第21話:おこげアタック
土曜日の朝。
月曜日の「距離を取る作戦」から五日が経っていた。
月曜の夜以降、おこげの写真はぱたりと止まった。
火曜日も来なかった。会社でもLINEでも、天草さんとの間には見えない壁があった。
置いたのは自分だというのに、挫けそうだ。
たった二日のことなのに、帰り道がやけに長く、夜がやけに静かだった。おこげの写真一枚で花が咲いていた日常が、こんなに簡単に色を失うものなのかと、思い知った。
だが水曜の夜、唐突にLINEが鳴った。
『……今日のおこげです』
何事もなかったかのように、いつもの寝姿の写真。ただし、メッセージの冒頭に三点リーダが付いていた。送るかどうか迷った痕跡のつもりなんだろう。
俺は即座に『可愛い』と返した。
それだけで、胸の奥で止まっていた何かが、ふっと緩んだ気がした。嬉しいとか、安心したとか、そういう単純な言葉では足りない。ただ、この二日間がどれだけつまらなかったかを、思い知った。
それ以降、LINEのやり取りは細々と復活した。会社では相変わらずぎこちないが、画面の向こうでは元に戻りつつある。
会社と私生活で態度が違うのも変な話だが、そこは『内緒の約束』だからと自分を納得させることにした。
会社では距離を取る。プライベートでは普通。その二重生活が、すでに異常だということには目を瞑る。
週末の朝、俺は久しぶりにジョギングに出た。
残業続きで鈍った体に喝を入れるため、近所を巡って公園でフィニッシュ、というコースだ。
六月の朝は空気が澄んでいて、走り始めると肺が洗われるような気持ちになる。
数キロくらいは走っただろうか。
ゴール地点の公園に入り、ベンチに腰掛けようとしたまさにその時、聞き覚えのある甲高い鳴き声が耳に入った。
「キャンキャン!」
おこげだ。
緑の芝生の上を、嬉しそうに駆け回っている。
そしてリードの先には——
天草さんだった。
豆腐モードの黒縁メガネに、少し色落ちしたデニム。
朝の公園で犬を走らせている姿は、近所のお姉さんそのものだ。
社内のアイドルの面影は欠片もない。
おこげが俺を発見した。
一直線に突進してくる。リードが限界まで伸びた。
「おこげ! ちょ、待っ——きゃっ!」
天草さんがバランスを崩し、つんのめる。サンダルが片方脱げた。
おこげは構わず俺の足に飛びつき、尻尾をブンブン振って歓喜のダンスを踊った。
「おはようございます。……大丈夫ですか?」
「あ、大塚さん! お、おはようございます……大丈夫です。おこげったらもう、見境がなくて……」
慌てて片足でサンダルを引き寄せる姿は、なんというか、可愛らしかった。
朝日を反射するメガネと、寝ぐせが少し残った髪。飾らない、素の天草さん。
「ジョギングですか?」
「ええ、久しぶりに」
「すごい。前に話しましたけど、走るの苦手なんですよね……。おこげの散歩が唯一の運動です」
運動不足がたたったのか、息が切れているのをどうにかしようと、座り損ねていたベンチに腰を下ろした。
俺は会社での態度を引きずって、ベンチの端っこ。自分の気持ちはさておき、距離を取るべきだ、というのが今の俺の方針だ。
おこげが「待ってました!」と言わんばかりに俺の膝に飛び乗り、くるくる回った後、世界で最も安全な場所を見つけたかのような顔で丸くなり、目を閉じた。
「おこげ、もう大塚さんの膝を占領してる」
笑いながら、俺の隣に腰を下ろした。
端に座ったはずの俺のすぐ隣。彼女の方は、距離を取るつもりなどまるでないようだった。
「……おこげ、大塚さんの膝の上でしか寝ないんですよ。この前なんか、兄の膝に乗せようとしたら、飛び降りて窓の方まで駆けてっちゃって」
「え、そこまで?」
「はい。兄、ちょっとショック受けてました。『俺が買ったのに』って」
犬に好かれるのは嬉しい。
だが、兄に恨まれるのは困る。あの無表情の圧力は、できれば二度と受けたくない。
「大塚さんのところの……ムギちゃん、でしたっけ? 写真撮ってもらいました?」
「ああ、はい。母に頼んで」
俺はスマホを開いて、実家の母に撮ってもらったムギちゃんの写真を見せた。
陽だまりの縁側で丸くなっている、白くてもこもこの柴犬。瞳がとろんと優しい。
「かわいいいいいい!」
天草さんの声が裏返った。公園中に響く。犬を散歩させていた通りすがりのおばさんがビクッとしていた。
「ちょっ、声! 声!」
「す、すみません……でも可愛すぎませんか……この丸さ……この目……このもふもふ感……」
スマホを両手で引き寄せて食い入るように見ている。距離が近い。甘い匂いに、わずかに犬の匂いが混じった、天草さんの匂い。
それからしばらく、犬の話で盛り上がった。
おこげの癖——寝るときに必ず三回回ること。ムギちゃんの武勇伝——近所の野良猫を追いかけて川に落ちた話。暁さんがおこげに無視される日常。
途中から犬の話題を離れ、会社の愚痴や、天草さんの兄の話になった。
暁さんが在宅でWEBデザイナーをしていること。
一日中パソコンに向かっていて、Uber Eatsの配達員を「今日の来客」と呼んでいること。
天草さんが兄の健康を心配して、無理やり散歩に連れ出そうとしてリビングで追いかけっこになった話。
「結局、兄は『外は紫外線が危険だ』って言って窓際でストレッチして終わりました」
「それ散歩じゃないですよね」
「ですよね……」
俺も実家のことを少し話した。
犬と一緒に育ったこと。母が犬に甘すぎて、ムギちゃんの方が家族序列で俺より上だったこと。
実家に帰ると母よりムギちゃんの方が先に迎えに来ること。
「それ、最高じゃないですか……」
「帰省のたびに犬に負ける息子の気持ちも考えてほしいですけどね」
天草さんは、声を上げて笑った。
心から楽しそうな笑顔だった。
会社の「完璧美女」の仮面は完全に外れていて、時々語尾が崩れ、手振りが大きくなる。
この人の本当の姿はこっちなのだ。
いつだって一緒にいるのは、こっちの天草さんだ。
「……あ」
ふと、彼女が横を向いた瞬間。
朝日が横顔を照らした。メガネの奥の目が細められ、艶やかな髪を光が照らしている。
――やっぱり綺麗だな。
「……どうかしました?」
「いえ。……何でもないです」
俺は慌てて視線を前に戻した。
公園の木漏れ日が眩しい。
こんなに清々しい公園だっただろうか、ここは。
好きだと分かっていても、口にすればこの関係が変わる。
だから黙っている。
言葉にすることはできない。
ただ、この心地よい距離が、いつまでも続くわけではないことだけは、薄々分かっていた。
膝の上のおこげが、こっちを見ながら幸せそうに尻尾を振った。
こいつだけが、この場の本当の空気を分かっているのかもしれない。




