第22話:襲来
月曜日。
またか、という気分で出社した。
最近の月曜日には決まって何かが起きる。
月曜日のジンクスは打ち止めになってほしいと願ったが、運命というやつはそう甘くない。
仕事は順調だった。午前中に見積書を片付け、午後の会議も無事に終わった。
今日は何も起きない。月曜日もたまには平和でいてくれるらしい。
そう安心したのが、間違いだった。
退勤時、ビルのエントランスにあるカフェスペースを通りかかったところで、聞き覚えのある声に止められた。
「久しぶり、勝利」
振り向いた先にいたのは、とびきり美人で華やかな印象の女性だった。
ストレートの黒髪をきっちりまとめ、ベージュのトレンチコートに包まれた姿。
自信に満ちた目線。整った眉。薄いが的確なメイク。
佐伯麻衣。
一ヶ月前に俺をフッた、元カノだった。
「……麻衣」
固まった。
フラれて以来は連絡は取っていなかったし、共通の友人にも会っていない。もう関わることはないと思っていた。
なのに、なぜここに。なぜ俺の会社のビルに。
「ちょっと話せる?」
麻衣はカフェの席から立ち上がり、ストールを肩にかけ直した。
どうやら、探偵よろしくカフェで張っていたらしい。偶然ではなく、わざわざ俺を待ち伏せたというのが自然な解釈だ。
「あの別れ方、私も悪かったと思ってて……ちゃんと話したいの」
声は穏やかだった。付き合っていた頃の、命令のような口調の麻衣とは少し違う。
俺が惹かれていた、強気で不器用なほど真っ直ぐな姿は鳴りをひそめている。
いずれにしても、会社のビルで元カノと立ち話する構図はまずい。
どこで誰が見てるか分からない。同僚の耳に入ったら、また噂のネタ間違いなしだ。
俺は麻衣を促して、駅前の安いカフェに移動することにした。
◇
カフェのボックス席。
付き合っていたころは、こんなところに来たら「もっと良いところはなかったの」などと文句を言われたものだった。
でも今日は連絡もなしに突然押しかけられたんだ。
このくらいの意趣返しをしたって、バチは当たらないだろう。
向かい合って座ったものの、いまさら何を話していいのか分からない。
コーヒーという名の茶色い液体を持ったまま、気まずい沈黙だけが流れた。
俺の方から切り出せずにいると、麻衣が口を開いた。
「あの日のこと、本当にごめん」
あの日。
迷子の子供を助けていて、デートに遅刻した日。
弁解すら聞いてもらえず、LINEで一方的に「もう無理」と送られた。
俺は何度か電話をかけたが、出てもらえなかった。
「遅刻の理由も聞かずに別れたのは、本当に酷かったと思う」
「……そうか」
「だから……やり直せないかな?」
ストレートな言葉に、コーヒーカップを持つ手が止まった。
「あの日のこと、後悔してるの。勝利は優しい人だったのに、私がそれを当たり前だと思ってた」
嘘を言っている風ではなかった。
麻衣の目は真剣だし、声も穏やかだ。
付き合っていた頃の彼女は、もっとキツい物言いが多かった。
『何でそんなこともできないの』『いつも要領が悪いんだから』
芯が通ったところが好きだったはずだけど、最後は自分の生き様すべてを否定されている気持ちになっていったんだった。
「……少し、考えさせて」
本当は、答えはもう出ている。
だけど、涙目の麻衣を見て――その場で「無理だ」とは言えなかった。
優しすぎる、と言われたらそれまでだ。
――甘い、優柔不断、臆病者。どんな罵詈雑言だって受け入れよう。
それでも、目の前で人を傷つけることがわかっている言葉を選べない。
自分が情けなくなってくる。
もう、この場から逃げたかった。
最初から、一緒にカフェになんか来なければ良かった。
後悔を抱きしめて、俺は立ちあがろうとした。
そこに麻衣は食い下がって来た。
「待って。……もう少しだけ」
座り直す。
麻衣は少し目を伏せ、テーブルの上の水滴を指でなぞった。
「勝利が迷子の子を助けてたこと、あとから聞いたの。人づてに」
「……そうか」
「聞いた瞬間、自分が最低だって思った。あなたが誰かのために遅刻したのに、私はそれも聞かずに切り捨てた」
その言葉は本心だと思えた。
麻衣の声は震えていたし、目も少し赤くなっている。
「でもね、気づいたの。私があの時怒ったのは、遅刻そのものじゃなかった。勝利がいつも私より他のことを大事にしてるような気がして……不安だったの」
それは、初めて聞く本音だった。
付き合っていた頃は、麻衣はいつも結論だけを突きつけた。理由を聞いても「わかるでしょ」の一点張りで。
それが、こうして自分から説明してくれている。
別れたあとの期間で、麻衣は少し変わったのかもしれない。
俺は目を閉じて、数秒考えた。
復縁。やり直す。もう一度。
頭の片隅で、別の記憶が再生されている。
風邪を引いた俺のために、食材を持って駆けつけた人。
理由を聞く前に行動に移した人。
俺の優しさを「当たり前」ではなく「ありがとう」と受け取った人。
あの金曜日の夜、ベンチのおばあちゃんを助けた俺に、「そういう人が近くにいてくれるの、嬉しいです」と言ってくれた人。
麻衣とは、何かが決定的に違う。
それが何なのかは——もう、分かっている。
「……考えさせてくれ。本当に」
今度こそ立ち上がった。
麻衣は小さく頷いた。
カフェを出て、夕暮れの道を歩く。
夕日がビルの谷間に沈みかけていて、空がオレンジと紫のグラデーションに染まっている。
通勤ラッシュを終えた歩道は、まばらに人が歩いている。
頭の中がグチャグチャだ。
「やり直す、か」
重い言葉が、ぐるぐると回り続ける。
麻衣の涙混じりの声と、「不安だったの」という言葉と。
——と、そのとき。
ふと、天草さんの顔が浮かんだ。
給湯室で見せた柔らかい微笑み。おかゆの匂い。筆文字Tシャツの横顔。
公園でおこげに引っ張られ、サンダルをすっ飛ばしていた姿。
「どちらにも、ちゃんとしなきゃ、だな」
少しだけ、本当に少しだけ、前向きな決意を口にした。
——カフェに入る姿を、誰に見られているとも知らずに。




