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マンデーパニック! 〜変なTシャツと犬、ちょっとだけ勇気。会社のアイドルと二人で月曜日が楽しくなるまでの物語〜  作者: ゆゆこりん


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第23話:笑顔の壁

 火曜日。

 職場のデスクに座っても、頭の中は昨日のことでいっぱいだった。


 やり直したい。


 あの言葉が、リフレインのように回り続けている。

 パソコンのモニターに映る見積書の数字が、何度見ても頭に入ってこない。


「大塚、これ計算合ってないぞ」

「あ、すみません……」


 上司に指摘されて初めて気づく。金額の桁が一つ間違っていた。

 しかも下の桁じゃない、上の桁だ。百万円の案件を一千万円にしていた。危うく大事故だ。


 午前中だけで三回ミスをした。入社以来の最悪のペースだ。

 数字を入力してもキーボードが滑る。資料を印刷すれば両面設定を忘れる。メールの宛先を一つ間違える。

 普段なら絶対にやらないミスの連続に、隣の後輩が心配そうにこちらを見ていた。


「大塚さん、なんか今日調子悪いですか? 顔色も良くないですよ」

「……ちょっと寝不足で」


 嘘だ。寝不足じゃなくて、心不足だ。

 考えなければいけないことが多すぎて、脳のメモリがオーバーフローしている。


 ——集中しろ。プライベートを仕事に持ち込むな。

 分かっている。分かっているが、ダメだ。


 ふと視線を感じて、廊下の方を見た。

 総務部との境になっているキャビネット越しに、天草さんがこちらを見ている。

 書類を持ったまま、一瞬だけこちらに目を向けて——心配そうな表情を浮かべていた。


 俺が気づくと、彼女は小さく微笑んで目を逸らした。

 いつもの秘密の合図——ではない。今日のは、もっと控えめな、遠くから見守るような視線だった。

 「大丈夫ですか?」と聞きたいのに聞けない、そんな距離感がその目に滲んでいた。


(気づかれてるな……)


 天草さんは、鋭い。

 天草さんの笑顔の裏を感じ取れる俺と同じように、彼女もまた、人の変化を見逃さない。

 だが今の関係では、踏み込んでくることはない。俺が距離を作ったからだ。


 何も言えないまま、午後が過ぎた。


 ◇


 帰り道。

 コンビニの前で、おこげの散歩中の天草さんに会った。

 今日のTシャツは『ゴーヤチャンプルー』。渋い。ほろ苦いチョイスだ。

 メガネの奥の目が、街灯に照らされて光っている。


「あ、大塚さん」

「こんばんは」


 一瞬の間。

 会社での距離がまだ足に残っていて、どのくらい近づいていいのか分からない。

 ところが、おこげが迷いなく俺に飛びついてきたおかげで、距離は強制的にゼロになった。


「大塚さん、今日元気なかったですね」


 単刀直入。

 豆腐モードの天草さんは、会社よりも遠慮がない。

 それが、彼女のこの姿でいるときの美点だ。飾らない分、真っすぐに切り込んでくる。


「……昨日ちょっと、以前の知り合いに会って」

「知り合い……」


 あ、と思った。もう少しぼかすべきだった。

 だが天草さんは、少しだけ視線を落として、ぽつりと言った。


「……実は、昨日、駅前で、カフェに入る大塚さんを見つけて。声をかけようかと思ったんですけど」

「えっ」

「すごく綺麗な、女の人と一緒だったから」


 心臓が跳ねた。見られていた。

 天草さんの声が、わずかに震えている。メガネの奥の目が、じっとこちらを見ている。探るような、でも答えを聞きたくないような、複雑な色。


「……本当に、ただの知り合いですか?」


 俺は黙った。

 元カノだ。やり直したいと言われた。そんなこと、今の天草さんに言えるわけがない。

 肯定も否定もできない沈黙が、最悪の回答として伝わることが分かっていても。


 しばらくの間、二人の間に夜風だけが通り過ぎた。

 どこかの家のテレビの音が微かに聞こえる。カエルが鳴いている。じめっとした夜の、なんでもない音。

 おこげが天草さんの足元で、クゥンと心配そうに鳴いた。空気を読める犬だ。


「……そう、ですか」


 天草さんが、口を開いた。


「応援、してますね」


 笑顔だった。

 笑顔といっても——会社で見る「営業用スマイル」だった。


 何百回と見てきた、完璧な、隙一つない微笑み。

 だが今は、その完璧さが痛い。

 この人は、本当の気持ちを隠したいとき、この笑顔で蓋をする。

 会社では誰にも見破られない。だが俺は、その裏に何があるか知っている。

 知っているからこそ、今の笑顔が刺さる。


「天草さん——」

「私、そろそろ帰りますね。おこげ、行くよ」


 俺が何か言いかけたのを察したのか、彼女はおこげのリードを引き、小さく会釈をして去っていった。

 いつもなら手を振ってくれるのに、今日は振り返らなかった。


 その背中が街灯の光から離れ、暗がりに溶けていくまで、俺は立ち尽くしていた。


(あの笑顔……)


 ずっと前から知っていたはずだ。

 あの営業スマイルの裏には、「本当のことを言えない」「踏み込みたくない」「傷つきたくない」、そういった感情が隠れていることを。


 俺が最初にそれを見抜いたのは、飲み会の夜だった。

 ――記憶はないけれども。


 なのに今、天草さんにそれを使われている。

 素の顔を隠されている。俺が、隠させてしまった。

 一番見たくなかった「会社の天草さん」に、俺が引き戻してしまった。


 痛恨だった。

 自分の気持ちを、こんな形で自覚させられるのは辛い。


 ◇


 帰宅後、アパートの鍵を開けて、靴を脱いで、電気もつけずに座り込んだ。

 あの営業スマイル。「応援、してますね」という声。振り返らなかった背中。


 ——明日も、おこげの写真は届くだろうか。


 そう考えること自体が、おかしい。

 さっきの会話が、何かを決定的に変えてしまった気がする。


 スマホを伏せて、暗い部屋の天井を見上げた。


 元カノの問題。天草さんとの距離。

 二つの問題が、互いに絡み合って、解けない糸になっている。


 いや——問題は一つだけかもしれない。


 名前はもうつけた。

「好きかもしれない」——いや、「かもしれない」はもう嘘だ。


 だからこそ、あの営業スマイルが痛い。

 だからこそ、おこげの写真が届かない夜が寂しい。

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― 新着の感想 ―
 元カノなんて、昨日一刀両断にすべきだったのよ!  優柔不断は、罪なのです。
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