第20話:正しいこと
月曜日。
また月曜日だ。
出社して、デスクに座って、パソコンを立ち上げる。
いつもの朝——のはずが、空気が少し違った。
後輩が、声を潜めてこちらに話しかけてきた。
「大塚さん、なんか最近、天草さんの雰囲気変わったって話、聞きました?」
「……は?」
「総務の人たちが言ってるんです。笑い方が柔らかくなったとか、最近よく付箋で業務連絡してるけど相手が気になるとか」
背筋に冷たいものが走った。
付箋。
あの表は業務連絡、裏に本音を書くやつだ。頻度が上がりすぎていた自覚はあった。
「あと、オンライン会議エリアで、誰かと昼メシ食ってるの見たって人がいて——」
もう一撃。
あの打ち合わせスペースでのランチ。天草さんと二人だけの秘密の昼休みだ。
「ま、天草さんに彼氏でもできたんじゃないかって、もっぱらの噂ですけど」
「……へぇ」
平静を装ったが、心臓は打ち上げ花火のように暴れていた。
そこへ追い打ちをかけるように、いつもの同僚——藤田が、ニヤニヤしながらやってきた。
「大塚ー。お前さ、最近昼メシどこで食ってんの?」
「……ダイエット中だって言っただろ」
「だとしたら、見られたくないってことなのか?なーんか、オンライン会議スペースに通ってるみたいだけど?」
「……あそこ空いてるから使ってただけだよ」
「誰かと一緒の時もあったみたいだけど?」
ぐうの音も出なかった。
「さらに、だ。他に見たやつの話によると、巾着みたいの持ってたって話だぜ。お前、自分で巾着なんか持ってくるタイプか?」
天草さんの巾着だ。あの几帳面な結び目の。
見られていたのか。
「……実家から送ってもらってるんだよ」
「ふーん?」
藤田はそれ以上踏み込まなかったが、目が笑っていた。
あの目は「信じてないけど泳がせてやる」の目だ。
――マズい。実にマズい。
言い逃れが難しいくらい、目撃されているということだ。
俺は意識的に天草さんとの距離を取ることにした。
廊下ですれ違っても、軽く会釈するだけ。目配せもしない。
給湯室も使う時間をずらした。昼休みも一人でコンビニ弁当を食べた。
だが、結果的にそれが裏目だった。
午後の廊下。
書類を届けに総務部の隣を通りかかったとき、天草さんとすれ違った。
いつものように目配せしようとしたが、俺は咄嗟にそっぽを向いてしまった。
数歩進んだところでチラッと振り返ると、天草さんが立ち止まったまま、こちらを見ていた。
だが俺が振り返ったことに気づくと、すぐにいつもの営業スマイルに戻って歩き出した。
その切り替えの速さが、逆に痛かった。
(……ごめん)
心の中で謝りながら、自分のデスクに戻った。
◇
数日経った昼休み。
午前中の会議が長引いて、いつもより遅い時間に給湯室に入った。
時間をずらしたはずなのに——天草さんが先にいた。
避けるタイミングを逃した。二人きりだ。
出るべきか。だが、ここで踵を返したら、それこそ不自然だ。
俺は何食わぬ顔でコーヒーを入れ始めた。
「大塚さん」
彼女が先に口を開いた。声は穏やかだが、いつもの弾むような調子がない。
「私、何かしましたか?」
ストレートに聞かれた。
最近わかってきたことだったが、天草さんはまどろっこしい駆け引きなどをせず、案外ズバっと言ってくる。ただ、今日に限ってはちょっと返答に困る。
「……噂が回ってるみたいで。弁当のことも、付箋のことも勘づかれ始めてて。ちょっと気をつけた方がいいかなって」
「……そう、ですか」
彼女の声が、少しだけ沈んだ。
マグカップを持つ手が、わずかに力を込めている。
「秘密を、守るためです。天草さんは、その、完璧な姿を会社で見せてるじゃないですか。それを俺なんかが傷をつけるわけにはいかないですし」
正論のつもりだった。
実際、天草さんが社内で築き上げたイメージが崩れれば、総務部のエースとしての立場にも影響しかねない。
それは、内緒の仲間として守るべきものだ。
だが、天草さんは小さく頷いただけで、マグカップを持って給湯室を出ていった。
振り返らなかった。
「……大塚さんは、正しいですよ」
最後にそう呟いた声が、やけに小さかった。
残された俺は、ぬるくなったコーヒーを見つめながら、自分の選択が正しかったのか分からなくなっていた。
(内緒の約束を守るためだ。仕方ない)
そう言い聞かせた。
だが、「正しいですよ」というあの声には、正しいからこそ反論できない苦しさが滲んでいた。
◇
退勤時、また雨が降っていた。
天草さんとのことが頭を占めているせいか、朝の天気予報を見忘れたのが主な理由だ。
いかなる理由があろうとも、傘を忘れた事実は変わらない。
駅前のコンビニで傘を買い、住宅街の道を歩く。
水たまりを避けながら進む帰り道は、いつもより長く感じた。
少し前は、この帰り道で豆腐さんと出会った。
同じように雨が降っていて、同じように傘がなくて——あのときは、彼女がビニール傘に入れてくれた。
今日は一人だ。
当たり前だ。距離を取ると決めたのは俺の方だ。
スマホを見た。LINEの通知はない。
おこげの写真も来ていない。
毎日のように来ていた「今日のおこげです」が、ぱたりと止まっていた。
偶然であってほしかった。
だが、天草さんが距離を感じ取っていないはずがない。
給湯室で「私、何かしましたか?」と聞いてきた時点で、彼女は気づいている。
俺が見えない壁を置いたことに。
アパートの前に着いた。
天草さんのマンション、『グランドレジデンス・エスポワール』の灯りが、雨に霞んで見える。
あのマンションの部屋で、天草さんは何をしているだろう。
芋ジャージに着替えて、おこげを撫でて、兄の作った何かを食べているだろうか。
LINEを開いて、俺のトーク画面を見て——送るのをやめただろうか。
傘を畳みながら、俺は自分の選択を噛み締めていた。
正しいことをしたはずだ。
天草さんを守るために。あの関係を守るために。
だが、正しさで埋められない隙間が、胸の中に生まれていた。
それが、やけに冷たかった。
雨のせいだ——と言い訳してみるが、自分でも苦しいのは分かっていた。




