に優しい人が欲しいだけなんじゃないの?」
麻衣の手が、止まった。
ストローを持ったまま、俺を見つめている。
だが、すぐに首を振った。
「違う。違うよ。勝利だから、言ってるの」
「じゃあ聞くけど、俺のどこがいいんだ。優しい以外で」
声が少しだけ上ずったが、それでも言い切った。
キツい言い方かもしれない。
でも、付き合っていた時に口にはできなかった本音だ。
付き合っていた時の俺の振る舞いが麻衣にとっての優しさなら、俺はもう同じものを麻衣にあげることはできないだろう。
だって、もう知ってしまったから――自分の信念を優しさと受け取ってくれる人を。
麻衣の口が、開いて——閉じた。
数秒の沈黙。カフェのBGMが隙間を埋める。
「……勝利は、いつも私の話を聞いてくれた」
「うん。聞かないと、不機嫌になるから」
「……」
沈黙は肯定だと判断し、続けた。
「俺もね……聞いてほしかったときもあったんだけどさ」
「え……。そんなこと、言ってくれたらよかったのに」
「言えなかったんだよ。言ったときに麻衣がどういう態度だったか……自分でもわかるでしょ」
俺は続けた。自分でも驚くほど、言葉がすらすらと出てきた。
「麻衣が変わったのは分かった。でも、今の話を聞く限り、俺じゃなきゃいけないわけじゃない。『優しい人がいなかった』から戻りたいって、それは——」
「……」
「俺を必要としてるんじゃなくて、自分にとって都合のいい人を必要としてるだけなんじゃないのかな」
自分で言って、少し驚いた。
一ヶ月前なら、こんな言葉は出てこなかった。
フラれた直後の俺は、自分に価値がないのだと思い込んでいたから。
「勝利は優しいけど、それだけ」。別れ際に言われた一言が、ずっと棘のように刺さっていた。
でも、今は。
「それだけ」の優しさを、ちゃんと受け取ってくれる人がいることを知った。
脳裏に、おかゆの匂いがよぎった。
「よかった」と心底嬉しそうに笑った、あの顔。
俺が風邪を引いただけで、食材を抱えて飛んできた人。
秘密を一緒に守ってくれた人。犬の散歩で並んで歩いてくれた人。
あの人は、俺のことを「都合のいい人」ではなく——
(……何を考えてるんだ、俺は)
天秤にかけるまでもない。答えはとっくに出ている。
出ているから、ここにいるのが苦しい。
麻衣は、しばらく黙っていた。
カフェのBGMが、やけに大きく聞こえる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……ごめん。図星、かも」
「……」
「自分では変わったつもりだったけど、結局また勝利の優しさに頼ろうとしてただけかもしれない」
真っすぐに認める潔さは、昔からこの人の長所だった。
自分の非を認めるのが早い。だからこそ、付き合っていた時には救われたこともあった。
喧嘩しても、自分が悪いと理解すれば「ごめん」と言ってくれる人だった。
だが今は。
将来を考えるんだったら、それだけでは一緒にいられない。
「ごめん」の後に何があるのか。その先にあるものが、見えなかった。
「……もう会うのはやめよう」
俺は立ち上がりながら言った。
冷たい言い方だとは思う。でも、ここで中途半端にしたら、麻衣にも自分にも不誠実だ。
「麻衣だけが悪いとは思ってない。ただ、俺はもう前に進みたいんだ」
麻衣は少し目を伏せて、それから小さく頷いた。
「……わかった。ありがとう、ちゃんと言ってくれて」
「……じゃあ」
カフェを出た。
夜風が頬に当たる。湿っぽい空気は俺の気持ちを表しているようだ。
駅前の通りには、仕事帰りのサラリーマンや、買い物袋を提げた主婦がまばらに歩いている。
いつもの風景。何も変わらない水曜の夜。
だが、俺の中では、何かが決定的に変わった気がした。
元カノとの関係に、終止符を打った。
一ヶ月前にフラれたとき、俺は傷ついた。自分に価値がないと思った。
だが今は——不思議と、心が軽い。
正しいことをした、という確信がある。
信号待ちで立ち止まる。
映り込んだガラスに、自分の顔が見えた。
そこそこ普通の顔をしている。可もなく不可もない。
でも、一ヶ月前の、フラれた直後の自分よりは、少しだけマシな顔をしている気がする。
なぜだろう。
答えは分かっている。
天草さんだ。
あの人が、俺の「優しさ」を「当たり前」ではなく「ありがとう」と受け取ってくれた。
「似合ってますよ」と言ったら、泣きそうな顔で笑ってくれた。
風邪を引いたら、食材を持って飛んできてくれた。
秘密を守ると約束したら、信じてくれた。
あの人のおかげで、俺は自分の価値を取り戻したのだ。
「優しいけど、それだけ」じゃない。それを必要としてくれる人がいる。
——いた。
過去形にしなければならないことが、胸に痛い。
今の天草さんは、俺を避けている。営業スマイルで壁を作っている。
全部、俺のせいだ。
前に進む、と口にしてみた。
その先にいる人の顔は、もうはっきりしている。
ただ、そこに辿り着く方法が分からないだけだ。
帰り道、ふとスマホを開いた。
天草さんのLINE画面。
最後のおこげの写真を眺めて、俺はメッセージを打った。
『この前話した人とは、もう会わないことにしました』
——送信ボタンの上で、指が止まった。
三秒。五秒。十秒。
送れなかった。
「この前話した人」じゃ伝わらない。そもそも元カノだという説明すらしていない。
こんな中途半端なメッセージを送ったら、余計に混乱させるだけだ。
メッセージを消して、スマホをポケットにしまった。
アパートの灯りが見えてきた。その向こうに、エスポワールの明かりも。
明日から、何かを変えなきゃいけない。
でも、どう変えればいいのかは、まだ分からなかった。




