第19話:スクリーンの中の自分
日曜日の昼。
昨日おこげを全力で追いかけた筋肉痛が、ふくらはぎに残っている。
サッカー部時代の体力は完全に幻想だった。
布団の中でうめいていると、スマホが鳴った。
天草さんからのLINE。
『大塚さん、今日の夜って空いてますか?』
日曜の夜。
空いているかと聞かれれば、空いている。カップ麺を食べてネット動画を見る予定ぐらいしかない。
だが、天草さんから「夜」の誘い。少しだけ心拍数が上がる。
『空いてますけど、なにかありました?』
返信は即座に来た。
『兄が映画の試写会のチケットをもらったんですけど、予定が入って行けなくなったみたいで。二枚あるんですけど、よかったら一緒にどうですか?』
なるほど。暁さん経由のチケットか。
あの人、無口だが意外と顔が広いらしい。
昨日のこともあるけれど、一緒に行く選択肢に挙げてもらったことがまず嬉しい。
そして、当選したとなれば、もう答えは一つ。
『行きます』
送信してから、返事が早すぎたかと少し後悔した。
だが、天草さんからの返事はそれに負けないぐらい早かった。
『良かった。「さよならの向こう側」っていう邦画で、恋愛ものらしいです。大丈夫です?って先に聞けば良かったですね』
恋愛もの。
胸の奥が、ずきんと重くなった。
◇
夕方六時。
二駅隣のシネコンの前で、天草さんと待ち合わせた。
ここのところ毎日会っている。
こんなこと、数ヶ月前の自分に言っても信じてもらえないだろう。
「あ、大塚さん! すみません、待ちました?」
現れた天草さんは、私服だ。
会社のスーツでも、芋ジャージでもない。
白いブラウスにベージュのスカート。髪を片側に流して、小さなピアスが光っている。
メガネはかけていない。コンタクトだ。
会社モードでも、豆腐モードでもない。
見たことのない天草さんだ、と思った。
まさか、おめかしして来てくれたなんてことは――ないか。
そうだったら嬉しいけど。
「いえ、今来たところですよ」
今度は俺が定番の台詞を口にする番だった。
実際は十五分前から来ていた。
「兄が『ポップコーンは塩に限る』って言ってました。参考までに」
「暁さんの趣味に従うと、Tシャツに『塩ポップコーン』って書かれそうですね」
「あはは、ありそう!」
天草さんが声を上げて笑った。
会社では絶対に聞けない笑い声。映画館のロビーに響いて、すれ違った客が振り返った。
ポップコーンは結局、塩とキャラメルを一つずつ買った。
◇
映画が始まった。
「さよならの向こう側」。
すれ違いを続ける男女が、最後の最後で想いを伝え合うラブストーリー。
脚本は丁寧で、演出も押しつけがましくない。いい映画だと思った。
だが、俺の集中力は途中から別のところに向いていた。
隣の天草さんの気配。
暗い劇場の中で、時おり彼女の横顔がスクリーンの光に照らされる。
感動的なシーンで、彼女がそっと目元を押さえているのが見えた。
意識するな。映画に集中しろ。
その時、スクリーンの中で主人公が言った。
『好きだって言えなかった。言ったら、今の関係が壊れると思ったから』
……おい。
心臓が嫌な跳ね方をした。
隣では、天草さんが小さく息を飲むのが聞こえた。
——分かっている。分かっているから、余計に痛い。
昨日の夜、あの言葉を口にした自分には、もう誤魔化す権利がなかった。
暗闇の中、肘掛けの上に置いた手が、天草さんの指先と触れそうになった。
数ミリ。あと数ミリで、触れる距離。
俺は、そっと手を引いた。
◇
映画が終わって、ロビーに出た。
目が照明の明るさに慣れるまで、少しの間まばたきを繰り返した。
「……泣いちゃいました」
天草さんが恥ずかしそうに目を擦っている。
まつ毛が少し濡れている。鼻の頭が赤い。
「いい映画でしたね」
「はい……主人公が最後に告白するところ、ずるいですよね。あんなタイミングで言われたら、誰でも泣きます」
天草さんが、映画のパンフレットを胸に抱えながら言った。
「大塚さんは、泣かなかったんですか?」
「俺は……まぁ、少しだけ」
「嘘。目、赤いですよ」
「……気のせいです」
天草さんは何も言わず、ふふっと笑った。
◇
映画館を出ると、夜風が頬に当たった。
日曜の夜の繁華街は、週末の余韻を引きずった人々でまだ賑わっている。
「ちょっとだけ、歩きませんか?」
天草さんが言った。
断る理由がない。ないというか、断りたくない。
二駅分の帰り道を、並んで歩いた。
映画の感想を話しながら。好きだったシーン、うまいと思った台詞、泣いたタイミング。
「私、ああいう不器用な主人公に弱いんです。言いたいことがあるのに言えなくて、でも行動で示すタイプ」
「……へぇ」
「大塚さんもそういうタイプじゃないですか?」
不意に矢が飛んできた。
天草さんは無邪気に聞いているだけだろう、たぶん。
「……どうですかね」
「絶対そうですよ。おこげと遊んでくれた時とか、付箋の裏に書いてくれた時とか」
「あれは普通のことですよ」
「普通じゃないです。普通の人は、あそこまでしません」
天草さんが、少しだけ真剣な目で俺を見た。
その瞳が街灯の明かりに照らされている。
俺は何て返せばいいのかわからず、黙って前を向いた。
「……大塚さんと歩いていると、不思議と安心するんですよね」
「……そうですか?」
「はい。なんでだろう……私もよく分からないんですけど」
天草さんが小さく首を傾げた。
その横顔に、さっきの映画のヒロインが重なった気がした。
俺は黙って前を向いた。
住宅街に入ると、人通りが消えた。
さっきまでの会話の余韻が、夜の空気に溶けていく。
エスポワールの灯りが見えてきた。
「……着いちゃいましたね」
天草さんがエントランスの前で立ち止まった。
「今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
「こちらこそ。暁さんにもお礼伝えてください」
「はい。……あ、兄に感想聞かれると思うので、『泣いてた』って言っちゃっていいですか?」
「……勘弁してください」
天草さんが笑って、小さく手を振った。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
オートロックのドアが閉まる。
ガラス越しに、天草さんがもう一度振り返って手を振ったのが見えた。
俺も軽く手を上げて、自分のアパートに向かって歩き出した。
数十メートルの帰り道。
さっきまで隣にいた人が、もういない。
それだけのことなのに、夜風がやけに冷たく感じた。
鍵を開けて、暗い部屋に入る。
電気をつける。六畳ワンルーム。いつもの部屋。
映画の主人公は、最後に告白した。
俺は——昨日、暗い部屋で独りで呟いただけだ。
「好きかもしれない」。あの言葉は、まだ俺の中にしかない。
ただ、隣に誰もいないだけで、こんなに静かに感じるのは——もう「かもしれない」では済まないと、薄々気づいていた。
予約投稿分が切れちゃってました。
遅くなってすみません。




